19 スフィンクスのリドル
私はスフィーを抱っこしながら、普通の速度に戻して帰り道を歩いていた。
――まあ走らなくても、ギリギリ間に合うだろう。
「ひねり、本当によくやった。ほめてやるぞ」
スフィーが優しくねぎらってくれる。
「ううん、スフィーのおかげだよ。ありがとうね」
「まあ、最も礼を言うべき相手はホノだな。あの箱はやはり解決に不可欠だった。もし原納に『自分は実行犯ではない』と意地でも言い張られた場合、物証がないと面倒になっていた所だ。何より第一殺人の倉畑殺しの方は、あの箱がなければ実行犯が立証しがたかったからな。つまるところ、あの『箱』と『机密室』が、事件解決の最大の鍵になってくれたのだ
私はそれに頷いて言う。
「机倉庫で見つかったブラックジャックで、全てが解ったんだもんね。あの密室状態じゃ、原納先輩しかブラックジャックを落とせなかった事なんて明白だったのに、どうして気付かなかったんだろ」
その言葉に、スフィーが渋い表情をした。
「気付かなかった原因は、推理が足りぬからに決まっておろう。『落とせなかった』などという言葉が出てくる時点でな。あの密室にブラックジャックを落とす方法とて、無いわけではないのだぞ」
「え……でも私達が突入するまで誰も入れなかったんだから、どう考えても無理なんじゃ……」
「ならばわらわからの出題だ。あの状況下で、机倉庫の中にブラックジャックを落とす、全く別の方法を考えてみろ。単純に方法のみでよい。動機も必然性も不要だ。犯人――つまり原納かホノができうる行為であれば、実際には多少無理があっても構わん」
「……えっと、扉も窓も全部閉まってて隙間もない、完全な密室だったわけだよね」
「うむ、そうだ。その密室で、先程絵解きしてみせた真相とは全く違うやり方でブラックジャックを落とせるか? もちろん、鍵は開ける事も掛ける事もできぬという前提でだ」
「うーん……『原納先輩かホノ先輩ができうる行為』ってことは、『私がブラックジャックを落とした』って説は無しだよね?」
「なかなか良い目のつけどころだが、『全く違うやり方』と言ったはずだ。それでは落とす人物が変わっただけではないか」
――私は足を止めたまま、うなりながら考えてみた。
だが、推理のとっかかりさえ全くつかめない。
「……ねえ、ヒントはないの?」
私がすがるように尋ねると、スフィーは腕の中でやれやれと首を振った。
「ヒントは『扉から』だ。ここまで言えば答えも同然だろう」
……扉から?
でも、扉には鍵がかかって――。
「あっ!」
やり方を思いついた私は、手を打って言った。
「――鍵のかかった扉ごと枠から外して、山積みの机を引っ張り出して、中に入ってブラックジャックを落として、机を元通りに積んで、また扉を枠にはめた――こうだよね?」
「……そんな無茶な説をよく自信満々に言えたものだな。しかも先程の絵解きで、自ら無理だと言ったそのままではないか。そこまでやる時間などどう考えてもなかろう。『多少無理があっても構わん』とは言ったが、そこまで行くと『事実上不可能』と言うのだ」
……確かに、こんな時間のかかる作業をしている余裕なんてないか……。
「あ」
ふと閃いた私は、また声を漏らした。
今度こそ答えがわかった……はずだ。
「えっと――この説で大丈夫かな?」
「言ってみろ」
スフィーに促されたので、私は立ち止まって控えめに話してみた。
「――鍵のかかった扉ごと枠から外して、『外からブラックジャックだけ投げ入れて』、また扉を枠にはめた――じゃ駄目かな?」
つまり、廊下から『机の隙間』を通してブラックジャックを投げこめばいいのだ。
「これなら、『山積みの机を出したり入れたりする』っていう一番大変な作業が全部はぶけるし――」
私の仮説を聞くと、スフィーは満足げに目を細め、柔らかい顔付きになった。
「うむ、よい推理だ。『隙間投げ入れ法』に気付いたか。それで正解と言って構わぬが、時間的に厳しい状況には変わりない。そのやり方をもう少しだけ洗練させられるか? ヒントは『作業は最小限にすべし』だ」
最小限――?
