AGP(アーガーペー)48
1000は立ち往生していた。
JR渋谷駅ハチ公口を出ると、目の前を流れる人の洪水に圧倒される。
時刻は昼すぎだった。東京にやってくるまでに半日がすぎていた。ちょうど昼食どきで、会社員とおぼしき人々で駅前はごったがえしていた。
1000は、地図を携帯端末に表示させた。電車の中でなんどもながめた地図だった。きょう宿泊するビジネスホテルの場所を矢印が示していた。命綱のように携帯端末をにぎりしめた。
目のまわるような速さでそばを移動する人の群れのまっただなかで、1000はだれにもぶつからないように、用心深くあるきはじめた。
じつは、東京は初めてではなかった。
去年にはAGP48のコンサートに友達と一緒に見にきた。家族と東京ディズミーランド(TDL)に遊びに来たこともある。関心のある場所については大まかに把握していた。
とりあえずの目的地はホテルだった。すでに予約は済んでいる。
しかし、ふたたび足がとまった。あたまのなかで地図と街のようすが一致しない。自分が地図でどこにいるのかはっきりとしたイメージを把握できていないからだった。
地図と場所を確認するため、ひとまず人波の少ないところへ足をすすめる。高架下へつながる歩道をあるいた。
1000の心臓が波打った。
交番が見えた。二人の警官が周囲に目を配りながら立っている。
すでに自分の捜索願が出ているかもしれない。携帯端末の通話機能を停止し、発信電波をOFFにしていたので電話がかかってきているかどうかまったくわからなかった。おそらく家族や友人からかかってきたおびただしい数の着信通話があることだろう。
まるで犯罪者のような気分で、なるべくめだたないように顔をうつむける。そっと交番のそばを通り抜けた。
生ゴミと尿や吐瀉物の臭いがたちこめる薄暗い高架下をぬけ、百貨店の入り口までたどりついた。明るい雰囲気にほっとする。
携帯電話の地図に見入った。
「……どうしたの?」
近くでなんどか声がきこえた。
唐突に自分へ声をかけていることを悟った。びっくりして顔をあげる。恐れが心の角から急速に広がった。
が、意表をつかれた1000は相手を無遠慮にじっと見上げた。
テレビや雑誌でしか見たことのないような、洒落た細身のスーツを着た若い男が立っていた。痩せたスマートな体格を彩る染めたみじかい髪が日光を浴びて光っている。端正な立ち姿はこの上なく上品な空気をただわせていた。ととのった顔に柔和なほほえみが浮かんでいる。
若い男は、友人のような気さくさで声をかけてきた。
「道わかんないの? 案内するよ」
つかのま、1000は青年の顔をまじまじと見つめる。こんなやさしげな男は今まで見たことがなかった。
高校では進学コースと一般コースでクラスが分かれており、一般コースの文系クラスは男子の数が少ない。そしてクラスに属している男子生徒は一部の女子生徒に占有される。地味な1000とその友人には回ってこないのだった。
結局、1000が中学、高校生活でまともに男子と会話した経験などかぞえるほどだった。しかも、それらも真に望んでいた恋愛や肉体関係などからはるかに遠かった。学校の先生と恋愛関係におちいる生徒もいるが、それは彼女たちの間では“お手軽”、“ジジ専”とさげすまれている。
それゆえ、時ならぬ場所に出現した少し年上に見える大人の男は遠い存在であり、同時にあこがれの対象だった。吸いこまれているかのように目がはなれない。
青年が苦笑いした。
1000はようやく自分がなにも答えていないことに気がついた。ほおが熱くなった。取り繕うように努めて明るい表情を浮かべた。
携帯端末に地図を表示させる。
「おおきに。ここに行きたいんじゃけんどな」
1000は緊張した。ナンパされているのかもしれないと考える。むねが高鳴った。ともだちとコンサートにきたときも、ナンパされた経験はあったが、そのときは相手をちゃかしながら立ち去るしかなかったことを思い出した。じつは話をきいてみたいという好奇心があったのだが、いきなり見ず知らずの相手と親しくすることに不安や恐怖が拭いきれなかったのだった。
青年は明るい笑い声を上げた。
「きみさー、観光で来たの? かなりなまってるよね」
いきなりバカにされたような気がした。むっとした声を出す。
「ほうで?」
「あ、ごめんごめん」
青年は大げさな身ぶりであやまった。
「ここならすぐ近くじゃん。歩いて10分かかんないよ」
「どのへんにあるんで?」
たずねる1000に、青年はやさしげな声を出した。
「その前に、ちょっとどっか座ってハナシしようよ。どうせすぐ着くんだしさ。そこにスターボックス(スタボ)あるから」
