序章 対覇国戦線
アズレア公国、大公の執務室。
「ドレイク一族の伝える天龍剣は、それこそ古来より優れた剣士を輩出してきた。ハイダンもその遣い手だぞ。尤も発祥の地である龍脊山脈には行ったことはないそうだが……何だ、知らなかったのか?」
「ええ……剣よりは弓矢に夢中だったもので」
マーベル・ホリゾントは苦笑いで誤魔化した。彼女自身、剣の技倆は人並みという自覚がある。
「全く、腰の剣が泣いていような。父もエフェス・ドレイクも甲斐のない相手に剣を贈ったものだ」
モンド大公はまだ四十歳にもならぬ若い君主である。先代の早逝に伴い不安視されていた即位ではあったが、三年が経ち近頃貫禄がついてきた。
「他にも訊きたいことがあるのだろう、マーベル」
幾分かの親しみの籠もった声に、マーベルは硬い声で応じた。
「して、獣神騎士とは何者なのです、兄上?」
マーベルがモンド大公を兄と呼ぶのは、私事の場に限られる。尤もこれは公然の秘密に近い。マーベルの母ユージェリー・ホリゾントと先代大公オスカーとの戦場のロマンスは、アズレアの舞台演劇の題材としても名高いのだ。
大公位継承権を放棄するための口実の一つとして、彼女は騎士位叙勲を望んだのだった。権力に対してはさしたる興味も執着もないマーベルである。
「国家の枢要にある者だけに内密に伝えられる秘事である」
大公はようやく似合うようになってきた髭に手を這わせ、そう前置いた。
「獣神騎士――獣神の加護を受け、その代行者として人知れず世界の敵を討つ者のことだよ。歴史上の英雄でも、少なからぬ数が獣神騎士だったと言われている」
モンド大公はいくつかの名前を並べてみせた。そのいずれもが、大陸に古くから名を知られる英雄たちである。流石にマーベルも驚きを隠せない。同時に不審もである。こういうことは話半分に聞くべきだろう。
「マーベル、お前が知らぬのも無理はない。その存在は魔術師たち同様、裏の世界に属するものだ。表の世界で彼らの力は揮えぬ。往古はともかく、現代では。あらゆるものが壊れてしまいかねぬ。そういう力を持っているのだ。……私とて実在はその眼で見るまで疑っていたが」
その力、一騎当千。あるいは一軍に匹敵。歴史上の英雄に付き物の強さの表現が、一切の誇張なく当てはまってしまう。そんなものがわざわざ表に出ることなく、あえて世界の裏側で暗闘してくれているという事実。それは世界の表側の権力者にとっては、薄気味悪いのと同時に都合がいいことでもあるに違いない。
「獣神の代行者、一騎当千の闇の騎士――ですか」
マーベルが訝しげに呟いた。
それは神話に属する物語である。獣神たちがこのウィロンデ大陸を創った――その神話は形を変えながら大陸の各地に伝えられている。獣神たちの形を変えた末裔がエルフやドワーフであり、人間であり、各種の獣であり、魔物であると。
「お呼びに預かり罷り越しました、殿下」
大公の後ろに現れたのは痩躯の影である。マーベルは勝ち気な美貌に緊張を走らせて立ち上がった。その気配を感じ取ることが出来なかったのだ。
「シェラミス師、しかし余り妹を驚かさんで頂きたいな」
「こちらこそお初にお目にかかります、モンド大公、そしてマーベル・ホリゾント卿。シェラミス・フィファルデと申します」
影が慇懃に頭を下げた。濃い灰色のローブや染み付いた薬品の臭いからも魔術師であることがわかる。なお驚くべきことに、シェラミスはうら若い少女だった。三つ編みにした黒髪の巻毛に華奢な身体、可憐とも言っていい娘である。マーベルより年下だろうか。
「フィファルデ……ヘブリッドの、〈蝶の館〉の賢者?」
その姓はマーベルの脳裏に思い当たる名前だった。西方の島国ヘブリッド王国に、魔術師たちを束ねる〈蝶の館〉なる機関があると。その長であるヒエロニムス・フィファルデは世に賢者として知られ、王室にも影響を及ぼすほどの人物である。
「シェラミス師はヒエロニムス翁の嫡孫女に当たられる」
「不肖の孫ですが」
シェラミスは口元に自嘲とも苦笑ともつかぬ笑みを浮かべた。一見して深窓の令嬢だが、その表情はマーベルの印象を裏切るものだった。
「マーベル、お前も知っているだろうが、中原では昔から魔術師たちが諜報を担っている。シェラミス師、説明をお願い出来ますかな」
「では僭越ながら」
大公の後を引き接いでシェラミスが言った。
「黒ずくめの剣士の姿が中原のそこかしこで目撃されています。神出鬼没にして覇国の兵を当たるを幸いとばかりに薙ぎ倒すその名を、天龍剣エフェス・ドレイク」
マーベルが固唾を呑んだ。一方で、豪胆さに舌を巻く思いである。本来は闇の世界の住人である獣神騎士が、別段素性を隠すこともなく大陸中を暴れ回っているとは!
「エフェス・ドレイクの名は、覇国だけでなく我らにとっても無視すべからざる対象となりつつあります」
「我ら?」
「はい。我ら――ヘブリッドを含む対ガウデリス覇国戦線です」
さり気なさを装って投げ込まれたその単語。驚愕、あるいは困惑を隠せないマーベルに対し、シェラミスは肩をすくめてみせた。
「ガウデリス覇国の危険性にいち早く気づいたのは魔術師たちですからね」
大公が威厳のある口調で告げた。
「マーベル・ホリゾント卿、そなたには私の名代として、このシェラミス師と共にクーヴィッツへ赴いて貰いたい。察しているだろうが、シェラミス師はヒエロニムス師とヘブリッド国王の名代でもあられる」
「私が?」
「卿は幻魔の脅威を目の当たりにしている。そして獣神騎士の力もだ」
「ハイダン卿もいますが」
「彼には師範役として国内の鎮撫に回ってもらう。そなたは外だ。顔を知られていないという利点もある。いざとなれば――」
そこまで口にして大公は言い淀んだ。
「いざとなれば、大公の異腹の娘という血が役立ちますね」
「……そうなるな」
口にしにくいことをこだわりなく口にするマーベルに、大公が気まずそうに応えた。彼は髭を撫で、改めて告げた。
「……クーヴィッツにはある人物がいる。対覇国戦線の中心人物だ。名をガレイン・ザナシュ。クーヴィッツ軍最強の部隊鉄牛騎士団の元団長だ。彼と接触して貰いたい」