蜜柑埼LK(エリカー)
“カレーレストラン、GoGo一番屋”。
全国的にチェーンを展開するカレー専門店で、やや高級な値段設定だが万人の口に合う味が人気を呼んでいる。最近、Jの道場の近所にできたので、1000もたびたび利用していた。
きのう1000のタッグパートナーとなったLK、J、1000の三人で席についている。少し早い昼食だった。
金属製のマスクがJの頭全体を覆っていた。珍しく背広を着用している。しかし、装着しているのは義手だけで義足はない。下半身は車椅子に固定していた。
「なんで下はつけとらんので?」
1000の質問にJは答えた。
「足より車椅子のほうがラクなんだよ」
「そんなもんなんだ」
LKはタブレット型のPCから顔を上げた。
パラレス事務所との契約を交わした直後だった。感圧ディスプレイに手のひらを乗せ、指紋を登録することで契約者の身元を明確にする。コンピューター関連のセキュリティ技術が格段に向上し、電子上の作業のみによって契約を完了させることが当たり前になっていた。
「ごくろうさん」
JはPCをカバンに仕舞う。
「じゃ、これで君も晴れてパラレスラーとなったわけだ」
LKはすがすがしい笑顔を浮かべた。
「いろいろしてくれてありがとう。劇場の前借りも話しつけてくれて……もめなかった?」
「いや。いたって素直に頼みを聞いてくれたよ」
Jは1000に目をやった。
「まあ、あれだけやられたら誰だって優しくなるかもな」
「きっとみんないい人ばっかりだったんじょ」
1000はとぼけた答えを返す。Jが言外ににじませた賞賛が照れくさかった。
LKは苦笑を浮かべる。ぺこりと頭を下げた。
「本当にありがとう。一生、恩に着るよ」
Jは事務的な口調で返事する。
「これが仕事でね。ひいてはパラレスの未来のためだ。さらにはおれのためでもある。ピロリンピックでキミたちが活躍してくれれば、パラレスも一般に認知されて、おれも有名人になれるからな」
LKは頭をかいた。
「あ~ごめんね。実は結構偉い人だったんだ。オンライン百科事典(Web蔵)で読んだよ。10年無敗のチャンピオンなんだってね」
「いつもはそんなふうには見えんのじょ」
1000は口をはさんだ。Jが言い訳する。
「しょうがないだろ。リングではちょっとかっこつけてるんだよ。プライベートでは多少はめをはずしたいんだよ」
LKが爆笑した。1000も笑ったが、LKの素直な笑いとは違って軽蔑が含まれていた。
「そういうのんとも、ちょっとちがうんとちゃうんで」
目を輝かせ、LKが身を乗り出す。
「へー、どういうの? エロ?」
「IQが明らかにさがっとるんじょ」
「バカってさ!」
LKが身をよじってさらに哄笑する。冷静にJは返した。
「まあ、きみたちは言いたいだけ言ってなさい。練習の時はきっちりとしごくからな」
ほのかに笑った気配が卵の殻のようなマスクから、なんとなく伝わってくるようだった。
1000とLKは顔をしかめて見合わせる。
ふとLKは珍しいものに見入っている子供のような顔付きになった。空色の大きな丸い瞳がぴったりと1000に焦点をあわせていた。
居心地悪い思いに駆られ、1000はぎこちなく身じろぎした。LKが視線をはずすように心の中で願いつつ顔をそむける。
「あのさ……」
かすれたささやきが半開きになっていたLKの口から滑り出た。
「怒ったのが、嬉しかったの」
LKがなにを言いたかったのかわからなかった。首をかしげてLKに目を向ける。
思いがけず真っ向から視線が衝突した。LKの熱を帯びた双眸に釘付けにされるような気がした。思わずうめき声がもれる。
「うっ」
状況に耐え切れずに1000は視線を虚空にさまよわせた。LKのかすかな声が耳をかすめた。
「あたしのことで……ありがと」
唐突に照れくさそうな微笑みを浮かべてLKはうつむいた。
全く意図を汲み取れないまま、1000はあいまいにうなずいた。気恥ずかしいような気味悪いような落ち着かない気分だった。