でも、これ以上簡略化する余地はなさそうだけど……。
しばらく考えこんだのち、私ははっとして言った。
「放課後になる前――たとえば昼休みとかの、もっと早い段階で旧校舎に行って下準備すればいいんじゃないかな。その時に、あらかじめ扉を枠から外して立てかけておくだけで、大分楽になるよね」
これならあの場で行う作業は、扉を枠にはめこむだけで済む。
するとスフィーは大げさにびっくりした顔をしてみせた。
「その通りだ。よく気付いたな」
「えへへ……私もなかなかやるでしょ?」
――だけどこうなってくると、本当にこの手を使ったんじゃないかとも思えてくる。
私は、その心配を口にしてみた。
しかしスフィーはすぐにそれを否定し、その理由を説明してくれた。
「まず、ネックはやはり音と手間だな。鍵がかかったままの二枚繋がった扉を、素人が音も立てずに手早く枠にはめるのは、それだけでも困難だ。あの状況では少し手間取ったり騒音を立てただけで、おぬしたちと鉢合わせてしまうしな」
「そっか、私やガイ先輩に見られただけで、全部パーになっちゃうもんね」
「うむ。何より、そこまでの労力と時間をかけて、ブラックジャックを机倉庫に入れる意味がそもそもないからな」
――なるほど、それもそうだ。たとえ可能だったとしても、わざわざこんな手なんて使うわけがない。
納得した私は、スフィーをしっかり抱きなおして再び歩きだした。
その時ふと、神話にあるスフィンクスの謎かけについて思い出す。
「……そういえば、あのスフィンクスの出した謎に答えられるなんて、私すごいよね?」
「うむ、今日は珍しく冴えておるな」
「『珍しく』は余計じゃない? もしかしたら、私の頭脳もステップアップしたのかも」
私の言葉を聞いて、いきなりふきだすスフィー。
「ステップアップとは大きく出たな。そんな上等な言い方より、他に適切な表現があろう。フロック、まぐれ、偶然、ミステリー、奇跡――」
……失礼な言い草だ。
「――でもこの調子で、早くスフィーの頭脳に追いつけるといいな」
「無理だな」
きっぱり言う。
「そんなのわからないよ。私だって成長してるんだから」
そう胸を張る私に、スフィーが水をさす。
「客観的に言わせてもらえば、頭も胸も成長が止まっておるようにしか見えぬぞ」
私はむっとして言い返した。
「それはスフィーの目が節穴の可能性だってあるでしょ? わかりにくいだけで、すごいスピードで進歩してるかもしれないんだから」
「その進歩も、亀の歩みでアキレスを追うに等しいありさまでは、見込みが無いと言わざるをえんな」
「そんなことないよ。私が『朝には四本足、昼には二本足、夜には三本足』ってほどの勢いで進化すれば――」
「……途中から老化しておるではないか」
……そういえば三本足は杖をついた老人のことだっけ。
だが私は苦しまぎれに反撃した。
「そうやって揚げ足ばっかり取ってると、スフィーもいつか私に足をすくわれるよ。人間の頭脳を甘く見て油断してると、ギリシア神話のオイディプスとスフィンクスの対決の時みたいに――」
その言葉がスフィーの逆鱗に触れたらしい。
「……ほう、言うではないか。ならば問おう。先程おぬしが正解したと浮かれておる出題だが、全く別の答えも存在する。そこまで豪語する以上、当然もう一つのやり方も解っておるのだろうな?」
すわった目で言う。
「え」
言葉に詰まる私。
――しまった、これは触れちゃいけない話題だったか……。
「では再び出題だ。そのもう一つのやり方を答えろ」
強盗が金を要求するような態度で解答を迫ってくる。
「あの……ヒントは……」
「ない。何しろ人間を甘く見て、オイディプスの時のように足をすくわれては大変だからな」
おずおずと尋ねる私を、険しい表情で突っぱねた。
……やっぱり禁句だったようだ。
仕方なく私は、あの問題の答えをもう一度探した。
「えーと……密室だった机倉庫にブラックジャックを落とすには……」
そのまま長考に入るが、その先の言葉はいつまでたっても出てこない。
私は凶悪な面構えになったスフィーをちらりと見た。
「……ねえスフィー。謝るから、意地悪しないでヒントちょうだい?」
赤ん坊をあやすように腕を揺すりながら懇願すると、スフィーは渋々といった様子でヒントを出してくれた。
「……『もっと簡単で無理のない方法』だ」
一言だけ、そっけなく言う。
そのヒントを頼りに少し考えてみたが、早くも途方に暮れて呟いた。
「あの密室状況で、簡単で無理のない方法だなんて……」
