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シュペルJ(ジョータ)

降りしきる雨のなかあてどもなく歩を進める。

ぬれた服が皮膚にはりつき、クツが一足ごとに間の抜けた音を立てた。常夜灯に照らされた息が夜闇に白く浮かびあがった。

冬の深夜、たったひとりで震えが止まらない。

足の指先は凍えてしびれている。雨水の流れる肩や背中では、冷たさが痛み変わっていた。手でこすってみても、どこも石のように固く冷えてしまっていた。

お金がないわけではなかったが、タクシーを呼び止める気力が失せていた。人の顔を見ることや見られることに耐えられそうになかった。

ずぶぬれのみっともないすがたを隠そうと、あえて人気のないくらい道を選ぶ。たまに通りがかる人がときおり妙な顔で1000に目をやることもあったが、声をかけられることはなかった。

寒さはつらかったが、それが逆に心地よくもあった。何も考えられないくらいに苦痛を感じているほうが気分がラクなのだった。

身を震わせながら建物にはさまれているせまい路地にはいる。

生々しい悲鳴が耳をつらぬいた。

空耳かと思ったが、苦しげな泣き声ともうなり声ともつかないうめき声がきこえてくる。そこへ何人かの歓声がかさなった。勘違いではなかった。

機械のように動いていた足が止まった。

前方からただならぬ気配を感じた。数人の足音がいり混じり、荒々しい声音が暗闇をつらぬいてこちらに突き刺さってくる。

半ばぼんやりしていた頭が恐ろしさに一撃を食らい、たちどころに我にかえった。ホテルで中年男性に床におしたおされた瞬間が脳裡をよぎった。目と耳を覆いつくした記憶の閃光がもたらした恐怖と屈辱がふたたび心を深々とえぐった。

かっと脳髄が燃えた。一度は理不尽な力に屈した事実が1000を無謀な怒りに駆り立てた。

決然と物音の方向へ歩きだす。

近寄ると、道の端に小さな屋根が路地に張りだしている。その下で数人の若者が何かを取り囲んでいた。若者たちの足のあいだから、座りこんだ小柄な男がかすかに見える。若者たちは口々に興奮した声で短い言葉を威嚇するように小男に投げつけていた。小男はちぢみあがってお経のようにうわごと長々とつぶやいている。左右に揺れている小男の頭へ若者の一人が足を突き出した。小男は緩慢に顔を片手でおおった……。

1000は黙って見ていられなかった。

腹の底にたまった溶岩を吐き出すかのように、炎のような言葉を吐いた。

「おまはんら、なにしよんな!」

若者たちは、1000の方向へ振り向いた瞬間あぜんと棒立ちになった。みんなが口をあけたまま目をまるくしている。

なかの一人が険悪なかおつきで声をあげた。

「なんだ? なんつった?」

「何人でもって一人をたたいたりせられん! ほんなんこすいでないで!」

声が震えていたが今回は言いたいことはきちんと言い切った満足がほのかに1000を包んでいた。

若者たちは互いに顔を見合わせて嘲笑した。

「なにこいつ? アタマおかしくね?」

「あ? マジでなに言ってっかわかんねーんすけど。日本語しゃべってくんねー?」

若者たちから次々と言葉が飛んだ。

「そんただ言葉しゃべってっとバカにされるずらよ、カッペ」

「何星から来たんだよ? 門限破んねーうちにとっととUFO乗って帰れ、ボケ」

相手のあざけるような言葉にさらに憤りがつのった。もはや自分をコントロールできなかった。とっさに言いかえした。

「はよう放しぃ!」

1000の甲高い声が狭い道に反響した。笑い声をあげていた若者たちから険悪な空気が流れてきた。

若者のうちの一人が水たまりをけり上げて水滴を飛ばした。

「消えろや。ぐちゃぐちゃにすんぞ、コラ!」

いくつものするどい視線につらぬかれて1000は立ち尽くす。両者が無言のまま、わずかな時間が過ぎた。そのとき、うなり声が静寂をかきみだした。青年たちに囲まれていた小男が両手をあげてなにごとかつぶやいていた。

