パラレスリング
1000は初めて見るパラレス会場と広い空間を埋めるおびただしい人波に目を見張った。
試合は、二千人を収容できる多目的ホールで開催されていた。会場の中央に白い四角形が陣取っている。パラレスの試合をおこなうリングだった。四隅にそそりたつ鉄柱のあいだでは平行に並んだ三本のロープが張り巡らされていた。
リングの周囲をぎっしりと人が埋めている。狭い空間にひしめき合い、分厚い壁と化していた。
猛烈な歓声が会場を揺るがせている。パラレスリング会場を満員にした観衆はその夜、興奮の渦に巻き込まれていた。
以前足を運んだAGP48のコンサートを思い出した。AGPはいまや圧倒的な国民的人気を博しているアイドルグループだったが、去年は知る人ぞ知る地味な存在だった。ちょうど1000が東京までコンサートを見に来たときとほぼ同じくらいの規模だった。
控え室につながる裏口から会場に入る。
1000は屈強な男につきそわれていた。1000の付き人をしている新人レスラーとのことだった。新人レスラーが人垣を左右に押しのけたあとに1000はついてゆく。赤く塗られた鉄柱の横に案内された。急遽用意されたような折りたたみイスに腰をおろす。
眼前の光景に圧倒され、息を呑んだ。
まばゆいライトに照らされたリングの上では大柄な若者たちがすばやく動き回っている。モップを手にして濡れたリングの表面を拭っていた。よく見ると白いリングのあちこちに赤い汚れが残っている。血かもしれないとおもいあたった瞬間、重苦しい気分になった。吐き気がこみ上げる。
リングから若者たちの姿が消え、ほどなく照明が暗くなった。場内のざわめきかにわかに静まってゆく。
マイクで増幅された声が、耳を打った。
「お待たせしました~!
本日のメインイベント。パラレス・リングダム・チャンピオンシップ 第1227回防衛戦を開始いたします~~~!」
勇壮な音楽が薄暗い試合会場を満たす。観客の声援が潮騒のように湧き起こった。
「OE!」
「がんばれ~!」
「ビビんなよー!」
リングにつながる道が照明によって黒い闇の中に浮かび上がった。
「青コーナー! 203センチ、220パウンド、挑戦者、フォルチOE!」
スポットライトが一点を照らし出す。観客席より高い場所にすえつけられた入場口のようすを1000も人の頭越しに眼にすることができた。
派手な原色で炎をあしらったガウンをはおった男がひとり立っていた。逆立った赤い短髪がライトを浴びて炎のように輝いた。
道を壁のように挟んだ観客から声援が飛ぶ。
「フォルチ~!」
「OE(お~え)! OE(お~え)! OE(お~え)!」
フォルチOEの精悍な顔が不敵な笑いを浮かべる。声をあげる観客へフォルチOEは両手を広げて応える。天井に指先がつかえた。すでに頭が天井のすれすれにあった。
1000の脇にすわった新人レスラーがそっと耳打ちして来た。
「あの天井まで3メートルはあるんだぜ。あいつの身長は2メートル前後はある。Jさんとタメ張る背の高さだ」
フォルチOEが猛り立ったようすで、のしのしとリングへの道を歩き出した。
一歩ごとに周囲のパラレスファンの温度が上がってゆくかのようだった。それにともなって声援のボリュームも高まってゆく。ひらめくガウンの下から、浅黒く日焼けした鍛え上げた筋肉がかいま見えた。
フォルチOEがコーナーポストにたどり着く。
ガウンを剥ぎ取り、ロープ上段に片手をかけた。ひといきに飛び越える。
場内の歓声がふくれあがった。
まばゆいライトを浴びた褐色の肉体がつややかに光を照り返す。白く輝くリングの上で、均整のとれたブロンズ像のような肉体が仁王立ちになった。エメラルドグリーンのスパッツとブーツを見につけている。威圧的に隆起する筋肉が分厚い鋼鉄のよろいのように全身を包み込んでいる。端正な面差しを引き締め、体をほぐすように身軽に足踏みする。
