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9/18

日常生活

日にちが過ぎるのはあっという間だった。

ピロリンピック出場権争奪戦の開催は明日となった。試合前日は体調を整えるため軽めの練習メニューを昇華した後、早めに就寝することになっていた。

道場トレーニングルームに併設された寮の一室で、1000とLKはいた。壁にかかった薄型画面を前にしている。時刻は00時近い。深夜だった。

狭い室内は、じゅうたんの上に座卓ローテーブルとクッションでいっぱいだった。キッチンと風呂トイレは共同だった。

1000は携帯端末の画面でニュースを読んだり、最新のPV(音楽と映像)を視聴したりと落ち着かなかった。

一方、LKは無心に壁の画面スクリーンを見つめている。放送局から配信される番組を映していた。料理情報番組(pakupaku)を放映している。

1000はLKに話しかけた。

「“ネヘネヘロア”せんので?」

「あうん」

画面を注視するLKから生返事がきこえた。あつぼったい桃色の唇が半開きになっていた。

「……ちょっとまってて。もうすぐだから……あれ?」

「どないしたんで」

番組が途中で停止した。画面の端にテロップが流れる。


――本日、都心で建物が爆発。死傷者100人超か


画面が料理番組からニュース番組に切り替わった。

騒然とした映像が画面に映る。マグマでできた内臓のような炎と煙の塊が空へと伸び上がっていた。

「なんで?」

LKは若干物憂げに答える。

「ニュース。爆発だってさ」

「え~こわい~。どこであったんじょ」

画面に流れる配信ニュースに1000は釘付けになった。

「都心だって」

LKはもはや画面に興味を失ったようだった。両手を高くあげて背中を反らす。1000の方へ振り向いた。

「じゃ、はじめよっか」

こころなしか、LKのほおが上気していた。目がつややかに潤んでいる。

ニュース番組から目を離して1000は言う。

「あ、その前に」

「そうだった、時間ちょっとすぎてるし。冷蔵庫行ってくる」

LKは部屋を出た。

1000はタンスの引き出しを開けた。薬液が充填されている細い容器カートリッジがつまっていた。数種類の容器をつまみあげてテーブルに並べる。さらにその横にいくつかのずんぐりしたガラス瓶を置いた。

LKが戻ってきた。両腕に透明な袋をいくつもかかえている。点滴に使用する合成樹脂製のバッグだった。

「つめたーい」

「机においてええじょ」

LKはぞんざいに荷物を下ろした。

テーブルの上はいろとりどりの薬液に満たされたバッグボトル円筒カートリッジ、注射器とカートリッジが一体になった装置キットでいっぱいになった。その隙間には数十粒の錠剤がちりばめられている。

自分専用の自動注射器インジェクションを手にとった。太い油性マジックのような大きさの物体で、キャップをはずすと先端には注射針が輝いている。反対側からカートリッジを差し込み、胴体にあるスイッチを押すと自動でカートリッジ内部の薬液が注射される仕組みだった。ひとりで自分自身に注射する必要がある患者が主に使用する医療器具だった。

二人はカートリッジを注射器に装填する。透明なプラスチック容器の中で液体が揺れた。お互いに注射器を交換した。

「じゃ、1000からやってあげる」

「ありがとう」

ごろりとじゅうたんの上にうつぶせになる。服をずらしてお尻を半分出した。腕を組み、あごを乗せた。眠るように目を閉じる。

脱脂綿でLKは丸く盛り上がった肌の一部分をこする。脱脂綿には麻酔と消毒薬を混合した薬剤をしみこませてあった。体に穴を開ける(ピアッシング)する際に使用する市販の薬剤を転用していた。注射針が皮膚の下にもぐりこむ。

針が肉をつらぬく感触がわずかに伝わってくる。痛みは無かった。

「大丈夫? 痛くない?」

LKが訊ねる。1000は目を閉じたまま答えた。

「ん……平気じょ」

注射器のボタンを押す。筋繊維補強薬ピピノールが一定の速度で体内に注入される。液体の水面が静かに下降する。容器が空になると同時に、注射器が音声を発する。


――処置が完了しました。使用した針は交換が必要です。

必ず取り外してください。傷口は、絆創膏などで保護して

ください。お疲れ様でした。


「じゃ、次はわいがするけん」

LKはふざけたような調子で言った。

「痛くしないでね」

「まかしとき」

注射する場所を慎重に選ぶ。前回と同じ部分に繰り返し針をつきたてるとあざが残りやすくなる。注射痕は数日間残る。充血して赤くなった場所を避け、新しい場所を見つけて消毒する。そっと針を刺した。