「うっせ!」

ひとりが小男の頭をクツ底で蹴る。小男は頭をかかえた。

1000は悲鳴をあげた。

「やめなって言よんでぇ!」

「なんだテメー、うっせんだよ!」

血相を変えた若者たちがつかみかかってきた。

1000は驚愕した。またしても本能的な恐怖に一瞬のうちにうちのめされていた。猛々しく身を駆り立てていた怒りは雲散霧消していた。1000はうかつな行動をくやんだ。脅えて震え上がり、とっさに逃げようとする。


(でも、ここで逃げたくない! おんなじことやりたくない!)


なぜか1000は踏みとどまった。

体内の衝動と忍耐が均衡した1000は棒立ちになった。

凶暴な顔付きの若者たちが吐く息の温度が鼻先をかすめた。

完全に頭が冷えた。いまや無駄な意地を張ることは身の危険を晒すだけの無益な行為だと言う考えに落ち着いていた。執拗に燃えていた憤怒は燃えかすと化して頭の中にこびりついているだけだった。

あわててあとずさる。しかし冷えきったからだはうまく動かなかった。脚がからまった。かかとがすねに当たる。なすすべもなく、棒切れのようにあお向けに倒れた。

背中にかたい壁のようなものがぶつかる。地面ではない。壁のようだったが、コンクリートのような感触ではなかった。密度の高いゴムのような柔らかさを感じた。

背中をもたせかけたままずるずるとすべり落ちる体が空中で止まる。両わきをなにかが支えているようだった。

近づいてきた若者たちが凍りつく。困惑した声をもらす。

「なんだ、こいつ……」

頭上をあおぎ見た1000は目を疑った。

巨大な人間がそびえ立っていた。

ネクタイを締めたスーツ姿の人間が1000を支えている。しかし異様なことにその頭部は金属のような滑らかな面に包まれていた。反射した光が星のように輝いている。一見して人間とはとても思えなかった。

