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サン・オービット・インフィニティ・クラウン=ランデブー!!

穴から顔を出した途端、地面すれすれを猛烈な疾風が走る。

待ち伏せを予想していたので、警戒していたことが功を奏した。危ういところで亀のように穴の中に頭を引っ込めた。

LKと一緒に穴から飛び出した。

ライトニングイーグルとモスケンクラーケンがそれぞれコーナーポストの鉄柱を抜き取り、野球のバットのように構えている。

「よっけんじゃねェよ!」

モスケンクラーケンの一撃をLKと同時に受け止めた。

LKが声を張り上げる。

「オマエこそ調子にのんな!」

「泣きっ面にしたるでよ!」

声をあげつつ、二人で鉄柱を支える腕に渾身の力を込めた。

モスケンクラーケンの体が浮いた。

「うおォォォォォォォォおっ!?」

LKと共に鉄柱の先にしがみついたモスケンクラーケンを振り回す。鉄柱を高々と振り上げ、ライトニングイーグルめがけて叩きつけた。

重い鉄柱をかかえていたライトニングイーグルは逃げ遅れた。モスケンクラーケンの体ごと鉄柱の一撃をまともに浴びた。

「どおっぎゃーーーああああっ!」

“神製黄金雨”の二人はロープに飛ばされた。ぶつかったロープが二人をはじき返す。

跳ね返る二人のうちライトニングイーグルに飛びついた。素早くかかえあげ、後方に投げる。

落下寸前、ライトニングイーグルの体がふわりと浮いた。空中で一回転し、体を丸めて着地する。

「させんでよ!」

するどいドロップキックを見舞う。ライトニングイーグルはリングの端に転がった。

LKに投げ飛ばされたモスケンクラーケンは、六腕を使って落下の衝撃をやわらげていた。素早く立ち上がり、LKに襲い掛かる。モスケンクラーケンは六つの拳を振るい、嵐のような打撃をLKに降らせた。LKは防戦一方となる。

LKが緩慢な蹴りを出した。モスケンクラーケンの腕に組みとめられた。瞬く間に絡めとられた。

LKの体が浮いた。モスケンクラーケンに捕らえられた足が、精妙な動きで一本の腕を釣り上げた。LKの両手両脚が巨獣の顎のように食らいつく。

破壊音と共に、モスケンクラーケンの義手が幾重にも折りたたまれた。モスケンクラーケンの口から、怒りがほとばしる。

「なんてことをしやがるぅ! 殺すぞォ!」

LKはリングに身を投げた。モスケンクラーケンが追う。

ほとんど垂直にジャンプした。空中で体勢を整え、モスケンクラーケンの頭上から襲い掛かった。

頭部に両脚を巻きつけた。後方に自分の体を勢いよく傾け、相手のバランスを崩す。

が、モスケンクラーケンの手が一瞬早く1000の体を掴んでいた。強力な握力に釘付けにされる。

LKがパンチを出した。モスケンクラーケンは残りの腕で払いのける。腕が接触すると同時にLKの体がモスケンクラーケンに接近する。LKの前進に押し込まれるようにしてモスケンクラーケンの腕がへし折れた。

愕然とするモスケンクラーケンの隙をついて、さらに別の腕にLKは瞬間的関節技フリッカーロックをかける。

引き離そうともがくモスケンクラーケンの眼前で三本目の腕が破砕された。

ライトニングイーグルがLKの背中に飛びついた。巧みな身のこなしでLKはライトニングイーグルを振り払う。

モスケンクラーケンの顔面を両脚で踏みつけて飛び上がった。リングに倒れたライトニングイーグルに両ひざうち(ダブルニードロップ)を見舞う。苦悶の表情でライトニングイーグルはのたうちまわった。

背後から奇怪な断末魔の叫喚がほとばしった。

モスケンクラーケンだった。

「ぎゅうぉおおおおおおおおおおお!」

砕けた義手をぶらさげたまま棒立ちになり、天井を仰いでいた。ぽっかりと穴のように空けた口から獣のような叫びを放出していた。

あまりに異様な光景に思わず見入ってしまう。LKも同じだった。

固唾を呑んで見つめる前で、モスケンクラーケンは叫び声をあげながら赤コーナーへ走り出した。

「クソがァ! テメェらこの償いはしてもらうぜェェ!」

憎々しげに罵倒を浴びせかけられた。ダメージから回復したライトニングイーグルだった。起き上がり、モスケンクラーケンから遮断するように立つ。

LKが不審げに訊ねた。

「あいつ、いったいどうなってんの? 試合できるようなコンディションなの?」

「よけーえなお世話だぜーえ。多少、頭がどーおかしてて何が悪い?」

ライトニングイーグルが吐き捨てた。

激昂したLKが怒鳴る。

「お前らがおかしいのはいいんだけど! 勝手にしてよ! でもIX姉を巻き込まないで!」

鼻先で嘲笑を漏らし、ライトニングイーグルは答える。

「巻き込むだーあ?