LKは無言だった。

肉体の怪我には動揺を見せない。その延長で、注射など平気なのかもしれなかった。化粧メイクや服装のような外見に人一倍気を使っているようだが、一方で怪我などには無頓着な反応を見せることも多々あった。痛みには神経質な1000には全く理解しがたい。

注射が終わった。

筋繊維補強薬ピピノールは筋肉の弾力や強度を飛躍的に増進し、体積は変化せずに発揮する力のみを強化する。スリムな体形スタイルを保ちつつボディビルダーをはるかに凌駕する筋力をもたらす画期的な薬だった。

自動注射器の針をはずし、うすい緑色に着色されたうすいポリエチレンの袋に入れる。あとで各戸に設置されたゴミ収集箱ダストボックスに投入するのだった。ごみ収集箱が袋の色によって自動でごみ内容を分別し、圧縮・粉砕など適切な処理を行う。

次は、薬の容器が注射器と結合した小ぶりのキットだった。キャップをはずし、あらわれた細い針を腰に突き立てる。筒のスイッチを押すと、内容物をシリンダーが押し出してゆく。骨組織硬化剤チュチュトリノンを摂取した身体は強靭な骨格を得ることができ、また骨折の治癒速度が飛躍的に速まる。

「あーこれ、あとで痛くなっちゃうんだよね」

注射した部位をよくもみほぐしながらLKが顔をしかめる。1000も苦笑を浮かべた。

「ちゃんとマッサージしとかんといかんな」

体の中にたまったしこりを押したりつまんだりすると、ほどなく違和感は解消される。

ビニールの包装を、音を立てて破る。

透明なカテーテルを点滴のバッグにねじ込んだ。大小さまざまの柔らかいバッグおよびビン(ボトル)、合計四つにカテーテルをつなぐ。壁のフックにつぎつぎと点滴の容器を吊るす。カテーテルがぶらさがった。

腕に柔らかいゴムの管を巻いた。じんわりと縛った腕があたたかくなる。腕をまっすぐ伸ばした。ひじの裏に血管が青く浮いている。テーブルから袋入りの短い器具を1000とLKの、それぞれ四つずつに分けた。針とカテーテルの結合部品で構成された留置針だった。袋を破る。ふくれあがった静脈に、とがった先端を押し付けた。針を根元まで挿入する。赤い血がカテーテル結合部分にまで満ちた。鮮明な赤に変わった。

一本だけではなく、左右の腕に二本ずつ刺した。

「こっちもってくれんで」

「おっけー。っといいかな、これで」

関節の内側にとりついた留置針に妨げられ、腕を曲げることもっまならない。まっすぐ伸ばしたままクレーンのように手先を目的の場所まで誘導する。四苦八苦しながらカテーテルを全ての針にはめこんだ。点滴の栓をゆるめる。容器からカテーテルに、水滴が落ち始めた。

皮膚、筋肉、骨格の構成物質を耐久性のある物質に置換し、強靭な肉体をつくる総合肉体増強薬(セリアムノールSSs)、全身の細胞を賦活させ、新陳代謝を高める体組織賦活促進剤ベットボル、厖大な投薬に疲弊した血管、体組織を補修する細胞膜保護、強化剤モルビオックン、力や固さだけでなく柔軟さを補強するさらに別種の筋繊維補強薬イパニマロロン、これらをおよそ30分ていどかけて体内に流し込む。

二人は壁を背にしてじゅうたんに腰を下ろした。足を投げ出す。両腕につながった管が小さく揺れる。

「そういえばさぁ、こないだ考えた連携技の名前なんにする?」

LKが口を開いた。1000が神妙な顔付きで答える。

「ほうじゃな……はようわいらで決めとかんと勝手にJさんにつけられてしまうかもしれんけんな……“二人の女神”とかな!」

「そーだよ。それはマジ痛かったよね……まあ、有名になったら変えりゃ良いけどさ。でもまたダッサいのつけられたら、今度こそ取り返しつかないよ?……とりあえず、“ビューティーパワーアタック”」