それとなく促す男の誘いに、1000はためらった。
さっさとホテルで荷物を預けたいという気持ちもあったが、好青年一緒に入る喫茶店という誘惑に負けた。
「ええじょ」
上京して早々、男から声をかけられるという状況に1000はすっかり舞い上がっていた。
カルガモのヒナが親についていくような素直さでに青年のあとを追った。
テーブルについた1000はいくぶん気後れしていた。
目の前にカウンターから受け取ったあたたかいココアが湯気をあげていたが、口をつける気になれなかった。
周囲を飛び交う標準語や、すみずみまで配慮されたきれいな店内、客の派手な、あるいはしゃれた服装は空気まで明るく軽くしているかのように見える。
一方、重苦しい制服のコート、安物のマフラー、履きこんでつやを失った革靴、子供っぽい柄のキャリーケースはあまりに店内の雰囲気から浮いていた。唐突に恥ずかしさでこの場から逃げ出したくなった。
テーブルの向かいに腰かけた青年の様子をうかがう。まったく気にしているようすはない。ちょっと安心した。
「これからどこか遊びにいくの?」
青年の質問に、1000は答えた。
「まだ決まっとらん」
「へー? 旅行じゃないんだ」
「そうじょ……」
家出してきたことがばれないように1000は思惑を凝らした。願いがかなわないうちに親元に連れ戻されたくない。きっととんでもなく怒られることだろう……。
「……こっちに引っ越してくるんやけんど、その前に仕事をさがしよるんじょ」
「あー、そーなんだ。それだったらさ、おれ紹介できるよ」
「え! ほんまで?」
つい1000は驚きの声をあげる。同時に暖かい毛布のような安堵が体を包み込んだ。渡りに船とはこのことだった。小遣いは全額持ってきたものの、毎日ホテルで過ごすとあと一週間程度で尽きてしまう。
青年は滑らかな動きで、ポケットから手のひら大の四角いケースを取り出した。金属のかるくふれあう涼しい音がきこえる。ふたが開いた。1000は初めて見る青年のしぐさに感心し、遠慮を忘れてじっと見つめる。
青年は四角い紙をテーブルに置いた。
「これおれの紙名刺。モデル事務所のスカウトやってんの。仕事とかすぐ決まるよ」
名刺には携帯端末で情報を読みとるための複雑な模様のほかに、会社名と青年の名前が印刷されていた。
「モデル事務所?」
空腹だった動物がエサに飛びつくような勢いで1000はたずねる。
青年は穏やかなほほえみを絶やさずうなずいた。
「うん。聞いたことあるかな。モデルの人が仕事するには事務所に入らないといけないんだけど」
1000のむねが高鳴った。からだの温度が急にあがったような気がした。のどの奥からおさえきれない言葉がとびだした。
「あの! わい、AGPに!」
声がいつもより高くなっていた。男は少しおどろいたように首をかしげる。
「え?」
心を落ちつけようと、1000はテーブルのココアを口に運んだ。ひといきに飲もうとする。熱さを完全に失念していた。
あわててテーブルに紙コップをもどす。紙ナプキンでくちびるを押さえた。ひりひりと痛む。
「あっつう……」
「大丈夫?」
心配そうな面持ちの青年が顔を寄せてきた。まるで恋人同士のような気がした。が、今は目の前に突如として出現したモデル事務所の方がはるかに重要だった。
適当にうなずき、興奮してかんだかくなった声をおさえつける。なるべく冷静そうによそおって話を続けた。
「AGP48にははいれるんで?」
青年は顔をほころばせて軽やかな笑いごえをあげた。
「はいれるよ。オーディションとかあるけど、君くらいかわいかったら大丈夫」
青年は熱を込めた調子で言った。心臓が大きく波打った。激しく押し出される血液の中にヨーグルト味の甘いキャンディが溶けたような気がした。体の芯が高揚して震えた。またしても興奮をおさえきれずに大きめの声をあげてしまう。
「ほんまで!」
真剣そのもののまなざしを青年にむける。
青年はなだめるようになんどかうなずいた。
「間違いない。すぐにでも段取りつけるよ」
とつぜん1000はぺこりとおじぎした。テーブルの紙コップに前髪が触れてかたかた揺れた。
「よろしくお願いします!」
青年は携帯端末をとりだしながら質問してきた。
「いつ空いてる?」
「今日でも明日でも。早いほうがええ」
1000の熱を帯びた声が答える。
電話で男は会話をはじめる。
エサを待つ愛玩動物のような神妙さで1000はじっと青年を待っていた。青年への信頼感が体内でクモの巣のように張りめぐらされて絡み付いていた緊張をほどいていった。入れ替わりに大声を上げて走り回りたくなるような幸福感が膨張してきた。
