6 黒玉と紫水晶
「そういえば、ユーリルさんが戻ってこないけど?」
マーベルはようやくシェラミスの従者の不在に気がついた。彼女とは幌馬車を所定の場所に置きに行くために別れたきりなのだ。シェラミスが手巾で手を拭いながら言った。
「彼女は別の用事だよ。何かあれば知らせが来る」
カップに自前の葡萄酒を注ぎ、口の中の脂を流し込むように飲み干した。ケバブの串を置いてエフェスが尋ねた。
「彼女は斥候か?」
「ん、よく気づいたね」
「動きでわかった。知ってる奴に似ている」
「そうかい。あたしは武術方面はさっぱりだ。そういや君もユーリルの動作に注目していたよね、ランズロウ」
「足音がありませんでしたからね、出会った当初の彼女は。流石に不自然ですよ。今は足音がするように歩いてますけど」
話を振られたランズロウは、甘辛いタレをかけた鳥の手羽先を解体している途中だった。露出している軟骨をかじり取りゴリゴリと噛み砕く彼を見て、シェラミスは言った。
「ユーリルには幼い頃からの習慣が根付いちまってるのさ。さ、レオナルド、君の話を続けようか」
「あ、はい」
ある日を境に、レオは孤児の数が減り続けていることに気づいた。顔馴染みになった中年の労働者に尋ねると、近頃誘拐が増えたという。
「路上で子供が消えるのは珍しくない。特に孤児となればなおのことだ」
ランズロウが口を挟んだ。思うところでもあるのか。
覇国との戦争が始まってこの方、クーヴィッツの治安は徐々に悪化しつつあるのをレオも肌で感じていた。街の衛兵も人手不足に陥っており、その間隙を縫っての犯行なのは明らかと思えた。
義心にいきり立ったのはミルカである。必ずや下手人をひっ捕らえ、官憲に引き渡してくれんと彼女は息巻いた。
「身についた武芸への過信だな。初心者にはよくあることだ」
「だと思います。孤児たちの間ではミルカは負けなしでしたから。時に大人もふっ飛ばしていました」
エフェスの断定にレオはうなずいた。エフェスは続けた。
「それに君が付き合う羽目になった、と」
「はい」
「そして君らは危機に墜ちた、と」
「……はい」
予想通りの答えであった。二人は誘拐されたのだ。
「ラッセナからテレタリエまで、君たちは船で運ばれたの?」
次に尋ねたのはシェラミスだ。ラッセナとテレタリエは直接街道ではつながらないが、定期的にレキセン川からバルエシオ大河を経由した輸送船が往来しているからだ。
「音や揺れからして船だと思います。いくつかの箱のようなものに何人かの子供たちがぎゅう詰めにされて、外の様子はわからなかったけれど」
「ぎゅう詰めね……そんな状態からどうやって逃げ出してきたの?」
「ミルカと一緒でしたから、どうやって逃げ出すかずっと話し合っていました。他の子供たちも一緒に力を合わせれば脱出できるって」
孤児たちは人目を忍んで夜に移動された。まるで寺子屋の遠足だな、とガラの悪い男が言ったのをレオは覚えている。
とはいえそのまま街道を行ったわけではない。テレタリエ地下の暗渠へ入った。暗渠はレオの予想以上に長く、曲がりくねっていた。元より、コンテナに入れられたときから時間感覚は殆どなかったのだが――しばらく歩かされ、やがて部屋に入れられた。暗く不潔な部屋で、食事は出されるものの味も量も最低限。トイレは衝立に隠された穴だった。ドアは鉄製でしかも固く施錠され、びくともしなかった。さしものミルカの鉄拳も無力だった。
「お前たちは餌だ、と言われました。弱った奴、反抗的な奴、とにかく気に入らない奴から『樹』の餌にするって」
「魔殖樹だ。奴らは地下で魔殖樹を殖えているんだ!」
シェラミスが断じた。覇国の殖えるおぞましげな「黒い樹」が、中原の民の間に眼にされることになって久しい。
「だと思います……実際、何人もの孤児が部屋から出され、そのまま戻ってきませんでした」
ここに居続けても、いずれ死ぬのは明白だった。
ミルカと共に一計を案じ、レオは病んで弱ったふりをした。程なく男たちが彼を連れ出しに来た。ミルカが男たちに奇襲を仕掛け、声の限りに子供たちを扇動した。そして失敗した。弱った子供たちからは、そこまでの体力も気力も既に失われていたのである。