1000は首をひねる。

「う~ん、あんまり英語ばっかりゆうんもな……“爆裂地獄落とし”とかどうで?」

LKは呆れた表情で1000を見る。

「わかりやすすぎなのは、ダサくなっちゃうよ。“ファッションスラッシャーキック”」

「しかし意味がわからんのんも……“恐怖蹂躪祭り”」

「てか、漢字から離れて欲しいんだけど? “コスメティックネイル突き”」

「よう知らんのに英語使いよるんもいけとらんじょ。“暴虐モンスターチョップ”」

「“爽快アトランティックピンク”」

「“ビッグサンダー火炎車”」

「……“超ぶっこわすルネッサンス”」

「……“うちらの素敵すぎ夢スープレックス”」

二人は黙り込んでしまった。

眉をひそめてLKがつぶやく。

「う~。意外にセンスまずいかも」

1000も同意する。

「ほんまじょ。わいら、言葉知らんけん」

LKはスクリーンに目をやった。

ニュース番組が流れている。騒然とした光景だった。かたい面持ちのレポーターがなにごとかをがなりたてている。背後では、黒い煙が建物から噴出していた。

「あれ、なんかひどいね。また爆弾だってさ」

「最近多い~。どこかわかるで?」

LKは視線入力オプティカルセンサーで画面を拡大ズームする。

「東京都庁……第一……ちょ、庁舎……が爆発したってさ。あ、これみたことある。新宿だよ」

「新宿? 東京の? 結構近いでえ!」

興奮した1000は大声を張り上げた。自分の住居から近い場所が公共の放送で話題になることは田舎ではまれだった。突然自分が公共放送に顔を出す有名人の一端に連なったような気分で1000ははしゃいだ。

一方、首都圏出身のためかLKは冷静だった。おざなりに相槌を打つ。

「本当だね」

彼女たちの住む道場は神奈川県、川崎市にあった。

1000の携帯端末にニュース速報が配信されてきた。画面の文字を読み上げる。

「また、あれじゃわ……K+カーマインヴィアソシエーション。“一票必殺(Kill to Vote)組合”じょ」

“KtVアソシエーション”とは、ここ数年ほど殺人事件や爆破事件をたびたび起こしている非合法組織の名称だった。政府からはテロ組織との認定を受けている。自らの犯す犯罪を彼ら自身は“選挙”と呼んでいた。

「あ~言ってるよ。あたり。すごーい、やるじゃん」

LKが1000を賞賛した。

アナウンサーが“K+Vアソシエーション”の犯行声明を読み上げている。

『近年において我が国は一層の貧困に陥り、大多数の善良な国民が生きるために自らの尊厳をさえ安価で売却せねばならない貧窮にあえいですでに十年が経過しようとしている。

こうした混迷する社会状況の中で今もっとも我が国を蝕んでいる病根は何か?

勝凱者たちの存在である!

彼らは自らの身体的特徴を逆手に取り、国にたかる寄生虫さながらわれらの血税を貪っているのだ。奴らは生まれながらの被害者を気取って国に税金を納めることなしに年金を受け取り、悠々自適の暮らしを送っていることは近年立て続けに出現した勇気ある謙譲者の告発でご存知のとおりである。

科学技術の発展に伴って発達した義肢や投薬により、いまや勝凱者は謙譲者とほぼ変わらない身体的、精神的能力を得ることができているにもかかわらず彼らは、遥かな昔に弱者保護の観点で成立した法律によって豊かな生活を保証されている。年間数万人の謙譲者が生活苦で自殺し続けているにもかかわらず、である!

さらに恐るべき事実を明らかにせねばならない。謙譲者が汗水をたらして働いている時間に彼らは何をしているのか?

驚くべきことに、それは暴力犯罪なのだ!

国からの補助金でタダ同然で貰い受けた義肢や薬物によって謙譲者以上の身体能力を得た勝凱者は、我々謙譲者たちに堂々と暴力を振るっているのだ。しかも過剰な暴力行為の結果、傷害、殺人を犯した奴等は法律をタテに精神病院に逃げ込み、たった半年程度のみそぎ期間を過ごすやすぐさま世間に戻っている!

そうした暴行、恐喝を陰で働く一方、弱者、被害者として善良な謙譲者から騙し取った寄付金を隠匿し、それを資金として合法的に利権団体を拡大している! まともに働いている国民から合法、非合法な手段で金銭を搾取し、虐待を加え、自らを組織化して一層の勢力の拡大を図るこの行為を国家への反逆といわずしてなんと呼ぶのか?