リングの側にあるイスに座っている1000からは、リング上のフォルチOEは至近距離だった。すぐそばに居るフォルチOEの迫力に1000は息を呑んだ。立派な筋肉だけでなく凛とした容貌にも目がひきつけられる。知的な顔の皮膚の下にはたぎる野生がひそんでいるような、強烈な生気を放つ精悍な面持ちだった。
となりの新人レスラーに大声で話しかけた。騒然とした場内では、普通の声で会話できない。
「すーっごく、イケとうでないで!」
騒然とした場内で新人レスラーは声を張り上げる。
「いま、若手のなかではイチオシ。ルックスもぬきんでてるけど、実力もスゴイよ。もともとブラジリアン柔術やってたって」
「なんでパラレスに?」
「交通事故。背骨折れたんだって。機械化してから投薬とリハビリで復活した」
1000は感動した。その気持ちを伝えようとして新人レスラーに言った。
「そういうのもイイでえ~、なんやら苦労して、味方になってあげたくなるわよ~」
新人レスラーはいくぶんはにかむような表情で笑いを返した。
アナウンスが、ふたたび場内にひびきわたる。
「赤コーナー! 198センチ、250パウンド、王者、シュペ~ルJ~!」
アナウンサーの絶叫と共に、地響きのようなどよめきが起こった。空気そのものが振動しているかのような喧騒に1000は驚いた。
重厚な音楽がかかり、スポットライトが点灯する。
丸い光の中に浮かび上がったのは、派手にきらきらと光るマントをはおったシュペルJその人だった。
鏡面仕上げのマスクが光を反射し、虹色の環を観客席にえがいた。
猛烈な喝采が起こった。
名前が連呼される。
多くの人が口元に手を当て、なにごとかを叫んでいた。
1000のうなじに震えがはいのぼる。フォルチOEとは隔絶していた。
(スゴイ……あの人がたった一人で、ここの人たちを支配してるんだ……!)
観衆の熱狂を一身に集めながら、シュペルJはまったく平静に見えた。観客たちにあいさつするように軽く片手を挙げた。
観客の声援がいっそう強まる。
おもむろにシュペルJは歩き出す。左右から無数の手がわずかにでもシュペルJの生身に触れようと突き出された。
リングへの道を会場のスタッフや警備員が壁となって囲む。背後に付き人のセコンドを従え、悠然とシュペルJが歩き出した。群集から発生した声援や怒号がまじりあい、津波となって会場を満たした。
J!
J!
J!
押し寄せる轟音をかきわけ、シュペルJの姿が幻のようにかすかにゆらめきながら大きくなる。
周囲の熱気に飲み込まれ、無言で見上げる1000の前にシュペルJが迫る。
息が止まった。
1000を助けた時の強く頼もしい父親のような威厳のある姿でもなく、ロッカールームで話したときの軽薄な饒舌を絶え間なく吐き出していた滑稽な姿でもない、また別のシュペルJがそこにいた。
シュペルJの発する輝くような威容に1000は金縛りにされた。
手の届かない位置にいてすら触れられるのではないかと感じるほどの存在感を放ちながら、空気のようにつかみ所のない滑らかな動きで1000のそばをすり抜ける。
「3分」
唐突に小石を投げ込まれるように、言葉が耳に飛び込んだ。
再度確認する暇もなく、シュペルJは横を通り過ぎてリングへと向き合っている。
吸い寄せられるようにその背中を見つめた。
付き人がマントを脱がせる。シュペルJの背中があらわになった。荒縄のように引き絞られた筋肉の束が密集している。シュペルJはふつうに階段を踏むようにリングへと上がった。あっさりとロープのあいだを抜けて白い地面を踏みしめる。
高峰に積もる雪のように白い皮膚の下に、金属から削りだしたかのような強靭そのものの筋肉が充満していた。金色のラメ入りタイツとブーツが光る。シュペルJは高々と腕を差し上げた。
大勢の叫びが会場の空気をゆるがす。
