家出
うっすらと青みがかってきた深夜の空に、大きな8の字が浮かんでいる。
日本上空に滞空する人工衛星の残した航跡だった。毎日定時の通信を行う為に宇宙空間に放出する微小アンテナが残留し、太陽光を反射しているのだった。一年を通し、衛星の位置は徐々にずれるため8の字を描いている。太陽が均時差によって描く軌道と似ていることから、その名を借りて“アナレンマ”と通称されていた。
あたりには冬の冷たい空気が張りつめていた。
アスファルトの長い道路がうすぼんやりと夜の中に浮かび上がっている。道の左右は土塊に覆われた田んぼが一面に広がっていた。道の行き先には真っ黒な山がうずくまっている。
1000はためらいがちに立ち止まっていた。
見慣れていたはずの近所の景色がまるで別世界のようだった。たった一人、別の世界に迷い込んでしまったような気がした。冷たい手のような恐怖がうなじをつかんだ。
1000は頭上に静かに輝く8の字を見上げた。じわりと8の字がにじんだ。手の甲で目をぬぐう。手袋の毛糸がちくちくとまぶたを刺した。
ふーっと1000は息を吐いた。火が燃えているような胸の底がわずかに冷えてゆくような気がした。
息を吸い込もうとすると鼻水が音を立てた。制服とコートのポケットを探るがティッシュペーパーはない。荷物でいっぱいになったキャリーケースの側面に付いているポケットを開いた。見つけたポケットティッシュで鼻をかむ。
丸めたティッシュをコートのポケットにしまう。マフラーで口元をおおった。
鼻水をすすりながら1000は歩き始めた。
涙を浮かべ、勝手にこみあげてくる泣き声を必死に押し殺しながら、乱暴にキャリーケースをひっぱった。固い道路にタイヤがぶつかり、耳障りな音をたてた。かっとなって声をあげる。
「ああもう! ヘンなとこで引っかからんで!」
アスファルトに反響した余韻がしんと静まり返った周囲の空気にしみこむ。
早朝の静けさに思いがけなく響き渡ったこだまにおびえた。キャリーケースは1000が力任せに引っ張る方向へ不器用に身じろぎした。車輪の付け根がきしみ、1000の体に突き刺さるような騒音をたてる。
怒りに満ちた目でキャリーケースを睨みつけた。立て付けの悪くなった車輪は修学旅行の自由時間で道の脇にある大きな石にぶつかって以来だった。すでに半年以上前のことだった。
身近な出来事を思い出すと同時に両親の顔が頭に浮かんだ。両親は1000に対して不機嫌そうな、怒りの表情を浮かべている。
1000は歯を食いしばった。
「おとーはんも、おかーはんも、そんながいに言わんでもええでないで……わい、もう帰らんけんな!」
1000の口から怒りに震える声がこぼれた。
ほんの数時間前の光景がまざまざと目の前によみがえった。
***
Ⅰ wait you!(あいうぇいちゅ~)
Ⅰ meet you!(あいみーちゅ~)
Ⅰ life you!(あいらいふゅ~)
たましーいーのむこーう
シンシンしみるMUTED
ヘビーーーコーテーション!
て~~んて、てんてんてんてんてんてんて~てて~んてて~ん、て~んてんてんてんてんてんててててて~ん
モニタでは歌番組が放映されていた。
その中に、ひときわきらびやかな衣裳を身にまとって笑いさざめ少女の集団がいた。
四人の家族は絵画のように壁に貼り付けられた60インチの薄型画面を眺めていた。
昨日の夕食後のことだった。
居間に家族が集合していた。父、母、1000の三人だった。祖父と祖母は定年を超えた老人が居住する施設で暮らしている。弟は学校の部活動で外出していた。
憧憬の視線でモニタを見つめていた1000はふと口を開いた。
「わい、AGP48に入りたいんじょ」
AGP48とはモニタに映っている女性たちのグループ名だった。最近一番人気のアイドルグループのことで、総勢50名近いメンバーをかかえる大人数が特長だった。
父と母がいつもとはちがう刺すような目つきを1000に向けた。予想もしていなかった両親の激しい変化に1000は戸惑った。
「あほうなこといわれんでよ。来年は受験やのに勉強ちゃんとせんといかんじょ」
母親に言下に否定された1000はかすかに怒りを覚えた。とっさに言い返す。
「あほうと違うわよ。本気で考えとる」
両親は途端に気色ばんだ。父親が侮るような口調で言う。
「本気って! ……それがあほうじょ」
母親も父に加勢する。
「ほんまじゃあ。冗談がきつすぎじゃわ」
ひっこみがつかなくなった1000は、しぶしぶ自分ひとりであたためていた計画を口に出していた。
「ちかいうち東京で住むつもりじゃ。ほなけん、春休みは東京に下見に行く」
1000は地方の公立高校に通う二年生だった。成績はごくごく普通でよくもわるくも目立つところはいっさいない、じみな存在だった。
来年、高校三年生に進級するにあたって、希望する進路を記入する用紙が学校で配られた。しかし、1000はなにも書くことができないまま提出期限をすぎてしまった。