シスターは罪を償ってんだよーお。元はといえばシスターの教えた格闘技のせいで、モスケンクラーケン(あいつ)は妹を殺すハメになっちまったんだからなーあ。あいつがおかしくなったのはーあ、シスターが原因なんだよーお」

LKの顔に驚愕の波紋がさざめいた。反駁しようとしたのか、唇が動いた。が、何も言わないまま口を閉ざす。

「どういうことで?」

不穏な気配を恐れるように声を潜めて訊いた。ライトニングイーグルはあいかわらず嘲るように口の端を歪めて言い放つ。

「んなのはすぐにわかんだろーお? バカかよテメーはーあ。よーおするにーい、そっちのデカい金髪キンパはシスターにレスリングの技を教わったんじゃねーえかーあ? あいつもそうさーあ。小学生とかくらいのガキのときにマジに教えてもらったんだとよーお」

苦渋の面持ちでLKがつぶやく。

「あたしの施設にIX姉が来たのって小学ショーガク途中くらいからだったけど、ぜんぜん教えてくれなかったよ。あたしは技を自分で盗んだんだから……」

モスケンクラーケンの調子の狂っただみ声が会話を中断させる。

「シスター! シスター! あたし(あっし)負けるのかなぁ!」

やさしげなほほえみを浮かべてIXは答えた。

「どうしてそんなことおっしゃるの?」

「あっし殺されるのかなぁ? ここで死ぬのかなぁ? むこうから妹が来るのかなぁ?」

極端な早口でまくし立てるモスケンクラーケンの状態は常軌を逸していた。

発音することに懸命なあまり言葉は石を投げつけるかのような乱暴さを帯びる一方、その意味は果てしなく薄れていくようだった。おびえきっているかのごとく落ち着きなく蠢く瞳には刺すようにするどい無機質な光が点っている。

あやすようにIXはモスケンクラーケンをなだめる。

「あらあらまあまあ、落ち着いてお話してね。ほら、深呼吸、深呼吸、フッフッハー、フッフッハー、ルルルルル、さん、ハイ」

IXに言われるままにモスケンクラーケンは胸を波打たせ、大げさに呼吸する。唐突に泣き顔になり、涙をこぼした。声を搾り出すように泣き出す。

「手が三本も折れちゃったの~」

「あらあらまあまあ、大変ねえ。それじゃあ、問題を出すので答えてね。六引く三引く二はいくつ?」

モスケンクラーケンは頭を抱え、眉をしかめた。

ライトニングイーグルは話を続ける。

「……あいつはかなりガチで教えてもらったらしいぜーえ。あいつもマジメに練習したってよーお。で、メチャクチャうまくなったらしい。勘違いもあって、レスラーの道に進んだわけだなーあ」

LKは釈然としない様子でグチをこぼす。

「IX姉、なんであんなのを優遇すんだよ。あたしには頼んでも教えてくんなかったのにさ」

「でも、真面目すぎたんだろーなーあ。うちもくわしいことは知らねーけどよーお、妹がいたらしい。JNIジェーニーっつって、ほんの一瞬だけ超天才新人レスラーって噂になった奴だよーお、知ってるかーあ? で、一緒に養成所に入って練習してたらしいんだがよーお、スパーリング中に絞め殺しちまったんだとさーあ。実の妹をな。あいつから直接聞いた話じゃねーえ。他の知り合いが言ってた噂だから、ホントのとこは謎だけどよーお。まあありがちな事故だな。でもありがちじゃねーえのは、それ以来あいつは絞殺マニアになっちまったところだなーあ」

LKは言葉を失ったようだった。かわりに話の続きをうながす。

「ほんまで?」

「マジさーあ。あいつはスパーリングで寝技の稽古になったとたんいきなりスイッチが入るんだよなーあ。ONになったら真剣に殺しにかかる。天才的な関節技のテクニックを持つあいつから逃げられるやつなんかなかなかいねーえ。先輩パイセンも危険だから敬遠するしよーお、練習生では死人続出さーあ。それ以来あいつは人間相手のスパー禁止―い」