はるかな天井とリングを結ぶ光柱の下、いずれおとらぬ二人の英雄が彫像のごとく屹立した。
1000は新人レスラーに尋ねた。
「さんぷんって言われました……?」
新人はとまどったように返答する。
「3分で倒すってことじゃないかな。でもそんな予定だったっけ?」
考え込む新人レスラーをうかがっていた1000は、リングに向き直った。甲高くひび割れたアナウンスが芝居がかった調子で語り始める。
「……有史以来人類の歴史は、常に戦いに彩られてきた……
なぜ人は戦うのか!?」
あいづちを打つように、観客が一斉に声をあげる。
《なぜだー?》
どうやらいまながれている語りは、毎度恒例の決まり文句のようだった。アナウンスは続く。
「なぜ人は傷つけあうのか?」
《なぜだー?》
「ある者は体を壊され、ある者は心を折られ、ある者は魂を失う、この危険な四角い地獄に、人が引き寄せられるのはなぜなのか?」
《なぜなのかー?》
「それは、そこにリングがあるからだっ!」
《あるからだー!》
「リングには日常では決して得ることのできない、金が、名誉が、夢が埋まっているからだ!」
《いるからだー!》
「ここではリングのみがわれわれの王であり、われわれは皆その臣民なのだ! 王たるリングを中心に回る世界、ここは“リングの王国”! リングの王国へ、いま忠実な国民が回帰した!」
《自由! 平等! 戦い! 国民の義務を尽くせ~!》
観衆の叫喚がリングをつつみこむ。
アナウンスが紹介した。
「青コーナー、挑戦者。
パラレスの明日を担うホープ! 頭脳明晰、運動神経抜群、百年に一人の超エリートソルジャー!
フォルチOE~!」
湧き起こる歓声に、フォルチOEは両手をあげてこたえる。おもむろにシュペルJへ目を移して口を開いた。
フォルチOEの若々しい澄んだ声が場内に流れた。
「もうJさんとは一年越しで戦ってきましたが、いつも倒されてばかりでした。
とはいえ、Jさんも徐々に気付いていると思います。
少しずつわたくしを倒すことが難しくなってきていることを。
この試合こそは、わたくしが毎日、つみあげてきていることを、見せられるようにしたい。
セコンドについてくれたZOさん、Jさんにも、お客様にも、はっきりとわかるように……
つまり、今日こそはJをリングに葬る!」
フォルチOEのファンらしき集団が華やいだ声をあげる。同時に抗議が起こり、交じり合って耳を覆ってしまうほどの喧騒となった。
フォルチOEは背後のコーナーに目をやった。セコンドに待機している年配の男にうなずきかける。髪の毛が薄くなった頭をもたげ、男は両手をメガホンのように口に当てて声を張り上げた。
「情けは禁物! ことスポーツ競技においては敬老精神など無用の長物! いわんや格闘技でありながらスポーツ精神などとは程遠いパラレスにおいておや!」
「了解です、ZOさん!」
フォルチOEは年配の男に返答する。セコンドの男はZOというらしい。首や肩は痩せて骨ばっているが、腹がまるまると膨れ上がっている。フォルチOEの精悍さと対称的だった。
1000のとなりに付き添う新人レスラーがささやいた。
「あの人、昔にJさんとタッグ組んでたんだよ。スゲー人気だったんだぜ、“不滅隊”っつってさ」
疑念もあらわに1000は訊ねた。
「は? そんなことあるはずないでぇ。あのオッサン、まともに体動かしたことがあるようには見えんじょ、デブやし」
「昔の話だからね。今はレスラーは引退してトレーナーとかやってるんだよ。名トレーナー、名セコンドで有名だよ」
場内の騒音にさらにアナウンスが割り込む。
「赤コーナー、チャンピオン。
挑戦者がパラレスの未来ならば、この人はパラレスの発足と隆盛と人生を共にしてきた歴史そのものと言える生ける伝説。
前人未到の、そしておそらく絶後となるであろう十年間無敗の不滅の帝王!