それだけではない!

さらにタテマエばかりの人権屋どもがその利権に群がり、いっそう事態を深刻化させている。以前より問題視されながら放置されてきた勝凱者事務所プロダクションなどはその極みである。事務所の経営者は勝凱者を法律から保護し、その見返りとして多額の報酬を受けているのである。

そして、勝凱者の利権団体から献金を受けている政党は結局、この問題を常に黙認している。いつも政策に勝凱者問題の解決が上げられながら、いざ政権をとると議員たちは誰もがかつて選挙の際に掲げた公約をすっかり忘れてしまい、“生残主義”などとうそぶき、利権団体と癒着して恥じない。これは有権者に対する明らかな裏切りである!

“生残主義”に染まりきった政府はすでに公約を実行する気も能力もない。彼らには国を運営する能力も資格もないとわれわれは判断した!

国内をむしばむ寄生虫と結託する人間はすなわち寄生虫の仲間であり、寄生虫の仲間であるということはもはや人間ではない。そして人間であるわれわれが人間ではないものを滅ぼしたとして適用される罪状はせいぜい器物損壊であり、殺人などの重犯罪は適用されない!

これが真の、本来なされるべき唯一の正当な政治である!

ゆえに我々は真の愛国者として現政府は正統な政府と認めない。我々が認めるのは万民に安寧をもたらす王道の政治であり、汚職に塗れた矮小な現政府では断じて無い!

よって我らは善良な一民間人として、独自の“選挙活動”を今後も続行してゆく所存である!

我々の正統政府の誕生が近い未来に到来せんことを切に望む!

“K+Vアソシエーション”』

生残主義サヴァイヴァリズムという用語は、近年顕著となった政治運動を指す造語だった。

慢性的な経済不況によって社会全体の貧困化が進んでいるなか、次第に主流となった思想だった。

生き残るためならば何をしてもよく、置かれた状況によって最適の行動をとるべきであり、臨機応変の対応による主義主張の変節は当然であるという主張だった。

生残主義においては、選挙時の公約と政権獲得後の政策が乖離していたり、政党が別でも掲げる政策がほとんど同じだったり、政党の離散集合したりする政治状況はむしろ環境への適応として推奨される。

こうした風潮を、“K+Vアソシエーション”と名乗る団体は、国民の意思を反映するはずの投票が形骸化させている元凶と断罪していた。

現行の政党政治システムが無効化している現状では、政治に国民が関わるには、政党を構成する議員とその家族、知り合いを殺傷するしかない。関係者の殺害によって、政策の実施を妨害することこそが真の投票であると主張していた。

もともと、“K+Vアソシエーション”とは、インターネット上に出現していた一般の発言者に過ぎなかった。それが徐々に賛同者を得て密かに組織化が行われていたらしい。資金源などほとんど明らかになっていない謎の組織だった。

げんなりしたようにLKは顔をしかめた。

「キモッ! 犯行声明だってさ、頭おかしいんじゃないの?

だいたい勝凱者ってJみたいな人たちでしょ。あたしたちも仲間と思われてんのかな~?」

1000はうんざりした。正直、テロの標的にされるのはいやだった。

「え~そんなん困る~」

「こわいこわい。30人死亡って、多すぎでしょ」

「ほんまに物騒でイヤじゃ~。なんとかならんので」

たびたび大規模な殺傷事件を繰り返す“K+Vアソシエーション”は、1000、LKを含む一般人からは凶悪な犯罪者集団とみなされ、忌み嫌われていた。

LKはチャンネルを次々と変えてゆく(ザッピングする)。

どこも爆弾テロの話題で持ちきりだった。

「こればっか。つまんないの」

1000は微笑んだ。

「もう終わるけん」

点滴の容器はいっせいに空になりつつあった。もっとも早い点滴にあわせて速度を調整しているのだった。LKは体を震わせた。

「やっばい。おしっこ行きたい」

投薬ドーピングの時には途中で小用をたしたくなることはわかりきったことだった。大量の点滴や注射によって体内の水分が過剰になり、尿として排出しようとするという原理だった。ドーピング前にきちんとトイレを済ませておかない計画性のないLKを1000は白い目で見た。

「がまんしない」

「だって。点滴で水分が急にたまったから」

LKは訴えた。部屋で漏らされでもしたらとんでもないことになる。そして以前練習中に勤勉薬の摂り過ぎで錯乱したことのあるLKならそれくらいやりかねない印象があった。1000はやけくそのように声をあげる。