「じゃ、今から事務所に行こう。そのときくわしくハナシするから。」
電話を切った青年が、話しかけてきた。
「事務所ってどこにあるんで?」
「案内するから心配しないで。その前にホテルに荷物置いていく?」
青年は席を立つ。1000はココアの入った紙コップをとった。椅子を戻し、キャリーケースの車輪止め(キャスターストッパー)を外す。
あわただしく荷物を運ぼうとしている1000へ男は手をのばす。
「荷物持つよ」
キャリーケースのとってを青年がひっぱった。照れくさそうに1000は礼を言う。
「……おおきに」
警戒心をといた1000は青年に従った。
ふと空を見上げると、ビルの上には青空が広がっていた。午後の透明なひざしのなか、8の字が白々とうかんでいる。
つきあげる衝動のままに力いっぱい手をふった。
「わい、がんばるけん!」
目を丸くする周囲のひとびとを気にもとめず、空に向かって声をかけていた。
***
一週間後、1000は都内のマンションで生活していた。
渋谷で出会った青年の紹介によって、小規模な芸能事務所に即日採用された。AGP48入団をめざす練習生として認められたのだった。マンションはそこの紹介で入居することになった。
面接と言っても、どこか都心の雑居ビルでみばえのしない数人の男女と口頭で二十分ほど話をした程度だった。すぐに分厚い契約書と練習生向けの規約、マンションのカギを受け取った。
将来のAGPのメンバーオーディションをめざして、住み込みでエステやレッスンを受けつつ、AGP48やその他の同じ事務所に所属するアーティストのPR活動に従事する生活が始まった。
スケジュールは全て事務所が決めていた。
今日は、午前中の一時間ほどダンスレッスンを受け、声質矯正のために病院へ行った。
声質矯正では声帯に薬物を塗布することで声質を変化させる簡単な手術を受けた。一週間弱で声がみるみる変化したのが自分でもわかった。
午後は自由時間だった。ただし今日は初めて深夜からPR活動に従事するように連絡をうけていた。PR活動の有無は直前までわからないと事務所の人間から説明をうけていた。
古いマンションの部屋はせまかった。
日当たりが悪く室内でもそうとう冷えこんだ。設置された暖房器具をフル稼働させても暖められた空気はどこかへ抜けてしまうのか部屋はさむいままだった。
1000以外の住人とはいまだに顔を見たことがないが、うすい壁から声がつつぬけになっており、数人が住んでいることはたしかだった。田舎の一軒家で自分の部屋をあてがわれていた1000にとって実に暮らしづらいこの部屋の家賃はかなり高額だった。
部屋にいても寒いだけで自由時間のあいだは観光がてら街中を旅行情報誌片手に散策することにしていた。
人の混雑する中へ出ると初めて上京した時とおなじくなんどもスカウトに声をかけられた。はじめはていねいにことわっていたが、なかなかはなれてくれないこともあって、徐々に無視することがもっとも効果的だと学んだ。
毎月のレッスン料、マンションの家賃、食費、光熱費、そのたもろもろを考えると、とうてい贅沢はできなかった。それどころか月末にすべて支払うことができるかどうかもあやしかった。京のところは “好野屋”で安い食事をとったが、近いうちきびしい節制が必要だった。
しかし高熱に浮かされたように気分は浮き立っている。
不安はたしかにあったが、それ以上にあこがれの土地、東京に住んでいる嬉しさのほうが強かった。
さらに、一週間の間まったくの無収入だった1000だったが、今日ははじめてのPR活動が割り振られていた。PR活動に参加したときには日払いで給料がもらえることになっていた。
開始は夜の0時からだった。
場所は都内のコンサート会場にちかいマンションの一室が指定されていた。仕事の内容は熱心なファンに個別にPR活動を行うとのことだったが具体的な内容はほとんど知らされていない。ただ、AGPメンバーの“和田鍋繭宇”に似せてメイクするように言われていた。“和田鍋繭宇”はAGPのなかではみんなの認める美貌によってAGPの主要な位置を占める実力をもつ若手メンバーだった。
1000が事務所に採用された際、事務所の人間から“和田鍋繭宇”と容姿が似ている事が採用の理由だと言われていた。まんざら悪い気持ちはしなかった。
家具のほとんどないマンションの自室で1000は念入りに身支度をととのえた。昼間に街中で見た天気予報では雨が降るとのことだったのでバッグの底におりたたみ傘を用意する。途中で雨にぬれてメイクが崩れることだけは避けたかった。きょうは大事な日だった。記念すべき練習生としてのPR活動初参加の日だった。