シュペルJ~!」
怒涛のような声援が施設をゆるがせる。わずかに銀色の光沢を帯びたマスクがかしいだ。
低く落ち着いた声が会場に満ちた。
「OEくん。お前の言葉をそっくりそのまま返そう。おれは十年誰にも負けずにやってきた結果、一つだけわかったことがある。それは、もう十年いけるなってことだ。おれが衰えないわけじゃない。周りがもっと弱くなるということだ。
お前を筆頭に、いまの若いレスラーはどいつもこいつもセールスマンだ。見映えをととのえ、丁寧な言葉を使って、歯の浮くようなセリフを言う。……そして、相手の賞賛を受けて満面の笑みを浮かべる。
自分自身を一グラムでも多く売り込んで、一円でも多くせしめようと必死になってやがる。そんなせせこましい商売人根性でおれが倒せると思ってんのかっ!」
どっと観衆が沸いた。
アナウンスが空気を震わせる。
「……世紀の決戦が、いま開始だぁ!」
Boooooong!
金属のゴングを叩く音がなりひびく。
リング上には選手しかいない。数人の審判がリング脇に待機し、反則行為をモニタでチェックしていた。
シュペルJとフォルチOEはにらみ合う。
互いに距離を詰めてゆく。シュペルJが手を伸ばした。フォルチOEとがっちり組み合った。ふわりとフォルチOEの体が宙に浮く。
場内アナウンスが実況する。
「おーーっと! シュペルJ、いきなりのジャイロプレーン・ボディスラムだーっ!」
フォルチOEの体を頭上にかかえ上げたまま、シュペルJはジャンプする。空中で自分の体をプロペラのように回転させた。
1000は目を奪われた。
飛び上がったシュペルJの体が、ゆうにかれらの背丈以上の高さにまで浮かび上がった。目の当たりにしても信じられないほどのジャンプ力だった。
空中からフォルチOEが投げ落とされる。リングに叩きつけられた体が弾んだ。
両手足を広げたシュペルJが、リングで倒れているフォルチOEへ体当たり(ボディ・プレス)する。二つの肉体がぶつかり合った。
「開始早々、怒涛の連続攻撃です。いつになくJはとばしているようですが……いかがでしょう? 解説のダウニー府佐さん?」
解説者の声が聞こえる。
「そうですね~、あたかもJがOEを手玉に取っているかのように見えますが……実はこの勝負、全くどちらに転ぶかわからない、と見ております!
