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虹の∞

選手控えロッカールームの扉が開いた。汗だくのJが姿をあらわす。

「お疲れ様でーす!」

控え室に戻ったJに、付き人がタオルを渡した。マスクごしに、Jの荒い息が聞こえる。やかんから噴き出す蒸気のような激しい音だった。

1000は控え室の隅にたたずんで畏怖をこめてJを見る。

Jのマスクが1000の方向を向いた。

「やあ、見てくれたかい? 気に入った?」

あわてて1000は答えた。さっきと変わらないはずのJに話しかけられたはずが突然緊張してきた。

「は! はい! すごかったです! ……あの、あの……みんなスッゴク盛り上がってましたわよ!」

「そうかい」

Jは笑ったようだった。マスクの奥から笑い声が聞こえた。タオルで体を拭く。ほのかにガソリンのような臭いが室内に立ち込めた。Jから立ち上っているようだった。

ふたたびドアが開いた。今度はリングに通じている扉ではなく、試合会場内部に続く出入り口だった。

「もはや黙っていることはできん! ここは抗議の一つもさせてもらうっ!」

怒号が部屋にこだました。

何者かがドアいっぱいに立ち尽くしていた。

腹部だけがボールのように丸くふくれあがったように太った年配の男だった。皺のよった褐色の色あせた顔をゆがませている。干乾びたようなつやのない体の中で丸く開いた口だけがぬれた光を放っている。

「こ、このZOが愚かであった! お前のようなその場限りの賞賛を得るためには他人などちり紙のごとく扱う生来の大道芸人であるお前の口車に、うまうまと乗せられるなど!」

ZOだった。現在はフォルチOEのセコンドで、かつてはJのタッグパートナーの元レスラーだった。

Jはまるで穏やかな挨拶を受けたかのようにZOへ言った。

「おお、わざわざこんなところまでどうした? OEのようすはどうだ?」

頭に血が上ったのか、ZOの顔色は茶色くなった。

「まだ寝ておるわ! 身は敗北の地獄に叩き込まれておりながら気持ちはいまごろ天をさすらっておろう」

「そうか。それは良いのか悪いのかわからんが、ちゃんと面倒見てやれよ」

突き放したような冷淡な口調のJに、ZOは怒鳴り声を上げた。

「お前のせいだと言っている! おれとの取り決めを破りおって、この三百代言めが! まんまとわしの顔に泥を塗りおって!」

Jが反論する。

「おれたちがやってるのは格闘技だろ。シナリオで展開が決まる演劇なんかじゃない。試合運びのシナリオがどうだろうと結局試合に負けたのはそいつが弱いからだ!」

ZOは言葉に詰まったようだった。つかのま地面に視線を落とした。ふたたび顔を上げてまくしたてる。

「常ならばその言い分も通じよう。しかし先ほどの試合はすでにシナリオが決まっておった。そもそもお前を含めた運営がストーリーを決めているのだろうが、それも一試合ならず一年分ものシリーズをな! なのに第一人者のお前がシナリオを破るとはなにごとか! 約束をたがえてなんとも思わんのか? 詐欺師が!」

Jは冷静に反駁する。

「だからといって、OEがおれより強ければシナリオ破りを防げたはずだ。それに、先に真剣勝負を仕掛けてきたのはOEのほうだからな。途中、出してきた技が違ってたぞ。お前も気付いていたんだろう」

ZOは動揺した。

「ム、ムッ! 確かにそうだが、挑発したのはお前ではないか! さりげなく打撃技で必要以上に苦痛を与えたり、逆に弱々しさを演じてみたり……おれにはすっかりお見通しだ。巧妙にOEを煽ったのはお前ではないか!」

Jは声高に笑い声をあげた。

「おれたちはまずレスラーだ。レスラーに必要なものは強さだ。お客さんはおれたちの強さを見に来てくれてるんだ。シナリオどおりに試合を運びたかったら、自分が負けないくらい強ければ良いんだ。シナリオどおりだからといって、つまらない試合をしても意味がないだろ。その日の体調もあるし、必ず決まったとおりにできないこともある。それはおまえだって知ってるはずだ。元レスラーじゃないか。な、現役時代を思い出してくればわかるはずだ。おれは間違ったことを言ってはいないだろ?」

