ダルマサンガコロンダ
深夜、コンビニに行っての帰りだった。
さすが午前二時をまわると、薄暗い歩道には人影ひとつない。ときおり車が、風を切る音を通りに残し走り抜けていた。
――ん?
ふと足を止め、雲がおおう空をあおぎ見た。
街路灯の薄明かりをとおして、小さな白いカケラがわずかに舞っている。
――去年の初雪も、たしか今ごろだったな。
そんなことを思い出しながら、安アパートに向かってふたたび歩を進めた。
都会でひとり暮らしを始め、予備校通いも早や三年になる。今年の暮れは帰省しないと決めていた。そんな時間があれば受験勉強をと。だからといって受かる確証どころか、自信さえないが……。
先日、暮れは帰らないと実家に伝えた。
「それで……ちゃんと食べてる? しっかり食べなきゃ、体こわすわよ」
受話器の向こうの母さんが、声に出しかけて飲みこんだ言葉。それで今度こそ大丈夫よね。お父さん、すごく心配してるのよ……。
父親は地方の町で医院をやっている。それを継ぐことが当然のようにして育ったオレは、医学部のある大学ばかりを受験してきた。
それが二年続けての失敗。
今度で終わりだ。
たとえ失敗しても、とにかく受験は今度で最後にしよう。
受験勉強に疲れ、これ以上浪人生活を続ける気力がない。それに、ほかに生きようだってある。
雪の降りぐあいが増したようだ。白い粒が、はっきり見てとれるようになっていた。
――今晩はつもりそうだな。
寒さのせいで足の運びがつい速くなる。
アパートが見える通りまでもどったとき、背後からいきなりだれかに呼び止められた。
「おい、待ってくれ!」
ソイツは暗がりからのっそり現れた。
街路灯の明かりに、男の全身がはっきり浮かび上がる。背丈はオレの半分ほどなのに、どうしてだか顔と腹が異様にでかい。
「ちょっとワシの話を……」
男は頭からはおった赤いコロモをはいで、オレに顔を見せた。
顔じゅう黒いヒゲだらけである。
「ワシのことがわかるか?」
「はい、ダルマさんですよね」
ダルマという言葉がすぐに口をついて出た。それほど見た目がダルマさんそのものなのだ。
「あたりじゃ。これで話が早いわい」
ダルマさんは勝手にうなずいている。
「それで、ボクに何か?」
「ああ、オヌシにちと頼みがあってな。ダルマサンガコロンダ、この上達法を教えて欲しいんじゃ」
「それって、子どもが遊ぶあれですか?」
「人間界では、どうもそうなっとるらしいな」
「ええ、ボクも子供のころはよく」
「そうか、よくやったのか」
ダルマさんの目が輝く。
「雨の日なんか友だちと、学校の廊下でしょっちゅうやりました」
「では教えてくれるな」
「いいですけど。でも、どうしてダルマサンガコロンダを?」
「うーん、そいつを話せば長くなるぞ。どうしても知りたいか?」
「でないと気になって。それにわかった方が教えやすいと思うんです」
「なるほどな。だが、ここはずいぶん寒いのう」
ダルマさんはクシャミを連発してから、ブルッと体を大きく身震いさせた。丸い頭のてっぺんに、うっすらと雪がつもっている。
たしかに長話をするには寒すぎる。
そこでダルマさんを、オレのアパートに連れていくことにした。
極端な短足のダルマさんは、ちょっとした段差でもつまずいて転びそうになる。前からうしろから支えながら、アパートまでの道のりを歩き進まなければならなかった。
六畳一間の部屋にダルマさんを招き入れた。
体が芯から冷えきっている。
こんなときは温かいものを食べるのが一番だ。さっそくヤカンでお湯を沸かし、カップラーメンを二人分こしらえた。
「食べませんか? あったまりますよ」
「おお、いいにおいだな。ありがたくいただくぞ」
「よかったです、断食中じゃなくて。ボクだけ食べるのって、どうも気がひけちゃって」
「この腹だ、断食なんか」
ダルマさんがメタボの腹をゆらして笑う。
「断食しながら座禅してるって、そんなイメージがあったものですから」
「そんなもん、今のダルマ界ではだれもやっておらんわい」
「はあ……」
「どうもオヌシら人間は、妙な誤解をしておるようじゃな。あれが子供の遊びだと、勝手に思っておるようじゃし」
「えっ、そうじゃないんですか?」