困惑気味の若者たちが言葉を交わす。

「こいつ、あれじゃね……? パラレスとか言うやつのレスラーでさ、もともと手足が無いヤツで……なんかこないだ特集してたじゃん」

「見た見た! 義肢つけたり薬物キメてレスリングするってヤツだよな、ショーガイシャがよ」

「あ! シュペルジョータ!」

指さす若者にスーツを着た仮面のマスクマンはうなずいた。

若者たちは動揺したようだった。先ほどまでの居丈高な態度とは裏腹の不安げな声音でつぶやく。

「マジで? チャンピオンの?」

若者たちの凶暴な面持ちは生気のない無表情に変貌した。

深みのある太い声が聞こえる。

「もう家に帰りなさい。この雨の中では風邪を引くぞ」

黙っていた若者の一人が突如として大声を上げる。

「カンケーねーだろ! オメーこそケンカとかしたらまずいんじゃねーの? レスラーだろ? シロートに手ぇ出したら警察に逮捕されるぜ?」

ひるんでいた若者たちは勢いづいた。

「そーだぜ。世間からもたたかれんぞ? 人気なくなんじゃねーの? それってどうよ」

「年金仲間をたすけにきただけだろ? だいたいショーガイシャってことはこいつと一緒じゃねーか」

うずくまっている小男をこづく。小男ははっきりしない言葉をつぶやいている。

「つーか、このホームレス、こいつの生き別れの親とかじゃねーの? 義肢外したらそっくりなんじゃね」

若者たちのあいだに笑い声がわきおこった。

ひとりが突然シュペルJに近づいた。両手をあげてパンチを空中に数回はなつ。挑発的な口調で声を投げかけた。

「通報されたくなかったら、よけんなよ?」

若者の足が水しぶきを散らした。頑丈そうなマウンテンブーツが1000の頭の上に伸びた。

「おあっ!」

若者から奇妙な声があがった。空中で足が手につかまれていた。かかとから落ちたしずくが1000の額に落ちる。

地面を片足でとびはねて若者はわめいた。

「はなせよ! おい! なめてんのか、コラァ!」

1000の頭の後ろでシュペルJの肉体が震えた。笑い声がマスクから聞こえた。

「なめるのはキミだよ。今から地面をな」

シュペルJの言葉と同時に若者の足を握っていた手が小さく縮まった。軽くつきはなす。若者の足はしぼった雑巾のようにひざの下が細くなっていた。

若者のからだはしぶきを上げてぬれた地面に倒れた。動物のような声を張りあげる。

「びゃあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

ほおを平手打ちされたような衝撃が走った。吐き気が喉の奥にわだかまる。のた打ち回る若者の姿を目にした瞬間、自分が苦痛に苛まれているかのような錯覚にすら陥った。

シュペルJそして1000から遠ざかろうとしているのか、若者は地面をはいずる。足を動かすごとに、携帯端末のストラップのようにつぶされた脚の先が半円を描いて揺れる。

あまりに凄惨な光景が精神にもたらす負荷に耐え切れず、1000は目を背けた。

愕然とした若者たちは沈黙に包まれた。平板な声がもれる。

「おいおい、事件になるんじゃねーのこれ」

「こいつもアタマおかしいわ」

若者たちは敵意を浮かべた目つきでシュペルJの方向を見上げた。

ふたたびシュペルJのからだが短くふるえた。笑ったようだ。分厚い胸元から低い声が背中をとおして伝わってくる。声につれて皮膚が震えた。Jが言う。

「ひとつ、面白いことを教えてやろう。わたしは絶対に警察に逮捕されたりはしない。なぜなら法的に守られているからだ」

低音の声が1000の体をつきぬけて路地にひびいた。

何人かの若者たちは建物の壁にたてかけてあった棒状の物体を手にとった。

からだがふわりと落ちて1000のかかとが着地した。ついでに腰がすとんと下に降りる。ぺたりと地面に張り付いたおしりからふるえあがるような冷たさが伝わってくる。風がからだのわきを走りぬけた。

シュペルJの巨体が壁のように目の前に立ちふさがっていた。その向こうで若者たちが野球のバッターのように棒をふりまわしていた。

シュペルJはつっ立ったまま若者たちのふりかざす鉄パイプやバールをからだに受けた。平然としたようすでしゃべり始める。

「SALSという病気を知っているかな?」

若者たちはいきり立ってシュペルJをめったうちにした。

ぶあつい柔らかい肉がなぐりつけられるくぐもった音がなんども聞こえた。

シュペルJは何事もないように話をつづける。

「擬似筋萎縮硬化症(Similar‐ALS)。パラレスラーはみんなそういう病気をわずらってることになってるんだ。国に認定された難病だ。ほんとはちがう者もいるが、筋力強化のクスリを処方するにはその病気しかダメなんでね。そういうことにしている。難病認定のクスリだからな。で、そのクスリを服用すると、ちょっとアタマがおかしくなる……こともある。そういう副作用がでる人がたまにいるわけだ」

肉体をたたく音がとまった。シュペルJの両手には、若者たちのふりまわしていた棒がにぎられていた。

「つまりパラレスラーはつねに薬物による心身喪失状態におちいる可能性がある。だからここでわたしがキミたちをひとり残らずぶっ殺したとしても……」

「あぎゃうっ!」

若者の悲鳴が空気を切り裂いた。

地面に倒れる。腹をかかえてうごめいていた。

シュペルJが若者のからだを踏みつけた。革靴のかかとが服にくいこんでいた。乾いた木の枝が折れる音が若者のからだからきこえた。

「きひぃー!」

若者が泣き顔でさけんだ。

1000の背中に悪寒がはしる。若者の苦悶が声をとおして直接ダイレクトにつたわってくるようだった。

悠然と、シュペルJは若者たちの輪にはいっていった。親しげに話しかける。

「……心神喪失で責任能力なし、と判断されて無罪だ。わざと変なクスリやってるわけじゃないからな。治療のためにしかたなく、ちょっとキケンでも服用せざるをえないからだ。で、一ヶ月くらい精神科に入院すればみそぎはおわり。胸張って外を歩ける」