ZOの顔色は灰色に変わった。肩を落とし、長々とため息をつく。しぼりだすような声を出した。

「……まさかこのような未来が到来すると予測できなんだ俺もよくよくうつけ者だったわ。お前とタッグを組んでいたレスラー時代を思い出すと、心底から沸き出のは今や嫌悪のみよ……一心不乱に打ち込んだ我がかけがえのない青春の日々であり、そのときは苦しくも喜びに満ちていたはずだったにもかかわらず、な……それほどまでにお前は許しがたい卑劣漢だということだ」

無言でJは頭を振った。ZOは言葉を続ける。

「今回のことにしても同様でしかない。J、お前とは誰ともマトモにやっていけないやまいを抱えていることを知れ。常にお前は身近な者を食い物にしている。オレも、OEも、パラレスもな……いずれ都合よく利用されたと気付いた者は不倶戴天の敵に回る。利用された理由がむしろお前への好意や善意であればなおさら」

返すJの声はこわばっていた。

「いいたいことはそれだけか? 結局、パラレスについていけなかった負け犬の泣き言だろ」

「言わば言え。もはやお前に話すことはない。今回の件については運営に申し立てるが正道か……」

怒鳴り込んできたときの激しさを失い、ZOは悄然とした背中をJに向けた。

Jは気を取り直したように声をかける。

「待て。言い過ぎたよ。OEには悪いことをしたと思ってる」

ZOは歩き出した。疲れたような呟きをもらす。

「いまさら遅いということを悟るがよかろう」

憤懣を滲ませた声をJは投げつける。

「ならどうして欲しかったんだ? 人の後ろについてくるだけでひっぱってる人間と同じものをもらえると思っているのか! おれは親から手足すらもらえなかったんだ。恵まれてる連中から好きにせしめて何が悪い……!」

ZOの背中をJ睨みつけた。振り返ることなくZOは歩み去った。

「Jさん大丈夫スか? ZOさんメチャ怒ってましたね」

新人レスラーがJの様子をうかがう。Jは扉を閉じた。

「よほどOEに目をかけてるんだろうさ。だが、おれだってまだ現役だ。やすやすと王座をOEに明け渡すわけにはいかん」

「そうっスよ! あいつ最近チョーシのってましたからね、さすがJさんっス!」

目を輝かせて新人レスラーはJを賞賛する。

Jは1000を見る。1000は言い争いに距離を置こうと部屋の隅にちぢこまっていた。

「まあ、今日は張り切りすぎたかな。ちょっといいところを見せようとしてしまった」

Jは長椅子に腰を下ろそうとする。ひざがぶつかり、イスの足が床を引っかく。耳障りな音が更衣室に響いた。

イスに座り損ねて中腰になったJが言い訳する。

「おやおや。ちょっと疲れてるみたいだな。なんだか今日はやけに体が重い……」

言葉が消え入るように途切れた。

不審に思った1000はJを注視する。新人が声高に言った。

「Jさん? どうしたんすか?」

小山のように大きなJの巨体は時が止まったかのように凍り付いている。奇妙なJの格好に思わず1000は吹き出した。

「なにやんりょんで?」

Jは無言のまま、その身体はゆっくりと傾いでいった。

「Jさん!」

あむない!」

仰天する二人の目前でJの身体は長椅子を蹴散らし、床に倒れた。


***


息を詰め、1000は部屋の壁に背中を押し付けていた。

選手控えロッカールームは緊張につつまれていた。狭い室内を人が激しく行きかう。白衣に身をつつんだ医者と女性看護師が長椅子の上にかがみこんでいた。

長椅子の上にはシュペルJの巨体が横たわっていた。

イスから手足がはみ出して床に垂れ下がっている。マスクをかぶった頭部は横倒しになったまま動かない。

ロッカールームに入るなり昏倒したシュペルJの心臓は止まっていた。急いで医者が呼ばれ、蘇生処置によって心配機能は復活したもののいまだに意識不明のままだった。

まるで当たり前のように落ち着いていた新人レスラーはつぶやいた。

「もう、このところこんなことはしょっちゅうなんだ。投薬ドーピングの副作用でJさんの身体はもうぼろぼろなんだよ」

「副作用?」

1000の胸がちくりと刺されたように痛んだ。

「そう。Jさんやおれたちみたいな提供者ドナーの研究でかなり軽減されてるけど、どうしても研究がすすんでない新薬とかのが防げないらしいんだよね。いたちごっこというか」

