二話「転移」
「──勉強しているの?」
中間テストが終わり、答案用紙が返ってきた、その日の放課後だった。
夕暮れの淡い陽が教室を橙に染め上げる中、勇士はただ一人、机の上のプリントと睨み合っていた。
他の生徒は見受けられず、校庭で部活に励む集団の声しか響かない。本来なら勇士も、陽が傾く前にさっさと帰路に着いているはずだったのだが、そうはいかない事情ができてしまったのだ。
補習、である。
補習といっても、教師とワンツーワンでやるものではなく、渡されたプリントをこなすだけの、精神的には楽な作業ではある。
とどのつまり勇士は、一年B組唯一の赤点保持者となり、それぞれの担当科目の教師から渡されたノルマを、放課後のこの時間帯にこなしているのだった。
本当なら、補習場所に指定はないので、調べ物もしやすく、比較的静かな図書室に行きたかったのだが、折悪しくもちょうど休館日と重なり、あえなく断念。他に行く当てもなく、自分の在籍している教室で、クラスメイトが全員いなくなったのを見計らい、各赤点教科のプリントを取り出してシャーペンを走らせいる最中だったのだ。
そんな時にふと現れた、予期せぬ闖入者。
委員長──城ヶ崎桜花の姿だった。
◇ ◇ ◇
「うっ……」
全身がズキズキと痛む。外からではなく、内側から響く鈍痛。俗にいう筋肉疲労というやつだろうか。揺れる机にずっとしがみ付いていたから、きっとそのせいだろう。
「そうだ! 地震は……!」
ガバっと身を起こし──どうやら、横になっていたらしい──勇士は辺りを見回す。
「な、んだ。これ…………」
そこは、鬱蒼とした森の中だった。
見渡す限り、どこまでも続く名も分からぬ木々。勇士の周辺は、ちょうど更地のようにな原っぱが細々と生い茂っているだけで、その先の向こうは幹が連なって暗闇しか見えなかった。
まかり間違っても、勇士のいた教室などではない。どころか、勇士のいた町にこんな大規模な森林などなかったはずである。
突然地震に揺られ、気が付けば見知らぬ森の中。これではまるで、マンガやゲームに出てくる異世界に召喚された主人公みたいではないか。
そうして、暫し愕然とした面持ちで途方に暮れていると──
「いってぇ。何だったんだよ、今の地震は……」
「うぅ。何だか頭がクラクラするわ」
「怖かった〜。死んじゃうかと思っちゃった……」
ポツポツと耳朶に届く、聞き慣れたクラスメイトの声。
先ほどまで呆気に取られていて視界に映らなかったが、クラスメイトも勇士と同じく、この森の中へと飛ばされてきたらしい。
だがそれよりもまず、勇士の目を捉える事象が起きていた。
「みんな、服が変わってる……?」
そう。
実に不思議な事に──突如として森の中へと放り出されたのと同様──クラスメイト達の出で立ちが、学校指定の制服から、RPGにでてくるような──いわゆるコスプレと呼ばれる服装へと様変わりしていたのだ。
「うわっ。何だよお前のその服! 戦士みたいな格好してんぞ」
「そういうお待ちこそ、魔法使いみたいな格好だぞオイ」
「きゃあ! 何なのよ、この露出の多い服は!」
「オレなんてピエロだぞ……」
遅まきながらクラスメイトも気が付いたようで、次々と困惑を口にする。
「いや、ちょっと待て。という事はひょっとしてぼくも……!」
そう思い至って、勇士は慌てて自身の体を見やる。
半ば予想通り、勇士の格好は制服のそれから一変していた。
全身白を基調とした服――というよりは、法衣と呼称すべきか。全身が上下共にひらひらとしており、手首が隠れるほど袖口が広い。それは下も同じく、地面すれすれになるほど、下方の縁が長い。こんな動き難い服装、七五三で着物姿になって以来だ。胸元には謎の紋様と一緒に小さな水晶が埋め込む形で刺繍されており、いかにもゲームのキャラにでも登場しそうな仕様になっていた。