オレ自身、小学校卒業以来やったことがない。それに大人がやっているのも見かけたことがない。
「もちろんじゃ。ワシらにとっては、あれこそ大事な修行のひとつ。おう、そうじゃった。その話をしようとわざわざここに」
ダルマさんが神妙な顔つきになる。
それから……。
ラーメンをすすりながら、自分の身の上話を語り始めた。
「ワシは、あれがどうも苦手でな。実は、こうして人間界に来たのも、あれの修行のためなんじゃよ。上達するまではダルマ界にはもどれんのじゃ」
ダルマさんはいったん言いよどみ、それから伏し目がちになって言葉を継いだ。
「恥ずかしい話じゃがな、ワシはダルマ界のオチコボレなんじゃよ」
「オチコボレか……」
オチコボレという言葉が、とても他人ごとのように聞こえない。考えようによっては、オレだってそうではないか。
受験にしくじるばかりのオチコボレ。
「うん、どうした?」
ダルマさんがハシを動かす手を止め、オレの顔をうかがうようにのぞきこんでくる。
「ボクもオチコボレのようなものですから」
「そうか、オヌシも人間界のオチコボレなのか。ならばオヌシの方も、何とかせねばのう」
「だけどボクは、ほかにやりようがありますし、それにもどる家もあります。ですからダルマさんほど深刻では……」
「事情はよくわからんが、オヌシ、オチコボレ寸前ってところなんじゃな」
ダルマさんはカップの汁を飲み干すと、それから大きなゲップをひとつしてハシを置いた。
「ところでな。人間界の者は、あれが実に上手というではないか」
「まあ、ボクらの方がうまいというのは、何となくわかりますが」
丸い身体と短い足で、たいそう不安定な歩き方をするダルマさんを見ている。あれでは急に静止するなんて、とてもじゃないが無理だ。バランスを崩して、すぐに転んでしまうだろう。
「このところ、ダルマ界は変わってしもうてな。七転び八起きより、はなから転ばぬよう、みながダルマサンガコロンダの修行に励んでおる。
だがワシは、どうにも上達しなくてな。修行の卒業試験を受けるたびに落ちておるのじゃ。
そんなワシを見かねてか、仲間の一人が教えてくれたんじゃよ。人間界の者は実に上手らしい、人間界で修行を積めば上達するのでは、とな。
で、こうしてやってきたんだが、そこにオヌシがたまたま通りかかったというわけじゃ」
ダルマさんは長い話というのを一気に話し、オレはそれをだまって聞いていた。
――それにしても……。
ダルマ界がそんなものだったとは、心の底からダルマさんに同情したくなった。それとともに、何とかしてあげたいという気持ちも強くなった。
さっそく教えることにする。
「それでは始めますか」
「ああ、頼むぞ」
よっこらしょと声に出しコタツに手をついたまではよかったが、立ち上がろうとしたとたん、ダルマさんはそのままうしろ向きにゴロンと転んでしまった。
「こういうことは毎度でのう」
ダルマさんが照れ笑いを浮かべる。
これでは前途多難だ。だが、何としてでもやりとげなければ……。このままでは、ダルマさんはダルマ界のオチコボレのままだ。
オレは邪魔になるコタツを隅に押しやり、とりあえず部屋の中央部分をあけた。
「おい、ここでやるのか? 壁にぶち当たりそうじゃが」
顔をこわばらせたダルマさんが部屋の四方を見まわしている。
「だいじょうぶですよ。さしずめ、かんたんな基本動作から始めますので。それで転ぶようなこともないでしょうからね」
「ワシの場合、たとえ基本であってもなあ」
「何のために、こうして人間界までやってきたんですか。そんな気持ちじゃ、いつまでたってもダルマ界にもどれませんよ」
オレは何とも不思議な気分だった。都会の浪人生活に疲れ、ひどく落ちこんでいたオレが、今こうしてダルマさんに説教をしているなんて……。
「そうじゃったな。では、がんばってみるか」
「じゃあ、ボクのするとおりにやってみて。まず体をちょっと斜めにして……そう、そう。それから両膝を軽く曲げて……右足をすばやく前に」
オレはダルマさんの横に立ち、右足を一歩、大きく前に踏み出してみせた。
「こうじゃな」
ダルマさんも右足をすばやく前に出す。
が、そのとたん前につんのめり、勢いあまって頭から一回転してしまった。