「どうなるんですか?」

新人レスラーは怒ったように吐き捨てた。

「いろいろだよ! でも、謙譲者よりずっと早く死ぬってのは間違いない」

胸元が氷を抱いたように冷えた。満場の観客から喝采を浴びるシュペルJの姿を仰ぎ見た熱気が消えてゆく。

医者がシュペルJに話しかけた。

「どうだ? 目が見えるか?」

シュペルJがしゃがれた声を出す。老人のようだった。

「ああ……見える」

マスクの上で、医者の手のひらが人差し指を立てる。

「指は何本だ?」

「五本だろ? 知ってんだよ。何度も俺に教わるのはやめて、いい加減自分の指の本数くらい覚えたらどうだ? それとも事故でなくしたのか?」

「そうじゃない」

機嫌の悪そうな声を出す医者を、シュペルJの手がおしのけた。

「だったら聞かないでくれ。手なんかものがつかめればそれでいいじゃないか」

シュペルJの上体が起きた。マスクが左右を巡った。頭をふったようだった。

医者は憮然としたようすで尋ねる。

「今度はどうしたんだ」

シュペルJのマスクから長い息を吐く音が聞こえた。

「いつものとおりだ……

控え室に戻ってきたと思ったら目がいきなり見えなくなった。夜みたいになった後、急にいろんな色の光が目の前に広がって、他にはなんにも見えなくなっちまった。真っ暗な中に、光はどんどん伸びて8の字になった、そうだな、アナレンマみたいに大きくなってな。妙なことに七色のアナレンマが大きくなるような気がするんだよな……まあ、なんとなくいい気分で大きくなる世界を眺めてたよ。

で、気がついたら、主治医さんの顔が必要以上に近くにあって気分が悪くなった。

……いつものとおりだ」

飄々とした調子でシュペルJは説明した。主治医は苦々しい顔付きでシュペルJを睨みつける。

「真っ暗になった後、七色の8の字が広がるという視覚の異常。

過剰な高速化処理による神経系の疲労劣化ナーヴァスファティーグが引き起こす幻覚だ。典型的な症状だな。

超高速で流入する情報についていけなくなった脳がパニックを起こしているんだ。しばらく安静にする必要がある。

ジョニー、少し休暇をとれ。試合なんてもってのほかだ」

シュペルJのマスクが主治医へ向いた。怒りを帯びた口調の声が聞こえる。

「休んでどうなる? すっかり健康になるとでも言うのか? 体が回復した後、百歳まで生きられるとでも言うのか? 大先生さまよ。

おためごかしはやめてくれ。もうおれはあんまり長くは生きられないんだろ? 虹が見えたら死期が近いんだろ?」

主治医はたじろいだようだった。

「少なくとも、体の調子はいまよりはましになるが」

「ましってなにが? どうせもう限界なんだ。何もしないでちょっと長生きしたからってなんになる? とりあえず頭をはっきりさせてくれるドープをくれ」

主治医と看護師が注射や点滴などの処置をおこなうなか、シュペルJは1000を手招きした。

おびえつつ、そばに寄る。

シュペルJは笑い声をマスクから漏らした。

「おどろいたかい? パラレスのチャンピオンがこんなので」

主治医と話していたときとは違う優しげな声だった。

「はい……」

少し迷ったあと素直にうなずいた。

「おれはもともと勝凱者だから仕方なかった面もあるが……キミは謙譲者だから、そもそもこんな苦労をしょいこむことはない。よく考えて決めてくれ」

体が平衡を失ったような気がした。シュペルJを見下ろす。全身が白く色あせ、汗でぬれていた。かたわらで主治医と看護師がせわしなく動いていた。なんども注射をうっては、また別の注射針をシュペルJの腕に突き立てている。

日常生活から覆い隠されている死や大病に恐ろしいまでに近接したJの凄愴な姿に暗澹としながら、シュペルJに訊ねた。

「わたしは、その、人気が出るやろうか、Jさんみたいに」

シュペルJは苦笑したようだった。

「なれると思う。おれはそう思う」

「間違いないで?」

シュペルJの言葉にすがろうとする。シュペルJはきっぱりと言う。

「申し訳ないが絶対確実ではない。

世の中アクシデントがつき物だ。それになにより、キミがそうなる為に必死に努力する、という気持ちが必要だ。おれの力でキミを有名にできるわけじゃない。手助けしかできないんだ。最終的にはキミの意志が一番重要だぞ」

シュペルJの指摘にぎくりと心臓がこわばった。


(誰も決めてくれない。だから自分で決めないといけない。

……でもそれは怖い!