「ぃだいいぃっ!」

若者のうでをシュペルJが握っていた。粘土のようにシュペルJの指がくいこんでゆく。

「がかああ!」

大暴れする若者をシュペルJは壁にたたきつけた。動きを止めた若者は壁にへばりついた粘液のようにゆっくりすべりおちる。

「うわわわわっ、ヤベーぞ!」

「こいつ俺らを殺す気だ!」

あわてた若者たちは左右に逃げ散った。しだいに遠くなる足音をシュペルJと1000はだまって見おくった。意識を失った者や動けないほどの重傷を負った者は取り残された。シュペルJはすでに若者たちには興味を失った様子だった。

「どれ」

シュペルJはずっと壁際に座り込んでいた小男の上にかがみこんだ。小男はシュペルJに気がついたようすもなくえんえんと口のなかで何かしゃべっている。

「話どおりだな。おい」

シュペルJは1000の頭越しに声をかけた。

スーツ姿のめがねをかけた男があらわれた。シュペルJに駆け寄る。

「プロダクションに登録の手続きたのむ」

「了解です」

スーツの男は小男に話しかける。シュペルJが1000に歩み寄ってきた。

「寒くないか? ひどい格好だな」

シュペルJに、軽々と1000はかかえあげられた。疲れきって1000は抵抗する気力もなく赤ん坊のように体をあずけた。


***


1000は一息ついた。

乾いた毛布にくるまり、足元には電気ストーブがある。壁はコンクリートがむき出しの粗末なロッカールームだったが、室内は充分に暖まっていた。ただよう異臭も今のところ気にならなかった。

ドアが開いた。

「どうかね?」

シュペルJが顔をだす。金属の仮面マスクを頭にすっぽりとかぶっていた。つややかな表面は鏡のようにまわりの景色がゆがんでうつっている。うずくまった勇ましげな鳥のような意匠デザインをかたどっていた。首から下はラメの入ったはでなマントでおおわれている。非常な長身で、今にもマスクが天井に触れてしまいそうだった。

1000は方言の影響が濃い標準語を使って礼を言った。

「だいぶん落ち着きました。すまんことでした」

「そうか。じゃあ適当なところで帰りなさい」

シュペルJは紙幣を出した。一応ためらいを見せたものの、1000は結局うけとることにした。いま住んでいるアパートは事務所から提供されたものだった。仕事の途中で逃げ出してしまった以上、アパートに住み続けることはとうていできそうにない。それを考えると受け取ったほうがいいと打算したのだった。

「かさねがさね、すみません」

恐縮する1000にシュペルJは気軽に答える。

「なに、それは貸しだからね。払えるようになったら返してくれ」

「はい……なにからなにまでおおきにお世話になりました」

「そのうちにな」

マスクから笑い声が聞こえる。シュペルJの巨躯が腰掛けると、ロッカールームの長椅子がきしんだ。

「試合までまだ時間がある。休んでるところジャマをして悪いね」

シュペルJは説明する。

「いえいえ、そんなことありません。わいが邪魔しとるけん」

「まあ気にすることはない。ところで……」

シュペルJの声が低くなった。1000はわずかに身構える。

「どうしてあんなところにいたのかな? まあ、ちょっとした興味本位だから答えなくてもかまわないが」

1000の顔がうつむいた。視線が毛布につつまれたひざ先をさまよう。やや迷ったが思い切って顔を上げた。

「……わい……その」

光沢のあるマスクの表面にうっすら映りこんでいる自分のゆがんだ顔の断片を見上げて困惑を覚える。目を合わせようとしたのだが、マスクのどこを注目すればいいのか迷ってしまった。マスクに両眼らしき部分はない。とりあえず、浮き彫りになっている鳥の頭の部分に目を据える。

