七話「亀裂」
転移五日目。
照りつける太陽が木々の隙間を縫うように陽射しが地へと零れる。密集した大木が空を覆っている為、少々仄暗いが、夜と比べたら雲泥の差だ。日が沈めば辺りは一変し、常闇だけが世界を塗り替える。
勇士達一年B組は、時折会話を交えながら、奥深い森の中を当てどもなく彷徨っていた。
皆それぞれに疲労が窺えるが、憔悴しきっている者はまだいない。十分な食料と適度な運動(魔物との衝突も含め)のおかげか、むしろ健康的になっている生徒すらいる。意気揚々とまではいかないが、未だ死者や重篤者もおらず、比較的問題もなく進めているのもあり、この段階ではまだ、それなりに余裕が持てていた。
「一向に道が開けませんね……」
クラスメイト達を率いながら、先頭を歩く征一郎が、頬に垂れる汗を袖で拭って呟く。その隣りには親友である京介が連れ添っており、いつでも奇襲に対応出来るよう、予め大剣を出現させて構えていた。
そのすぐ後方に、四、五人ほど武器を所持している者がおり、征一郎を主軸したグループが皆のしんがりを務めていた。
「こりゃもう、森というよりジャングルだな。ひょっとしてアフリカの奥地とかなんじゃねぇのか、此処って」
「笑えない冗談ですね。いえ、いっそその方が良かったかもしれませんね。もし此処がアフリカなら、原住民と接触して道を訊ねるのもできたでしょうから」
京介の皮肉とも付かない冗談に、征一郎は苦笑を浮かべつつ、机上の空論を述べる。
「原住民、か。そういや、俺達以外の人影って見ないよな。一体どうなってんだ?」
「見た事もない化け物がいる時点で、此処が僕達の知る地球なのかすら怪しいくらいですからね。知的生命体のいない未開惑星に飛ばされたと言われれば、無条件で信じてしまいそうです」
「何だよそのSF展開。科学とかって苦手なんだよなあ」
うげえ、と舌を出す京介。下から数えた方が早い成績順位なので、小難しい話が苦手なのだろう。
「とりあえず、今は進むしかないでしょう。希望的観測かもしれませんが、その内出口か、運が良ければ原住民と会えるかもしれませんし」
「だな」
征一郎の言葉に、京介は首肯して前を見据える。その力強さに惹かれるように、後方にいるクラスメイト達もしっかり足を踏みしめて。
誰一人して、脱出を信じて悲観する者はいなかった。全員が絶対に助かると──このワケの分からない事態から逃れられると、希望を抱いていた。
この時は、まだ……。
転移十二日目。
どこからともなく響く、鳥獣達の鳴き声。連なるように度々草むらが音を立てて揺らいでは、勇士達の肝を冷やして緊迫感を煽った。魔物だけでなくて、毒蛇なども時折散見するこの密林において、油断は命取りだった。
少しの緩みが、イコール絶命へと繋がりかねない状況に、否応なく勇士達は昼夜問わず神経を尖らせる状態に陥っていた。
陽も段々と沈んできた。あと一、二時間も経てば、完全に周囲は暗闇に閉ざされるだろう。
見晴らしが少しずつ悪くなってきたせいか、足元も覚束なくなってきた。蔓などに捕らわれないよう注意せねば。
「──あだっ!」
地面にばかり視線を集中させていたせいで、前を歩く女子と衝突してしまった。勇士と同じ回復役(しかも勇士よりよほど使える)で、クラス内でも人当たりが強い事で有名な女の子だ。
「ちょっと! 気を付けて歩きなさいよ! もうちょっとで転ける所だったじゃない!」
「ご、ごめん……」
真っ向から怒声を浴び、勇士は申し訳なそうに頭を下げた。故意ではないが、自分からぶつかったのだから、ここはちゃんと詫びるべきだ。
勇士は素直に自身の不注意を認めて謝罪したつもりだったが、当人はそれだけで気が静まらなかったらしく、
「ひょっとしてわざとぶつかったんじゃないの?」
と、猜疑の念を向け始めた。
「ワタシに何か恨みでもあるワケ? 大人しい振りして、随分と陰湿な真似してくれるじゃない」
「そ、そんなつもりは……」