「だいじょうぶですか?」
「みごとに転んじまったな」
ダルマさんはすっかりしょげてしまい、その場からなかなか立ち上がろうとしない。
「ねえ、そんなに落ちこまないで。まだ始めたばかりなんですから」
どうもやり方がまずかったようだ。
ダルマさんのアンバランスな体型を考え、効率は悪いが踏み出す歩幅を半分にすることにした。
「ちょっと、やり方を変えてみます。もう一度やってみてください」
「ああ」
ダルマさんはやっと立ち上がってくれた。
「今度は歩幅を小さくしてみますので」
オレは歩幅を半分にして踏み出した。
ダルマさんも同じように小さく踏み出す。
右足がタタミに着くのを見て、転ばないよう脇から体を支えてやった。
「ほら、つま先にグッと力を入れて」
「ふむ」
顔を赤くして、ダルマさんが足をふんばる。
体は左右にゆれたが転ぶことはなかった。
「今の調子ですよ。次は左足。このとき、こうして体を半回転させながら前に出すのがコツなんです」
オレは手本をやってみせた。
「こうかな」
体をひねるようにして、左足をゆっくり前に踏み出す。バランスをくずしそうになったが、ダルマさんは何とかふんばって体勢を立て直した。
「おう、なんとなくコツがわかったぞ」
「なかなか、いいぐあいですよ。じゃあ、次はひとりでやってみてください」
「ああ」
ダルマさんは体を半転させながら、今度はすばやく右足を前に踏み出した。
転ばなかった。
次に左足を一歩。
これまた転ばなかった。
「できるじゃないですか」
「オヌシの教え方がうまいからじゃよ。では、そっちに行くぞ」
自信をつけたのか、ダルマさんは自分から練習を始めた。そして、こっちに来るときも転ばなかった。
それからもしばらく……。
部屋の中を行ったり来たりと、ダルマさんは基本動作の練習を繰り返した。
たまにバランスを崩すことはあっても、決して転ばなかった。そのうち足を上げたまま静止する片足立ちや、うしろ向きに歩くこともできるようになった。
――こんなに早く上達するとは……。
ダルマさんに足りなかったのは技術ではなく、やはり気の持ちようだったのだ。
「そろそろ本番をやってみませんか。ボクがオニになりますので」
「ああ、それができてこそ一人前だからな。それになんだか、できそうな気がするんじゃ」
練習を始めたばかりのダルマさんとはうってかわって、顔の表情が生き生きとしている。
「じゃあ、ダルマさんは窓のそばに立って。ボクはこっちに」
オレは玄関のドアの前に行き、二人の間隔を目いっぱいあけた。それからダルマさんを背に、ドアに向き合うようにして立った。
「いいですか?」
「おう、いつでもいいぞ」
自信たっぷりの声が返ってくる。
「ダ・ル・マ・サ・ン・ガ・コ・ロ・ン・ダ」
ゆっくり同じリズムで唱え、振り向いた。
ダルマさんは二歩ほど近づいていた。それもピタッと静止をしている。
「いいじゃないですか。では、もう一度。ダ・ル・マ・サンガコロンダ」
途中からリズムを一気に速くする。そして、すばやく振り向いた。
「おわっ!」
ダルマさんは大きくバランスを崩し、はでにオレの前まで転がってきた。
「油断したでしょう。いきなりリズムを変えてひっかける、これがオニのテクニックなんです」
「わかっておるが、ついだまされたんじゃ。次はだまされんぞ」
腰をさすりながら立ち上がり、ダルマさんは鼻息を荒らげた。
やる気満々だ。
「ダルマサンガコロンダ」
オレはわざと一気に続けた。
けれどそれにはひっかからず、ダルマさんは静止していた。それも片足を宙に浮かせたままに。
「どうじゃ、みごとだろ」
ダルマさんがニコッと笑う。
「ええ。いまの調子なら、すぐに上達しますよ」
「オヌシのおかげじゃ」
それからも……。
二人は夢中になって、ダルマサンガコロンダを続けた。
窓の外が白み始めた。
二人ともさすがに疲れ、タタミの上に座りこんでいた。けれど一方では、上達したという達成感で満たされていた。
「ずいぶんうまくなりましたね」
「ああ。これなら試験も一発で合格じゃ」
ダルマさんが胸を張る。
オレは自分のことのようにうれしかった。
だが同時に、なぜだか涙があふれてきた。言いようのない淋しさにおそわれたのだ。