店員が注文の品を持ってきた。
「おまたせしました。甘口、素カレーの超大盛りの方」
「はい」
1000の前に普通より一回り大きい皿が置かれる。白いご飯が山をなし、液状のカレールーが囲んでいた。具のない表面は平らだった。
LKはランチセット(ビーフカレーとサラダ)だった。
1000はLKのカレールーを見る。1000のルーより赤みを帯びていた。
「すごいー。何倍になっとんで?」
「二倍。まだまだ本気出してないよ」
得意げに笑うLKに、Jは感心したようだった。
「おれはそんな辛いの食えんな。中辛で限界だな」
JはWカツカレーだった。三人はそれぞれにスプーンとフォークをとる。
Jがかぶっているマスクの口元に、わずかな隙間が開いた。内部はかげにつつまれていて全く見えない。Jは器用にスプーンを狭い空間に差し込んでいた。
店員は料理をおいた後もテーブルの横に立っていた。Jが声をかける。
「何か?」
Jのマスクが店員の顔を見上げた。意外に店員の身長は高かった。180センチは超えているように見える。いくぶんぽっちゃりとした体つきで、制服の布が張り詰めている。ふくよかなほおを赤らめて、店員は唇を左右に引き絞った。
つかのまためらっていた店員だったが、Jに促されて口を開いた。
「あの……シュペルJですよね? パラレスの……」
Jはちらりと1000とLKのほうへ顔を向けると、取り澄ました声で答える。
「そうだよ。何か用かな?」
店員は恥ずかしそうに目を伏せた。
「あの……一緒に写真とってください」
携帯端末を取り出した。Jは愛想よく返事する。
「いいよ。じゃ、並んで」
「あ、ありがとうございます!……ひゃ!」
横にしゃがむ店員の肩をJは気軽そうに抱き寄せた。店員は照れくさそうに笑った。店員からLKがMITを受け取った。
「じゃ、いくよ~」
慣れた手つきで撮影する。携帯端末の画面に表示された画像を見たJが言った。
「サインしようか。お名前は?」
「あ、ありがとうございます! VIIIです」
「いい名前だね~」
Jは指先を画面に滑らせた。
“VIIIさん江 Super J”
画像にJのサインが上書きされる。
感激したようすの店員は、何度もJに頭をさげながら厨房へと消えた。店の奥から歓声が聞こえてきた。
Jは得意げにふたりを振り返る。
完全にしらけた1000はぽつりとつぶやいた。
「知ってる人もおるんじゃな~物好きじょ」
LKは素直に拍手する。
「ごめーん、ちょっとなめてました。ほんとはえらいんだね」
「まあな。それほどでもないけど、たいしたもんだろ?」
すっかりご満悦のようすを見せるJに、1000はなぜかほとんど機嫌を悪くしていた。
「はいはい。よかったね」
スプーンの先でカレールーをご飯にかけた。湯気をまといつかせているご飯をたっぷりとすくい上げる。勢いよく口に放り込んだ。
***
鋼鉄でできた無数の棒がからみあい、巨大な立方体を形成していた。執拗に獲物をからめとろうとしている罠のような機械の内部に、1000の小さな体が捕らわれている。
華奢な白い手足に輝く鋼鉄の棒がまきついている。汗でぬれたうすい肌着が汗に張り付いていた。むき出しになった肌に浮いた水滴が雨滴のように落ちた。
音もなく、1000の体が動いた。鋼鉄の棒が手足につられて移動する。棒に接続された部品がたがいに動きを伝え、機械全体が生き物のように形を変えて蠢いた。
「1000セット終了!」
1000は声をあげた。機械から滑り出る。ものものしいその物体は、筋力増強用のトレーニングマシンだった。
分厚いじゅうたんの上でながながと体を伸ばす。汗がやわらかいタオル地の布に吸い込まれていった。
長椅子に座っていたJがするどい声を放つ。
「こら! さぼってないで早く次のメニューにうつるんだ」
今日のJは両手両脚の義肢を着用していた。頭部全体を薄い不透明なゴムの覆面で覆っている。マスクの上に感覚を補佐する為のサングラスに似たカメラとヘッドホン型の補聴器、ガスマスクのような発声機をつけていた。