分かりやすく喩えるなら、味方のサポートに回りそうなポジション。
俗に云う、回復術士。
「回復術士って……。剣士とか武道家とかじゃないのかよ……」
異様な現状から現実逃避するかのように、ボソッと不満を漏らす勇士。
職業を選択できるなら、どちらかというと肉弾戦系が良かったのだが(勇士が操作するキャラは、大抵そういった系統だ)、どう考えても便利な補給役として使われそうな感じだった。回りを見渡しても勇士と似たような服装は三、四人しかいなかった。ますますもって損な役回りが来そうである。あくまで、これがゲームだったらの話ではあるが。
にしても、クラスメイト達の服装やこの法衣──いつか何処かで目にした事があるような気がする。
具体的な日時までは分からないが、それでも、普段から見慣れているかのような既視感。初めて見たはずなのに馴染みがあるかのような、不可思議なデジャヴ。喉のすぐそばまで出かかっているのに、どうにも上手く思い出せない。
そう、確かあれは────
「久野君」
と、勇士が詮無い事を考えていた間に、桜花の声が何処からともなく鼓膜に触れた。
桜花の姿を探して、前方をよく凝らして見る。
「後ろよ、久野君」
……後ろだったらしい。
少し恥ずかしい思いをしつつ、言われた通りに背後を振り向く。
そこには確かに、見慣れた桜花の凛とした姿があった。
ただし、やはり服装は様変わりしていたが。
「何ていうか……派手だね」
「……あまり言わないで。私だって恥ずかしいんだから」
言って、頬を紅潮させて両腕を抱く桜花。
上は白銀の軽装鎧。だが胸元は若干開いており、桜花のたわわに実った乳房が谷間となって外部に晒している。下はくるぶしに届きそうなほどの真紅に染まったスカートを履いているが、太ももまでに入った長いスリットが、逆に色っぽく見えた。
正直言って、すごく似合っている。
「……あんまりジロジロと見ないでほしいのだけれど」
「ご、ごめん!」
桜花に非難じみた目で見られ、勇士は慌てて目線を逸らす。
「そ、それにしても、委員長も無事だったんだね。本当に良かったよ」
「ええ、おかげさまで」
もっとも、手放しで喜べる事態ではないけれど、と続ける桜花。
「見た限り、かなり奥まで木々でひしめき合っているみたいだし、最悪樹海である可能性すらあるわ。そうなるとかなり厄介ね……」
さもありなん。大抵樹海というのは入ったら二度出られないのが相場だ。
もしそうなれば、クラスメイト全員餓死で全滅──なんて未来も十分にあり得る。
「それにしても、ここは一体何処なんだろうね。いつの間にか、そばにいた委員長も離れた位置にいたりとか、みんなの配置も変わってるし」
「私から見たら、久野君が離れていたように思えるけれどもね。まあでも確かに、理屈では説明できない現象ではあるわね」
逆に理屈で説明できたら、天才なんてレベルを超えていると思うが。
そうこうしている内に、クラスメイト達もこの超常現象にじわじわと不安が押し寄せてきたのか、キョロキョロと忙しなく目線を巡らす者や、中には顔面を蒼白させて俯く者もいた。このままでは、じきにパニックを起こす者が出てくるのも時間の問題だった。
そんな中、勇士は動揺しつつも、心を踊らせている自分に気が付いた。
だってこれは、勇士がいつも夢想していたシチュエーションそのものだったのだから。
退屈な日常の中で、ある日突然起きた非現実。それも目覚めたら、全然知らない景色の中にいたときたもんだ。これでワクワクするなと言う方が無茶である。
間違いない。この状況は絶対──
「もし、論理的に説明するなら……」
と。
不謹慎に胸を踊らせていると、隣りにいた桜花が勇士の脳内を代弁するように、決定的な一言を発した。
「私達は教室とは全く別の場所──それもかなり離れた位置に転移したって事になるわね」