これまで苦悩に顔をゆがませ、沈黙していたモスケンクラーケンは不意に大声を張り上げる。

「……イチ!」

「正解。えらいわあ。まだあと一本も多いのねえ」

「うん! 多いぞー!」

いくさは数が多いほうが勝つものなのよ。だから必ずあなたが勝ちます。妹さんは来ないから、子供はもうやめて大人に戻りなさいな」

丸く口をあけてIXの話を聞き入っていたモスケンクラーケンの顔付きが急速に変貌する。虚ろな顔付きをしている皮膚の裏側に明かりがともったかのように生彩を取り戻した。

落ち着いた口調で言う。

「シスター、悪りィな、ちょっと取り乱しちまったよォ……でももう大丈夫だぜェ」

笑顔でうなずくIXに背を向け、モスケンクラーケンは戦列に復帰する。

ライトニングイーグルが宙に浮いた。声高に宣言する。

「でかいのはうちがやってやるぜーえ! オメーえはオカッパをやりなーあ!」

「承知だぜェ! にききききき!」

三本の腕を揺らしながらモスケンクラーケンが飛びかってきた。無事な残りの腕を振り上げている。

後方へ跳んだが、追いつかれる。両肩に手がかかった。想像以上の重みか肩にのしかかる。

モスケンクラーケンの双眸が油にまみれたような照り返しに覆われている。唇の端に白く泡立った唾液が付着していた。

一見、正常に復帰したかに見えたが、危機的な精神状態が続いているような気配が滲み出ていた。

「帰れよォ、JNI! もう来るんじャねェ。そんなにねェちゃんを恨んでんのかァ? でもねェちャんはまだあの世には行きたくねェんだよォ!」

モスケンクラーケンの言葉に戸惑う。

「誰に言いよんで?」

聞く耳を持たないモスケンクラーケンの腕から逃れようと身をよじる。

「帰してやるァ!」

モスケンクラーケンの体が触れたと思った瞬間、体の自由が奪われていた。

凄まじい早業だった。

全く抵抗できないまま左右に振り回される。

絡みついた蔦が木を締め付けるように、モスケンクラーケンの体が1000の全身を巻き込んでいた。

「混沌の海獣固め(カオティック・クラーケン・ホールド)で全身をばらばらにしてやるぜェ!」

世界がたわむかのような猛烈な衝撃が全身を襲った。物理的とさえ思える痛覚の塊が体内で荒れ狂う。咆えるように悲鳴をあげた。

が、抵抗むなしくさらにモスケンクラーケンの圧力が増してゆく。渾身の力でもがいても微動だにしない。

絶望感が脳裡に空隙をうがった。体から力が抜けてゆく。

間断なく神経を苛む痛みは限界を超え、たちまち精神を歪曲させてゆく。

筋肉が押し潰され、骨がきしみをあげる。死力をつくした抵抗もほとんど無駄だった。徐々に相手の技の深みに落ちてゆく。

呼吸すらできない強烈な痛みが思考を麻痺させつつあった。ほとんど失神寸前に陥っている。


(苦しすぎる! これ以上はもう耐えられない!)


抵抗をあきらめれば、これ以上苦痛を受けずにすむ。そんな考えがひらめく。


(いっそのこともう終わらせて……!)


硬直させている体の力を抜けば、一瞬で片がつくことは察していた。

間違いなく全身の骨は粉砕され、内臓は致命的なまでに破壊されるだろう。死は避けられない運命のように思えた。

それでも現在の苦悶からわずかな時間でも逃れようとする誘惑が心を捕らえて離さない。なにより抵抗しようとしまいとこの地獄から逃れうる希望が寸毫も見出せないことが気力をむしばんでいた。

はかない抵抗すら放棄し、自らの命すら断念しようと決意する。

いまだ頑なに引きしめている筋肉の緊張を解けばいいだけだった。すでに抵抗を維持する為に凄まじい努力が必要とされていた。

肉体を弛緩させるだけで苦しみが終わる。

あきらめようとした刹那、青い瞳から閃光のように放たれる視線が視界に飛び込んできた。

LKだった。

LKは空中のライトニングイーグルから蹴りを浴びていた。額が赤く染まっている。頭を両手で覆い、ひざまずいた。

鮮血が顔を毒々しい紅色に染めている。まるで別人のような容貌になっていた。

しかし、まっすぐ見つめてくる空の破片のような青い瞳は変わらないLKのものだった。

LKの目は何かを訴えていた。

まるで今、降伏しようとしていたことを見透かしていたかのようだった。

LKの双眸にともった強い光が1000の心を射た。

LKはあくまで抗うことを、決してあきらめないことを求めている!


(そうだった、わたしだけの戦いじゃない!)


体の深奥に火がともる。

激痛にひるむ心を叱咤する。途切れかかった力をふたたび体中に巡らせた。猛烈な苦悶の波に渾身の力で抗った。

一秒一秒が永遠のように思える。

限界を超える苦痛は時間の終端をはるか彼方に延伸させ、世界をただ一個の肉体のみの空間へと縮小する。

何度も攻撃を受けながらLKはモスケンクラーケンの方向にライトニングイーグルがキックを出すよう誘導したようだった。待ちかねていたようにLKはライトニングイーグルの攻撃を回避した。

ライトニングイーグルが空中から放った蹴りがモスケンクラーケンをかすめた。

ほんのわずか、モスケンクラーケンの力が弛んだ。

いつ途切れるとも知れない苦悶の果てに、針先のような光芒が差し込んだ。

ミリセコンドほどの隙に迷わず食らいついた。

混沌の海獣固めはもともと六腕で使用する技だった。

三本の義手が無力化している現状では、完全に動きを封じ切れていない箇所が残っていた。一方的に技を極めながら、1000にとどめを刺すまでに時間がかかりすぎていたのもそのためだった。