いよいよ練習生としてAGPの活躍に少しでも関わりあうことができると思うと、自分は他の人と違う特別な人間だという気持ちになる。密かに夢見ていたことがやすやすと現実になってゆく。行く先には輝かしい未来しか存在しない。体内から光があふれ出るかのような感覚をおぼえる。暗くよどんだ空の下でさえ、自分の目の前には淡い光が立ち上っているようだった。
羽を踏むような心地で足どりも軽く目的地に着いた。
1000はインターホンのボタンを押した。
「あの、PR活動しにきました。白桃井1000です」
インターホンから女性の声が聞こえる。
「どうぞはいって」
うながされるままに室内に足を踏み入れた。
そこは、1000の期待を裏切って、華やかさのかけらもないうす暗い陰気くさい場所だった。
異様な雰囲気にとまどう1000の目に飛び込んできたのは、雑然とした書類棚に囲まれた中年女性だった。
地味な服装の中年女性はいらいらしているような不穏な気配をまとっていた。鋭い三白眼でにらみつけてきた。
1000はドアの前で立ちすくむ。
中年女性の目の前にそまつなイスがあった。ビニールがやぶれている部分に貼りつけたガムテープが汚らしい。中年女性はイスを指さした。中年女性はしかりつけるような声を出す。
「はやくここに座りなさい!」
「はい!」
あわてて中年女性の前にあるイスにこしかけた。イスがきしむ。
中年女性の三白眼が、えぐるような視線を送ってくる。
「白桃井さん?」
中年女性の質問におびえつつ返事する。
「はいっ!」
「簡単に説明するから」
事務的な口調で中年女性は早口でささやいた。
何の説明が始まるのかわからなかった。質問をしようとする。直前にさえぎるように中年女性が口を開いた。
「あなたはもう契約書には目を通してるよね? そこはきちんと言われてたはずですので、それを前提として話を進めます」
契約書といわれて漠然と分厚い本のようになった紙の束を思い出した。面倒くささのあまり表紙しか読んでいない。
中年女性はいっさい気にするようすもなく淡々としゃべりつづける。
「PR活動と一言で言ってもバックダンサーからステージの片付けまで、いろいろな内容があることは知っていると思います。そのうちの一つにファンとの親密な交流というものがあります。
AGP48(うち)は基本的にキャラクターユニットシステムをとっていることはもう聞いてるでしょ。“小渡島由布子”、“西野田鞠子”“鹿皺木麻裕”という名前に、歌専門、ダンス専門、トーク専門みたいなプロフェッショナルが集まってひとりのキャラを作っているの。
アニメのキャラなんかわかりやすよね。設定を作る人、絵を描く人、声を出す人って分業してね。ま、そんなかんじでひとりのメンバーには何人もの力が結集しているわけです。素晴らしいでしょう、みんなの力で一つのものをつくりあげてるんだもんね。
で、そうしたプロフェッショナルのなかには、あまりおもてに出ない裏方の人たちもいて、そのうちのひとつが、コミュニケーション専門の人。ファンとの握手会、ハグ会、キス会、あと、ヤリ会……。
それをあなたにやってほしい」
間近でまくしたてられることばの行列に1000はただ圧倒されるだけだった。ぼうぜんとしていると、中年女性は書類入れから新しい紙をひっぱりだす。
白い四角い紙には書類内容と携帯端末のカメラで読みとるための模様が印刷してあった。中年女性が一言、石のようにほうりだした。
「給与支払いの領収書」
照明がときおり点滅する薄暗さの下で白い書類は妙にまぶしく目にしみた。
***
1000ははでなホテルの前にいた。
心臓が狂ったように鼓動している。ほとんど切れ目もないほどだった。こんなに心臓が動けるとは今まで思ってもみなかった。手のひらが汗でぬれていた。
中年女性の見せる領収書に不器用な文字でサインしたあと、指示を受けた。
『これから行く先で“お客さま”に会うこと。
きちんともてなしなさいよ……あなたは、今から“和田鍋繭優”……“まゆゆゆ”になるんだから。AGPの一員として、わきまえて行動してね』
ここへ来る途中いろいろ考えてしまった。
(古参メンバーのキャラクターユニットに入ってよかったのかな? 強引に話を進められちゃったけど……。
正直、自分は自分としてメンバーになりたかった。いくら一番人気のユニットとして認められても、いまひとつ納得いかない。でも、まだ練習生としてもろくなレッスンもしていないし正式なオーディションも受けていないから当然かもしれない。
こういう下積みを経て、みんなメンバーになってるのかな?)