床に寝そべった1000は不平を漏らした。
「ああ~、練習もう飽きた~」
Jは1000をたしなめる。
「何言ってるんだ。時間がないのはわかってるだろ? あとたった一ヶ月しかないんだぞ。しかも相手はパラレスの経験はないとは言え、もと女子プロレスラーなんだからな」
「ほなって~」
Jにしかられることを知りつつ1000は駄々をこねる。Jは根気よく説明する。
「ピロリンピック選手権の試合が開催されることになったんだから、ますます準備時間がないんだぞ?」
選手権争奪試合は、Jたちにとっては青天の霹靂といっていい出来事だった。
数日前まで女子パラレス選手は1000とLKしかいなかった。そもそも素人の二人が抜擢された理由は、Jが女子プロレスラーを勧誘したもののすべて断られたための苦渋の選択だった。
しかし突然、さらに一組のタッグチームが女子パラレスに参入を表明したのだった。
国内では試合することなくピロリンピックに出場しようとするJの目算は外れてしまった。日本で1000とLKの他にピロリンピック協会に登録を申し出た選手がいるなら、どちらが日本の代表となるか決めなければならない。そのため、1000とLKの練習は当初より厳しい(ハードな)ものになってしまった。
じゃれつくような気分で1000は抗弁する。
「ほなって、もう何日もほとんど外に出とらんのじょ。たまにはのんびりしたいでえ」
「何を悠長なことを言ってるんだ。ほら、LKを見習ったらどうだ? 文句一つ言わずにやってるじゃないか」
LKを引き合いに出されたことに苛立ちを覚える。口の中でつぶやいた。
「あんなエンコー女と一緒にせんでくれんで」
LKは、1000とは違った練習メニューに取り組んでいる。ベンチプレスだったが、その器具は通常のものからかけ離れていた。
頑丈そうな土台にLKは横たわっていた。持ちやすいように手すりのついたバーベルの両端に、トラックのタイヤのようなおもり(ウエイト)が固定されていた。さらに、ウエイトには油圧式のジャッキが接続されて抵抗力を増大させている。荷重は数トンにも及ぶはずだった。にもかかわらず巨大なウエイトはめまぐるしく上下し、空気をかき回していた。
LKははりきった声をあげた。
「そーそー。もっとがんばんないと試合に勝てないよ。とにかくあたしたちの敵はみんなぶっとばしてやろうね!」
バーベルが上下するスピードが増した。Jが厳しい声音で注意した。
「ちょっと早すぎるぞ。もうすこしスピードを落とすんだ。筋肉がダメージを受けるぞ」
「大丈夫、大丈夫」
LKは明るい声を張り上げる。この場にそぐわないほど、過度に高揚しているようすだった。1000は不安を覚える。
LKは腕の動きを早めた。JはあわててLKに駆け寄る。
「ちょ、ちょいまち! ペースを守れって! 本当に体を壊しちまうぞ?」
「大丈夫! 大丈夫! 大丈夫! 大丈夫! 大丈夫!」
Jの言葉を全く聞いている様子もなくLKは連呼する。バーベルの軸がしなり、空を切る音とともに不気味に響いた。LKの全身から白い湯気が煙のようにたちのぼる。大量に排出された汗が瞬時に蒸発しているようだった。
Jが叫ぶ。
「ストップ、ストーップ! 水! 1000、水!」
異常事態に仰天した1000は床から飛び上がった。
「なにやんりょんで!」
床の上に置いてあったスポーツドリンク(クリアエアス)の容器(PETボトル)をわしづかみにした。炎に煽られているような熱気が1000を押し包んだ。LKの体からまるで台所の調理器のような熱が放射されているのだった。LK目がけてドリンクをぶちまける。
フライパンの中で熱された油がはじけるような音と共に、白い雲がまるく浮き上がった。LKに触れた水分は、ほとんど一瞬で蒸発してしまった。湯気を浴びた1000は悲鳴をあげる。
「あつつ! ほんまに大丈夫なんで?」
LKは暴走した機械と化してひたすらバーベルの上下運動を繰り返している。全身が体内を駆け巡っているだろう激しい血流でほの赤く染まっていた。目は焦点を失っていた。