Jの速攻は珍しいでしょう? これはつまり王者になって以来、実に十年間無敗を保ってきたJが、若手のフォルチOEの実力を認めざるをえなくなった、ということでしょう。最近もインタビューで世代交代の可能性を漏らすなどOEを意識した発言もありましたし」
「ここは王者の威厳を示す為に全力でつぶす、ということでしょうか?」
「でしょうね。その意気込みによって実はJがOEを恐れているということを証明しているようにも思います」
1000は憤りを感じた。毒をちょっぴりだけ吐き出すように新人レスラーに話しかける。
「なーんじゃ、もう見たまんまでないで。Jってほんまに強いんはわかるけんど、少しは手加減してあげてもええんと違うで? 一方的にやっつけよるんや、かわいそうで見とれんわよ」
「や、これは別にシナリオどおり」
平然とした新人の答えに1000は驚く。
「え、シナリオ? で?」
問い返す1000に新人はあわてたように耳打ちする。
「まずかったかな。ちょっと声を小さくしてくれる? ……キミ、関係者じゃないの? 何で知らないの?」
「……これから関係者になる予定じょ」
喧騒の中ふたりは頭を近づけてひそひそと話す。
「ここだけの話にしてくれよ。今日はね、引き分けることになってるの。フォルチOEが有利になったところで他のレスラーが乱入して、途中で試合が終わるんだよね。もう決まってるの」
新人はあっさりと内幕をばらした。
「ほんまでぇ?」
1000は疑いを捨てきれずさらに問いかける。
「そう。で、次の試合で十年ぶりにタイトルが移動することになってる。JさんもOEさんも了解すみ」
「そうなんで……」
幻滅だった。ついでに軽々しく秘密をしゃべった新人にも腹が立った。リングで展開されている戦いの経過に引き込まれつつあったことが恥ずかしくなってしまった。
実況が声のトーンを上げた。
「おーっと、OEが反撃にうつりました!」
立ち上がったフォルチOEが、パンチをシュペルJに繰り出した。ヒモ状の物体を勢いよく振りぬいたときのように空気が鳴った。立て続けに何度も不気味な音が連なった。
シュペルJの上半身がのけぞる。
フォルチOEはするどい蹴りを放った。回転しながら次々とシュペルJに足技を見舞う。
猛打を受けたシュペルJの足取りがふらついた。
重力から解放されたようにフォルチOEの体が宙に舞う。電撃のような素早い飛び蹴りがシュペルJの頭部を捉える。
弓のようにシュペルJの体がたわんだ。猛烈な一撃を食らい、銀色のマスクがボールのように弾んだ。
まだ地に足を着かないまま、フォルチOEは蹴りを雨のように降らせる。凄まじい打撃がシュペルJの全身に炸裂した。
シュペルJの体はリングに叩きつけられた。空中から落ちてきたフォルチOEの靴底がJを踏みにじった。
「あれっ?」
新人レスラーが声を発した。1000が聞きとがめる。
「どうかしたんで?」
新人は首をかしげて答えた。
「いや、なんか技がちがうなって。シナリオ間違ってるのかな? 本当は立ち蹴りまでだったんだよね……あっ」
リングでは、シュペルJの上でフォルチOEがジャンプした。目を見張るほどの高い跳躍だった。見事な宙返りを披露し、足を下にして降下する。フォルチOEの巨躯がシュペルJの背中に突き刺さった。シュペルJの手足が激しく上下した。シュペルJは意識を失っているようだった。
凄惨な光景だった。1000は食い入るようにリング上に目を凝らす。シュペルJが動き出すことをいつの間にか懸命に願っていた。
リングにのびたシュペルJの体をフォルチOEが抱える。まるで風船のように軽々と頭上に投げ上げた。シュペルJのあとを追いかけてフォルチOEは飛び上がる。
観客席から悲鳴と歓声の混じった叫喚が湧き起こる。
空中でフォルチOEはシュペルJに組み付いた。
フォルチOEの両脚がシュペルJの右腕を固定する。さらにフォルチOEの腕がシュペルJの両脚にからんだ。フォルチOEに手足を締め上げられたまま、シュペルJは頭部を下方に向けてリングに墜落する。