渡された地図をたどって着いた場所はせまい路地が入り組んでいた。道にはゴミが落ちており、生ゴミ臭がただよっている。不気味な裏路地をガマンして通りぬける。
やっと着いた場所は、派手なネオンの看板がまぶしい建物だった。
おそるおそる入り口を通り、フロントで地図をかねた利用券をわたす。
「どうぞ」
入室をうながされる。中年女性に教わった部屋へとおもむいた。
ドアのカギは開いていた。ノブをにぎる。一瞬、不安がむねをよぎり、いっそう心臓の音がはげしくなった。からだじゅうがひとつの振動する機械になったようだ。呼吸をとめ、おもいきってドアを押す。
部屋のなかから声が聞こえる。大人の男だった。
「だれ?」
緊張が極限に達し、声をうしなった1000は棒立ちになった。
ひからびたのどからかすれた声をしぼりだす。
「あの……」
部屋のおくからあらわれたのは、地味な中年男性だった。年齢に応じて小じわの寄った皮膚、小さい目、大きめの頭に生えた髪の毛はうすくなって地肌が光っている。よくあるかたちのメガネ、胸元をだらしなく開けたワイシャツ、少し出たおなか、スラックスをはいた長くない足に、ちょっとよれた白いスリッパをつっかけている。
どこにでもいそうな、無表情に歩いたり立ったりしている会社員だった。
中年男性が顔の中央からぐしゃりと顔をくずしたように見えたのは笑顔らしかった。これといって特徴のない声を出した。
「あ、ようこそ。道に迷わなかった? このへんごちゃごちゃしてるから」
「大丈夫です」
反射的に返答する。
中年男は触れた箇所に粘りついてくるような感触の視線を1000の顔や体に丹念に這わせた。しゃがれた声ではしゃいだように歓声を上げた。
「おお~、初めてのわりに結構“まゆゆゆ”に似てるね~」
「はい」
無愛想に小声で返事した。愛想よくふるまうべきだと頭では理解していたが、中年男の発散するつかみ掛かってきそうな圧迫感に対する本能的な嫌悪が、顔の表面を石膏で固めたようにこわばらせていた。
そっけない態度にいくぶん中年男性は機嫌を損ねたようだった。露骨なしかめ面で顔をゆがめた。
1000の背中を冷たい水滴が駆け下りる。もう少し愛想よくしないといけなかったのかもしれないと猛省する。不安で顔色が白く色褪せた。ぎこちなく唇の端を吊り上げ、上目遣いに男を見上げた。
中年男はすぐに機嫌を直し、相好を崩した。ベッドを指さす。
「まあ、座ってよ」
「はい」
男の現金な態度に軽蔑をおぼえた。自分の気持ちを曲げて愚かな相手に媚を売ったことに対する屈辱と羞恥で頬に血が上った。
石を呑んだような重い気分を抱えながら、なにが起こるのかわからないながら言われるままに腰をおろす。そのすぐそばに中年男がすわった。
1000は飛び上がりそうなほどおどろいた。
中年男の手が腰のあたりをつかんできたのだった。さらに体をくっつけるように近づき、ひざのうえの手をにぎってくる。えぐみのあるすっぱい刺激臭が鼻を刺す。鼻孔の中に男の臭気が入ることを全身が拒否しているように、息を吸い込むことができなくなった。
中年男は笑った。
「ガチガチだね」
「ダイジョーヴです」
ほとんどパニック状態になりつつも返答する。なぜか自分が混乱していることを悟られないようにふるまっていた。ただ仕事に対する義務感と、たった一人東京に来てだれも頼ることができないという不安が1000を強烈にここに縛り付けていた。
男が異様な親密さで話しかけてくる。
「初めてって聞いてたけどやっぱいいよね。この初々しい感じってさ。すごい緊張してる?」
どう対処していいか皆目見当がつかない状況に放り込まれ、頭が混乱している1000はひたすら生返事を返す。
「はあ」
中年男性が必要以上になれなれしく声をかけてくるのが、理解できなかった。父親をふくめて街中で見かける中年男性というのはなんとなくうすぼんやりとして、石のようにだまりこくってせかせか歩いているブサイク機械のようなものだと完全にタカをくくっていた。
しかし、いま目の前にいるものはまったく違っていた。
ねばっこく光る目で遠慮なく1000の顔や服を見つめ、からむような声を出して話しかけてくる。さらには気安く体をべたべたとさわってきさえする!
