八話「崩壊」
風もなく木々がざわめく。幾多の木の葉が散り、地面へと舞い降りる。それが息を潜めていた獣達の疾走であるという事に、そう時間は掛からなかった。
「何だよこれ……」
振り下ろしかけた拳を止め、京介は瞠目しながら周囲を見渡した。
喧騒は一向に収まらず、むしろ時と共に騒々しさが増してすらいる。樹海そのものが、まるで悲鳴を上げているかのようだった。
「誰か早く魔物の探知魔法を! 急いで!」
いち早く事態の異様さに察した征一郎が、声を張って指示を飛ばす。普段の彼からは考えられない、とても焦燥した姿を晒していた。
その様に京介も動揺を覚えたのか、勇士の胸倉から手を離し、辺りへと神経を尖らせる。他のクラスメイトも緊迫化しつつある場に当てられたか、キョロキョロとしきりに視線を巡らせていた。
「無事? 久野君」
「うん。ぼくなら大丈夫。それより、これって……」
桜花への返答も早々に終わらせ、勇士は戸惑いげに眉を顰めて問い掛ける。
「分からない。でも、何だか危険な感じがするわ……」
同意だ。こんなあからさまに異常な状況、樹海を歩き回るようになってから初めだ。あまりの怪奇さに、鳥肌が全身を這いずる。
「や、やばいよこれっ!」
突如、ひとりの男子生徒が、震える声音で叫ぶように言った。先ほどまで魔物の探知をしていた魔法使いだ。
「……やばいって、どういう風にですか?」
「ま、魔物がこっちに押し寄せて来てる! しかも大量に!」
京介の問いに、男子生徒は目に見えて動転を露わに言葉を返す。
「大量って、どんくらいだ!? 十匹か二十匹か!? それくらいなら、俺達全員で戦えば何とか――」
「…………匹」
囁くようなか細い声。
男子生徒の口から漏れたものだとは判断できたが、声量が小さ過ぎて誰の耳にも届かなかった。
「あぁ!? 聞こえねぇよ! もっとはっきり言え!!」
「百――」
京介の恫喝に、虚ろな瞳で男子生徒が答える。
「ひゃ、百匹はいる。それも結構なスピードで……」
「百…………だと?」
おうむ返しに呟く京介。想像を絶した数字に、誰しもが眼を剥いて絶句していた。
「百って、こんな狭い森の中をどうやって……」
「分からない。でも、木々の間をあっさりすり抜けて大移動してる……」
征一郎の疑問に対し、男子生徒はブルブルと震えながら返答を口にする。
魔物がそこまでの大群を為して行動した事など、未だかつて一度も無かった。十匹程度の群れで襲いかかってきた場面はあったが、これほど大規模なものは初めてだった。
向こうの数は百。一方のこちらは、三十名ほど。数の上では、明らかに魔物側の方が優勢。加えて、相手はおそらく未知の敵。百以上の群れで木々をすり抜けるだけの身軽さを持ち、それ以外の情報は分からない。勇士にもそのような魔物(レジクロの中で)に覚えはない。影橋の鑑定能力を使えば全貌も暴けようが、その前に大群に呑み込まれるのが関の山だろう。
死力を尽くせばあるいは――という考えすら浮かばなかった。死者を回避するなら、逃げた方が賢明だからである。
だがしかし、あくまで逃げ切れたらという前提の話だ。人によって足の早さも変わるし、体力にも限りがある。追い付かれでもしたらきっと戦闘は避けられない上、疲労した状態で相対する事となる。死者すら覚悟しなければならないしれない事態に、皆が皆狼狽えていた。
「どうすんだよ征一郎! まず過ぎるだろこれは!」
「黙っていて下さい! 今考えている所です!」
がなる京介に、征一郎が爪を噛みながら叱声を飛ばす。
こうしている間にも、魔物は着々と接近しつつある。切迫した状況が、否応にも征一郎の理性を刈り取る。
「どうなるの私達? し、死んじゃうの……?」
「滅多な事言うなよ! 今からでも逃げたらどうにか……」
「逃げるってどこに!? ただでさえめちゃくちゃ暗いのに!」
動揺が伝播する。不安の渦は皆を呑み込み、奈落へ突き落とそうと黒い手が忍び寄る。
収拾が付く気配は全くない。むしろ一層酷くなる有様だ。
桜花と勇士は遠巻きに慌てふためく集団を比較的冷静に眺めていたが、胸中は似たような不安感で占められていた。
口を挟める余裕は無い。打開策すら浮かばない。どうしたら良いかすら分からなかった。
「逃げようって!」「だからどこにだよ!?」「柴崎君は!?」「もう戦うしかねぇよ!」「私らに死にに行けっていうの!?」「もうヤダぁ……」「どうしたらいいんだ柴崎!」「だいたい、道標もなしに歩くなんて無茶だったんだっ!」「お家に帰りたいよぉ」「誰か何とかしてくれ!」「怖いっ」「死にたくない!」「助けて……」
