06
どうやら誤解は解けたらしい。
しかし誤解が誤解だと判明したらそれで終わりとしてやるほど幸は、この兄弟に優しくはなかった。
ゆっくりと首を傾げて、兄弟に質問する。
「――で? 今日で退院する人間に植木鉢を送ってはいけないという風習はあるのか? どこの国の、どの地域の風習だ? 俺が知らない事なのだろう? 教えてくれないか、恵」
恵の目がさっとそれる。返ってきたのは泣き言だった。
「だ、だってよぉ。お、お前が植木鉢なんて珍しいし、清史も動揺するし、てっきり俺はそういう事なんじゃないかと、お、思ってだな……、」
恐らく思考回路をフルに稼動させて、辻褄の合う言い訳を製造している最中なのだろう。ここがエレベーターの中でなければ、すぐさま言い訳を放棄して逃走を図っていたに違いない。
「じゃあ、俺の言っている事が正論なのは認めるな?」聞くと、恵はおずおず頭を打つ。「俺がお前に怒鳴られたのは、お前の勝手な思い込みからで俺はまったく悪くない。そういう事だな?」と重ねて問うと、また頷く。
「わ、……悪かった」と、小さく聞き取りづらいながらも恵が謝る。
その謝罪に幸がため息をつくと、先手を打つように別のところからも謝罪が入った。
「悪い、幸」
目をやると清史も申し訳なさそうにしていた。「まさかお前が花を退院祝いにくれるとは思ってなかったんだ。嬉しかったんだが、それ以上に驚いた。いつものお前なら絶対にしなさそうな事だったから」
「――……それで、あんな反応をしたのか?」
嘘ではないかと、思った。
植木鉢を差し出した時の反応は、単純に驚いて虚を突かれたようではなかったからだ。幸が植木鉢を贈ろうとした事よりも、そもそも植木鉢を手渡す相手が自分である事に動揺し、どんな顔をしたらいいのか分からずに助けを求めているように見えた。
「悪かった。お前が気分を悪くしても仕方ない」
改めてそういうと、清史は手をゆっくりと差し出してきた。
「それ、俺にくれるんだろう?」と、訊ねてくる清史の声が不安げに聞こえたのは気のせいなのだろうか。
まるで清史の態度は、幸がこの植木鉢を贈る相手が他にいるのだと言っているようだった。
幸は植木鉢をやや乱暴に突き出すと清史に押し付けた。
「お前以外に贈る相手がいると思っているのか? 花なんて、母の日に祐子さんに贈った事ぐらいしかないんだぞ」
腹を立てているのだと自分に自覚させようとする強い口調で言う。
清史は小さく唇の端をゆるめて微笑んだ。
「そうか」どこかほぅっと肩の力を抜くように呟いて、植木鉢を腕に抱えた。「俺以外に贈る相手なんていないか」
幸は眉をひそめる。「……、清史?」
さっき感じたままになっていた違和感がここでまた、胸の奥をちりりと焦がしはじめた。言葉に出来ない不安が、何か根本的な勘違いを自分がしているような気分にさせるのだ。
エレベーターが停止する。合図のベルと共に、扉が開いた。一階の通路に降りる。
「一応言っておくが、ここは病院だからな。ふたりとも」
清史はふたりを交互に見遣り、眉をひそめると困った顔で微笑んだ。「もう言い争いはするなよ。病院内では静かにする事、義母さんがよく言っていただろう?」
「分かってるよ」と、恵は大きく頷く。
その会話はいつもと清史と恵のそれだ。
「義母さんは怖いからなぁ。なんつぅか条件反射だよ、条件反射。病院内でさ、他の患者がいるのに馬鹿騒ぎなんて出来ねェって。なぁ? 幸」
求められた同意に、幸は咄嗟に頷けなかった。
清史の様子がおかしいとは思わないのか? と、かわりに聞きそうになっていたからだ。
