十六話「混浴」
「はあ〜。気持ちいい〜」
真白の湯気が一帯を覆い、上空ですぐさま霧消する。満月が水面に揺れ、黄金色が煌めく。
ランドの床高式住居――その裏手側だった。そこには岩盤で囲まれた温泉が沸き上がっており、勇士は生まれたままの姿で入浴していた。
ランドの勧めもあって、桜花の情報が見つかるまではしばらく厄介になる事にした勇士であったが、その前に体を洗った方がいいと――汗臭かったので気になったのかもしれない――そう促され、この温泉へと案内されたのである。
温泉に勇士以外の人影は見当たらない。おそらくは、族長であるランド家専用の温泉なのだろう。ともすると井戸のように共同用もあったりするのだろうか。何にせよ、これだけ広い温泉を独り占めにできるだなんて最高だった。
初めは少々湯が熱かったが、体も高温に慣れてきたようで、むしろ心地が良かった。鼻歌すら口ずさみたくなる極楽さに、勇士は全身を弛緩させて悦に浸る。
「温泉に入るのなんて、どれくらいぶりだろう……」
さらけ出された肩に湯を当てて、勇士は恍惚とした表情で呟く。
ずっとサバイバルな毎日だった。四六時中樹海の中を歩き回り、時に魔物と戦い、心休まる時が殆ど無かった。無論、お風呂にだなんて入れるはずもなく、大抵は水や湯などで濡らした布で体を拭く程度しかできなかった。
いや、風呂に入ろうと思えば――それこそ魔法でも用いれば不可能ではなかったのだが、いつ魔物が現れるか分からない状況が、彼らを躊躇わせていたのだ(異性の目があったというのも理由の一つではあるが)。
結局、安全面を考慮して風呂には入れなかったが、そういったストレスが後の亀裂を生んだのだろうと今更ながらに思う。
こうしていると、肌でなく心の汚れも洗い流してくれるようだ。と言ってもクラスメイト達の行為は決して許せないし、ずっと心の中でシコリとして残り続けるのだろうけど。
「あー。今は考えるのはよそう。せっかくの温泉なんだし」
ぶくぶくと水面に口を付けて、勇士は邪念を取り払う。
明日は集落の中を案内してもらう予定だ。となるとあちこち闊歩する事になるだろうし、日々の疲れをしっかり癒しておきたい。
これからの為にも。桜花を見つける為にも。
――桜花さん。元気でいてくれたらいいなあ。
ひとりだけ安全地帯にいる自分に罪悪感を覚えるが、体は資本だ。体調を崩しては元も子もない。
今はただ、桜花の無事を祈り続けるしかできない。それが神頼みという他力本願な考えだとしても。
次第に、眠気が襲ってきた。温泉の気持ち良さと相俟って、ふわふわとした――静かな海面にたゆたっている気分になる。氷が湯に溶け込んで一体になるような、そんな感覚。
そうして、しばらくうとうとしていると――
「あれー。ユーシ、もしかして寝ちゃってるー?」
と。
その時、背後から聞こえるはずもない幼い声が耳に届いた気がした。
――いや、まさかね。ぼくが温泉に入ってるの知ってるだろうし。
まだ第二次性徴期(獣人はいつ頃から始まるのかは知らないが)も来ていないであろう少女ではあるが、ミウも立派な女の子だ。異性に対してそれなりに意識しているだろうし、年頃の男の子が入浴してるのをわざわざ覗きに来ようはずもない。
きっと今のは幻聴だったのだ。ちょうど頭もぼんやりとしていた時だし、白昼夢でも見ていたのだ。
そう自分を納得させ、冷えてきた肩を温めようと湯の中に身を沈めようとして――
「なーんだ。ちゃんと起きてたんじゃん」
――ミウ!?