たった一瞬の答えでこれからの長い時間が決まってしまうなんて、あまりに重大すぎる……自分の判断が間違ってたらわたしは悲惨なことになってしまうじゃない! 怖いよ!)


1000の動悸が早まり、呼吸が乱れた。全身をじっとりと冷たい汗が濡らす。


(人に賞賛される人気者に絶対なりたいけど、そのために苦しんだりするのは……正直いや!

でもいまのチャンスを逃がしたらこれからもうどうにもならないかもしれない、とにかく早くなにか前に進むことにつながることがしたい。今ってどう考えてもどん底だもん。

それに、家出してきたようなまともな道を外れちゃったわたしにはもうできることなんかほとんど残っていないんじゃないの? 助けてくれる人もいない、あした寝る場所もない、お金もない……選ぶ余地すらないのに……。

でもパラレスなんてわたしにできるの? ていうかなにかできることあるの? 全然自信ない! それに体壊すのもいや!)


1000はかすれた声で質問した。

「もう長くは生きられんって……」

「そうさ。医者からこないだ死ぬって言われた」

主治医が割り込んだ。

「試合を続けると、な! お前はあと一試合でもしたら死ぬぞ。安静にしていれば、あと一年は持つ」

「こんなもんだ。おれの寿命は三十六年らしい」


(三十六……あたしの二倍以上。そんなにも時間ってたってしまうの? それだけ生きるってことはどういうことなの? ゼンゼンぴんとこない)


理屈ではわかっていても実感がまったくない。自分が過ごしてきた時間以上の期間など想像もできなかった。果てしない未来の話は1000にとっては存在しないも同然だった。


(それだけ生きれば十分じゃないの? むしろなにもないままで、日の目を一度も見ないままで終わるほうがよっぽど怖い!)


唐突に1000は納得した。

「わい、それでもかまわんけん」

シュペルJの動きが止まった。驚いているようだった。主治医も鋭い目つきでこちらを見る。

「本当に? でももうちょっと考えたほうがいいかも知れんが……。レスラーにならなくても、宿がないならしばらく泊まってってもいいし、バイトでやとってもいいし」

戸惑っているJにきっぱりと宣言する。

「いえ、わたしレスラーになります! 変に考えちゃうと逆に決心がつかなくなりそうだし」

主治医が冷淡に揶揄する。

「物好きな! こんな子供がせっかく健康に生まれついているのにあえて勝凱者に志願するなんてな。世の中間違ってるよ。ジョニーは確かに自由に動き回りたければ、義肢や薬物の被験者にでもなる以外どうしようもなかったからわからんでもないが」

Jは主治医を制する。

「あんたは実験できる患者が増えたほうが嬉しいんだろ。だったら余計な口を利かないほうがいいんじゃないのか」

主治医は不機嫌そうに口をつぐむ。処置を終えたのか、道具を手早く片付けた。看護婦と共にロッカールームから立ち去った。

シュペルJの無表情なマスクが1000を見上げていた。1000は浮き彫り(レリーフ)された猛禽の頭部辺りを見つめる。沈黙に耐えられず、なんとなく訊ねる。

「ジョニーって? なんかカッコええでえ」

シュペルJはさもつまらないことのように答える。

「おれが子供ガキの時につけられたあだ名さ。あの医者オッサンは昔からの付き合いなんだ」

「あだ名? ホントの名前と違うんで?」

「うん、そうだよ。“ジョニーは戦場へ行った”っていう小説か、映画知ってる?」

「うん、知っとう」

即座に返答する。

おそらく学校の授業か何かだったろうが、どこかで聞いた覚えがあった。戦争に兵士として参加した主人公、ジョニーが、両腕、両脚、耳、目、口を失って帰国するという話だったと記憶している。

シュペルJは感心したように言う。

「お、若いのにものしりだな」

「そんなことないじょ」

1000ははにかんだ。

シュペルJは屈託なく説明する。

「その主人公とおれの体の状態がそっくりだからついたあだ名なんだ」

「あ……」

率直な態度から受ける印象よりはるかにJの症状は重いものだった。1000は言葉を失ってしまった。


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