十七話「案内」
夜が開けた。
長い長い二日間が幻だったかのように朝日が昇り、小鳥が囀っていた。
昨日の夜は、温泉から上がった後、泥のように眠っていた。あれほど爆睡したのは、一体いつぶりになるだろうか。積み重なった疲労と日々の睡眠不足と空腹を満たした恍惚感がブレンドされた、とても深い眠りだったように思う。
ともすれば全ての出来事が嘘だったかのような記憶の混濁が、朝の眩しい陽光に触れ、夢現としていた勇士の意識に覚醒を促す。
「そうか。ぼく、族長さんの家に泊まったんだっけ……」
未だぼんやりとした頭で、現状を確認する。
見るともなしに周りを眺める。あるのはすだれ付きの木窓くらいで、あとは特筆するような物はない。というより、物自体がない。あるのはせいぜい勇士が現在使用している寝具(毛皮ともいう)くらいな物で、ランドの言う通り本当に空き部屋といった感じであった。
が、ただそれだけの事が、勇士にかつてない安心感を与えていた。仕切りがあるだけの家が、こんなにも安息を得る事ができるだなんて。魔物の影に怯えていたせいだったり、理由は様々だが、やはり人は家に帰属する生き物なのだと痛感する。異世界に来なければ、家の有り難みなど一生知りはしなかったろう。
「そろそろ起きなきゃ……」
自宅ならいざ知らず、勇士はお世話になっている身。長々と惰眠を貪るワケにもいかない。
二度寝の魔の手に苛まれつつ、えいやと克己心を振り絞って立ち上がる。途端、体中の筋肉が思いだしたように痛みを走らせる。ここ最近気にする余裕もなかったが、心身共にリフレッシュしたと同時に負荷が一気に掛かったようだ。今更遅刻してきた筋肉痛に労うべきなのか軟弱と貶すべきなのか迷う。
気怠さに頭をふらつかせながら、勇士は囲炉裏があった居間へと向かう。
「おー、勇士殿。思っていたよりお早い目覚めじゃったな」
「族長さん、おはようございます」
居間に行くと、ランドが鍋に火を通して朝食を作っている最中だった。
「うむ。昨日はぐっすり眠れましたかな? ずいぶんとお疲れな様子じゃったが」
「はい、おかげさまで。あ、着替えまで用意してもらって、本当にありがとうございました」
「何、お安いご用じゃよ」
勇士の礼に、ランドが目笑して快活に答える。
勇士は今、いつもの法衣でなく、ランドから借りた浴衣のような薄着を身に付けていた。法衣のあまりの汚れっぷりを見て、
「その服は後で洗濯するとして、ひとまず我が家の衣を纏いなされ」
と、温泉へ入る前にランドが気前良く代わりの衣服を貸してくれたのである。人情が身に染みる話だ。
「もうじき朝餉ができる故、少しお待ちくだされ」
「はい。ありがとうございます」
「そろそろミウも起きる頃じゃて、朝餉を食べ終えたら集落の中を案内させて――」
「ミウ、やっぱり私もお客さんのおもてなしをしなきゃ……」
「お母さんはいいの! もう、余計体壊しちゃうでしょっ!」
「朝から騒がしいの……」
奥から聞こえてきたミウとカノのやり取りに、ランドが苦笑を漏らした。
「村の様子? いいよ、ウチが案内したげる!」
朝餉を食べ終えて茶を交えながらミウに案内をお願いすると、彼女は笑顔でそう快諾した。
「ていうか、どのみち昨日話してた祠まで連れていくつもりだったしね。ついでに色々見せてあげるよ」
「ありがとうミウ」
「にしし」
えくぼを作って破顔するミウ。どこか憑き物が落ちたような晴れやかな顔をしていて、それが自分の事のように嬉しく思う。
「案内するのはいいが、くれぐれも危険な場所には行くでないぞ。ただでさえお前はそそかしいんじゃから……」
「言われなくても分かってるよー! 足だって本調子じゃないし!」
べー! とミウは舌を出して、苦言を呈するランドに悪態をつく。返しが見たまんまお子ちゃまだ。
「足ってまだ痛むの?」
「え? ううん、普通に歩く分にはへっちゃらだよ。でも指で押さえたりするとちょっと痛いかな」
言いながら、ミウは胡座を掻いた足――その包帯の巻かれている側を指でなぞる。