それでもミルカは奮戦した。レオもまた死物狂いで暴れた。そして一人で逃げ出した。レオ、逃げて。ミルカのその声が、今も耳に残って離れない、とレオは言った。
「……お願いします、皆を、ミルカを助けて下さい」
レオが頭を下げた。
「レオ君、詳しい場所はわからない?」
マーベルの問いに少年は首を振った。
「夢中で逃げてましたから……どうやって暗渠から地上へ出たのかも覚えてないんです」
そこでランズロウが手を叩いた。
「そうだ、思い出しました。シェラミス様、地図は持ってますか?」
シェラミスはテーブル上の料理を退け、二枚の市内地図を拡げた。一枚はエフェスが彼女に渡したもので、もう一枚は紙質も真新しい最新版である。
「このあたりです」
ランズロウは新しい地図の、正門近い大通りの一画を指差した。シェラミスは顎に指を添え、新旧の地図を見比べ、少し首を傾げた。
「……集合住宅じゃないか。旧ベヘモット神殿跡に建った」
およそ三十年前の地図からの変更箇所。ランズロウがうなずいた。
「はい。傭兵仲間によると、集合住宅を建てたはいいものの地下組織に眼をつけられ、今では建物丸ごと売春や違法薬物の取引など、テレタリエ有数の悪所となっているとのことです」
「それと魔殖樹が、何の関係があるの?」
「マーベル卿、道すがら、あなたにも教えたよね? 魔殖樹が配置されやすい場所は?」
「確か……霊脈の上、だったかな?」
「正解。で、霊脈の力の強い地点――要穴の上に建てられる建造物は、大体神殿やら有力者の館と相場が決まっていたりする」
シェラミスは三枚目と四枚目を出した。どこかしら人工的な線の三枚目に、赤いインクの線が数多に枝分かれしてうねっている四枚目。点の膨れ上がっているのがいわゆる「要穴」か。
「で、これがテレタリエ市の暗渠図と――そして霊脈図だ。照らし合わせるとご覧の通り」
果たしてシェラミスの指摘通り、件の集合住宅と領主邸が要穴の上にあった。
「そこに魔殖樹があるの?」
「蓋然性は高いだろうね」
魔術師らしい物言いでシェラミスは言った。
「どうする? そのまま突っ込む?」
マーベルの鼻息はだいぶ荒かった。線の細い外見とは裏腹に、猪武者の傾向があるように思える。そんな彼女をランズロウが手を上げて制した。
「落ち着いて、マーベル卿。シェラミス様、罠が仕掛けられている見込みは?」
「勿論あるさ。しかも事は魔殖樹がらみ、覇国が何ら手を講じていないとも思えない。ここはユーリルに探らせたいところだな」
「待つまでもない、今すぐ行くぞ」
脱いで足元に転がしてあった黒篭手を拾い上げ、エフェスが立ち上がった。その場の全員の視線が彼に集まった。
「待ちなさい、エフェス」
「一刻を争うかも知れないのに、どうして待つ必要がある? 真っ向から叩けばいい。悪所一つ、俺一人で何の問題もなく潰せる」
シェラミスの制止に、エフェスは淡々と反駁した。その紫水晶の目がシェラミスを見つめた。
「子供たちを人質にしてきたらどうするのさ?」
「奴らに、俺には人質は通用しないということを理解させる。骨の髄まで叩き込む」
「叩き込む、ね……」
断固たる口調だった。シェラミスは立て掛けてある鉄鞘の剣を見た。いざという時に物を言うのは――この剣が象徴するように――武力であり暴力である。彼女もそれを認めた。認めた上で事実に抗おうとしているようだった。
「君の提案は短絡的でしかし魅力的だ。が――」
シェラミスが言いよどみ、その動きが止まった。
「……ユーリル?」
左耳のピアスに触れながら、シェラミスが呟いた。
「……わかった。そこを動かないで」
シェラミスが奥歯を噛みしめるような表情で、皆に告げた。
「ユーリルが領主邸の付近で覇国の斥候に囲まれた」
エフェスは黒篭手を嵌めながら言った。
「百蛇衆だな」
「そうだ」
黒玉の眼が紫水晶の眼を真っ向から見つめてきた。そこには切迫した請願の色があった。
「予定変更だ。そっちには俺が行く。奴らには借りがある」
黒ずくめの剣士は窓の方へ向かい、開け放して跳躍した。黒い風のような疾さに、誰も止めることが出来なかった。もう街を覆い尽くす夜闇に、エフェスの姿は溶け込んでしまっている。