「あの」
小声で必死に呼びかけたが、男は何も聞こえていないかのように平然と1000を押し包むように体を密着させてきた。男の手のひらがおなかに押し当てられていた。不気味な体温が伝わってくる。男は早口にしゃべり続けている。
「最初はだれでもそうだね。でもすぐになれると思うよ。ぼくは特別優待会員だからたまにトレーナーじゃないけどファーストインプレッションというか、フロンティア的な役割を受け持つことがあるけど、結構な大任で気疲れする毎日だな」
男の手のひらが胸元に這い上がってきた。
「はわっ」
「これも出資者としてきちんと商品の素材を自分で確認するという大事な仕事だと思うと責任感に押し潰されそうになることもある。でもそこで立ち止まってはいけないよね、人はいつも希望を追う旅人なのだから……」
おぞましさはほとんど恐怖にまで高まっていた。1000は歯を食いしばって耐えている。不快感が体内で猛烈な勢いで膨張しはじめる。
ついに耐え切れず、男の手を振り払った。手のひらで顔を覆って赤ん坊のように体を丸めた。両脚を引き寄せてベッドに乗せる。
男は息が荒くなっていた。得体のしれない笑みを照り輝く顔に浮かべて尋ねる。
「君さ、ここに何しに来たかわかってんの?」
わずかの沈黙の後、精一杯の精神力をふりしぼって1000は答える。
「お……お客様を、おもてなし、するためです」
中年女性に言い含められたままの文句をくりかえす。
「そうだけど、具体的になにするの?」
重箱のすみをつつくような質問に1000はいいよどむ。
「あ、あの、お話とか……」
わざとらしく困ったように眉のあいだにたてじわを刻みこみ、男は息を吐き出した。1000はひそかに呼吸をとめる。口臭を嗅ぎたくなかったからだった。怒ったようなくちぶりで中年男性は批判を口にした。
「きみねー。何も聞いてないの? 知らないままここに来てなにするつもりだったの? そんないいかげんな態度でなにが大丈夫なの? ね、なにが大丈夫だって言ったの?」
1000はうつむいた。反省したそぶりでつぶやく。
「ごめんなさい……」
興奮してきたのか中年男性の顔が赤みを帯びた。声にいっそう張りが出る。
「いやいや、そうじゃなくて。ごめんなさいとか求めてなくて。いま欲しいのは具体的な答えで」
「はあ……わかりません」
つくづく嫌気がさし、なげやりに答えをかえす。それきり、口を閉ざした。
厳重に押さえつけていたものの、苛立ちが炎となって体内に広がりつつあった。それから中年男性はなんどかしつこく答えを請求してきたが、1000は無言をつらぬいた。
いっそうおおげさに中年男性は声のまじったため息をついた。
「もういいよ、まったく困ったね。今晩はゆっくり教えてあげるから、ここで待ってなさい。ぼくはシャワー行ってくるから、すぐもどるからねっ」
そっとすぐ中年男性のようすをうかがう。顔がふくらませたように丸くなり、紫色に染まっている。憤懣にゆがんだ醜悪な顔付きだった。脂ぎった目を丸く見開いて1000を見据えている。
自分のような小娘を威圧しようと必死に目を剥く滑稽な男の姿にただ軽蔑の眼差しを向ける。すでに1000は男の怒りに反応する気持ちを失っていた。無関心に男から目をそらし、シーツの皺を目で追った。
状況に慣れ、すこし余裕のできた1000は噴き出しそうな怒りを必死に押さえつけていた。なかなか声が出なかったので何度か咳払いしてから、ようやくかすれた声で返事する。
「はい。わかりました」
男はもそもそと体をゆさぶった。
1000は驚きのあまり声が出なかった。男はだらしなく着ていた服をむしりとるように脱ぎ捨てていた。男のたるんだ肉体があらわになった。適当に放り出された服がベッドの上にわだかまった。
全身が震えだした。恐怖よりも怒りがまさっていた。
男が寄り添っているときは押さえつけられていた怒りが突然体中をかけめぐっていた。いきおいよく立ちあがる。
恥ずかしげもなく、むしろ裸体を誇示するような様子を見せていた男から顔をそむけた。
ドアに向かって歩きだす。
1000の背中を、とまどったような声が追いかけてきた。
「おいおい! ニセ“まゆゆゆ”ちゃん! 待ってよ」