今度は間違いなかった。幻聴とかではない――はっきりと背後からミウの声が鼓膜を揺らした。
やばい。何がやばいかって、自分は今全裸なのだ。別に故意ではないが、しかしそれでも、幼い少女にそれなりに成熟した男の裸体を見せるわけにもいかない。
タオルも何も巻かずに入ってしまったので――日本にいた時、湯の中に入る際はタオルは取るべきと習っていたのだ――両手で下を隠しつつ、ミウの方へと振り返る。
「ミウ! ぼくがいるになんで――」
言葉は、最後まで紡げなかった。
何故ならミウは。
裸――だったのだから。
「うわあああ! うわああああっ!」
「ひゃ!? な、なに? 急に大声出しちゃってさ」
「な、なななな、なん……」
思うように口が開かない。一切違和感を抱いていない風のミウに、あれこれ問い正したい事があるのにも関わらず、喉が詰まって何も発せられずにいた。
それくらい、視界に映るミウの裸体は刺激が強かった。
ミルクのように白い全身に、見惚れそうになるほどの滑らかな肌。少女らしい丸みを帯びた肢体ではあるが、その節々に成長の兆しを見せており、未成熟な美しさがそこにあった。
たかが幼い少女の裸だ。されど、女性の裸なんてそれこそ幼き頃に見た母親のものか、もしくはネットの画像などで見た事のなかった勇士に、異性の裸体を前にして動揺するなという方が無理な話だった。
とにかく、いつまでもじろじろ眺めているわけにはいかない。そう思い立ち、勇士はすぐさまミウに背中を向けて、
「な、何で裸なのさっ!?」
と詰問した。
「なんでって、裸にならないと温泉に入れないじゃん。当たり前でしょ」
「え――ええ!? ミウも入るの!?」
「うん、入るよ。だってウチ、まだ体洗ってないもん。ちゃんと洗わないと尻尾から変な匂いしちゃうしね」
ぶんぶん、とミウが話している内に風切り音が聞こえる。多分、ミウが尻尾を振っているのだろう。確認するわけにもいかないので、予想でしかないが。
「ていうか、ユーシもなんでそんなに驚いてるの? ウチ、ユーシになんかしたっけ?」
している。現在進行形でしている。むしろ何故そっちは疑問げなんだ。
「あの、ミウは気にならないの? ぼく男なんだけど……」
「? それがなに?」
ダメだこりゃ。この反応からして、何も恥じた様子はない。この村の貞操観念はどうなっているんだ。
悶々とする勇士に「変なの」とだけ言って、ミウはちゃぷんと湯音を立てて入浴した。
「ふあー。良いお湯〜」
ミウの喜悦に満ちた声が、そばにいる勇士の耳朶を打つ。背中こそ向けているが、ミウの惜しげもなく晒された肢体があると思うと、体温がぐっと上昇しそうだった。現に、顔が沸騰しそうなほどに熱い。
このまま此処にいたら、のぼせて倒れかねない。さっさと退散せねば。
「じゃ、ぼくもう上がるから……」
「えー? もっといなよユーシ。入ってそんなに時間経ってないじゃん」
ねーねーユーシ、と腕を取って肌を密着させるミウ。
少女の未発達な胸が勇士の腕に押し当てられる。合わさった肌が体温を高め、触覚が鋭敏にさせる。やたらスベスベとしたミウの肌が、少女に似つかわしくないほど艶かしい。
「うわあああ! 分かった! 分かったから離れてぇ!」
「やったあ!」
残留の意志を示した勇士に、ミウは大手を振るって喜び、素直に拘束を解いた。
出会った当初からではあるが、この子はスキンシップが少しばかり過剰な部分がある。尚且つ裸になっても肌で触れ合おうとするなんて、貞操うんぬん以前の問題だった。
――族長さん、その辺ちゃんと教えたのかなあ?
