EX(エクストラ)歌舞伎
夜の空気に、無数のネオンが明滅している。
原色で輝く文字の隙間には白光を放つライトが照り輝いて、行き交う人波の半分が切り取られるように闇に浮かび上がる。
日本有数の繁華街、新宿歌舞伎町に1000とシュペルJはいた。
シュペルJは義肢を全てはずし、胴体と頭部だけの体になっていた。サングラスに似た視聴覚補助機器をつけている。パラレスラーとしての面影はまったくない。今はお忍びの姿だった。
シュペルJの車椅子を背後から1000が押していた。女の子らしいかわいらしい装いに身をつつんでいた。長いソックスをはいた細い脚がすらりと伸びている。その足がぴたりととまった。
「ほんまにここへ入るんで?」
不服を漏らした。
「そうだが?」
シュペルJが平然と返す。その目の前に看板が立っている。看板を飾っているネオン管が派手な色彩を点滅させていた。光が文字を形作っている。
“EX歌舞伎”
人目をひきつけるネオンの下には、裏腹に簡素な出入り口が開いていた。
そのわきに大きなポスターが貼り付けてある。微笑んだ数人の女性がひしめいていた。いずれも人目を惹く美人ぞろいだった。顔の下に名前が記載されている。
ポスターの中央には華麗な書体で大きな文字が躍っている。
“女闘美大会! なぐり愛ガールズ”
「どういう意味で?」
社会常識を口にしているかのような悠然とした態度でJは答える。
「キャットファイトのイベント」
「キャット? ……意味がわからんけん、教えてくれんで」
「女の子同士が戦うこと」
「なんでえ、それ。女子パラレスみたいなもんで」
「そうだ。じゃ、入ろうか」
Jがうながす。
あらためて入り口を見た。
薄汚れた壁がネオンに染まり、次々と色がくるめいた。建物の内部は暗い影に覆われてよく見えない。
場末の繁華街にあるという状況だけで、1000の目には陰惨な光景と映った。。
「ほなけんど、なんやら不気味じゃけん、気がすすまんのじょ」
しぶる1000に、Jが困ったように説明する。
「わかっていると思うけど、これはメンバー獲得の大事な活動なんだぜ? ピロリンピックの女子パラレス競技はタッグしかない。いまのところ選手はキミひとりなんだから、もうひとりいないと、試合に出られないぞ?」
「でも、もういっぺん話してみたらええんとちがうんで? 何回も説得したらだれかパラレスラーになってくれるかもしれんでないで」
Jは疑わしそうに首をかしげる。やんわりと否定した。
「う~ん……いや~ムリムリ。また辞退されるだけだよ。時間の無駄だな。あいつら結局、命が惜しいんだ。
それに、おれたちはのんびりしてるわけにはいかない。ひとりのパラレスラーが一人前になるには多くの訓練が必要なんだ。ピロリンピックまであと一年もないんだぜ? 本当は今だって君には練習に時間を割いてて欲しいくらいだ」
すでに1000の練習が始まって一ヶ月がたっていた。
無数の擦り傷や打撲傷で1000はすっかり満身創痍だったが、まだまだやる気は尽きていない。Jは選手としても一流だったが、指導者としても並外れた手腕を持っていたようだった。もともとスポーツ経験の皆無にも関わらず1000は自分でも驚くほどに順調に実力を蓄えていた。すでに受身や基本的な技術は身についていた。
同時に少しずつ薬物による肉体強化も進んでいた。見た目はまったく変化がないのにもかかわらず肉体は急速に頑丈さを増した。木製の野球バットで殴りつけられると、バットがへし折れるほどだった。これから徐々に反射神経の感度や速度を増やしていく予定になっていた。
Jによって目覚しい進歩を遂げつつも格闘技の初心者という負い目から抜け切れない1000は本心を吐いた。
「わいは素人やけんな。そうやったら余計にパートナーは経験者のほうがええ。安心じょ」