シュペルJは黙って耳を傾けているようだった。

1000は話を続けた。

「その……いろいろあって逃げてしもたんです。……もう住むとうなって、これからどうしたらええもんかとわからんようになってしもて……もう食費もないし」

ものわかりのよさそうな仕草でシュペルJはうなずいた。

「そんなところではないかと思っていたよ。女の子がひとりで集団にケンカを売っているんだからね。実に自暴自棄だったなあ。たまたま通りがかってよかった」

1000は赤面した。シュペルJには自分は粗暴な女と思われていると思った。撤回するべく必死に弁解する。

「ケンカとちがいます! あの人らは集団でおじいさんをいじめとったけん、注意しようと思うて声をかけたんです」

理解できるといった様子を見せてシュペルJのマスクが上下する。

「いいねえ、実にいい。とても正義漢が強いな。そして、そんな素晴らしいキミに頼みごとがある」

意外なほめ言葉を聞いて、1000の胸が高鳴る。

ぐっとシュペルJのマスクが1000に接近する。思わず1000はのけぞった。

「キミは、女子パラレスに興味あるか?」

1000は言葉に詰まる。なんとか相手の機嫌を損ねないようにしぼりだすように返答した。

「……ありません」

「そうかー!」

がっくりとシュペルJは頭をたれた。

「じゃあ、仕方がないか……この話はなかったことに」

落胆したように肩を落とすシュペルJに、励ましたい一心で1000は声をかけた。

「ちと待ってください! 話、聞かせてくれませんか? 何かお役に立てることやったらぜひまかせてください」

突如生き返ったように、シュペルJはハツラツと元気を取り戻した。

「そうか! キミ、ピロリンピックに出なさい」

「へあ!?」

予想外の言葉に、うっかり奇声を発してしまった。

シュペルJがゆっくりとうなずく。

「驚くのも無理はない。正直、われわれパラレス関係者もちょっとこまっていてね」

「はい」

話の行き先がわからないまま返事をした。

シュペルJは語り始める。

「最近は知名度があがったとは言っても、パラレスは日本ではまだまだマイナースポーツだ。選手人口は男だけしかいない。プロレスがうらやましいよ。まあ、それはいいとして……。

で、ピロリンピックってあるだろう? このところエクストリームな競技で世界的に人気を博しているっていう……その正式種目に採用されたんだよ、パラレスが! とは言っても女子パラレスだけでね……。

でもこれを機に日本の参加実績を作りたいとわれわれパラレス関係者は考えた。世界的な大会であるパラリンピックに参加するという話題性で国内でもっとパラレスを盛り上げていくことができるんじゃないか、とね。

国際ピロリンピック協会(IPA)に参加申請するには国内で活動経歴を持つ女子選手が必要なので大急ぎで募集しているんだが、いかんせん期間が短すぎてね……。参加登録の締め切りまで一ヶ月しかないんだ。

ここだけの話だけど関係者の間ではIPAも露骨な客寄せに走ったと噂されているな。あるいは、競技人口の層が厚いアメリカあたりのてこ入れだ、とかね。

……たしかにそのうわさは当たらずといえども遠からずだろう。

というのも、統一ルールもない、スポーツよりは見世物寄りのパラレスが、しかも女子だけが正式種目に突然追加されるなんて、まともな発想ではありえないからな。さらに選手を育てる時間も与えられないとは……。不条理としか言いようがないよ。

かといってせっかくのこのチャンス、パラレスをメジャースポーツへと押し上げる千載一遇の好機を逃すわけにはいかない。

そこでわたしが独断で、女子パラレスラーにふさわしい人材をスカウトしているのだよ」

「わいを勧誘しよるんですか?」

「そうだ」

1000の疑問をシュペルJは肯定した。

シュペルJの言うことが1000にはよくわからなかった。

ピロリンピックと言えば勝凱者が参加するスポーツの世界的祭典だという程度の知識はあった。1000つまり謙譲者には参加資格はないはずだった。1000はごく当然の質問を口にした。