本人に自覚は無いのだろうが、孫に甘そうな所もあったし、今に至るまで性関連はまともに教えてもらっていないのかもしれない。それとも、獣人の子供は皆これがデフォなのだろうか。
なるべく平静でいられるよう深呼吸しつつ、勇士は身を縮こませる。女の子の裸がすぐそこにあるという理由もあるが、逆に勇士も異性に裸なんて見せた事がなかったので、二つの意味で緊張を禁じ得なかった。
そうして、少しの間温泉に浸り続ける。こぽこぽと岩盤に備え付けられた竹筒から、どこかしらから引いてきた源泉が流れ込む。情緒豊かな光景が、荒波に揺れる心を静ませる。やはり温泉は偉大だ。
「ねぇユーシ」
「……ん?」
「気持ち良かった?」
「ぶっ!?」
早々に心をかき乱された。
「な、ななな何が!?」
「え? 何って、滝湯の事だよ。この近くにあるんだけど、まだ行ってないの?」
「あ、ああ。そっちか……」
てっきり別の話かと思っていた。肌とか膨らみかけの胸の感触とか。
「ううん、まだ行ってないよ。知らなかったしね」
「そっかー。じゃあまた後で一緒に行こうよ。すごく気持ちいいよ〜」
「へ、へぇ……」
滝湯に向かうという事は、すなわち互いに肌を晒しあう事に他ならないのだが、この子は分かっていて提案しているのだろうか。言動がいちいち天然爆弾なので、どうにも推し量れない。まあ多分、天然なんだろうけども。
何であれ、さすがにそれはまずい。なので、
「考えとくよ……」
と濁しておいた。適当に場を誤魔化しておいて、隙を見て温泉から出る作戦である。
「うん。行けたら行こうねー」
日本だと遠回しの拒否として使われる言葉が、ミウのように嬉々とした口調で言われると、行かざるを得ない心境にさせてくる。計算でやっているとしたら大したものだ。
「ユーシ」
「…………何?」
今度はどんな風に惑わしてくるのかと、心持ち恐々としていると、
「改めて、ありがとね」
と、ミウが照れたように声質を柔らかくして礼を口にした。
「見ず知らずの――人間でもないウチを助けてくれて、すごく嬉しかった。ユーシにはとても感謝してる」
真摯に謝礼されて、勇士は無言で俯いた。唐突な感謝が妙に面映く、むず痒い。
「ウチ、人間ってもっと嫌な奴かと思ってたよ。今は全然だけど、昔は獣人を捕まえて、見世物にされた時期もあるって、ジジ様とか周りのみんなが言ってたから」
だからか。やたらと獣人達が勇士を敵視していたのは。てっきりよそ者だという理由だけで避けられていると思い込んでいた。そういった意味では、ランドは既に過去の出来事と割り切っているのかもしれない。
「でも本当は違ってたんだね。ユーシみたいな人間もいるって分かって、外の世界も悪くないのかなって思っちゃった。今は、村から離れる気なんて全然ないけど」
「……『今は』って、昔は思っていたりしたの?」
「うーん。まあウチもイマドキのワカモノだかんねー。外の世界に憧れたりしたもんです」
本心を語るのが気恥ずかしいのか、ミウは砕けた口調で言って、水面をパシャパシャと叩き始めた。
「でも、結局行けなかったけどね。お母さんが心配だったし」
お母さん――たしかカノといういかにも病弱な人か。
「族長さんから聞いたんだけど、体が悪いんだっけ?」
「うん。昔からそんなに良くなかったらしいんだけど、ウチを産んでから余計に体を壊しちゃったみたい」
ランドも同じ説明をしていた。しかも日に日に衰弱しているらしく、状態はおよそ芳しくないとも。
「お医者さんからもね、あんまり長くないって言われちゃった。お医者さんですらお手上げなんだもん。ウチにできる事なんて、せめてお母さんのそばにいるぐらいだよ」
不意に水音が止む。勇士の前では気丈に振る舞っているが、胸中で暗い影が差しているに違いない。