「まあな。次の候補者は女子レスラーじゃないが、きっと経験者さ。少なくとも普通の素人じゃないはずだ」
「ほなけんど、レスラーはプロ、アマ全部当たったはずでないで。さっきもそう言いよっただろ?」
「正式な選手はな。これから見るの選手じゃないけど、実力はかなりありそうな人材なんだ」
「ほんまで?」
露骨に疑う1000の口調に対して、Jはきっぱり断言する。
「おれはかなり有望、とみた」
Jの自信満々の態度にしぶしぶ納得せざるを得なかった。穴倉のような入り口に目をやる。目を凝らすと地下へと下っている階段が見えた。階段に沿って斜めにかしいだ壁にポスターがある。ハダカの女性が映っていた。AVの広告だった。入り口わきのポスターに掲載されている女性の一人だった。
一見した時から抱いていた強烈な嫌悪の原因がわかったような気がした。近辺に立ち込める猥雑さが1000の神経を逆なでするのだった。
なおもためらう1000を、Jはせかした。
「なにやってる? ほら、いくぞ! 行け行け行け(ムーヴ、ムーヴ、ムーヴ)!」
(いいトシこいて、はしゃいじゃってさ)
内心、1000は舌打ちした。
おそるおそる入り口をくぐる。Jの車椅子は段差を歩く為の補助脚を展開した。椅子の底部から牛や馬の脚を模したような関節を持った鋼鉄の棒が伸びる。先端は柔らかい物質で覆われ、しっかりと地面に接した。高精度の人工知能(AI)に制御され、車椅子は器用に階段を降りてゆく。
階段の底には受付のような切符売り場があった。古い映画館の切符売り場とそっくりだった。
くすんだアクリル板の向こうから、ぶっきらぼうな声が聞こえる。
「なんにん?」
無遠慮な男の目つきにおびえる。Jが答えた。
「特(S)級勝凱者ひとりと、付き添いひとり」
今日のJは手足が無いため1000が財布を預かっている。政府から交付された勝凱者カードを見せる。
切符売り(モギリ)の男が言った。
「付き添いは割引。4500円」
クレジットカードを出し、指紋で認証手続きをおこなった。決裁後、カードのディスプレイ(表示面)に浮かび上がったレシートを目にして、うめいた。
「高い~! 映画の倍以上もしたじょ!」
「ぼやくな。またチャージしとくからさ。ほら、ドア開けてくれないか?」
1000の不安も知らず、妙にはしゃいでいるようなJにいらだつ。だまって防音とおぼしき分厚いドアを押し開けた。
途端に、全身が大音量の音楽に包み込まれる。背後で扉が閉じた。
狭い空間にひしめきあう人々の顔が、Jと1000へと向いた。全員男性、年齢はほとんど中年以降のように見えた。みんな、あからさまに興味を惹かれたような目つきでじろじろと見つめてくる。車椅子と女性の二人連れは場内では浮いていた。
闇の中で原色の光線が乱舞していた。いくつものミラーボールが回転し、壁にくっきりと描かれた光の模様が川面のように流れる。まばゆい輝きに囲まれた場所には、リングがあった。
レフェリーが見守る中、二人の女性が取っ組み合っている。ふたりともほとんど裸だった。全身がねばつく液体でぬれていた。ライトを反射してきらきら光っている。
衝撃のあまり、1000は声をあげた。
「これは、なにやりよんで?」
「第二試合……ミルクローションレスリング、“おはだつやつやデスマッチ”……らしい」
Jは壁のプログラム表を読み上げた。
リングの上に白濁した粘液が溜めてある。その上でレスラーたちが戦っていた。技もなにもなく、ほとんどつかみ合いのケンカのようだった。
「“おはだつやつや”……ほんで、どっちをスカウトするんで?」
1000は辟易してつぶやいた。
「この試合じゃないな……次の試合だ。第三試合……えー……クラシカルガールズレスリング、“パンティ争奪デスマッチ”」
「アホじょ!」
平然と音読するJに対して憮然と吐き捨てた。
***
休憩を挟み、第三試合が始まった。