だが私はそれでもじっくり問題に取り組んでみる。
「うーん……」
……出てくるのは推理や閃きでなく、うなり声ばかり。
はたから見れば突っ立っているだけに思えるかもしれないが、心象風景では謎という名の怪獣と壮絶に取っ組みあっている。
……しかし結局、激戦の末に私は怪獣に投げ飛ばされてしまった。
――ある意味、私のほうが謎を投げ出したんだけど。
「降参」
「己の愚かさを認めるのだな?」
「……認めます」
逆らうと面倒なので、素直にそう言っておく。
「おぬしは人類代表だぞ。やすやすと勝負を投げ出して良いのか?」
……勝手に私を人類代表の戦士にしないで欲しい。
「私はただの一市民だから別にいいよ」
「ならば答えを教えてやろう。ただしスフィンクス対人間の代理戦争はわらわの勝ちだぞ、よいな?」
そこまでして勝ちたかったのか……。
「そもそも対戦相手の選び方がすごく汚い気がするけど、それでいいよ。――はい、たったいま人類は敗退しました」
スフィーを腕に抱えながら投げやりに手を打つ。
「だから早く答えを教えて、スフィー」
「よかろう。勝者の言葉を心して聞くがよい」
余計な前置きをして絵解きを始める。
「――机倉庫でひねりが背を向けて窓を調べておる最中に、廊下に身を隠したホノが入口からブラックジャックを投げ入れればよい。これだけだ」
あ――。
私は思わず立ち止まった。
……スフィーのヒント通り、あまりに簡単すぎて呆然とした。
「ただし袋の中身がビー玉ゆえ、床に投げた時の音でひねりに気付かれるかもしれぬがな。しかし音さえなんとかすれば、あとはおぬしの視線が外れておる隙に廊下から投げ入れるだけの話だ。具体的な音対策としては、原納がロッカーを探る際の騒音に紛れさせる、あるいはビー玉袋自体に音が出にくい細工を施す、などがたやすくできる方法だろうな」
「――けど、そんな簡単にできる方法があるんなら、原納先輩が真犯人っていう根拠になった『ブラックジャック落とし』が成り立たなくなるんじゃ……」
「先程も言ったであろう。この方法もまた、わざわざ見つかるリスクを犯した上に、死体やベルトをほったらかしてまでやるような事ではない。しかも人がいる教室に近付いて物を投げ入れたりすれば、その場で捕まってしまう危険もある。やはりそこまでしてブラックジャックをそこに落とすほどの理由はないのだ」
――確かに、この方法もリスクばかりが大きくて、しかもそれに対する見返りは無いと言えた。
「つまりさっきの答えと同じで、事実上こんな手を使うわけないから、推理から排除したってことだよね」
私がそう言うと、スフィーは頷いて補足した。
「そうだ。仮に理由を無理に付け加えてみたところで、しょせん現場を少しずらすだけの撹乱工作以上の意味はない。たかだかそんな事で、そこまでのリスクを負うとは思えぬ。しかも机倉庫は原納の担当した三階ゆえ、どのみち疑いがかかるのは変わらぬ。いくら捜査を混乱させたいにしても、ここまで危険で手間のかかる割に、効果の期待できぬ手など使わぬだろう」
それを考え考えしながら聞いていた私は、再び歩き出しながら言った。
「――うん、むしろ逆効果にだってなりかねないしね。だいいち偽装工作にしろ証拠隠滅にしろ、ブラックジャックを落とすのは別の場所にした方がよっぽど安全で早いもんね」
そもそも、意図的に機会を作ってまで机密室にこだわらなきゃならない理由なんて何もなかったんだ。
スフィーは目を細めて頷くと、機嫌良さそうに言った。
「まあこの問題は最初にも言った通り、あくまで『動機も必然性も不要として、単純に犯人が行いうる方法』だからな。結局これらは、頭の中で展開した推理の一部を、出題形式にして披露してみせたに過ぎん。いわば『真実を求める過程で消去された推理の断片』だな」
最後の言葉を言い切った後、すまし顔をするスフィー。
……『かっこいい事を言った』という心中が丸出しだ。
「ともあれ、ひねりに足をすくわれる日は遠そうだな」
……返す言葉もない。完全敗北だ。
「だが片方だけでも解けたのは大したものだ。正直感心したぞ、ひねり」
――そうだ、落ちこむことなんてないんだ。
一応正解は出せたし、肝心の事件解決だってできたし。
「そうだね。万々歳、めでたしめでたしだよね、スフィー」
「うむ、これで大団円だ」
私は軽い足取りで帰り道を歩く。
――そう、すべては上手くいったのだ。
……私が推理に時間をかけ過ぎたせいで、この後くりおが『あさごはん抜きの刑』に処された以外は。




