01
偽物の立体画像の空を頭上に見上げる、月コロニーのひとつでもある月読市では、天気予報は「予報」ではなく「通知」だ。
ある日のある時間に雨が降る。と、テレビが言えば必ずその日その時間に雨が降る。
だから地球から離れたこの場所に住み慣れた者達は、テレビが「雨が降ります」と告げた日には当たり前に傘を持って外に出、ぱらぱらと降り出しはじめると予定調和のような淡々とした動作で傘を広げるのだ。
この都市では、雨に打たれながら慌てた足取りで路地を駆ける人間はほとんど見かけない。もし見かけたとしても、向けられる視線は呆れ交じりの珍しいものを眺めるようなものだ。
そして、その珍しくも間抜けな光景が、月読市北ブロックの宇宙港周辺に連なる倉庫群の一角にあった。
何十もの倉庫群が立ち並び、どこの路地も没個性すぎて同じものに見える迷路じみたその場所で、追いかけられている男が一人、追いかけている男も一人。
どちらも通知通りに降り出した雨に気を遣う余裕もなく、すっかりずぶ濡れになりながら駆けている。
互いの距離は精々五メートルほどで、追いかけている男――亜勝木幸からすれば、追いかけられている男がでたらめに道を選んでいるのは明白だった。あらかじめ記憶しておいた倉庫群の上空写真を脳裏に広げてみると、男の選ぶ道は倉庫群の外へ逃げ出そうとしているものではなく、かといって特定のどこかに行こうとしているようでもない。単純に、自分を追いかけてくる幸を撒きたいがため、無闇やたらに角を曲がっているといった感じだ。
短く、幸は息を吐き出す。唇を湿らせる雨水を舐める。
男が逃げ出してから何度目かになる角を、また曲がろうとした時だった。
空気の抜けるような音がして、瞬間、男の鼻のてっぺんぎりぎりの高さで、すぐ傍に建つ黒ずんだ灰色の倉庫の壁の一箇所が砕けた。
壁に円形の小さな穴が穿たれ、その穴の周囲にも細かな亀裂が走り、亀裂の一部が剥がれ、ぱらぱらと脆く落ちていった。男は文字通り身体を飛び退かせると、角を曲がらずに直進する。
その様子を見る幸も右手に握る薄く硝煙を立ち上らせる銃口を下ろして、追跡を続行した。
雨に止む気配はない。
夕方になるまでバケツをひっくり返したような雨が降るでしょう。そう今朝見たニュース番組で言っていたのを、なんとなしに思い出す。
走り過ぎる視界の端に、雨のせいで早々に点灯する事にしたらしい街路灯が映った。
月詠市のシンボルだからという安直な理由から月をモチーフにした照明デザインにこっそりと取り付けられている小型監視カメラのレンズが、幸にピントを合わせる。少しだけ速度を落とし、ちらりとだけ目をやった。
小さく顎を、直進し少し遠ざかった男へとやる。
監視カメラの向こう側にいるだろう存在には、これだけで十分だった。後、一分もしないうちに合流してくるはずだ。
そうしているうち男の背が、次の曲がり角の奥へと消える。
脳裏に広げたままの写真を思い出せば、慌てる必要もなかった。
やや遅れて同じ路地の角を幸が水溜りを靴先で跳ね上げて曲がると、男はまだその路地にいた。いや、その場から逃げ出す事が出来ないでいたというべきか。
同じデザインの倉庫が両脇にそびえる狭い路地を無造作に塞ぐ形で、赤錆だらけで本当の色なんて分からないドラム缶が一つ、二つ、十、二十と、男の背よりも高く、倍以上高く積み上げられていたからだ。
それを顎を持ち上げて見上げる男の顔は、幸からは見えない。しかしいきなり逃げ道を失って唖然と棒立ちしているのは伝わってくる。
上空写真からでも確認できたその不法廃棄物の山は、人一人が勢い任せによじ登って向こう側にたどり着けそうな簡単な障害物ではなかった。
幸は右手に持っていたオートマチック拳銃を両手で構えて、焦点を男の背に据えてから口を開く。
「そろそろ逃げるのはやめて投降しろ。抵抗しなければ危害を加える事はしない」
ある意味お決まりで、ようするに抵抗するならこっちも本気だと暗に脅している台詞である。
「両手を頭の高さにまで上げて、こっちを向け」
幸の指示に、男は半分従って半分は逆らった。
つまりドラム缶を見上げていた顎を引くと、両手はあげずにジーンズのポケットに差し込んで、くるりと身体の正面を幸のほうへ向けたのだった。