「ああ~もう! 手、出しない」

無言でLKが腕を差し出す。肘の裏にはびっしりと点滴のカテーテルを接続した留置針が並んでいた。それぞれ長い針を皮膚の下に潜らせていた。すでに身をあずけきったような眼差しで1000を見つめている。腕をまっすぐに伸ばしたまま、1000は必死にLKの留置針を抜く。

「助かったぁ!」

LKは足音高く部屋を飛び出した。残された1000は憮然としながらひとりで針を取り去ろうと悪戦苦闘する。

このところ、サボったりなにか忘れ物をしたり寝坊したり沮喪をするLKのフォローを全て1000がするパターンにおちいっていた。そろそろ1000は爆発しそうな憤激を体内に溜め込んでいる。

しかしここで仲間割れしてはここ一ヶ月の訓練や投薬ドーピングが全て水泡に帰す。そうなっては家出した身の1000は実家に買えるほか無くなるのだった。それほど屈辱的なことはなかった。

1000はともすれば伸び上がり、その熱気で脳を沸騰させずにはいない怒りを腹部に強引に折りたたんだ。気持ちを目先の作業にかき集めて凝固させる。

じわじわと片腕を曲げ、指先をのばしてゆく。針の刺さっている場所にわずかに痛みを感じた。気のせいかもしれないほんのわずかな痛みだったが、湧き起こった恐怖によって全身が金縛りになった。凍りついた体が柔らかさを取り戻したのはしばらく後だった。

そうこうするうちLKが戻ってくる。ドアが勢いよく開いた。

ドアの音に1000は飛び上がらんばかりに驚いた。

「ごめんね!」

元気な声だった。不満げに1000は言った。

「びっくりしたあ~もうちっと静かにしてくれんで」

不自然に硬直した1000の姿を見ると、LKは申しわけなさそうな表情を浮かべる。

「とるの手伝う!」

1000のかたわらにしゃがみ、てきぱきと針を抜きにかかる。LKの腕が血で汚れていた。肌と針の接点に丸い赤い珠が見えた。

痛みへの嫌悪感で身の毛がよだつ。

「おまはん、血が出とるでぇ」

こともなげにLKは返事をする。

「うん。トイレ中にさ、勝手に出てた」

「止めんと。わいのはあとでええじょ」

「いいよ。あたし血とか出ても全然平気」

LKの言葉に1000は少し嫉妬を覚えた。


(認めたくないけど……わたしよりLKのほうがずっとパラレスに向いてるよね……

もともと仕事でレスリングをしてたわけだし……あやしい劇場ってのを差し引いても本番に慣れてるのは間違いないし。

練習でも運動神経いいし、Jさん相手の組み手にも平気な度胸あるし……でも、一番うらやましいのは、身長高て、メリハリある体型スタイルがすごく見映えするってこと。わたしなんか一緒に並んだら棒みたいなんだから……)


一瞬でも、自分より恵まれたLKを心配したことがバカバカしくなった。結局LKにされるがままに留置針をすべて抜いてもらう。

きちんの自分の傷口を止血してから、LKに脱脂綿を渡した。時間が経っていたのでLKの出血は止まっていることはわかっていた。LKの反感を買わないための単なるおためごかしに過ぎなかった。

LKは1000から脱脂綿をうけとった。満面笑顔になる。

「ありがとう」

1000は余計に気分がささくれだった。

まともにLKの顔を見ることができない。胸の中にふくれあがった不快な違和感をどうすることもできず、手持ちぶさたをもてあましてテーブルに散らばっている錠剤をかきよせる。

自分とLKの飲む分をよりわけた。ちょっとした宝石のような色とりどりの錠剤が二つの山をなした。

大き目で濃い紅色の楕円形は軟骨充填剤(ロボート8)の錠剤だった。苛酷な練習によって摩耗しがちな軟骨を補修する働きをもつ。常人は一日三回一錠を服用するところパラレスラーの1000とLKはおおむね十錠程度を服用している。

小指のツメていど丸みを帯びた白い粒の名称は血栓融解補助薬ニエムリノロンで、試合中に頻繁に起こる頭部への衝撃によって脳内に生じやすくなる血栓を融解する薬剤だった。日常的に投薬することで体質改善することも可能だった。これは練習がハードだった日、試合のあったときは多めに飲むが今日は練習のみだったので三錠でよかった。