1000はドアノブに手をかける。とつぜん、からだの自由がきかなくなった。男が1000を抱きすくめていた。
「どこいくつもり? 急にどうしたんだよ」
うわずった男の怒声が頭の上からふりかかる。反射的にちからいっぱい暴れまわる。男はよろめいた。
男はてこずったようにとぎれとぎれに声をあげた。
「ちょっと! 何やって! んだよォ!」
1000は金切り声を上げた。
「離してくれんで!」
ごつごつした感触がかおの下半分をつつんだ。胴体をしめつける力が、鋼鉄のようにかたくなる。少しだけ余裕のあった体が、がっちりとしばりつけられたように動けなくなった。
絡み合ったまま丸太のように床に転んだ。ケバ立ったじゅうたんを敷き詰めた床から犬小屋のような臭いがした。逆立った硬い毛が針のように肌を刺した。
男は1000の耳に煮え立つ寸前のような言葉を流し込んできた。
「静かにしろよ、さわぐんじゃねえよ」
背中が凍りつく。中年男性に拘束され、圧倒的な腕力の差にいまさら気がついた。熱していた頭が急に冷えた。身動きをやめ、クギのようにまっすぐ体をこわばらせた。
1000が抵抗を放棄すると、ゆっくりと男の手が顔からはなれた。
「もう暴れないな?」
男の猫なで声に答える。
「離してください」
体のうえに、男の太った肉がおおいかぶさって動けない。見上げるとほとんど触れそうな場所に男の顔が浮いていた。1000は思わず横をむいた。
「離したらどうするんだ?」
中年男性は問い詰める。1000は何も考えることができず、思うままを口にしていた。
「帰ります」
男は激怒した。密着している男の熱が急激に上昇した。
「ふざけんな!」
首の周りを、男の太いがさついた指の感触がおしつつんだ。
のどがつまった。息ができない。突然ものすごい恐慌が頭の中で爆発した。さっき暴れたときとはまったく異なり、全身全霊をふりしぼってのたうちまわった。床の気持ちの悪い肌触りや、なににもたとえられない中年男性の不快な臭いなど、瞬時に脳内から蒸発した。
目に見えているものが意味を失い、明暗のはげしいざらついた写真のように変貌した。
苦痛だけが全身に充満した。苦しさだけで膨れ上がった風船のようにからだがはじけそうだった。
胸がおさえようもなく上下し、空気も入ってこないのにもかかわらず不毛な動きをくりかえしていた。
みるみる視界が暗くなる。暴風の中に巻き込まれているような轟音が耳を圧した。
無限に続く苦悶の暗闇の底に落ちたかのような長い時間の後、突如として明かりが額の上から差し込んだ。
「あひぁっ……!」
のどが調子の外れた笛のような音をあげた。1000の首に絡んでいた男の指は今は宙に浮いていた。
のどに酸素が流れ込み、視界が明るさを取り戻した。
頭のてっぺんから足先までからだ全体がポンプと化して、せわしない呼吸運動に従事した。
1000はなんども咳き込んだ。あふれる熱い涙でまわりの光景がくもった。とがった破片となって頭蓋骨を破壊しそうなほどの痛みがせわしない鼓動と共に激しく脈動した。
「おい、いいかげんにしてくれよ」
男の声が地響きのように響いた。すでに男に対する蔑みも憤りもなくなっていた。ただ恐怖だけがあった。1000は完全に男に屈服していた。
ついさっきまで自分は自分しかいない貴重な人間、相手はどこにでもいるくだらないオヤジ……と見下していた中年男に対して恥もプライドもなくひれ伏していた。
「ごめんなさい……許してください、お願いします……」
中年男性は口の中で文句をならべる。
「ぼくだって暴力は振るいたくないよ。けどね、いくら株主ってもこっちは時間単位で金を払ってるんだよね。シークレットのヤリ会までこぎつけるのにいくら会費払ったと思ってるの? なのにごちゃごちゃとトリッキーな行動で時間つぶして逃げようとして……
そんなにぼくがいやなの? 君のカレシと同じことをしようとしただけなのに、きちんとお金を払ってるのに、それでも君には々人間として認めてもらえないってことなの? それって一体どういうことだよ、世の中金がすべてなのに金を払ってもダメだって言うのか? まだ金が足りないって言うのかよ? だったらいったいあといくら金出しゃいいんだよ知らない男に体売ってるオマエがどれだけ高価な人間だってんだよ!」