「あーあ、やだやだ。気弱そうな奴を獲物に鬱憤はらしやがってさ。見るに堪えないね」
弁明しようとした矢先、勇士の言を遮る形で、隣りを歩く男子生徒が呟き漏らした。精霊術士と呼ばれる、割りと高位な職業に属している男子だ。
「何よ。あんたには関係ないでしょ」
「見苦しいつってんの。弱い者イジメとかダサいって思わないの?」
弱い者って。反論の余地がないくらい、クラス内でも最底辺に位置するけども。
「弱い者イジメ? あんたがそれを言うの?」
「あ? どういう意味だ?」
「あんただって、大して変わらないじゃない。一度魔法を使っただけですぐにへばっちゃってさ」
「い、威力が高い分、MPの消費も激しいんだよ! お前だって戦闘の時はテンパってばかりで、あんまり役に立ってねぇだろうが!」
「仕方ないでしょう! だ、だって怖いんだもの! 女の子なんだから当たり前でしょう!?」
「都合の良い時だけ性別を楯にしてんじゃねぇよ阿婆擦れが!」
「はあ!? 誰が阿婆擦れよ!?」
「そこまでよ」
喧嘩が苛烈を増そうとしていたその時、勇士のすぐ背後にいた桜花が、両者を遮るように前へと進み出て、口論を中断させた。
「これ以上輪を乱す行為は、リーダーとして見過ごせないわ」
「でもオレは悪くない──」
「彼女を煽るような事は言っていたはずよ。そこは反省すべきだと思う。それと……」
反論が浮かばないのか、歯噛みする男子生徒から目線を逸らし、桜花はもう一人の当事者へと目を向ける。
「あなたも、少し過剰に責め過ぎよ。私が見ていた限り、久野君は本当につまづいただけに思えたわ。きちんと非を認めて謝っているし、これでお終いにすべきじゃないかしら?」
桜花の提案に、女子生徒は不満げに愁眉を寄せていたが、やがて心の整理が付いたのか、
「…………分かったわよ」
と不服そうにしながらも、前へと向き直って歩き始めた。
「──形ばかりのリーダーのくせに」
ボソッと黒々とした囁きが、どこからか鼓膜を擽る。
それは先ほどの女子生徒だったかもしれないし、言い争っていた男子生徒だったかもしれない。もしくは他の生徒だったかもしれない。声量が小さ過ぎて高低差も分からなかったので、誰の陰口かは判断できなかった。
犯人──と言えば聞こえが悪いが、別に此処で糾弾するつもりはない。もし糾弾しようもなら、余計火種が大きくなるだけだ。
それよりも問題なのは、桜花の様子だ。いつも通りポーカーフェイスを保っているが、心の内まで平静かどうかは謎だ。あるいは、無表情の仮面の裏で傷付いているかもしれない。そう思うと、罪悪感で胸が痛む。
「ご、ごめん桜花さん。ぼくのせいで桜花まで悪く言われて……」
「私なら平気よ。リーダーとしての役目を果たしただけ。それより話しながら進みましょう。みんなの足を止める方が良くないわ」
言われてみると、大部分は先に歩いているが、何人かの生徒はまだ残っていた。勇士達のグループだ。
幸いにも、文句を言う者はいなかったが、少なくとも良い感情は抱いていないはず。あまつさえ、勇士が止まっているせいで列から離れている。はぐれてしまっては元も子もない。
再び足を動かし──歩調もなるべく早めて──合流すべく後を追う。
「久野君はさほど悪くないわ。みんな気が立っているのよ」
道すがら、後ろを歩く桜花が、勇士の背中に声を掛ける。
またつまづくといけないので、振り向きはしなかったが、声音から勇士を慮ってくれているのが何となく分かった。
「連日の徒歩で疲れているせいもあるのでしょうね。宿でもあれば心身共に休まるのだろうけど……」
こんな密林に宿なんてあるはずもない。桜花も承知で口にしたのか、
「さすがに荒唐無稽よね」
と苦笑を浮かべて自ら一蹴した。
「でも桜花さんの言う通り、屋内で休めれたらだいぶ違ってくるとか思う。どこか集落でもないもんかな……」
集落と言えば、レジェンス・クロニクルでもこういった森の中で、獣人だけが住まう村があった気がする。村の名前や所在までは記憶に残っていないが、森の中であったのは確かだ。