リングは舞台のような観客席より一段高い場所に設置されている。そこへ、同じく一段高い場所に道がついていた。奥は控え室につながっているものと思われる。
スポットライトが選手入り口に集中する。観衆から拍手喝さいが起こる。
青いビキニの水着を着た選手があらわれた。つぶらな瞳のあどけない童顔が微笑を浮かべている。小麦色に日焼けした肌を輝かせ、長い金髪をなびかせていた。均整のとれたスタイルに加え、派手だが優しげな面持ちが黄金でできた慈愛の女神像のようだった。
選手はリングへの道を足取りたしかに歩いた。一足ごとに豊かな胸元の隆起が重そうに揺れている。横に張り出した腰のうしろでは二つの丸い筋肉がぐいぐいと上下していた。ふとももはつややかに光を照り返している。選手はリングにのぼった。
すでにリングにはレフェリーが立っていた。筋肉質のいかつい男だった。険悪な細い目つきの上に、そりあげた頭がライトの光を反射している。マイクを持って選手の紹介をした。
「青コ~ナ~~、身長175センチ、バスト100、ウエスト60、ヒップ108、蜜柑崎LK!」
レフェリーの甲高い声が場内に反響する。
拍手がおこった。LKは観客に愛嬌を振りまく。豊満なプロポーションの肉体をくねらせ、ポーズを次々と決める。ファッションモデルのように堂々としていた。
香盤(演目リスト)に簡単なプロフィールが印刷されている。
“期待の新人! むちむち☆巨乳爆弾娘、襲来!
代表作:『卒業記念っ! 開放的になったしろ~とギャルたちの本番500連発』 役名:えりか”
1000は猥雑なあおり文にうんざりした。
ふたたびスポットライトが選手入り口をこうこうと照らした。
茶髪を後ろにまとめた女性が立っている。赤いセパレートの水着に、細かい模様の入った巻きスカートを着けていた。引き締まったスリムな体躯に気の強そうな美貌が輝いている。LK以上の拍手が女性を押しつつんだ。
悠然とリングへ向かって歩む姿は風格に満ちていた。
軽々とした身のこなしでロープを飛び越える。
「赤コ~ナ~~、身長170センチ、バスト88、ウエスト57、ヒップ83、洋梨村M~!」
手を振るMを多くの声援が迎えた。Mは満面の笑顔で応える。そのようすを観ながら1000はJに訊ねた。
「どっちをスカウトするつもりで?」
Jはリングの上に見とれているようだった。心ここにあらずといった状態で返事をする。
「ああ、新人のほう」
「LKっていう子で?」
Jはおざなりにうなずいた。訓練する時の毅然とした雄姿からかけ離れたふぬけたJに、ほのかなあわれみと軽蔑を抱く。
ゴングが勢いよく鳴る。試合が始まった。
LKがMに腕を伸ばす。Mが払いのける。次はMがLKに手を突き出し、LKがよける。数回、その動作を繰り返した。
1000は思わず口に出していた。
「へたくそじゃあ」
Jが控えめに同意する。
「いやいや、かなり練習はしてるみたいだが……しかしきちんとした指導を受けてないな」
ほんの短い期間だったが、なんとなく上手い下手ていどはわかるようになっていた。
「こんなんのどこが見所あるんじょ」
Jが首をかしげる。
「付き人の話では、結構才能ありそうだってことだったんだが……見誤ったかな」
初めてJの試合を見た夜、会場に案内した新人レスラーの顔を1000は思い出した。ほおの肉がもりあがった丸い顔が頭に浮かぶ。
(こんな変なショー見てるのか……これからはなるべくしゃべらないようにしよう)
1000は心ひそかに誓った。
リングの上ではMが黒髪を振り乱してLKに飛びかかっていた。LKは素早く体をひねってふりほどく。Mはよろめいた。
怒りもあらわにMはふたたびLKに組み付く。LKは身をよじり、巧みに腕を使ってまたしてもMを押しのけた。
レフェリーへMがなにごとかを訴える。レフェリーがMをなだめ、LKへ警告した。