やや平べったくつぶれている透明な玉は、脂肪燃焼促進剤ハードスクラムで、薬剤というよりもサプリメント(健康保険食品)に近い。摂取しすぎたカロリーが脂肪として蓄積されることを防止し、各個人で理想的な体型スタイルを保つためのものだった。必ずしも必須の薬物ではない為、服用量は個人にまかされていた。小柄でもともと細めの体型スタイルの1000は常人と同じく一日一錠。大柄で豊満なLKは体が大きいことをコンプレックスに感じているためか五、六錠服用していた。食後おなかが緩くなることが多いが根気よく続けている。

黒い点が散った黄色い円盤状の錠剤もサプリメントで一日に人体が必要とするミネラル、ビタミンを全て含んでいる。普通は一日一錠だが見かけによらず大食の二人は三食後、一日三回摂取していた。

これらすべての錠剤を経口摂取する。

一つ一つ飲んでいたのでは時間がかかるのでお菓子のようにいくつかを一度に口の中に投入し、ペットボトルの清涼飲料水で流し込む。その作業を数回繰り返すとテーブルは空になった。

1000はグチる。

「飲むときおおきい薬がのどにさわるんじょ……気持ち悪うでしかたがない。おえってなるわよ」

LKは1000にはとりあわず携えてきたかばん(ハンドバッグ)から化粧道具を出した。

「待望の“ネヘネヘロア”、やりますか」

「道具持ってきたんやな」

不機嫌は、化粧ボディメイクへの新しい期待によって消えた。LKは丸みを帯びたビンをテーブルに並べる。茶色い液体が半分ほど入っていた。

びんをながめていた1000は訊ねた。

「コレって何に使うんで?」

LKは愛想よく微笑んだ。

「あ、今日は使わない。でも昨日使った。肌を着色タンニングするの。あたしのって日焼けじゃないんだ。タンニングローション塗ってんの」

LKが見せる腕は、健康的な小麦色だった。つややかな光が張り付いている。

「今日はコレだよ」

銀色の小さな筒状のパッケージがLKの指先でゆれた。

インク・ケイク、と……」

手のひらより一回り小さい、丸い皿を見せる。

インク・ストーン

銀色の包装紙を破る。青いクレヨンに似た色鮮やかな物体が出現した。

小さなボトルを開け、白い硯に透明の液体を少量たらした。墨の一端を皿にこすりつける。

「こうやって、水に溶かすの。あ、水はとうぜんお肌にふれるものだからきちんとしたのを使ってね。あたしはポントレックス使ってる」

白色の皿の上で、じわりと青がにじんだ。さらにLKは墨で水をかき回し続ける。ほどなく液体は粘り気を帯びた。

「よし、これで」

小指がすっぽり入るくらいの透明なポリエチレンの袋をとりあげた。開いた口から、目にも彩な青い泥を流し込む。

LKは作業に集中していた。厚い唇が半ば開いている。皿のなかみを流し終え、袋の口をヘアピンのような器具で閉じる。わずかに白い煙が上がった。熱で融解させ、袋の口を閉じたのだった。