ぐっと口から出てそうになった質問を飲み込んで出来た幸の渋面に、恵が不機嫌そうな顔をする。
「なんだよ、返事ぐらいしろって」
「だからそこで喧嘩腰になるなって言ってるんだ」
呆れがちに嘆息をつくと、清史は幸を見た。
「そうだ、幸」
「……なんだ?」
ふと何かを思い出したような口調の清史に尋ねると、彼はぎこちなく笑った。
その表情には違和感を感じなかったものの、別の意味で幸は少し顔をしかめた。この平常心を取り繕いきれずに引き攣った笑みを清史が浮かべてみせた時は大抵、幸が唖然とするような事を言い出す前触れなのだ。
小さい頃からそうだったし、好きだと告白された時の前置きもこの笑顔だった。
「お前に話したいことがあるんだ。今から中庭に行かないか? ここの中庭はちょっとした公園のようになっていてな、話をするにはちょうどいい場所なんだ」
「ここでは駄目なのか?」
駄目なのだろうな。と思いながらも質問する。案の定、首を横に振る清史に、仕方ないと息をついて頷く。
「……分かった。聞いてやる」
「ありがとう。こっちだ」と、ロビーとは違う方向へ清史は歩き出す。
しかし数歩歩いてすぐに立ち止まり、振り返った。
一緒についてこようとしている恵に目をやり、かちあった視線に目を丸くさせた彼へ申し訳なそうな苦笑いをむける。
「悪い、恵。幸と二人きりで話がしたいんだ。先に家に帰っておいてくれないか?」
恵は目を大きく瞬かせてから、頬を膨らませて唇を尖らせた。
「えぇぇぇ。なんで俺が行ったら駄目なんだよ。理由を言え、理由を」
「察しろ、馬鹿」
清史が苦笑いに多少の呆れを混ぜて言う。
しかしそう言われて気づける人間なら、そもそも幸が来た時点で立ち去るぐらいの事はするだろう。その点の恵の鈍さは相変わらずで、容貌には不似合いすぎる純真無垢な目で首を傾げた。
「へ? 察するって?」
この態度も幸と清史の関係を知らないなら仕方ないと言えるが、生憎家族へのカミングアウトはとっくの昔に済ませている。
それでこの様子なら、どんな言葉を尽くしても無駄だろう。
「中庭はどこにあるんだ?」
恵の事は放っておこう。そういう意味も込めて清史に目をやり訊ねると、彼は頷いて顎で廊下の先をさした。
「この先だ」言って、ふたたび歩き出す。
後を追いかけようと歩き出しかけたところで、「おいおいー、一人で帰れって言うのかよー。せっかく、清史も幸もいるっていうのになんで俺一人だけで帰らなくちゃなんねェだよぉ」
寂しげな恵の声が背中にぶつかってくる。
振り返ると文字通り、眉根を下げた恵がこっちを見ていた。
まるで学校の登下校で帰る友達がいなくてとぼとぼと下を向いて歩いている子供のようだった。
別に一人で帰るなら帰るなりに気が楽じゃないかと考える幸にはいまいちよく分からない感情だ。が、恵がそのまっとうな社会人には見えない外見の割りに、一人を嫌う性格なのはよく知っている。小学校や中学校、高校でも、クラスが違うのにわざわざ昼休みに弁当を持って幸を呼びに来る事が多々あったからだ。
「そんなに長い話にはならないだろうから、ロビーで待っていたらどうだ? 中庭に寄ろうが帰るには結局、ロビーを通るからな」
いつもならこの手のフォローは清史が抜かりなくしている事だ。寂しがり屋の恵を放っておくなんて滅多にしない。
また清史らしくない事をしている。
幸は目を細め、「なぁ。恵」先を歩いている清史に聞かれないよう、声をひそめた。
「清史がいつもと少し違う気がするんだが。お前はどう思う?」
「えッ!」と、恵が突拍子のない声を出す。