「選手はちゃんと試合をしてね。試合時間は限られてるんだから、逃げてばかりでなくまじめにやって」
LKは不満そうに口の端を歪めた。仕方なさそうにうなずいていた。
「はあい……」
試合が再開し、MはLKにタックルする。胴体にMの腕が絡みついた。LKはMの体をリングへ押しつけ、Mの拘束から抜け出た。Mの口から怒声がほとばしった。
「いい加減にしな!」
Mが手を振り上げた。電光石火の平手打ちがLKの頬に炸裂した。LKは顔を押さえる。
「痛ったい……!」
その瞬間、LKのブラジャーが宙に舞った。
観客が沸いた。
LKは目を丸くして棒立ちになった。観衆から突然わきおこったどよめきの意味を理解できていないようだった。リングに自分のブラジャーを発見し、胸元に視線を落とす。
まろやかな曲線を描く白い乳房が、照明を浴びて白く輝いている。くっきりと白い三角形が小麦色の肌に囲まれていた。
「やだ!」
LKの手のひらがハダカの胸をおおった。豊かな隆起は手のひらからあふれんばかりだった。
Mが勝ち誇ったように観衆へポーズをとる。一瞬の早業だった。昂然と言い放った。
「すぐに下もはいでやるよ!」
LKのほおが赤くなった。眉根を寄せてMをにらむ。
「えらそうに、何様のつもり? ちょっと年が上だからってさ」
言い返すLKをMがどなりつける。
「それはこっちのせりふだっつーの! 先輩に向かってその口の利き方はなんだ!」
Mがとびかかる。LKは胸から両手をはなした。観客から歓声とからかうような声や拍手がおこる。
とびこんできたMに、LKは突き倒された。二人の体がもつれあってリングに転がる。悲鳴が上がった。
「痛たたたたたたたた! ちょっと、待ってまって!」
二人の白い体がのたうちまわる。苦悶の表情で必死に声をあげているのはMだった。
まるでヘビがはいのぼっているかのように、LKの腕がMの体を締め上げていた。
あたふたとレフェリーが二人のあいだに割って入る。
「こら! いいかげんにしろ!」
観客席からどっと笑いが起こる。拍手が起こった。
レフェリーがLKの体をひっぱった。LKの手がMから離れる。ぐったりとMはリングにつっぷした。
「邪魔しないで!」
LKがレフェリーの体を持ち上げた。
「お! やるな!」
Jが声をあげた。Jの賞賛を受けるLKに対して嫉妬を覚える。そんな自分が恥ずかしかった。いつのまにか混沌としたリングに見入っていた。
LKはレフェリーの体を上下逆に抱え、リングに叩きつけた。
「あぎゃああああああ!」
レフェリーが頭を抱え、リングを転げまわる。
観客が惜しみない拍手を送った。
LKは床に伸びたMにふたたび関節技をかけた。Mが逃れようとリングを這う。
「うまいでえ」
「独特だが、無駄のない動きだな」
Jは感心していた。
1000はついすねたような言葉を吐く。
「そんなんやったら、あの子と先に会ったらよかったでえ」
Jが不思議そうな声を出した。
「え、何て?」
「ええけん。ちょっと言うてみたかっただけじょ」
首をかしげるJを尻目に、話を急いで打ち切った。
「ちょっとー! いいかげんにかんべんしてよ、もうあたしが負けでいいからさぁ!」
わめきながら、Mは自ら水着を脱ぎ始めた。LKは得意げにMの手から水着の上下を奪い取る。
そのとき、選手入場で使用された勝手口から複数の男が会場に乱入する。劇場のスタッフのようだった。モギリの男も混じっている。観客のあいだをぬってリングを目指していた。
男たちに目をとめたLKは、戦利品のビキニを観客席に投げ入れた。
おおっ、と場内が沸き返る。たちまち観客が水着の奪い合いを始めた。突如として会場に起こった渦潮のような大混乱に劇場スタッフは巻き込まれた。
「おい! どけよ」
観客たちと押し合いへし合いするスタッフたちを眺め、LKは笑い声をあげた。自分の腰にひっかかっているビキニのひもに手をかけた。