「――囮を立てましょう」
さながら、死刑宣告でもするかの如く、征一郎はおもむろに開口した。
「囮……?」
征一郎に詰め寄っていた京介は、ふと漏らされた一言に、全身を硬直させた。
「囮って、マジか征一郎? そんなの誰がやんだよ?」
京介の疑問に、皆がビクっと肩を撥ね上げた。
京介の言う通り、そんなもの誰もやりたがるはずがない。事実、皆一様にして征一郎から目を逸らしていた。
「囮なら既に決まっています」
眼鏡を掛け直し、征一郎は勿体ぶるように一泊置いて、数メートル離れた勇士を見てこう名指しした。
「久野君、君です」
「…………………………え」
意味を把握するのに数秒を要した。されど、頭の中は真っ白だった。
「戦力の増減を考慮すると、久野君。君が一番適任なんですよ。君ほど囮に相応しい人はいません」
言外に役立たずと宣告された。
だが、理解できなかった。理解したくなかった。役立たずと言われた事より、囮として指名されたのが何よりショックだった。
囮なんて、率直に言い換えたらそれは――
「ああ、無論囮と言っても、決して見捨てるわけじゃありませんよ。魔物が通り過ぎた頃を見計らって、ちゃんと救出に向かうつもりです。もっとも魔物を引き寄せるお香を焚くつもりでいるので、しばらくは近寄れないかもしれませんが。じっとしてもらう為、手足も拘束させてもらいますけれど、必ずしも魔物が襲うとは限りませんし、運が良ければ無傷で済みますよ」
死。
征一郎の言葉は、どれも死の香りした漂っていなかった。正気の沙汰ではない。
いや正気など、もはやどこにも介在していないのだろう。皆からの重圧と追い詰められた状況で、正常な判断を欠いてしまっているのだ。人道という最も重要なものが。
「それはいいな。俺は賛成だぜ」
当初こそ誰が選定されるのかと恐々としていた京介であったが、勇士が囮に決まった途端、手のひらを返したように揚々となり始めた。
「どうせ足手まといのぼっち野郎なんだ。こんな時ぐらい役に立ってもらおうぜ」
勇士に刃向かわれたのを根に持っているのか、京介は下卑た笑みを浮かべて懊悩に腕を組んだ。
「そうね。それがいいわ」
「どうせ誰かが犠牲にならなきゃいけないなら……」
「よく知らない奴だし……」
「え、ちょ、待って……」
皆の不穏な空気を感じ取って、勇士は後退った。
幽鬼じみた視線が勇士に注がれる。ヘドロのような気色の悪い粘液物が付着していくように、心を蝕む。
辺りを包む重鈍な空気が、徐々に勇士を侵食していく。反論の余地すら与えまいとする皆の双眸が、勇士の退路を奪うように身を竦ませる。
異常だった。
目の前のクラスメイト達が同じ人間に思えないほど、異常にしか映らなかった。
「み、みんな何を言ってるの! 囮なんておかしいわ!」
殆どの者が征一郎に賛同する中、桜花だけは腕を広げて勇士の前に立ち尽くした。
「城ヶ崎さん、これは決定事項なんですよ。リーダーならちゃんと聞き分けて下さい」
征一郎が非情な眼差しで桜花に告げる。勇士と桜花以外の者は一切異論を上げず、ジリジリと距離を狭めるてきた。
「本気で言っているの? だとしたら狂っているとしか思えないわ」
「狂ってなどいませんよ。逆に問いますが、他に良い案がおありで?」
「…………っ」
一言すら発せず、声を詰まらせる桜花。
「ほら、囮しか方法がないじゃありませんか。さあ、理解したならそこを退いて、久野君を引き渡しなさい」
「邪魔するってんなら、たとえ委員長でも容赦しねぇぜ」
京介がこれ見よがしに指の関節を鳴らして、歪な笑みを象る。他も異存はないらしく、中には武器を取り出している輩もいた。
「お断りよ。久野君は渡さない」
「桜花さん……」
桜花が毅然と言い放つ。己の立場すら危うくしてまで。
本当にこれでいいのか。桜花を守る為にも、やはり囮になるべきだったのではないか。
口答えすらできず、桜花の背に隠れるような真似をして、本当にこのままでいいのか――?
「しょうがねぇな。だったら――少しばかり痛い目を見てもらうぜ!」
その言葉が合図となった。
それぞれに武器を手にし、クラスメイト達が鬼気迫る表情で駆け出す。皆一様に勇士目掛けて。
「逃げるわよ久野君っ!!」
突然腕を掴まれ、勇士はバランスを崩しかけた。
どうにかギリギリ体勢を立て直したが、息をつく間もなく桜花に手を無理やり引かれ、心の整理が付かぬまま、どこぞへと走り抜けた。
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