15 殺人犯はもういない
私達は先輩を解放し、その後ろ姿を見送った。
まもなくスフィーが塀に飛び乗り、気付かれないように注意しながらそれを追いかける。
それを見たいっきがパチンと手を打った。
「そっか、すーにゃんに尾行させるんだね」
「なるほど。私達がこのままあとをつけたのでは、すぐに気付かれてしまいますからね」
私達は、スフィーの姿を見失わないギリギリの距離を保ちながらついて行った。
スフィーは塀の上や下を自在に行き来しながら、先輩を尾行する。
私達は慎重に距離を取ってそれを追いかけた。
黙々と尾行を続けていると、しばらくしていっきと愛子が口を開いた。
「――にしても、ホノさんはいったいどこへ行くんだろ?」
「何をするつもりなのかも気になりますね」
スフィーは予想がついているみたいに言ってたけど……私には考えてもわからない。
「もしかして――また誰か殺すつもりじゃないかな」
いっきの言葉にぎくりとする。
「まさか。もう標的はいないはずだよ」
そうあって欲しいという思いも込め、そう答える。
「だといいけどねー」
いっきは疑わしそうな口振りだ。
そう言われてみれば、殺人犯を解き放ってしまった以上、安全だなんてとても言い切れない。
……本当に危険はないだろうか?
まあ、いざという時は私達が止めれば――。
「――ぎゃっ!」
その時、まるで吐き出すような、悲鳴のような猫の鳴き声が、一度だけ響いた。
私はほとんど反射的に、声の聞こえた方へ走った。
人通りのない細い道に入って前方を見ると、そこには道端に倒れたまま動かないスフィーがいた。
「スフィー! 大丈夫!?」
スフィーは苦しそうにうなりながら返事をする。
「くっ……ひねり……」
「どうしたの!?」
「――尾行中、近くにいた男にいきなり横腹を蹴られた。骨が折れておるようだ」
「どうして!? 理由は!?」
「何もしてはおらぬ。だが、そういう種類の人間もおる」
私は怒りのあまり勢いよく立ち上がり、周囲を探した。だがその男はどこにも見当たらなかった。
私は、その男と自分自身への怒りで歯噛みした。
「ごめんスフィー……約束したのに……守ってあげられなくて……」
涙がこぼれ落ちる。
いっきと共に心配そうにスフィーの横にしゃがみこんでいた愛子が、私の言葉を聞いて顔を上げた。
「ひねりさんのせいではありません。それより早く動物病院に運びましょう。動かせる状態ではなさそうですし、簡易担架を作ります。いっき、ジャージの上着を貸してください」
愛子は険しい顔をしながらも、冷静さを失わずに言った。
いっきがジャージを差し出すと、愛子はそれを地面に置いて担架の代わりにし、ゆっくりとその上にスフィーをのせた。
「ひねりさん、私が病院に連れて行きますから、尾行を続けてください」
「悪いよ。私が行くから、むしろ捜査は愛子といっきで――」
それをさえぎって、優しく微笑む。
「いけません。捜査にはひねりさんが不可欠ですよ」
――不可欠なのは私なんかじゃなくて、スフィーのほうだ。
だけど、スフィーはもう……。
――だが私はすぐに思い直し、その弱気を振り払って言った。
「……ありがとう愛子。尾行が終わったら私もすぐ行くから、スフィーをお願い」
やはり私は捜査を続けなきゃいけない。たとえどんな状況であろうとも。
ここは好意に甘えることにして、私は愛子に動物病院の場所を教えた。
別れ際、スフィーは苦しそうに言った。
「――後は頼んだぞ、ひねり。おぬしとて解決に不可欠な存在だ、自信を持て。ホノは見失ったが、もし事が起こるのがもう少し先ならば、『スフィンクスの涙』に反応があるはずだ。見落とさぬよう気をつけろ」
愛子はジャージの端を両手で持ち、慎重にスフィーを運んで行った。
その姿を見てやはり心配になり、思わず追いかけそうになったが、ぐっとそれをこらえた。
「――さあ、なんとしてもホノ先輩を見つけるよ、いっき」
「うん、行こう!」
私といっきは、ホノ先輩の行方を探して駆けずり回った。
だが何の当てもないため、やはり足取りはつかめない。