自由の利く肘関節をねじり、手首の拘束を振りほどく。

折れた義手を引っ張り、自分の手足を引き抜いた。

複雑に巻きついていたモスケンクラーケンの腕をすりぬける。

モスケンクラーケンの反応は迅速だった。

逃げる1000の手足をふたたび捕捉しようと手足を駆使する。折れた腕が動いた。肘関節が破壊されており、見当違いの方向へ曲がってゆく。

誤って破損した義手を使ってしまったようだった。おそらくモスケンクラーケンが冷静だったなら犯さなかったはずのミスだった。

脱出すると同時に、血まみれのLKに寄り添った。

「1000! 来てくれた!」

LKが声をあげた。死闘によってすさんでいた声音に喜色が混じった。

ライトニングイーグルが高空から落石のように迫ってくる。

示し合わせたように、LKと1000は左右に分かれた。鋭いつま先をよける。

両側からライトニングイーグルの体を受け止めた。内臓をえぐるような勢いにかろうじて耐える。

LKが弾き飛ばされ、リングに倒れた。

使命感に突き動かされ、無我夢中でライトニングイーグルにしがみついた。這い登るように背中に組み付く。両腕が背中にたどり着いた。

チキンウイングフェースロックの要領で翼を締め上げた。

ライトニングイーグルが血相を変える。

「テメーえ!、羽根にさわんじゃねーーーーーえええええ!」

猛然と暴れるライトニングイーグルが乱打を降らせてくる。しかし無理な体勢のためほとんどダメージは受けなかった。

「真・チキンウイングフェースロックじょ!」

渾身の力でたばねた翼を絞り上げる。

ライトニングイーグルの背中から異音が聞こえた。片方の翼が力なく垂れ下がった。

試合が始まってから常に傲然とした表情をくずさなかったライトニングイーグルの顔に初めて恐怖の亀裂が走った。

翳りを帯びた目で1000を見つめ、唇を震わせる。

「テメーえ……なんてことをしやがるーううう! なんてことをーをををををを……!」

背後から体を引っ張られる。強引にライトニングイーグルから引き剥がされた。

怒り狂ったモスケンクラーケンだった。リングに押し倒された。

「ふざけんなァ! 海獣固めから逃げられたヤツは誰もいねェんだよォ! だからオメーは間違ってる、間違いを直せ、今すぐ直せェ!」

わめきちらすモスケンクラーケンが前かがみになった。

二本の腕が背後に引っ張られている。

LKがモスケンクラーケンの背後から一喝する。

「わけわかんないこと言ってんじゃないの!」

モスケンクラーケンの腕をLKは高々と吊り上げた。腕の関節が甲高い音をたてた。腕が肩から縄のように垂れ下がる。

「ぎゅおおおおおおおおおおお! 痛ってえええええ!」

悲鳴をあげながらモスケンクラーケンはリングを転げまわった。残った一本の腕で折れた腕をおさえている。

「腕がァ! ァ! ァ! ァ! ァ!

残りが一本しかねェェよ! 一本たりねェェェェェェよォォォ!」

モスケンクラーケンは絶叫した。

「落ち着けーえ! あたしがいるだろーおがよーお! まだ腕は三本はある!」

動揺するモスケンクラーケンの肩にライトニングイーグルが腕をまわした。矢継ぎ早に指示を与える。

「いいかーあ! 悪夢のカンバセーション! Vol.5だーあ!」

不安定な咆哮をモスケンクラーケンは返す。

「うおおォォォォォ……!」

ライトニングイーグルが平手で相棒の肩をたたく。

「いくぜーえ!」

身軽な動作でライトニングイーグルはモスケンクラーケンの肩に乗った。

「食らえ~ええ! “崩壊するインフェルニング・タワー”!」

立ち上がりかけているLKに手を貸した。短く声を掛ける。

「わいらも!」

「うん!」

LKは腰を落として身構えた。その肩めがけて飛び上がる。“神製黄金雨”と同じ体勢になる。

「掟破りの“崩壊する塔”! “二人の女神”ヴァージョンじょ!」

ライトニングイーグルがジャンプした。

敵を追って跳ぶ。

ライトニングイーグルはもはや空中での優位を完全に喪失していた。壊れた翼が余分な空気抵抗を生み出し、体勢を崩していた。

急接近し、両脚蹴り(ドロップキック)を叩き込んだ。今までにない手ごたえを感じる。

「どうで! ちっとは効いたんと違うで!」

ライトニングイーグルは回避もできずまともに食らっていた。蹴りの衝撃で丸くなった体がボールのように上空へと駆け上がる。

1000が叩きつけられた照明器具に、今度はライトニングイーグルが衝突した。ライトの間には体がはまりこんだ。失神したらしく、だらりと手足が力なく垂れる。

ライトニングイーグルの動きが止まったことを見届け、空中で回転する。下方へ向きを変えた。

モスケンクラーケンがあえぎながらリングを這いずっていた。

焼け焦げた穴の付近に放り出してあったコーナーの鉄柱を手にした。先端を足に挟み、真っ二つにへし折る。とがった断面を槍の穂先のようにかざした。

蒼白な顔が水をかぶったように汗で濡れていた。

「これで二本になったぜェ! オメーには負けねェェ!」

狂猛な空気を発散するモスケンクラーケンに反発する磁気を浴びたかのような抵抗感を受ける。

思わず離れた場所に着地した。モスケンクラーケンの背後になる位置だった。

「オマエさぁ、悪いこと言わないから凶器は捨てなよ」

意外なことにLKが説得しようとしていた。

LKに声をかける。

「危ないけん、こっちからやるじょ!」

「待って、ちょっとだけ待って!」

LKは大きく腕を振って制止する。

モスケンクラーケンが殺気だった。とがった鉄棒で突く動作を繰り返す。血走った目でLKと1000を睨みつける。

「テメェら、寄るんじャねェェェェ!」

はやる気持ちをおさえてLKに質問を投げる。

「いきなりどうしたんで? 一人になっとう今がチャンスなんじょ? これを逃したらもう勝てんかも知れん」

こわばった面持ちでLKは断言する。

「そんなことないよ、チャンスはいくらでもある! あたしはそう信じる!」

「なんでじょ? こいつらはわいらを殺しにかかってきよったのに?」

「でも、あたしは殺したくない……こいつはあたしと同じIX姉が家族でしょ? だから、あたしも姉妹みたいなものなの!」

「姉妹……」

弟の生意気そうな顔が眼前をよぎった。今は憎たらしい口を利くが、昔は姉の自分を慕っていつも後をついてきた時期もあった。友人との遊びを優先して邪険に扱ったことも多かったが……。