まだ小さな女の子だ。母親にだって甘えたい盛りでもある。そんなミウが悲哀を堪えて必死に笑みを浮かべる様が、たまらなく切なかった。
「だったら、尚更なんであの森にいたの? 遊びに行ってたという風じゃなかったし、聞いた話じゃあ夜遅くまで帰ってこない時もあるんでしょ?」
「………………」
ミウは口を噤んだ。母親に心配を掛けるもんじゃないとオブラートに包んで言ったつもりだったが、お節介だったろうか。
気まずい思いをしつつも、ミウからの返答を辛抱強く待つ。
ややあって、
「……探し物をしてたんだよ」
と、ミウは神妙な口振りで再び声を発した。
探し物? とオウム返しに訊ね返す勇士。
あんな樹海に――それも何日も掛けて見つからないほどの代物なんて、よほど珍しい何かなのだろうか。
「百薬草――それがウチの探してる物なんだ」
「ひゃくやくそう……?」
耳慣れない名前だった。語感からして植物だろうと想像が付くが、やはり姿形が思い浮かばない――まったくもって初耳だった。
「それがあれば、お母さんの病気も治るの?」
「多分。どんな病にも効く万能薬だってジジ様に聞いた事があるんだ。でももう何十年も生えているのを見てないって話してたから、ひょっとするとどこにも生えてないかもしんない」
「そ、か……」
心なし気落ちしたようなミウの語調に、勇士は相槌を打つぐらいしかできなかった。既に絶滅種になっているのだとしたら――その先に待つのは残酷な結果だけ。
きっとあるよ。絶対に見つかるよと気休めにしかならない言葉が、頭に過っては泡となって消える。
口にするだけなら簡単だ。無責任に希望を見せるのは容易だ。が、きっとミウはそんな不確かなものは望んでいない。ミウが欲するのは、母親と末長く平穏に過ごす幸せな未来だけ。
だから――
「ミウ」
と。
背後で悲しみに満ちた表情でいるであろうミウに、勇士は意を決して己の本心をぶつけた。
「もしその百薬草というのが見つかってさ、お母さんも元気になったら、ぼくと一緒に冒険しようよ」
「冒険…………?」
「うん。いつかこの森から出てさ――あ、その時はぼくの友達も一緒にね。それで三人で世界中を回ろうよ。ぼくもそんなに詳しいわけじゃないから何かと大変かもしれないけどもさ。色んな場所に行って、色んな美味しい物をいっぱい食べてさ、色んな綺麗な景色を見て回ろうよ。きっとすごく楽しいよ」
ミウは、しばらく無言で勇士の話に耳を傾けていた。
話し終えた後も、静寂とした時間が流れた。夜空に浮かぶ満天の星々が、瞬きを止めずにその輝きを誇る。
「ユーシ」
と。
不意に届いたミウの声が、やおら近くに感じられた。
何故だろうと訝しむ暇もなく、
ピタッ――
と、肌が重なる感触がした。
「みみみミウ!? 何して……!」
「ダメだなあユーシは。そういう時は二人でって言うもんだよ。ユーシは女心が分かってないんだから」
慌てふためく勇士とは反面、ミウはいけしゃあしゃあと――どこか小馬鹿にしているようなニュアンスでそう進言した。骨格の感触からして背中同士でくっついているのは分かるが、それでもミウの柔肌が勇士の背中に吸い付き、全身がかあっと熱くなる。どれだけ男心を惑わせば気が済むんだ、この天然爆弾は。
距離を取ろうにも端に寄り過ぎたせいか、勇士の目の前には岩盤で遮られた地面しかない。逃げ場などもはやなかった。
「ユーシは優しいね」
生殺しのような体勢で、早く温泉から出てくれないかなと心中で懇願していると、ミウが囁くような儚い語勢でふと言葉を零した。
「泣きたくなるくらい――優しいね」
その声は、微かに涙で濡れていて。
勇士はただ、震える彼女に黙って背中を貸し続けた。
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