――ああ、せめてこれが反応してくれればなあ。
私は制服の外に出していた『スフィンクスの涙』を手に取って持ち上げた。
このペンダントは、今後異常が起こる場所にくると赤く光るようになっている。
その様子を見たいっきが、私に尋ねてきた。
「ねえ、そのペンダントってライトになってるの? こないだひねりの胸元で、ほんのり赤く光ってたのが見えたけど」
「光ってたって、いつどこで!?」
「この前ホノ先輩の別荘に行ったときだったかな」
――なるほど、あの別居中の父親の家か――。
そういえば場所もここから近いし、今もホノ先輩はあそこに向かっていたのかもしれない。
「いっき、そこに行ってみよう!」
私達はホノ先輩の父親宅を目指して走った。
「えっと……いっき、確かここでよかったよね?」
二階建の洋風の家の前に立ち、私は尋ねる。
「うん、ここだよ。間違いない」
――しかし改めて見ると広い家だ。庭もかなり大きい。
門柱にはホノ先輩の名字と同じ『井出』の表札がかかっており、その下にインターホンがあった。
それを押して少し待ってみたが、返事はない。
「――よし、突入!」
「え」
いっきが唐突に決断を下した。
「怪しいとこにはまず突撃!」
いっきは迷うことなく門を開けて前庭に入り、玄関に突進した。
……まあ仕方ないか。
私も小走りでそれに続いた。
「あれ、鍵がかかってるねー」
玄関の扉を開けようとしたいっきが言う。
「うーん、とりあえず中の様子が覗ける所がないか探してみようか」
私の提案で建物の横側に回り、窓を一通り調べてみた。
しかし全てカーテンが閉まっている上、鍵もかかっている。
私達はそのまま家の裏手に回った。
「――静かだね。人がいる気配はないみたいだけど……」
「おっ――ひねり、ここのドアは鍵が開いてるよ」
いっきの言う通り、勝手口の扉だけは施錠されていなかった。
そこから遠慮会釈もなく上がりこむいっき。
……インターホンに反応がない以上、ここは仕方ない……と自分に言い聞かせる。
『スフィンクスの涙』に反応があったのなら、間違いなくここで何かが起きるはずだ。今は不法侵入をしてでも、ホノ先輩の居場所を突き止める必要がある。
台所を抜けて廊下に出ると、私達は一つ一つ部屋を見て回った。
そして一階のリビングを覗いた時――。
「ひっ!」
私は息をのんで立ち尽くす。
脇から覗きこんだいっきも絶句した。
――リビングの床は血の海だった。
その中に倒れているのは――。
「ホノ先輩!」
私は血だまりを踏むのも構わず駆け寄った。
むせかえるようなサビ臭さをこらえて、仰向けに倒れているホノ先輩のそばにしゃがみこむ。
――呼吸はしていない。首に指を当てて脈を調べたが、そっちも駄目だった。
「死んでる……」
私はそう言って首を振る。
入口にいるいっきが、呆然と呟いた。
「まさか……自殺しちゃったの?」
「うん、多分……」
ホノ先輩は静かな死に顔だった。体を中心に大量の血が広がり、その真ん中で綺麗な姿勢で上を向いて寝ている。
その両手は、胸の上でしっかりと組まれていた。
――まるで祈るように。
「あ――」
私ははっとして、思わず声を漏らした。
先輩の手を見ると、左手で握り拳を作って指を立て、その指を右手でしっかり握りしめていた。
私の頭に、ホノ先輩と初めて会った時の記憶がよみがえる。
もう使うことはないと思っていた、部室で取り決めたあのサイン……。
ホノ先輩が立てているのは――二本の指だった。
「ごめんなさい、ホノ先輩。失礼します――」
謝りながら先輩の手のひらをこじ開ける。
握られた指は固く閉じていて、なかなか開かなかった。
それがようやくほどけた時、手のひらから何かが転がり落ちた。
それは……赤いビー玉。
私はあわてて先輩の半身を少し持ち上げ、血まみれの背中を覗き見た。
――先輩は、背中を滅多刺しにされていた。
これが自殺であるはずがない。
「――今、犯人であるホノ先輩は死んだのに。殺人犯はもういないはずなのに――」
私は頭が真っ白になって呟く。
「どこに、ホノ先輩を殺す人がいるっていうの?」