それほどの気持ちをLKが抱いているなら、もはやかけるべき言葉はなかった。

モスケンクラーケンの大きなだみ声が耳に突き刺さる。

「なァに言ってんだよォ? オメェみてェな外人もどき、姉妹なワケがあるかァ! ふざけてんじャねェ!」

LKは負けじと怒鳴り返す。

「うるさいよ! そっちが危ないもの振り回したら、こっちは手加減できないじゃない! オマエがあたしを殺しにかかってるとしてもあたしはオマエを殺したくないの!」

モスケンクラーケンは激昂したようだった。

「なめてんのかァ? かっこつけてんじャねェ! 遠慮せずに来いやァ! 気にいらねェ奴をぶっ殺して何が悪い!」

「確かにオマエは嫌いだけど、殺すのは無理だよ……」

LKは悲しげに眉をひそめた。モスケンクラーケンは気が抜けたように呆然とLKを眺めた。

「なんなんだ? なんでできねェ? いまさらビビリか?」

むっとした表情でLKは返す。

「違うって! 今は嫌いな奴でもいつか親友になれるかもしれないでしょ。誰でもあとで仲良くなれるかもしれないから、殺すなんてひどいことはできないし!」

モスケンクラーケンはガラスを引っかくような耳障りな悲鳴をあげる。

「そォだよ、ひでェよ! 悪かったな!

死んじまったら仲直りもできねェ、謝ることもできねェ、許してもらうこともできねェ」

赤コーナーのIXから、刀を振り下ろすような一喝が飛ぶ。

「思い出してはいけません!」

モスケンクラーケンは頭を振った。

見かねたように、LKが早口で言う。

「怒っちゃいないと思うよ、オマエの妹は。あたしだって今のIX姉はひどいと思うけど、だからってキライになったりしないし。だって姉妹だから!」

モスケンクラーケンの体躯が揺れた。絶叫をあげる。鉄柱の先端が頭上に掲げられ、天井を指す。

「オメェに何がわかんだァっ!」

鉄の棒が空気に溶けたかのようにぼやけた。

驚異的な速度で振り下ろされた鉄柱が引き裂いた空気が渦を巻いた。成人男性の胴体ほどに太い鋼鉄がムチのようにしなった。

轟音と共に鉄柱がリングに深々とめり込んだ。

わずかの差でLKは致命的な一撃をかいくぐっていた。

鉄柱にしがみつく。素早く這い登った。

意表をつかれた面持ちで呆然と立ち尽くすモスケンクラーケンに飛びかかる。

「クラーケン(オマエ)がその気だったら! ここで殺してあげる!」

正面から両脚で顔面を蹴り上げる。モスケンクラーケンの体が後方へたおれた。

リングに伸びるモスケンクラーケンをうつぶせに倒し、その上でLKはブリッジする。モスケンクラーケンの頭を肩の上に両腕で固定した。体を丸めて前転する。首を引っ張られたモスケンクラーケンの体があおむけにLKに覆いかぶさる。

リングに両脚を構え、LKはモスケンクラーケンの体ごとジャンプした。

空中で両脚をモスケンクラーケンの足に絡める。固く保持した。そのままLKは体を縮めた。それにともなってモスケンクラーケンの身体は弓なりにたわんでゆく。肩の上にかかえ上げられた首が絞まった。