「こいつを……」

先が丸くなったハサミで、袋のとがった先端を少しだけ切り落とす。小さな穴が開いた。中身がわずかにはみ出し、半球形にもりあがった。

「あとは、中身をしぼるだけ。ケーキのクリームの要領でね」

1000は感心する一方で、経過を追うだけで疲れてしまった。

「けっこうめんどくさいんやな」

「てまひまを惜しんでちゃ、きれいになれないってね……じゃ、やってあげる」

道具を手にしたLKが1000に人懐っこい笑顔を向けた。

「ほんなら、頼むじょ」

「服脱いでね。全部」

胸を高鳴らせつつ1000は寝巻きを放り出す。

じゅうたんにあおむけになった。その上にLKがおおいかぶさる。いつのまにかLKも全裸だった。触れた肌の温度がなまあたたかい。

「なんでおまはんもはだかになっとるんで?」

これも“ネヘネヘロア”の技術かと考えた1000は素直に訊ねた。

「あたしもあとでするから。前もって脱いでんの」

「ほうで……あの、あんまりひっつかんでくれるで?」

LKは1000の上で、ほとんど掛け布団のようになっていた。困ったように身じろぎする。

「ちょっと部屋が狭くて……ところで、何の絵がいい?」

1000は意外な質問を受けた。考え込む。

「かわいらしいのがええな……花柄にしてくれるで? ちっちゃい花がいっぱい集まっとる感じの」

「おっけー」

LKは1000の胸元をじっと見下ろしていた。普段隠している場所を真剣な面持ちで注視され、1000のほおは紅潮する。

染料インクを満たしたチューブが、1000の胸元に降りてきた。そっと白い肌に触れた。1000はうなじをはいのぼるざわめきに体をこわばらせた。つい声が漏れる。

「うふっ」

とりつくろうように笑い声をあげる。

「こちょばい」

「ちょっとがまんしてね」

言いながら、LKの筆先は1000の薄い隆起をはいまわる。同時に最も敏感な頂点を生温かい刺激がつらぬいた。

「んんっ」

頭がのけぞった。体が溶けるような甘い感覚が伝わってくる。目をやるとLKが生真面目な顔で舌を突き出していた。1000のなめらかな皮膚のうえを舌先が濡らしている。

驚いた1000は抗議した。

「ちょ、なにやりよんな」

立ち上がろうとする1000の両肩をLKは素早く押さえ込む。真剣な顔付きで1000を諭した。

「少し湿らせたほうがインクのノリがいいんだよ。線がはっきりしてきれいなんだ。確かにくすぐったいと思うけど……ちょっとだけゴメンネ」

「ほうで。ほしたら、水で拭いたらええんとちがうで……?」

「水加減がむずかしいから」

有無を言わさずLKは続きをはじめる。

「み? 水かげ……んっ!」

1000は首を左右にふった。これまで味わったことのない温かさが体の上を這う。やさしく触れられているはずだが、激しい感覚がなんども体の芯を貫いた。

鼓動がはげしくなった。吐いた息が熱い。鮮烈な感覚に勝手に体が反応してしまう。体に力が入らなくなった。

「そうそういい感じ。じっとしてないと線が曲がっちゃうよ」

「わかったじょ……」

恥ずかしさのあまり消え入るような声しか出なかった。

目を輝かせたLKの顔が胸のかげに埋もれるように視界から消えた。皮膚を熱く濡れた感触が這う。突きあげる声をかみ殺して顔をそむけた。

LKの声が聞こえた。

「8のアナレンマの絵も入れていい?」

溶けるような吐息とともに1000はささやいた。

「空のみたいなん?」

体に力がはいらないせいではっきりした声が出なかった。咳払いする。

1000は自分のみぞおちの辺りからLKの声を聞いた。

「そう。あたし好きなんだよね」

吹きかかる息が肌を撫でた。背中へ戦慄が走る。気を紛らわせようと話を続けた。

「わいも好きじゃ。子供のころから外出たらしょっちゅう見よったなあ。雲で見えん日はさみしいんじょ」

突然、LKの顔が1000のそばに迫った。LKは感極まったような声音をあげる。

「そう! そうなんだよ。あたしも大好き。子供のときは空見すぎで知恵遅れだと思われてたくらい」

1000は思わず吹き出していた。

「ほんまで? そんな見よったってどんなんじょ」

「外でお遊戯するときは、ぽかーんってすわりこんでたらしい。そりゃバカだよね」

LKは鼻で笑った。

「かわいい子供でえ」

1000の言葉にLKは照れたように目を伏せる。

「なんか、心のよりどころみたいに思ってたんだよね。アナレンマは、ずっと変わらずに空にいたから。場所や見た目がちょこちょこあっちこっちしないで、ずっと同じだからね。あたしがどこにいてもいつも同じだったってゆう」

「……ほうで」

1000はLKをじっと見つめる。

LKのほおが赤くなった。こびるような上目遣いを1000に向ける。

「あたしもそーゆーのが自分の中に欲しい、今日この頃」

1000は小さく笑った。ふと口をついて言葉が出る。

「わいはな、アナレンマになりたいんじょ。あれみたいにじーっとおんなじでおりたいん。百年でも千年でもな」

「あたしたち、きっとすごく気があうんじゃないかな」

LKは真剣な顔で言った。

1000は答える代わりに、LKと目を合わせた。

うるんだLKの瞳は深い海の一部に似ていた。群青色がゆれている。まるく膨らんだ桃色の唇が近づいてくる。

急に早まった鼓動を胸の奥にひそめつつ、1000はゆっくりとまぶたを下ろした。


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