「こーなったら、オマケもつけちゃう!」
「なにぃ?」
Jが驚きのあまり声を出した。一方、1000は呆れるあまり声も出ない。
LKはするするとビキニのパンツから両脚を抜き去った。あぜんとする観客たちの中に、ボールのように丸めた自分の水着を投げ込む。たちまち観客は色めきたった。荒れた海面のように観客たちは押し合いへ試合を始める。
「おらー!」
LKは全裸のままリングから観客席にダイブした。
轟然と客席が怒涛のごとく波打ち、LKを包み込んだ。
Jのそばで観劇していた男たちも、我先にとリングへ走り出す。
おしよせる男たちの波間に飲み込まれたかにみえたLKは、釣り浮きのようにぽっかりと頭を出した。人波をかきわけ、おしのける。たくみに泳ぎきって、男たちの間から転がり出た。猛然と場内を走り抜ける。
Jと1000のそばをLKは風のように駆け抜けた。香水の残り香が見送る二人を包み込んだ。LKは全裸のまま劇場の出入り口へと消えた。
男たちが後を追ってわれさきに出口へ殺到する。
「おれたちも追いかけるぞ」
Jの言葉に同意する。
「まかしとき」
対抗心に駆られて1000は身をひるがえした。
***
狭い路地に物音がこだまする。
横倒しになったゴミ箱が地面に転がっていた。ふたが外れ、中身がこぼれている。生ゴミの悪臭がたちこめる。
街灯の光が届かない影の中にLKは身を縮めていた。広い肩をすくめている。
LKは男物のコートを羽織っている。足にはスリッパのように黒い革靴をつっかけていた。壁にもたれ、そのまましゃがむ。速い呼吸を繰り返していた。苦しげにうずくまる。
空を仰いだ。
「あーあ、ほとんど見えないな~」
口惜しげにLKはつぶやいた。
裏路地から見上げる夜空は、林立する建築物に細かく切り取られている。白い8の字はわずかにその曲線がななめに横切っているだけだった。
「こんなとこじゃ、しょうがないのか」
LKは悔しそうに周囲を見回す。ただ黒い夜だけがわだかまり、LKを取り巻いていた。
LKは身を固くした。足音が細い路地裏に反響する。音の方向を凝視した。
「見つけたけんな。もう逃げられんでよ」
1000は冷然と言葉を投げかけた。たった一人でLKの前に姿をあらわした。
LKは目を丸くした。戸惑ったように声をかける。
「あなた誰?」
質問を黙殺し、1000は言葉を続ける。
「こんなとこにおったってしょうがないじょ。いっしょにきない」
LKはみじかく笑った。
「こんなとこで悪かったね。だったらあたしはどこに行けばいいって言うの?」
「Jのところじょ」
正直、1000はまともに会話する気がなかった。LKに対する偏見が抜けない。よくあるアルバイトとはいえ、体を売り物にする仕事にはどうしても底辺職というイメージがつきまとっていた。危ないところだったとはいえ、自分自身はまだそこまで落ちぶれていないと言う矜持があった。自分でも意外な感情だった。
LKの険悪な目つきが、値踏みするように1000の頭から足まで眺める。肉感的なあつぼったい唇がゆがんだ。声が低くなる。
「よくわかんないけど、あたしを追っかけてきたんだね。もしかしてケーサツ? ガサいれ?」
LKが早口に言う。
「え?」
耳を澄ませた瞬間、体の揺れを感じた。LKの足が下腹に食い込んでいた。LKは1000の頭をわきの下に抱えこんだ。
「悪いけど、ちょっと痛くするから!」
LKの腕に力がこもる。頭がぐっと締め付けられた。とっさに腕と頭の隙間へ手をねじ込んだ。力任せに空間を押し広げる。
あっさりとLKの腕が外れた。
「うそ!?」
仰天するLKににじり寄った。相手の手をこちらの両手でつかみ、たぐりよせる。LKの腕をひねり上げ、おりたたんでゆく。Jから伝授された関節技だった。多少ぎこちなかったが、関節技を知らない素人に技を決めるには充分なスピードだった。