LKとモスケンクラーケンはひとつの環となって上昇する。空中で環が回転し、モスケンクラーケンが下になった。反り返った腹部がもっとも下になった。

LKの切迫した声が聞こえる。

「この技はね! フツーは足から落とすの。でも今は! ハラから床にぶつけるから!」

LKの意図を察した。戦慄が走る。

限界まで反らされた上に落下の衝撃が加われば、おそらく完全に背骨は破壊される。それはモスケンクラーケンに致命傷を与えることを意味していた。

「行っけ~え! 輪廻のリバース・ホイール極落とし(スマッシャー)!」

二人の体が降下し始めた。

吹き付ける風圧によって、技をかけられているモスケンクラーケンのみならずLKの手足にも強烈な負荷がかかる。LKの全身が紅潮した。

戸惑ったようなLKの声が聞こえる。

「どうしたの? どうして全然抵抗しないの?」

答えるモスケンクラーケンの声は、つい先ほど取り乱していたことがウソのように落ち着いている。

「抵抗できねェだけだ! あたしの負けさァ」

LKは自暴自棄のような口調で言葉を放つ。

「……勝手にすれば!」

“輪廻の環”がリングに衝突した。

突然、轟音と共にリングの床が陥没する。大きな亀裂が走り、落雷で燃えてできた穴とつながった。

リングを横断する巨大なクレバスにLKとモスケンクラーケンは飲み込まれた。

「LK! いけるで?」

足元がおぼつかない。トランポリンを踏んでいるようだった。

リングの下に充填されている内容物ハイ・ポリマー・ウーブレックはすでにほとんど流出し、さらにリングを覆う布が破断したことで張力を失っていた。

よろめきながら亀裂に近づく。

「1000! こっちだよ」

手が突き出る。一目見てLKの体だとわかった。ためらうことなく引っ張りあげる。異様な重さに違和感を覚える。

リングに上がったLKはモスケンクラーケンをかかえていた。

モスケンクラーケンは虚ろな目つきでこちらを見上げた。意識が朦朧としているようだった。

「生きとるんで?」

「そうみたい。たぶん床に穴があいたせいで威力が弱まったんだね」

「早よう、離しない。なにするかわからんじょ」

LKはリングにモスケンクラーケンを横たえた。モスケンクラーケンはうわごとを言う。

「JNI……」

無言で様子をうかがう。戦いを続けようとする気配は感じられなかったが、気を許してはいない。

モスケンクラーケンは納得のいかないような面持ちをLKに向けた。すでに目には理性の光を取り戻しつつあった。

「テメェがいるってことは、あたし(あっし)はまだ生きてんのかよォ?」

ぶっきらぼうにLKは言う。

「殺したよ。完全に殺すつもりでやった……けどオマエが今、生きてるのはただの偶然だから。一回死んだようなもんだよ」

「一回死んだ……? だからJNIが見えたのか。あのJNIは本物だったのか」

虚ろな声音でつぶやいた。

唐突にモスケンクラーケンの両目から涙があふれる。滂沱とほおを流れた。

「許すって言うのか……ねェちャんを」

折れていない腕で両目を覆った。

「まだ、やるんで……? もう残ってるのはこいつだけじょ」

冷徹に言い放った。LKがうなずく。

「試合続けるの……?」

冷淡な口調でモスケンクラーケンに問いかける。ほのかに柔らかさが滲み出ていた。

モスケンクラーケンは体を横に転がし、二人から目をそむけた。

「わかんねェ……もう力が出ねェ」

しゃくりあげながら、切れ切れに言った。

沈黙が三人を雨の壁のようにおしつつんだ。

つかのまの静寂を厳しい声が破る。

「立ちなさい! まだ死んではいないでしょう?」

IXだった。白い怜悧な顔が仮面のようにこわばっている。

動揺したLKはとっさに反論する。

「待ってよ、IX姉! こいつ無理だって言ってる!」

LKの声を黙殺し、IXは執拗にモスケンクラーケンに声を投げる。

「まだ腕は一本残っているでしょう! いま戦わなくていつやるというのですか? 今できないことが明日できるとでも言うのですか? またあなたは日の目を見ない場所に戻りたいのですか?」

優しい声からは想像もできない激烈な叱咤だった。

モスケンクラーケンは体を萎縮させた。

たまりかねて思わず声をあげる。

「もうやめんで! 試合は終わりでええでないで!」

Jが援護する。

「そうだ! 選手は戦意喪失しているだろう、タオルを投げるんだ」

敵意に満ちたIXの視線がJをつらぬいた。

「まだスポンサーからの注文を達成していません! このままだとあてにしていた入金がなくなってしまいます。教会の経営は完全に破綻してしまいますのよ」

かっとなったようにJは声を荒げた。

「金、金というが、金が大事だったらなおさらここで試合をやめるべきだ。いま選手をつぶしてしまったら、のちのちの収入源が完全に断たれてしまうんだぞ? 今は金が入らなくても投資と考えりゃいいだろう!」

鮮やかな紅の頭巾が扇のようにひろがった。IXはJに反駁する。

「あなたは甘いですわ。教会がつぶれたら今日を生き延びることができなくなる人々が多くいるのです。そのような人々が明日を考えることなどできるでしょうか?」

「ならおれからも寄付させてもらう。それでいいだろう?」

「お断りいたしますわ、J。あなたの口約束など頼みになりません。それに慈善団体が善意の寄付に依存する体質からわたくしどもは脱却しようと試みているのです。これはそのための第一歩であるビジネス参画なのです。一組織として社会に着実に根を下ろすための、強者の一存で弱者の生死や尊厳が左右されないための」

「だから“K+Vアソシエーション”の手先になるのか? ムチャ言うな! 表向きキレイゴトを掲げながら行動はそれを裏切ってなりふりかまわず生き残るなどと……それこそ“生残主義”だろう? “K+Vアソシエーション“が目の敵にしてる行動パターンじゃないか!」

「違いますわ。わたくしどもは“K+Vアソシエーション”様のビジネスパートナーです。それゆえ“生残主義”を糾弾する立場ですのよ」

「教会で信じてる神さまってのは敵をも愛せって教えてるんだろう? それが金のために人殺しを支持するのは矛盾してるじゃないか! 口先と行動の矛盾、それが“生残主義”じゃないのか?」

「わたくしどもにとってはそのようなレッテル貼りなどどうでもいいことですが…… “K+Vアソシエーション”様の敵が“生残主義”なのです。つまり“K+Vアソシエーション”様と敵対していなければ、それは“生残主義”ではありません」

「なんなんだそれは! それこそ無意味なレッテル貼りじゃないか! そんなに金が欲しいのか? 出どころの汚い金で人助けしていい気分などと、おめでたいな!」

「お金にきれいも汚いもありませんわ! わたくしどもがやらなければだれが不幸な人々を助けるというのです? 飢えに苦しむ人がいて、パンを買うのにお金が必要なら……そしてコインが泥の中に埋まっているのなら、わたくしの手を汚すことに躊躇はしません! そしてわれわれが犠牲になることでより多くの不幸な人々が救われるなら喜んでこの身をささげましょう!」

「救う人間と殺す人間を峻別する権利がきみたちにあるのか?」

「ありますわ! わたくしどもはいつも虐げられるものの味方です!」

JとIXは不倶戴天の敵のように対峙していた。

そのとき、頭上から声が降ってきた。

「シスターさんよ、そいつになに言ってもムダだぜーえ。そいつは口ばっか達者でテメーえが得することばっかり考えてる見掛け倒しで卑怯者の詐欺師だからなーあ!」

金属が破壊される甲高い音が響き渡る。

「まだ終わりじゃねーえぜーええ!」

風をまいて巨大な影がリングを覆った。

上を向くと、多数のライトを連結した照明設備が急速に広がっている。リングに落下していた。

LKと共に両手を掲げる。

リングとほぼ同じ大きさの照明設備を受け止めた。

金属の小片が飛散する。人間の頭部ほどもある大きさのライトが脱落し、リングの外に転げ落ちた。手で押さえている箇所がくぼむ。

照明設備の上にライトニングイーグルが乗っていた。

照明設備に体が埋まるほどのダメージを受けていたが、回復し、照明器具から脱出したようだった。

照明の上で跳ねる。

強烈な重量と衝撃が手に食い込んだ。

「つぶれちまいなーあ!」

凄まじい音とともに四角い鋼鉄の板がリングに落ちた。逃げようとしたが間に合わなかった。下半身を照明とリングの間に挟まれてしまう。LKは背中に照明がのしかかり、這い出ようと四苦八苦している。