それ以外に覚えているのは、その獣人達の村は普通に散策しただけでは絶対に見つからない仕掛けが施されていた事ぐらいである。
──何か呪文が必要だった気がするんだけど、よく思い出せないや。
「どちらにしても、早くこの状況から脱しないと危険ではあるわね。みんなの不満が爆発しないのを祈るしかないわね」
人知れず記憶を漁っていると、桜花が心配げな口調で言葉を発した。クラスリーダーとして色々と思う所があるのだろう。責任感の強い桜花らしい心配りだ。
だがその祈りも、残酷にも無惨な形で裏切られる事となる。
転移二十日目。
「もうイヤっ!!」
甲高い声が夜陰に響き渡る。その大声に驚いたのか、木の枝で羽を休めていた何羽かの野鳥が逃げるように暗い空へと飛び去った。
驚いたのは野鳥だけではない。夜が訪れ、野宿の準備を始めていたクラスメイト達が、ギョッと身を竦めた。
照明魔法のおかげで、辺りは街灯が点いたように少々明るかったが、悲痛な声を上げた当人の周りだけは、心の内を晒すように薄暗く見えた。
「もうイヤよこんな生活! いつまで野宿なんて続くのよ! いつになったらベッドで寝れるの!」
荒ぶっているのは、一週間近く前、勇士に言い掛かりを付けてきた女子生徒だった。
「お、落ち着きなよ明美。もうすぐ眠る時間だし、ね?」
「眠る? 木の葉で敷いただけのこの粗末な寝床で?」
明美と呼ばれた少女は、足元の木の葉の束を踏み鳴らし、たしなめる女子生徒に犬歯を剥いて悪態をつく。
「こんな雑多な所で満足に眠れるわけないじゃない! 冗談じゃないわ!」
明美のヒステリックな叫びに、就寝しようとした者達まで体を起こし、何の騒ぎだと集まり出す。勇士もその一人だ。
「一体いつになったらこの森から抜け出せるのよ! もう二十日も過ぎてるのよ!? ずっと森の中を彷徨ってるだけじゃない!」
「きっとその内出られるから……」
「その内っていつ!? みんな口を揃えて言ってるけど、今日まで何の手掛かりもないじゃない! 食べる物だっていつも果実か、焼いただけの肉ばっかり! もううんざりよ!」
「ギャアギャアうるせぇなあ」
騒ぎを聞きつけたのか、煩わしそうに顔を顰めながら、京介が明美の元へとやってきた。
虫の居所が悪いのか、普段より目付きを凄ませて、明美達を睨め付ける。
「少しは静かにできねぇのかよ。寝れるもんも寝れねぇぜ」
「はんっ。脳天気な人は頭もめでたくて羨ましい限りだわ」
「あぁ?」
遠回しにもならない悪意たっぷりの皮肉に、京介は顔相を険しくさせて、ずかずかと明美へと詰め寄る。
「さっき何つったコラ。あんま調子乗んなよこの女」
「調子に乗ってるのはどっちよ。ちょっと他の人より戦えるぐらいで、いい気になってるくせに」
「てめぇみたいに前線張れない奴らの為に、俺らが戦ってんじゃねぇか! 安全地帯にいる奴が生意気に吠えてんじゃねぇよカスが! てめえらは補助役は黙って俺らの命令を聞いてりゃいいんだよ!」
「ちょっと、それは聞き捨てならないかな」
二人の舌戦に割り込む形で、そばで静観していただけだった影橋が、我慢ならないと言わんばかりに柳眉を立てて口を挟んだ。
「それって、自分達みたいな人も含んでるのかな? だとしたらお門違いもいい所なんだけど」
「んだよ。関係ない奴が口出ししてんじゃねぇよ」
「関係大ありだよ。だって君、はっきりとこちらを侮辱したよね? 謝罪してもらいたいんだけれど」
影橋の言葉に、「そうだそうだ」と他方から賛同する声が上がる。影橋と同じ、補助職の面々だ。
「影橋てめぇ、いつからそんなでかい口が叩けるようになったんだ? 周りからチヤホヤされてるぐらいで、上から目線になってんじゃねぇよ!」
「でも事実、自分がいたおかげでかなり助けになってるじゃないか! 食料の判別だって、鑑定の力がなかったら腹を下してたかもしれないのに! 戦うしか脳のない君に、とやかく言われる覚えはない!」