静かな病院内のどこまでも響き渡りそうな声で、思わず聞いた幸自身驚いてしまった。
「ッ、おい! 大声を出すなッ!」ぎりぎりまで声を小さくした分だけ鋭さと剣呑さを上乗せして、唖然と表情を固まらせている恵を叱る。
恵はぎこちなく瞼を動かした。
「え、あぁ。……わりぃ」こっちも声を小さくさせて謝ってから、唇を尖らせる。理不尽な事で叱られて反論しようとする子供みたいな顔だった。
「で、でもさ。お前が変な事を言うからだろう? ……清史がいつもと違うってどう違うんだよ、俺にはさっぱり分かんねェけどさ」
「いつもと少し、反応が違う」呟いて、首を捻り後ろを見遣った。
さっきの恵の声、あるいはなかなか追いついてこない幸に気づいて戻ってきてはいないかと不安になったからだ。
廊下に清史の姿がない事に一息ついてから、恵に改めて向き直る。
「なんというか、それほど劇的じゃない。でも違うんだ。違和感がある」
「そりゃぁ」前置きするように呟いて、数秒黙り込み、恵は首を傾げた。考えあぐねているように舌先で唇を舐めてから、喋りはじめる。
「入院してたんだぜ? 一ヶ月も。その間、お前一回も見舞いに来なかったんだろう? 久し振りに会いすぎて、清史は清史でどんな反応をしたらいいのか分かんなくなってんだろうし、お前はお前でちっとばかり清史の事を忘れてんじゃねェの?」
「そんな事……、」ない、と心の中では思った。検査局の仕事が忙しくなれば、一ヶ月ぐらい会わないのはざらなのだ。でも、そういう事情の後に顔を合わせてみても今回のような気持ちになった事はなかった。
恵はわざとらしく咳払いすると、胸の前で腕組みする。
「まぁ、さ。別にいいじゃん。これから二人っきりで語らうんだろう? そういう誤解とかさ疑念とか、全部話してすっきりさせてくりゃぁいいじゃねェか。俺はひとりで超寂しくロビーで待ってなきゃなんねェわけだけどな! ……あ」
ふいに恵は目を瞬かせた。途端、唐突に今まで腑に落ちなかった事がすとんと解消されてすっきりした顔をする。音が鳴りそうなぐらいはっきりと瞼を上下させてから、恵は笑った。
「あ。そうかそうか、そういう事かぁ」
その下卑な笑みから何を想像しているかは明白すぎて、幸は眉間に皺を寄せる。
「おい、恵」
「いいじゃんいいじゃん」と、恵はしきりに頷く。
そうして右手で顎の髭を撫でながら、嫌らしく頬をたるませてにやついた。「ここの病院の中庭ってさ、結構死角が多いんだよなぁ。ほら、夜の公園といえば、暗がりに浮かび上がる外灯と茂みのアベックだろう? なんかここもそういう雰囲気があるわけだよ。まぁ、実際はそんな夜遅くまで病院自体やってないけど、雰囲気としては申し分、」
恵の話をこれ以上聞くつもりはなかった。
話を遮るつもりで思い切り恵の頭を手のひらではたく。
「痛ッ!」と、本当に痛いのか、ただ幸への抗議のつもりなのかはっきりとしない声をあげて、はたかれた場所を押さえた彼に、「病院をなんだと思っているんだ、お前は。それに、清史はそんな事を考える馬鹿じゃない」強く睨みつけてから、幸は背を向けた。
「とにかくお前はロビーで待っていろ。病院が閉まるまでには話も終わるだろうから」
歩き出す幸の背に、恵の情けない声がかけられる。
「おいおい、病院が閉まるまでって、どんだけ長話する気なんだよぉ?」
「さあな。清史に聞いてみないとさすがに分からないな」
「ロビーで一人で待ってるって暇すぎるだろぉ。なぁ、幸!」
後ろからよこされる恵の捨て犬のような声に、幸は聞こえない振りを決めこんだ。