表面上は観念したようであっても芯にある反抗心を捨てる気はない。そんな不遜な目で幸を睨みつけてきた。
眉間に皺を寄せ、男にもはっきりと理解できるように幸は、拳銃の引き金にかける人差し指に力を込める。「三度は言わない。両手をあげろ。でなければ、撃つ」
警告に対する返事は、不意の笑い声だった。
男が唐突に喉を鳴らして嗤ったのだ。袋小路に追い込まれて自棄を起こしているのとは違う、明らかに幸を見下しての笑みだった。
「撃てるのかよ、あんたに。……撃てないだろ?」
「腕前はついさっき、披露したはずだが?」
ここに押し込められる道中に何度も自分の鼻先ぎりぎりを撃ち抜かれているにもかかわらず、男の嘲笑は止まらない。
それは幸が男に向けている武器であるオートマチック拳銃が50年来の遺物であるからだけではないのだろう。男の口調は問いかけの形を保ちながらも、確信めいたものに変わっていた。
「撃てないんだろ? というより、あてられないのか」
撃つにしても殺すのはまずい。と、銃口を男の胸元から脇腹へと滑らせた幸の動作をまったく違うものとして思い込んだようだった。
自分の勝ちを勘違いして一歩前に踏み出し、男は嗤い続ける。「腕前は確かにお見事だったけどな。命中できるなら、さっきの壁に穴開けた弾、俺にあてられたもんなぁ? なのにあてなかったって事は、あんたは俺に弾をあてられないんだ。――あんたの顔見て確信した。あんたは俺に危害を加えられないんだろう?」
両足を少し広げ、幸は呼吸を数える。
「――……、何が言いたいんだ?」経験上分かり切っている答えをあえて聞き返した。
嗤ったまま、男はまた一歩近づいてくる。
いくら世間一般ではレーザー銃が主流とはいえ、近づけば近づくほど実弾の命中率が上がるのを知らないわけではないだろう。それでも男は他愛なく踏み込んできた、幸が絶対に銃弾を外さないと確信が持てる距離をあっけなく縮めてくる。
「単なる時間稼ぎなんだろう? あんたらはご主人様の指示がないと、俺達人間様に不利益な事は出来ないってなってるから。でもさ、そんないかにもお綺麗で作り物っぽい顔してたらさ、余裕で逃げられるんじゃないの? 奉仕する人間の傍にいないと、何の役にも立たないんだからさ。あんた達、アンドロイ、」
二メートル手前まで近づいてくれば、もうこれ以上は男の無駄話を聞いてやる義理もなかった。
幸は引き金を引いた。
撃鉄が落ち、火薬が点火されて銃弾が発射される。反動が骨にまで伝わり、両腕が数センチ跳ね上がる。ひゅん、と息を吸い込むような音がした。直後、弾が命中したのは、男の右の脇腹で、次の瞬間には派手に血が舞い散った。その血は雨に濡れるアスファルトに飛び散り、降りしきる雨にあっという間に拭い消される。じわりと男の着るシャツの右側が下方からゆっくりと赤く染まり広がっていく。
男はまだ笑みの余韻が残った顔をぽかんとさせると、ジーンズのポケットから出した右手のひらで脇腹を押さえ、そうしてふらりとよろめき、濡れるアスファルトの地面に尻餅をついた。
いきなり正面から見えない力に突き飛ばされたかのように、訳が分からず、笑っているのか途方に暮れているのか、複雑そうな顔で目を大きく瞬かせる。
その目前に、今度は幸が距離を詰めて銃口を突きつけた。硝煙が男の鼻先をゆらゆらと撫でた。
男の眼が見る間にこわばり、引き攣る。
自身の致命的な思い込みに、脇腹から発せられる痛みで、鼻先から入り込んでくる硝煙で、思い知ったのだろう。
アンドロイドだから、攻撃できるはずがない。
確かに機械であるアンドロイドは主人からユーザー権限で許可を受けなければ、いかなる人間であっても危害を加えられない。これはアンドロイドが人間社会で役割を与えられるうえで定められた決まり事だ。
「誰がアンドロイドだと?」
人である幸は、冷淡な声で応える。
「お前の罪状は密輸入だ。月読市において「番号なし」の密売、密輸入、密輸出は死刑以外ありえない。いまここで、首を括って穴に落とされる代わりに俺が撃ち殺しても、死ぬ事には変わりがない。ただし、苦しまずに死なせられるかは分からないが」