「後でまた薬師の所に行くんじゃぞ。完治したワケではないんじゃからな」
「それも分かってるー! 勇士、もう行こう。ここにいたらジジ様の小言がうるさくてやんなっちゃう!」
小言って……と不満げにシワを寄せるランドに構わず「ほら早く!」と勇士の腕を引っ張って忙し立てる。
「ま、待ってミウ!」
強引に勇士を玄関まで連れ出そうするミウに、
「やれやれ……」
とランドが溜め息混じりに呟いた。
「気になる所があったらすぐに言ってねー。ウチが連れてってあげるから」
すっかり観光ガイド気分になっているミウの隣りを歩きながら、勇士は改めて集落の様子をそれとなく眺める。
こうして見ると、族長以外の家の全て竪穴式住居――土や枯れ草などで作られている家ばかりと思っていたが、細部で違う点があった。
大抵の家のそばに、槍や斧といった狩猟用の武器が置かれているのだが、中には竿だったり鍬といった畑作業で用いる道具なども見られた。てっきり獣肉だけを消費しているのかと思いきや、案外そうでもなかったらしい。よくよく考えてみれば、夕べの食事にも芋が入っていたし、農作業にも精通しているのだろう。今の所、畑らしきものは見当たらないが。
というより、獣人達の刺すような冷たい視線が気になって、あまりじろじろと観察できないでいるのだった。よそ者が村の中を闊歩してるんじゃないと言いたげな重苦しい雰囲気が、勇士を萎縮させていた。
「……あのさ、ミウ。やっぱりぼくって嫌われてるのかな? さっきからみんなの目が怖いんだけど」
「うーん、嫌いっていうより、警戒されてるだけじゃないかな。ほら、ユーシって人間だし」
「昔、人間が此処に来て、獣人を攫ったってヤツ? でもそれってかなり昔の話なんじゃあ……」
「獣人の中でも特に狼族は仲間意識が強いからねー。仲間が危ない目にあった時なんか、絶対忘れないようにしてんだよね。次なんかあったらすぐに助けられるようにさ」
つまり獣人達の刺々しい視線の数々は、仲間を守ろうとせんが為の監視というワケか。ますます居心地が悪い。
「でも大丈夫だよー。ジジ様からもらった首飾りがあるでしょ」
ミウに指摘され、勇士は首に掛けられた飾りに手を取った。
銅のような金属で作られた、楕円形の平べったいコイン。そこかしこに象形文字のような、ミミズがのたくった風な跡が付いてる。端には六つに散りばめられた蒼い宝石が埋め込められており、小さく空けられた穴から首下げ用の紐が通されていた。
「それ、族長の大事な客人っていう証しになってから、その首飾りがある間は絶対に手出しできないはずだよ。どんな奴でもね」
「へえ。そんな意味があるんだ。族長さんに渡されて、なんとなく付けてたよ」
「首飾りしてる所なんて、ウチは初めて見たけどね。客人なんて滅多に来ない所だし」
そうだろうな、とひとり頷く勇士。魔法によって厳格に閉ざされた集落であるし、見つけようとするだけで骨が折れる。客人なんて早々訪れるはずもない。
「なるほど。とりあえず、これさえあれば絡まれる心配はないってワケだ」
「一応ね。でもなるべく独りで出歩かない方がいいよー。特に村の子供は何をしでかすか分かんないし」
何をしでかすか分からない子供が言うだけに、説得力に信憑性があった。絶対何があってもこの首飾りだけは外すまい。
「そんで、これからどうする? 早速祠の方に行っちゃう?」
「そうだね……」
いくら首飾りがあるとは言え、行く先々でこうも白い目線に晒されるのも精神的にキツい。それならさっさと祠に向かって、少しでも桜花が見つかりそうな情報を探した方が実益的だ。
「うん。祠までお願いしていいかなミウ?」
「おっけー! 任せてよ!」
平たい胸をどんと叩いて、ミウは意気揚々と勇士を先導する。
「けど、後でちゃんとウチとも遊んでよね!」
「あはは。善処するよ……」
あの子の相手は疲れそうだなあ、と苦味走った笑みを浮かべつつ、ふりふりと揺れるミウの尻尾を目で追いながら付いて行った。
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