LKはすばやく腕をひっぱった。寸前で逃げられてしまった。
LKの目つきが変わっていた。
「ただのチビじゃないね、やるじゃん!」
LKの挑発的な口調に1000は腹を立てる。
「チビと違うじょ! おまはんこそでっかいだけのレンタル抱き枕じゃわ!」
「なめんな! 泣かすぞ!」
怒声と同時にLKが迫る。暗がりを背景に淡い肌の色を残し、目の前から消えた。腰に組み付いていた。LKが片足を持ち上げ、1000は地面に押し倒しされた。
なすすべもなく体を転がされ、1000はうつぶせにさせられた。背中にLKがのしかかる。片腕と首が締め上げられた。まるで鋼鉄のクレーンに締め付けられているようだった。
が、頭を猛烈な勢いで左右に振る。固定されていた腕を動かした。すさまじい1000の腕力にLKの身体は抵抗できない。脱ぎ捨てられた衣服のように、LKの体はふりほどかれた。
入れ替わるように、1000が慣れない関節技をかけようとする。敏感に察知したLKは、腕力の差をものともせずたくみに逃れる。
二人はくんずほぐれつ汚れた地面の上を転がりまわった。
なんども互いに関節技をかけあってはそれぞれの方法でかわしている。ほどなく鋭い制止の声があがった。
「いいかげんにしろ!」
二人は思わず動きを止める。
声の主はJだった。Jの声は怒りを滲ませていた。
「1000。あのなー。おれを置いていくなよ。えらい目にあったぞ」
地面を滑るようにはしる車椅子がほのかな街灯の明かりに照らされていた。いざとなれば平均的な自転車ていどの速度で自走できる。
湿った路地から1000は起き上がる。息を弾ませていた。
「いそいどったけん。おっかけろって言うたんはJさんじょ。それに来れとるけんよかったでないで」
淡々と反論する。LKは腰を折り、両手をひざに当てて腰をかがめている。あえぎながら訊ねた。
「誰?」
「シュペルJ。わいの格闘技の先生じょ」
LKは、Jの四肢のない体を見て驚いたようだった。
「格闘技なんてできんの?」
「一応、パラレスラーのチャンピオンじょ」
LKは興味なさそうに言った。
「わかんない。なにそれ?」
Jが落胆したように声をあげた。
「なわけねーよ! そんなにマイナーだったのかよ、おれは」
「井の中の蛙じょ」
1000は意地悪く笑った。
荒々しい声が太い丸太のように路地裏に突っ込んできた。
「オマエら、そこからうごくんじゃねーぞ!」
「逃げるとどうなるか、教えてやろうか? コラァ!」
Jの背後から、数人の男たちが足音高く駆け寄ってくる。
劇場のスタッフたちだった。おそらくJがあとをつけられたのだろう。
LKが車椅子のわきをすり抜けた。男たちと対峙する。
勢いよく路地に走りこんできた男を受け止める、と見せてよけた。男の大柄な体が地面を滑った。二人目がLKに飛びつく。男の口から悲鳴がほとばしる。LKが腕をねじりあげていた。
LKの頭が横に傾いだ。
三人目がLKの髪の毛を引っ張っていた。LKは苦悶の声を漏らす。壁に押し付けられた。地面に這っていた男が立ち上がった。
屈強な男たちに囲まれ、LKの抵抗は封じられた。
「オメーさんざん勝手なことしやがって!」
男たちはLKの体を小突いた。ほおを平手打ちされ、LKは顔を伏せる。
「ええ加減にせんで、おまはんら。ええわかいしが、あばさかってあばさかってして」
見かねた1000はいかつい男たちに声をかけた。
いくつものぎらつく光を浮かべた瞳が1000のほうへ向いた。乱暴に突き飛ばされ、1000はよろめいた。
Jが言う。
「やっちまっていいぞ。事務所が何とかする」
「わかった」
1000はこみ上げるままに笑みを浮かべた。はるかに上背のある男たちを、傲然と見据える。
男たちの顔が引きつった。唐突に不気味なものを目の当たりにしたような、不安げな顔付きだった。