恐怖の重りが胃の腑を掴んだ。動揺のあまり、つかのま体中の皮膚をなでる熱気すら消失した。今のLKのように人間が完全に理性から逸脱している姿はこれまで一度も見たことがなかった。自滅的な奇行に没頭するLKは人間にそなわっているはずの尊厳をひどく傷つけているように見えた。嫌悪が胸をかきむしる。1000はその場からあとじさりする。
LKが湯気でみえなくなった。
Jが白くかすんだベンチプレスに駆け寄った。家庭用のホースを握りしめている。水がほとばしり、LKに無数の水滴が降りかかった。
サウナ風呂のように室内に湯気が充満する。
1000は思わずため息をついた。道場の床がびしょ濡れになっていた。じゅうたんが水を吸い、泥のような感触が足の裏から伝わってきた。
「大丈夫か、おい!」
JがLKに怒鳴りつける。恐るおそる近寄った1000はLKをのぞきこんだ。哀れみと軽蔑のないまぜになった気持ちで優しい声をかける。
「いけるで? どうもしとらんで?」
「寒っ! 寒いよ……」
LKは床に倒れたまま体を丸くしていた。歯を噛み鳴らし、体を震わせている。紅潮していた顔は目がさめるような白色に変貌していた。額に前髪を貼り付けて呆然と天井を見上げる。半開きになった唇から水滴がこぼれた。同時に言葉が漏れる。
「あ、あのね……」
Jと1000は頭を寄せ、LKを見る。LKはくすぐったそうに笑いながら言う。
「ま、丸いよ……ふたりとも」
言葉の意味がわからず、1000は首をかしげる。Jは困ったように愚痴をこぼした。
「勤勉薬を使いすぎだ! ふた吹きまでって言っただろ!」
勤勉薬とは、気の進まない物事に対して積極的に取り組むことができる精神状態を整えることができる市販薬の一般的な名称だった。香水の装飾的な容器に充填され、容器頭部の噴霧器で鼻先や口中などの粘膜に噴霧して服用する。通常はビン一本使い切ってもLKのように異常な高揚状態にはならないよう配慮されているが、投薬中のためか異常に効果が出てしまったらしい。
「どないに使こたんじょ?」
LKは笑い声をあげる。
「半分くらい。なんか止まんなくなっちゃって……」
「何回吹きゃ(スプレーすりゃ)そんなに減るんだよ?」
Jはあきれ返った。
1000は一度も勤勉薬を使用したことがない。成長途中の子供には悪影響があると両親に禁止されていたのだった。
「そんなに使うたら鼻とかベロがちくちくしてしゃあないんと違うで?」
「飲んじゃった」
血の気の失せた顔をひきつらせながら言った。
「っとに……精神調整剤使い過ぎると怪我するぞ!」
血相を変えてしかりつけるJを見て、LKはだらしなく笑った。
「大丈夫だって! シュペルJはすごいんじゃん! ということは直弟子のあたしたちもスゴイ!」
「ばか! そんなこと関係あるか! 本人次第だぞ? ほんとにパラレス……いやいや、世の中なめんな!」
「困ったもんじょ」
1000はJにうなずきかけた。Jは威厳を見せるように太い腕を組んだ。重々しく宣告する。
「これからは勤勉薬は禁止だ!」
両手を唇に当ててLKは吹き出した。
「わかった! わかったから、ころころしないで!」
Jは当惑したように1000にマスクの正面を向けた。
「なに言ってるんだ? おれは何もしてないよな……最近の女子高生(JK)にはこういうのが流行ってるのか? “爆ワラうひうひ丸”みたいな」
全く的外れなJの発言にうんざりする。また、配信メディアで多用される略称を使用していることにも苛立った。眉をひそめて答える。
「JKって……それにそんな言葉知らんわよ。“あじゃり丸”?」
隣でLKが爆笑した。唐突に歌いだす。
「プディングまだかえ? う~るわしき~~こ~の世~代~~」
JはおもむろにマスクをLKに向けた。
「もうクスリはヤメ! 断然!」
厳しい声で怒鳴った。
(正直、この人たちとやっていける自信ない)
1000は未来に立ち込める暗雲にため息をつくしかなかった。