ライトニングイーグルが周囲を睥睨していた。

あたかも臭気紛々とした醜いけものに囲まれているかのような、いっさいに容赦を認めない徹底的な軽蔑と底冷えのする深い怒りを結晶させた白い光を双眸に宿らせて、自分以外のものを睨みつけていた。

背中から白い羽につつまれたものが落ちた。故障し、お荷物となっていた翼だった。

肩甲骨の緩やかな隆起に、タトゥーがあった。それまで翼で隠れて見えなかった毒々しい模様があらわになった。

Jが驚愕の声をあげた。

「おまえ! まさか……まさか“エヒちゃん”なのか?」

想像だにしていなかったJの様子に不審を感じた。LKも困惑した面持ちでJに目を向けている。

取り乱し、コーナーから身を乗り出すJへライトニングイーグルは高圧的なまなざしを向ける。

「答える義務はねーえ」

取り付く島もない鋼鉄でできた壁のような拒絶に、いつもずうずうしいJもひるんだようだった。しかし、すぐに気を取り直したのか声を掛ける。

「一言答えるくらいいいだろう? ハイかイイエで良い!

……オマエは、おれの娘なのか?」

つかのま沈黙がリングとその周辺を支配した。

光の多すぎる写真のように白く焼きついたかのような空間を、唐突な声が破った。

「「えええええええええええええええええええええ?」」

今度はLKと同時に驚きに大声を放っていた。

「Jさんの娘ぇ?……子供なんていたんだぁ……」

ただ驚いているLKに疑問を抱き、訊ねる。

「Jさんから、教えてもろうとらんので?」

「全然。なんか昔離婚したとかは聞いたことあるけど、まさか子供まで、しかもあんな大きい子供なんて聞いたこともない」

いくぶん憮然としたようすでLKは答えた。

あきれてLKの無邪気な顔を眺める。


(Jさんってひどいヤツだなあ……どうしてLKにはそれがわからないのかな?)


潔癖な正義感に駆られ、義憤を抱く。セコンドのJへ振り返った。

ロープから身を乗り出したJの目はマスクに阻まれて見えないが、どうやらライトニングイーグルを注視しているようだった。

「犯罪行為はよせ。なぜオレを殺そうとするんだ?」

Jの忠告をライトニングイーグルは一蹴する。

「オメーえがヒデーえ奴だからさ」

意外な答えに興味をひかれた。ライトニングイーグルのようなモラル感に乏しい人間がJを批判するとは思わなかった。つい小声でつぶやく。

「わいもそう思うたわよ」

LKが首をかしげる。

「そんなにひどいかな」

Jは情感たっぷりに訴える。

「血のつながった親子じゃないか! きちんと話し合えば理解しあえるさ」

灼熱の光線のような鋭い目つきをJに向けて、ライトニングイーグルは咆えた。

「うるせーーーーーーえええ! あたしはオメーの娘じゃーあねーえ! 血がつながってようがカンケーねーえぜーえ!

教えといてやるがな! かーあちゃんはオメーえに捨てられてからアル中になって死んだよ。オメーえのせいだぞ! なのにオメーえは離婚してからメール一つよこさねーえ、あたしたちの為に何一つしねーえ。そんなヤツが父親面すんなーあ!」

たじろいだようすのJだったが、すぐに体勢を立て直す。

「……だが、別れたのはお互いが合意したことだ」

ライトニングイーグルはひきつった笑い声を切れぎれにもらした。

「そうかい? でもかーあちゃんは捨てられたって言ってたぜーえ! 別に女ができたからってーえ!」

血走った目をIXに向けた。

IXは平然とライトニングイーグルの敵意に満ちた視線を受け流す。しかし、その口元は歯を食いしばっていることをうかがわせるように痙攣していた。

IXとライトニングイーグルの間に漂う険悪な雰囲気にJは気付いたようだった。うめき声を上げる。

「おれのせいだというのか? オマエやIXがこんなことに巻き込まれているのも」

恥じ入るようにJはうつむいた。

LKの目つきがさすがによそよそしくなっていた。IXは終始変わらない冷淡なまなざしを投げている。

低い声でライトニングイーグルが言う。

「もう試合なんかどうでもいーいぜ。あたしや、モスケンクラーケン(VIII)がこーおなっちまっちゃ“二人の女神”(こいつら)をぶっ殺して爆弾を破裂させることもできねーえ……だがよ、それ以外にもテメーえら全員をぶっ殺す手は残ってんだよーお」