「言ってくれんじゃねぇかこのクソ野郎が……っ」
「待ちなさい! 一体何の騒ぎですかこれは……!」
「みんな、冷静になって!」
一触即発な雰囲気が漂う中、離れた地点で今後の計画を相談していた征一郎と桜花が事態の緊迫さに感付き、慌てて駆け寄った。
「影橋君、一旦静まりましょう! 話はその後です!」
「獅子倉君も拳を収めて! 暴力は良くないわ!」
征一郎が影橋を、桜花が京介の元へと近付いて、憤慨する両者を諌める。
影橋の方は、征一郎の制止もあって何とか落ち着きを取り戻したが、京介だけは勢いが止まらず、
「うるせぇ! 一発アイツを殴らねぇと気が済まないんだよっ!」
と怒気を発する。
「ダメよ! 影橋君から離れて! リーダー命令よっ!」
「邪魔すんじゃねぇ!!」
「きゃっ!?」
腕にしがみ付こうとした桜花を強引に振りほどく京介。
あまりの力強さに、受け身も取れずに背中から地面へと叩き付けられた桜花は、苦しそうに咳き込んで寝そべった。
「桜花さん……!」
事の成り行きを見ていた勇士は、すぐさま桜花のそばへ走り、彼女の体を起こした。
「……大丈夫?」
「げほけほっ。ええ、何とか……」
「だいたい、名ばかりのリーダーがこんな時だけ説教たれてんじゃねぇ。うぜぇんだよ」
腰を落とす桜花に、京介が手を貸そうともせずに睥睨して、冷淡な言葉を吐き捨てる。
「説教って、私はただ喧嘩を止めたかっただけで……」
「そういうのがうぜぇつってんだよ。リーダーとして頑張ろうとしてんのか知らんけど、実質征一郎におんぶに抱っこじゃねぇか。何がリーダーだよ」
「それは……」
桜花が目線を伏せて語気を詰める。正論だっただけに、何も言い返せなかたのだろう。
だが元を正せば、桜花をリーダーに選んだのは、征一郎と京介の推薦――並びに、皆の総意で決定したはずの事だ。それを今更期待外れと切り離し、あろうことか罵倒するなんて道理に合わない。めちゃくちゃ過ぎる。
「そ、その言い方はあんまりだよ」
と。
京介の横暴に、さすがの勇士も看過できず、桜花の肩を支えながらジッと猛り狂う瞳を見つめ返す。
「その言い方は酷いと思う。みんなで勝手に期待して、勝手に任命して、結果が出なかったら役立たず打なんて罵って、身勝手過ぎるよ」
「久野君……」
「何だよてめぇ。ぼっち野郎はお呼びじゃねぇんだよ。すっこんでろ」
心を打たれた様子の桜花とは対象的に、京介は片目だけ眇めて勇士を射抜く。
「す、すっこまない。間違ってる事は間違ってる。桜花さんは悪くない」
「ずいぶんと威勢がいいじゃねぇか。日頃から仲の良い委員長に、少しでもカッコ付けたいのか? 粋がんなよぼっち野郎!」
途端、京介は勇士の胸倉を掴み、無理やり立たせて木の幹へとぶつけた。
「前々から気に食わなかったんだよてめえは。ぼっちのくせに女とだけよろしくやりがってぇよぉ。胸糞悪いんだよゴミカスがっ!」
「うぐ……っ」
「やめて獅子倉君! 久野君は関係ないわ! 殴るなら私にして!!」
京介の拳が顔面に迫る。互いに良い印象を抱いていなかったが、まさかここまでだったとは。
いや、きっとこれも先行きの見えない樹海生活による弊害だろう。溜まりに溜まった負荷が京介の精神を苛み、結果として暴力で訴えるような極地まで誘われてしまった。言わばこれは事故のようなもの。京介の方に非があると思うが、さりとて現在の冷静さを欠いた状況下では、まともに話が通じると思えない。
まあいい。桜花には今まで散々助けられた。そろそろ返済しないと、男が廃る。
それに。
彼女の役に少しでも立てるのなら、存外悪い気はしない。痛いのは非常に嫌だが、大目に見よう。なに、殴られても自分の魔法で癒せばいいだけの話だ。
スローモーションのように京介の拳が迫る。桜花の悲鳴が耳朶を打つ。
そうして、あと数秒と経たない内に京介の拳が勇士の頬を穿とうとした瞬間──
周囲の雰囲気が、眠りに付いていた生きとし生きる全てのものを叩き起こすように騒然となった。