「わわっ、いきなり極め落とし技かよ!」
奇声をあげた新人は落ち着きなく体を動かした。
シュペルJの頭がすさまじい速度でリングに衝突した。1000が恐怖を覚えるほどの勢いだった。丸いマスクが横倒しになり、リングにめりこんだ。
新人は明らかに動揺していた。1000はふと思いついた考えを口にした。
「……もしかしてシナリオとちがうんで?」
大真面目な顔で新人はうなずく。
「OEさん、完全に殺しにかかってるよ」
「そんな大げさな」
1000は笑った。恐怖がわだかまっていたのか自分でもわかるほど空々しい笑いだった。
そのとき、アナウンスが絶叫した。
「おーーーっとぉ!? OEの決戦技、“頭文字B”いきなり炸裂!」
会場にどよめきが溢れた。
リングに逆立ちした格好のシュペルJからフォルチOEが身を離した。支えを失ったシュペルJは棒切れのようにリングに倒れた。
――10――
合成された女性の声でカウントダウンが始まった。平行して実況が流れる。
「ダウンのままテンカウントで、試合終了となります。開始からわずか一分で、なんともあっけないけりがついてしまうんでしょうか? いかがでしょうか、解説の府佐さん」
「意外ですね~。世代交代の兆しは見えていたものの、このようにずいぶんと簡単に決着がついてしまうと、拍子抜けする感じもしますね」
――9――
カウントダウンが進んでゆく。
「これで決着がつくということでしょうか? 府佐さん」
「そうですね。完全に終わったでしょう。なぜならフォルチOEの決戦技“頭文字B”をしかけられて復活した者はいままでいませんから! フォルチOEは打撃のみならず技一つ一つの完成度、威力の高さにも定評があります」
「なるほど~! ここからシュペルJが再起することあり得ないいうことですか」
「残念ながら、そうですね。予期しない最悪の形でシュペルJが懸念していた世代交代が実現してしまったと言う気がします」
――8――
「もう終わりで? 引き分けと違うて」
1000は状況を尋ねる。
新人は困ったような顔で腕を組んだ。
「う~ん、そうだね。Jさんの負けでおわるかも」
――7――
「おーい! 立てよ、J!」
観客から声が上がった。次々と声援が続く。
「負けるな~」
「まだ早すぎるぞ、立てー!」
ばらばらに起こっていた声がしだいに連なり、ひとつの波となってゆく。
――6――
フォルチOEは油断のない目つきで倒れたJを見つめていた。獲物がふたたび動き出したなら、完全にとどめをさそうとうかがっている野生動物そのものだった。俊敏な動きで犠牲者の周囲を巡る。
――5――
新人レスラーは首をもたげ、リング上のようすに目を凝らしている。1000はを不思議そうに新人を見た。
「もしシナリオとちがったら、どうなるんですか? あのカッコいい人が怒られるとか?」
新人は眉をひそめる。
「別に何もないよ。基本的にシナリオを破ることは禁止されてないし。
でもシナリオ無視で本気で戦いを挑むってことは、相手も本気で反撃してくる可能性が高いから、普通はやらないね。
ヘタしたらケガどころか死んじゃうし。
だから、本気でしかけていく人は、相手より自分が強いという自信があるか、負けたくないという意地があるかだね」
「今の場合は?」
新人はぶっきらぼうに言った。
「きっと自信があったんだろ」
――4――
実況が状況を説明する。
「シュペルJ、動きません! 十年間守り続けた王座をついに明け渡してしまうのかーっ? あっけなさすぎるぞーっ!」
解説の府佐が感慨深げにコメントする。
「まったく驚きの展開ですが、不自然ではありません。すでにフォルチOEはシュペルJの実力を凌駕しているという声はここ一年あがっていましたからねえ。
それにしても長年の無敗も決して順風満帆ではありませんでした。それゆえに前人未到の高峰を臨む人々に勇気を与えてくれたはず。ここで負けてもシュペルJの傷ではありません。しかし……」
――3――
観客席全体から怒涛のような掛け声が起こる。渦となってリングを包み込んだ。
J!
J!
J!