「ほなけんど、勝凱者しか参加できないはずでなかったで……」

「そこはちょっとからくりを施す。しかしたいしたことじゃない。もともとあったシステムを使うだけだ。これまで何の問題もなかったし、これからも起こりえない仕組みだよ」

自信ありげなシュペルJの言葉に、1000はふとピロリンピックについての話題を思い出していた。

数年前から本家のオリンピックに勝るとも劣らないビッグイベントとして開催されているピロリンピック開催地の選定がはじまり、日本も名乗りを上げたことがニュースとして報道されていた。

ピロリンピック人気には、より謙譲者と勝凱者との同一化ノーマライゼーションが進むことが期待される一方、問題点もいくつか指摘されていた。よく言われているのが、急激な大資本流入による極端な商業主義コマーシャリズム汚染、そして、肉体改造自由自在ドーピングフリーの“PIL(薬物)オリンピック”との批判だった。

人類の可能性に果敢に挑戦する厳粛もちながら派手で面白いイベントだが、人気を高める為にやりすぎているというのがピロリンピックに対する一般的な見解だった。


(もしかしてほんとうにうさんくさいのかなあ、夢をこわさないでほしかったんだけどなあ……)


なかばあきれながらあいづちを打つ。

「からくりってなんですか?」

「勝凱者は、たいてい事務所プロダクションに入っている。

勝凱者が国から年金を支給されるには非常に煩雑かつ厖大な手続きが必要でね。個人個人への支給額は徐々に増えているから、一見、より福祉が充実しているように見えるが実は国家予算に占める総支出額は減少しているのが実態さ。

というのは、第二次バブル経済崩壊と騒がれてからまもなく実施された緊縮財政で、税金を徴収できない国民への福祉が極端に制限する方向に改正されたんだな。それで、ほとんどの勝凱者が年金を支給されないという事態が発生した。

そこで、弱者切捨ての国策を憂慮した有志たちが、彼らの代わりに窓口となって代理人として国に申請する組織を作ったんだ。それが現在の事務所なんだよ。

事務所に所属すれば、キミを勝凱者として国に認定させることなど朝飯前だ」

シュペルJの説明を聞いて、1000はつい口に出してしまった。

「それって……ズルと違うんでないで?」

すこし軽蔑するような調子がにじみでていたかもしれない。

シュペルJの巨体がつかのま硬直した。あわてたような声をあげる。

「いやいや、ちがうちがう。そんなことないよ、全然ズルじゃない。もう誓う。誓って真実。ほんとほんと」

子供だましのようなシュペルJの返答に、1000はあぜんとした。バカにされたような気がして腹が立ってくる。いらだちとともに言葉を投げる。

「あとドーピングもせんいといかんのでしょー? 配信番組で選手はみんな体を壊してるって聞いたことがあるし、そんな病気になるん絶対イヤです」

断ろうとする1000をシュペルJがなだめてくる。

「そうそうそうそう、そのとおり! とんでもないリスクがある。だからこそ謙譲者が出てもズルじゃない!

……わかるかな?

そもそも勝凱者とはなんだろう? ただからだの形状が希少な人というだけでは断じてない。なぜなら人は肉体ではなく精神をこそ重要視されるべきだからだ。

……そうだろう?

わたしをふくむ勝凱者は、神だかなんだかからあえて試練を与えられ、それに打ち勝つという、つまり肉体を犠牲として捧げることによって、かわりに精神の高潔さを得るという運命をせおった人間なわけだ。

……ね、いいじゃないか?

だからまず大事なのは、肉体を犠牲に供するということなんだ。つまり、体を壊すリスクを受け入れることは自らを犠牲とする勇敢な行為そのものであって、それを成し得る人間には勝凱者、謙譲者の区別などは必要ない。

……キミも、そうおもうよね?