「どうしたんじゃ?」
ダルマさんがオレの顔をのぞきこむ。
「いえ。ダルマさんがダルマ界に帰ったら、もう会えないのかと」
「そういや、オヌシともじきに別れじゃのう……。おう、そうじゃ。コイツがおったわい」
ダルマさんはコロモの袖から小袋を取り出すと、中から何やらつまみ出した。
「オチコボレと言っておった、そんなオヌシのことが気がかりじゃ。しばらくの間、コイツをオヌシのもとに残しておこう」
そう言って、オレの手の平に乗せたものは小さな赤いダルマの人形だった。
「ダルマさんにそっくりですね」
「ワシの分身じゃからな。それに話もできるんで、ソヤツをワシと思うがいい」
「はい、そうさせていただきます。それで、しばらくの間ってどれくらい?」
「オヌシが必要とする間じゃ。あとは、おのずとワシのもとに帰ってくるんでな」
「じゃあ、ボクがいてほしい間は、ここにいてくれるんですね」
「だがな。それではその間、オヌシはオチコボレってことになるんだぞ」
「たしかに……。でも、ダルマさんがそばにいると思ったら、ボク、がんばれそうな気がするんです」
「おう、その心意気じゃ。ただ言っとくが、ソヤツはニラメッコしかできんのじゃよ」
「それで十分です。淋しくなったら、ダルマさんだと思ってニラメッコをしますから」
「ところでどうじゃ。ワシとニラメッコをしてみないか。手ごわいぞ、ワシは」
「おもしろそうですね」
二人は向かい合って座った。目と目を合わせ、声を合わせ唱える。
ダルマサン、ダルマサン、ニラメッコシマショ
ダルマさんが顔をつき出したとたん、オレはプッと吹き出してしまった。ダルマさんの顔が一気にヒョットコのようになったのだ。
「これ、ボクの宝物にします」
オレは泣き笑いの顔で、小さなダルマの人形をにぎりしめた。
「外が明るくなっておる。ぼちぼちダルマ界にもどらねば……。その前にもう一回だけ、ダルマサンガコロンダをやってくれんか」
「もちろんやります」
ダルマさんが窓のそばに立ち、オレは玄関のドアの前に立った。
「ダ・ル・マ・サ・ン・ガ・コ・ロ・ン・ダ」
別れを惜しむようにゆっくりゆっくり唱える。
そして振り向いた。
ダルマサンは部屋の真ん中で止まっていた。
大きな両目から涙があふれている。
「ダ・ル・マ・サ・ン・ガ・コ・ロ・ン・ダ」
ゆっくり振り向く。
そこには、もう……。
ダルマさんの姿はなかった。
窓ガラスごしに、降る雪が見えるだけだった。
「さようなら」
オレはつぶやくように、すでにいないダルマさんに別れを告げた。
あの日から三カ月。
今日、最後に受けた医大の合格発表があった。
結果はサクラチル。これで今年も、すべての受験に失敗したことになる。
コタツの上の小さなダルマさんと、オレはいつものように向き合った。
ダルマさんのことが思い出される。
「ダルマさんは試験に受かったよね」
「ああ、もちろんじゃ。あの夜、あんなにがんばったからのう」
「ボク、今年もダメだったよ」
「そうか。じゃがな、かんたんにあきらめてはいかんぞ。オヌシら人間界には、七転び八起きというもんがまだ残っておるからな」
「ボクだって、まだあきらめたわけじゃ……」
オレはケイタイを手に取った。
受験の結果を実家に伝えた。
「今年もダメだったよ。でも、もう一年がんばってみたいんだ」
「オマエがそう言うんなら……。でもな、無理せんでいいんだぞ。この病院を継がなくてもかまわんのだからな」
父親の口から、そんな言葉を聞くのは初めてのことだった。
「無理じゃないよ。来年こそ、ぜったい受かりそうな気がするんだ」
「えらい自信だな。なら、がんばってみろ」
「うん。もう一度がんばって、それでもダメだったらちがう道に進もうかと」
「オマエの好きなようにしたらいい。そうそう、ちゃんと食べてるか。母さん、すごく心配してるぞ」
「それより父さんこそ、オレが医者になるまで元気でいてよね」
オレと父さんは、ひさびさに親子らしいやり取りをした。
コタツの上。
小さなダルマさんがほほえんでいる。
「負けないからね」
ダルマサン、ダルマサン、ニラメッコシマショ
小さなダルマさんに向かって、オレはせいいっぱいひょうきんな顔を作ってみせた。