怒りにこわばった男の顔は引きつって平たく引き伸ばしたようになっていた。狂ったようにわめきながら迫ってくる。
1000の頭のなかでいくつもの感情がわきあがり、処理しきれないほどに渦を巻いていた。体の表面に発露する感情を押さえつけようとしても、無駄に終わった。
「すみませんでした……」
すすり泣きながら何度も口にする。
男は急に冷静さを取り戻し、1000がひたすらくりかえす謝罪を小気味よさそうに見おろしていた。
しばらくして絶え間なく全身を圧迫していた重みが軽くなった。手首をつかまれている。
中年男性は立ち上がったようだった。1000の腕が上にひっぱられた。
おどすような口調で男は念をおした。
「じゃあ、ベッドで寝てよ」
1000は立ち上がる。一瞬でも体が自由になったことで、心の中に迷いが生じていた。
「わかりました」
しおらしく返事する。男は執拗に1000の腕をつかみ続けている。なにげない風をよそおって1000は付け加えた。不思議なことに、ここが勝負どころだと考えたとたん、乱れた思考かが一本の綱のように固くまとまった。
「あの、バッグ……」
床の上におちているバッグを指さす。少しベッドから離れたところに転がっていた。男におしたおされた時に部屋のすみまで飛んだらしい。
男は舌打ちした。
「わかったよ。僕が拾うから」
バッグをとりに歩く。1000から手をはなした。
その瞬間、1000は猛然とドアにとびついた。いつまた背後から男の山のようなからだがのしかかってくるかという恐怖におびやかされる。
ロックを解除し、ドアノブをまわす。
それだけのことがおそろしく手間のかかる作業におもえた。飛ぶように時間がすぎ、まるで何時間もドアとむきあっていたかのような錯覚すら感じる。
体当たりするようにドアを開ける。ほのくらい廊下の冷気がほおを打った。細く開いたすきまにすべりこむ。
部屋の外にでた。
飛び降りるような勢いで階段をおりる。落ちるかもしれないという不安で足がすくみそうになる。本能的に萎縮するふとももに抗いながら、懸命に両脚を回転させた。
体をあちこちにぶつけながら階段をおりきった。せまいロビーを大またに横切る。入り口のドアにしがみつき、ホテルの外に走り出た。
外は雨がふっていた。かまわず飛びだす。
やみくもにせまい路地を駆けぬける。なんども道をまがり、水しぶきをはねとばしながらアスファルトをふみつけた。
ほどなく限界がきた。脚に力が入らなくなった。
呼吸が間に合わなくなったかのようだった。空気をもとめて口をひらくが全然足りない。体中にひきのばされるような痛みが鼓動する。はげしい頭痛が立っていようとする意思をたたきのめした。
地面にひざをついた。ほとんど四つん這いで道のはしに寄る。建物の壁にもたれて座りこんだ。
雨粒が数えきれないほど体のうえではじけている。かかとがクギでもねじ込まれたかのように痛かった。
しばらく身動きできなかった。
余裕を取り戻してあたりを見まわすと、そこはひと一人がようやく通れるような狭い場所だった。激しい震えが体をはいのぼる。冬のさなかに雨でずぶぬれになっていた。寒さが体の芯まで蝕んでいた。
折り畳み傘はバッグごとホテルに置いて来てしまった。
少しのあいだ脳裏から去っていたホテルでの出来事に思いが及んだとたん、気分が落ち込んだ。
(やってしまった……)
後悔してもしきれなかった。結局、お客さまをもてなすことはできなかった。PR活動は大失敗だった。悪いことをしてしまった、といまさらのように罪悪感がわいてきた。
(ホテルのオヤジはともかく、事務所のオバサンは怒るかな。いや、オヤジにしてもお金がどうとか言ってたし、それで損したんだったら、なんだかかわいそうな気もするかも。それから……。
あたし……もう終わったな)
立つことができないほど、心が重くなった。
ひっきりなしに落ちてくる水滴のむこうをすかして、見あげた空はのっぺりとただ一面に暗かった。星ひとつどころか、8の字の名残すら見えなかった。