中学、高校とのほほんとした暮らしがいつまでも続くような気がしていたが、いよいよそれも終わりを告げることがいまひとつ信じられなかった。しかし、我ながらやや漠然としていたものの計画はあった。
東京へ出てあこがれのアイドルグループ、AGP48のオーディションを受けるつもりだった。
おそらく担任から連絡をうけたのだろう、両親はいつになく厳しく面持ちで1000に希望進路を質問してきたのだった。
父は鼻先から笑い声をたててうつむいた。母のとがった視線が突き刺さってくる。
突然、のしかかってきた両親の圧力に抵抗しようと、1000は必死に説明を続けた。
「雑誌に書いてあったやけんどな、毎月、レッスン希望者をあつめよるらしいんじょ。そのレッスンを受けたら、月一で面接があって、それに受かったらAGPのメンバーになれるん」
母が、いまいましげな声をあげた。
「なにをあほうみたいなこと言いよるんで! AGPやら、そんなんなれるはずないに決まっとるでないで!」
きびしい叱責がムチのように1000を一撃した。衝撃が頭をゆさぶった。刃物で突かれたような痛みで胸が引きつる。
本当の希望を誰にも言わなかったのは、実は自信がなかったからだった。だが、両親だけは自分の希望に賛成してくれるとなんとなく考えていた。それがくつがえった。
激しく動揺し、反射的に言葉を返す。なぜか声がかすれていた。
「あほうやない、ちゃんと考えとう!」
父が顔を上げた。めったに見せないいかめしい表情だった。
「そんなん考えとるうちに入らんでよ? もう子供とちがうんやけん、ちゃんと生活していけることを目指しない」
いつもより低い声音に1000はおびえる。母の声が追いかけてきた。
「ほんまじょ。おまはんはええ年して、何を言いよるんな。考えなおしい!」
突然、1000の目頭が熱くなった。
「そんなん急に……いままでなんも言わなんだのに、何で怒るんで? わいを裏切っとうでないで!」
声が震えた。体が熱くなった。鼻の奥に針を刺すような痛みがはしる。涙がほおを流れた。自分でもわからないうちに泣き出していた。
むっとしたように母が言う。
「おまはんが相談をいっちょもせんかったからでえ! だま~っとるけん、もうちょっと利口かと思うとったんでよ。こんなあほうとは思わなんだわ! 裏切られたんはこっちじょ」
うんざりしたような面持ちで父は腕を組んだ。
「他の子らはそんなこと言うとるんで? お前だけやろ。ちょっと考えたらわかることでないで。三年はきっちり勉強して進学するんが将来のためやって、利口やったら誰でも思うとるはずやわ。高校生にもなってほんましょうもないこと言われん」
もう何も考えられなかった。両親の言う子供のように1000は声をあげて泣き出した。自分でもわからない勢いで涙と声がほとばしり、恥ずかしかったが止められなかった。
無遠慮な声が三人の中に割り込んだ。
「なにやりよん」
涙で熱くなった目で声の方向へ目をやる。
弟だった。部活から帰宅したばかりのようすだった。ジャージに学校のカバンを肩からかけている。
弟はふすまを細く開いたすきまから顔をだしている。見下ろすような目は、みっともなく泣きくずれている1000をさげすんでいるように見えた。
「あほうか」
つぶやく弟を母が叱った。
「おまはんは部屋に行っとりない! いらんこと言われん!」
惨めな気持ちが胸いっぱいに広がった。両手で顔を覆い、奇怪な動物のようなゆがんだ声を震わせる。泣くという行為に頭と体が占拠されていた。
母の声が聞こえた。
「今日はもう早よう寝ない」
声に促されるまま1000は立ち上がる。底なしにあふれてくる涙をぬぐいながら肩を震わせて居間を出た。
部屋へ戻るなり、まくらに顔をうずめてひとしきり涙を絞った。
気が済むと黙々と荷物をまとめ始めた。
いつのまにか家出をする決心がついていた。
***
黒い山影がのこぎりの歯のようにぎざぎざの輪郭で空を切り取っていた。ただ黒色にぬりつぶされていた空は青く透きとおりはじめている。
夜が明けるにしたがって気分が高揚してきた。
携帯電話を見る。薄明のなかに時計の文字盤が浮かびあがった。
時刻を見ると、すでに家を出てから二時間がたっていた。もうすぐ最寄の駅に到着する。始発に間に合う時間だった。
歩きながらなんども繰りかえして味わった悲しみや不安といった感情は、鮮度をうしなってぼろぼろになっていた。いれかわりに未来への好奇心や希望が湧いてくる。
「AGPになりたいんがなんしにいかんので?
わいは別にちやほやされたいだけやない。ちょっとでもええけん、歴史に名前を残したいだけじょ……
みーんな、そんなじーっとしとるんが好きなんやったら、ずうっと田舎にひきこもっとったらええんじゃわ! わいは絶対、有名になるけん……
そうなってもこんなとこ絶対帰ってこんけんな!」
頭上の8の字を追いかけるように足をはやめた。