フォルチOEは鋼鉄のような面持ちが、かすかに動揺をかいまみせたように見えた。突然の声援に1000は驚いて周囲を見回した。観客は総立ちになって拳を振り上げている。
会場に満ち満ちた熱気に気圧された。となりを見ると新人レスラーはなんと涙ぐんでいた。
――2――
フォルチOEはスキ一つ見せず身構えている。すでにシュペルJは身動きひとつしない。
しかし、フォルチOEのするどい視線は一瞬たりとも弛みを見せない。
――1――
さりげなく新人レスラーをはげまそうとする。
「シュペルJって人気あるんじゃな」
「おれ子供の時からファンだったから感無量だよ。Jさんが負けちゃうなんてさ……」
新人レスラーは声を震わせる。
「まだ回復する可能性もあるかも知れんじょ……」
「いや……むずかしいよ。決戦技ってダメージすごいから。パラレスラーは投薬や改造で体がメチャクチャ頑丈になってるから、打撃は見た目は派手だけどあんまりきかないんだ。だから関節技を決めたままリングにぶつける決戦技でようやくけりをつけるんだ」
「確かにすごく怖かったわよ、見たとき」
「形も完璧に決まってたし、いくらJさんでも無理だよ」
――0――
カウントダウンがゼロを宣言しようとした瞬間だった。
シュペルJの姿がリングの上から消えた。
フォルチOEは目を丸くした。
新人レスラーの口がぽかんとひらいた。
1000は上を見上げる。照明からほとばしるまばゆい光が目にとびこんだ。黒々とした影がよぎる。
歓声が轟いた。
シュペルJが高々と跳び上がっていた。
実況アナウンサーが絶叫する。
「おーーーーーーっとぉ! シュペルJが立ち上がり……いや、舞い上がったーーーーー!!」
シュペルJがフォルチOEの頭上に落ちてくる。
フォルチOEはすばやく飛びすさった。空気がうなり、すさまじい風が発生した。
フォルチOEはリングの端から端までを一瞬で移動した。
1000は目を疑った。
フォルチOEに、シュペルJが手足を絡ませている。
フォルチOEは着地点からはるかに離れたはずだった。なのにシュペルJはリングに一度も体を接触させることなくフォルチOEに組み付いたのだった。
実況アナウンサーがふたたび叫んだ。
「出ましたーーー! シュペルJの“飛翔物体”!」
すばやく府佐が早口で解説を入れる。興奮しているようだった。
「オールラウンドプレイヤーのJではありますが、もっとも得意とするのが、ルチャの流れをくむ空中戦です。なかでもその極致が、空中で重力に逆らった移動を行う超高等技術、“飛翔物体”。並外れた体術を有するJのみが駆使することができる選ばれし者の技ですね」
シュペルJはフォルチOEの上半身にしがみついていた。
フォルチOEはシュペルJの手をとった。獣のような咆哮をあげる。
「うおあーーーーーーーーーーーーーーっ!」
フォルチOEの全身が褐色から濃い赤に染まる。ブロンズのような筋肉が盛り上がった。
シュペルJの体が引き剥がされた。
リングに叩きつけられる直前、シュペルJは猫のように体を丸める。猛烈な勢いで投げつけられた巨体が羽毛のごとく音も立てずに着地した。
フォルチOEはその場でボクシング選手のように身構えた。
「慎重にファイティングポーズをとっています、シュペルJを警戒しているのでしょうか?」
実況アナウンサーに府佐が答えた。
「そのようですね。OEは幼少の頃に打撃系の格闘技も習得しているそうです。とっさに自らの起源に立ち戻ったのでしょう。完璧に決めたはずの決戦技を受けたJが不死鳥のごとく立ち上がってきては、警戒するのは当然です」
「なるほど~、たしかにOEからしてみればどうやって倒せばいいのかわかりませんねえ」
「もっともJも相当のダメージを受けてはいるはずです。一気に攻め込めば突破も可能かもしれません。事実、腕力ではOEがはるかに上回っているようですしね。しかし、底知れない実力が踏み込むことをためらわせたのでしょう。無理もありません、これは命がけの真剣勝負なのですから」
「まったくごもっともです。果たしてここからJはどう攻めるのでしょうか?」
1000は新人の顔を見た。