そういうわけで、謙譲者がピロリンピックに出場することに倫理的な誤りはなにひとつない。要するに理念的にはズルじゃない、ということだ」

シュペルJの長口上に頭がくらくらする。まるで噛んでふくめるようにしゃべってはいたが、もともと興味のなかったピロリンピックの解説をされてもいっそう気が遠くなってゆくだけだった。

つくづくうんざりして生返事をした。

「はあ……でもわいが出る理由がわからんけんど……」

いきおいよくシュペルJはうなずいた。

「まあまあ、ではなぜそんな横車を押すのか、というとだ。よく聞いてくれ。つまりキミのもつ抜群のアイドル性に賭けようと思ったわけだよ!」

「えっ」

1000は凍りついてしまった。

またしても胸が高鳴った。


(アイドル? わたしがアイドル!?

なぜ?……いいや、どうすればいい? どうすればなれるの!?)


興奮をおさえて短く訊ねた。

「アイドル性って? バツグン?」

シュペルJが身ぶり手ぶりをまじえて説明する。

「キミには人をひきつけるたぐいまれな魅力がある。間違いない」

「そんな……ひきつけるなんて……」

1000は思いがけず照れてしまった。ほおが熱くほてる。栓を抜いた炭酸飲料の容器に広がる細かい泡のように、胸の中を甘酸っぱい快感が広がった。

謙遜するように言うのがやっとだった。

「ウソじゃわ」

素早くシュペルJは否定する。

「いやいや、ウソじゃない」

なんとなくゲームをしているような感覚だった。自分の謙遜に対して、相手がどのように褒め上げるかの応酬だ。うれしくなって、さらにへりくだった。

「わいなんかの、どこがええんですか?」

すらすらとシュペルJは返した。

「まず顔だな。ちょっと地味めなところが清楚な感じで、フツーにかわいらしい。じつに魅力的だ」

まんざらではなかったが、いかにも不本意なようすで訊ねてみる。

「見た目だけですか?」

シュペルJは自分の置かれている状況に釈然としないといったようすで首をかしげながら回答する。

「そんなことはない。声もつややかで伸びがあって、とても女性的だ。いつまでも聞いていたいね」

「声は矯正しよん。まだ途中じゃけんど」

不服そうに唇を尖らせた。

シュペルJのマスクから猫なで声が出る。

「スタイルだってたいしたものだ。いわゆるモデル体型とはちがうが、頭が小さく脚は長いし、健康的ではじける若さが伝わってくるよ。きっとからだを少しきたえたらほどよく引き締まって見違えるような気がするな。

どうだね、パラレス。やってみないかね」

考えを探ろうと、1000は相手をみつめる。逆にこちらの考えは隠そうと、防壁をはりめぐらせるかのようにうっすらと笑顔をうかべた。

「ほんとにそう思うてますう?」

深々とシュペルJのマスクが上下する。

「当然だ。わたしだけじゃない、キミを見たらみんなそう思うよ。自信を持つといい……。

キミはきっとトップに立てる逸材だ」

1000はほめられてこれ以上なく嬉しかったが、なんとなく素直になりたくなかった。困ったように腕を組み、小首をかしげてみた。

「でもなぁ、パラレスて見たことないしなぁ……」

熱心なシュペルJの説得が続く。

「じゃあ、キミ! 今からわたしの試合を見て行ってくれ。特別席に招待しよう! 気に入らなければそのまま帰ってくれても構わんよ」

1000はほほえみを返す。

「ホンマで? ちょっと見てみたかったんじょ……でも一応見るだけやけんな?」

シュペルJは長々とため息を吐き出したようだった。マスクからタイヤから空気が漏れるような音がする。

「いやはや、最近の子供はしっかりしてるな……かなわんよ、まったく」

ぼやくシュペルJに、1000は聞こえなかったかのような顔で訊ねた。

「あの?」

「いやいや、こっちのはなし!」

シュペルJはあわてて返す。


(ちょっと引っ張りすぎたかな)


自分にもこんな会話ができるということに新鮮な驚きを覚えつつ、1000はひとりしのび笑いをもらした。


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