新人は喜びに顔をほころばせていた。
「よかったでえ、Jさん負けんで」
「あのひとにはほんと驚かされるよ。いや、付き人なんだからもっと信頼しないといけないんだよな」
新人の声は今度は感動で震えている。視線がリングの上に釘付けになっていた。1000も前方に視線を戻した。
シュペルJはごくさりげない動きで立ち上がった。数歩ふみだしたと見えたが、すでにフォルチOEに接近している。
フォルチOEの手足が光のようにひらめいた。音速に迫る超スピードの攻撃が、空気を瞬間的に圧縮する。文字通り爆音が炸裂した。1000は思わず両耳を手のひらでおおう。
シュペルJはその場にしゃがみこんでいた。
おびただしい数のパンチとキックの連続技を、ほとんど体を動かすことなく避けきっていた。まるで触れることのできない幻像と化したかのようだった。
フォルチOEがバランスを崩した。十数発のキックをかわされ、片足が宙を泳いだ。
そこへ、シュペルJの蹴りがおそいかかった。
下からすくい上げるように上方に蹴り上げた。
マトモに食らったフォルチOEの体が浮いた。さらにJはキックの追撃をみまう。
フォルチOEはサッカーボールのように空高く放り出された。虚空でなすすべもなく手足をばたつかせる。
シュペルJが猛然と飛び上がる。突き上げるようにフォルチOEに捕まえた。手足が素早く動く。まるで腕のいい外科医が簡単な手術を施しているような正確な動作だった。
「うおああーーーー!」
フォルチOEは咆哮する。またたくまにフォルチOEは関節技を決められていた。完全に四肢の動きを封じられている。
実況の声が会場にこだまする。
「で、でた~! シュペルOEの決戦技、“赤い弓”!」
シュペルJの両腕がフォルチOEの両脚を抱え込んでいた。アキレス腱を締め上げる。同時に両脚がフォルチOEの腕にからみ、背後へひっぱる。フォルチOEの全身が弓のようにたわんだ。
シュペルJの毅然とした鋼鉄のような重い響きが場内を鞭打った。
「お前の意気込みは認めるが、それ以外は全部ダメだ! 王者にふさわしくない者はやぶれるべし、これまさに宇宙の絶対法則!
お前はまたイチから出直しだーーーーっ!」
決戦技によって絡みついたまま二人はリングに落下した。
シュペルJの背中と両足が着地する。リングがきしんだ。フォルチOEの背中が丸く反り返り、極限までひきのばされた。
悲鳴と共にフォルチOEは白目をむいた。口から鮮血が飛沫を散らした。
真っ赤な点が、白いリングにおびただしい斑点をつける。
1000の背中が恐怖で凍りついた。
異様な合成音声が会場に響きわたる。
――青側の選手に生命の危険が発生しています。――
――繰り返します。――
――青側の選手に生命の危険が発生しています。――
嫌悪感を催す不協和音で生成された平板な声が警告を発した。
リング下のレフェリーたちがあわてて試合終了を宣告する。
「ストップ! KOだ! 試合終了だ!」
ゴングが乱打される。
観客席がどよめいた。
フォルチOEが丸太のようにリングに転がった。シュペルJが立ち上がる。
リングにメインレフェリーが上った。シュペルJの手を取り、高々と差し上げた。
「勝者! シュペルJ!」
歓声が爆発し、会場の空気がうねった。その場に居合わせているひとびとの全てがシュペルJを賞賛していた。
1000の目はシュペルJに釘付けになった。
昂然とマスクをあげ、堂々と立ったシュペルJはまぎれもなくこの試合会場という世界の中心となっていた。
唐突に胸がつまった。なにより欲しいと願っていた場所にシュペルJは座していた。痛いほどの望みが網膜をつらぬき、あこがれが脳髄をはげしく焼いた。
(あの場所に行きたい!)
1000は意外な自分の衝動に戸惑った。
本当はAGPになりたかったのではなかった。どんなかたちでも多くの人々に拍手喝さいされることをもとめていたことに気がついた。
喝采にかき消えそうになっているアナウンスがきこえてくる。
「実に華麗な逆転劇……第1227回防衛戦、結果は……試合時間3分ゼロ秒、シュペルJの勝利で幕を閉じました~!」