言い捨て、ライトニングイーグルはリングのロープへ飛んだ。

両脚でロープを踏んだ。伸縮性のある素材でできているため、ゴムのように伸びる。

ロープが縮む力を利用し、ライトニングイーグルは飛び上がる。高々と舞い上がり、落下する寸前に空中で止まった。

ペンダントのように左右に揺れている。手を交互に上下に動かし、徐々に上昇してゆく。

目を凝らす。

ライトニングイーグルが捕まっているのは、照明設備を吊るしていた鉄の鋼線ワイヤーだった。球形の天井から数本のワイヤーと電線ケーブルが垂れ下がっていた。

「あいつなにするつもりなんで……?」

LKは首をひねる。

「わっかんない……逃げるつもりじゃない?」

「爆弾を起動させるアプリはわいらのおなかの中にはいっとるけん、もう爆発はできんって言いよったな」

「じゃ、あとはあいつを捕まえたら、終わり?」

「ほうじょ!」

二人がライトニングイーグルのあとを追おうとした途端、セコンドのIXが身をひるがえした。ロープに乗ろうとする。

それをJが制止した。IXの肩を抑える。

「リングに入るな! 試合はまだ終わってないぞ?」

肩にかかったJの腕をIXが手にとる。

踊るように巧妙な円運動でJの体にぴったりと寄り添う。

「おい?」

とまどうJは床に伏した。その上にIXが覆いかぶさった。

IXは一瞬のうちに関節技が完成させた。チキンウイングフェースロックだった。

Jは冷静な声で忠告する。

「よせ! パラレスラーと一般人では、身体能力が違いすぎる。完全に技が極まっているように思えても無理やりはずすことができるんだ! そうなるとかけている側が危険だ」

「はずしてごらんなさいな」

IXは挑発的な口調で言った。

Jは身じろぎする。しかしIXに組み伏せられた身体はほとんど動かなかった。Jの声が憔悴に侵食されたようにしわがれていた。

「この力、九本脚、まさか君も」

首をねじまげて見上げるJへ、IXは答える。

「ご明察ですわ、J。わたくしもすでにドーピング済みですの」

「バカな! パラレス関連の薬物は政府から厳重に流通管理されているはずだぞ? 密輸か?」

「いいえ。薬物に注目しているのはパラレス業界だけではないことよ。私が使用しているのは、軍用の試作品ですわ」

IXは典雅に笑った。

Jは言葉を失ったようだった。Tシャツから突き出た腕や首が茹ったように赤く染まる。滲み出た汗が油を塗布したかのごとく光を照り返した。

分厚い大木の樹皮に斧の刃先が食い込むかのような、重々しい音がJの肩から聞こえた。

押し殺したうめき声がJのマスクからもれた。

IXは立ち上がった。

Jの腕が肩の付け根から落ちた。肩に義手を接続していた神経をたばねたケーブルの断面がのぞく。

立ち上がりざまにIXはJの片脚を踏みつけた。こもった破壊音と共に、Jの脚が折れ曲がった。

「これでもうなにもできません。そこで一部始終をご覧になっていらしてね」

IXは立ち上がりロープに飛び乗った。ゴムのように伸縮するロープの勢いを利用して高々と飛び上がる。ライトニングイーグルと同じように、ぶらさがっているワイヤーにとりついた。

ライトニングイーグルはすでに会場の天井まで登りきっていた。そこは、特設リングと観客席をつつむ球形のかごを形作る柱の全てが交差する部分だった。人一人が立てる程度の広さを持つ円形の構造物が骨組みをまとめている。それが破壊されれば、会場は一息に崩壊に向う重要な部分だった。それだけに多少の災害にはびくともしないよう頑丈に建設されている。

柱の隙間から、ライトニングイーグルが無表情に会場を見下ろしている。足を上げて天井を踏みつけた。

激震が会場全体を襲う。

観客席で萎縮していた人々が、恐怖の悲鳴をいっせいにあげた。階段のようにかごの内側に設置された観客席のイスにしがみつく。振り落とされ、リングを囲む柵まで転がり落ちる者もいた。

唖然とした面持ちでライトニングイーグルが会場を眺めていた。

嘲笑を浮かべる。

ふたたび脚を構造材に叩きつける。

会場の骨組みがたわみ、大地震のように揺れた。

感極まったかのようにうわずった声が降りかかる。

「オメーえら、怖えーえか? スゲーえ怖えーえだろーおなーあ、ええーえ? いいザマだぜ、ビビリどもが! ギュフフフフ!」

リングにしゃがみこんで揺れに耐えた。いらだちを吐き出す。

「あいつ……わいらをバカにしよう」

LKは心配そうに眉をひそめる。

「IX姉、なにやってんのかな」

LKに介抱されているJが言う。

「おれともあろう者が、まんまとやられちまった。本気で会場をつぶそうとしてるんだろう。前からそういうものすごく頑なになってしまうところがあったな」

Jがなかば諦観に浸っているような風情で頭を振った。

LKは不愉快そうな表情でJを見下ろし、抗議するかのごとく鼻を鳴らす。

「よく知ってるんだね」

あせりにとらわれて歯噛みする。

「なんとかせんと、ここの人たちがえらいことになるでよ」

「でもこんなに揺れてたら、まともにジャンプもできないよ」

必死で対策を考える。はるか上空で揺れているIXのブーツを見て気がついた。

「シスターさんが天井に着いたとき、あの足場にのぼらんといかんけんライトニングイーグルはちっとの間、会場を壊すんを止めないかん。そのときじょ」

「時間ないよ~」

すでにIXは天井近くまで達していた。それとともに、IXのわきにたれさがっていたワイヤーや、電気ケーブルが落下し始めた。

上からライトニングイーグルが引きちぎっては投げ捨てていた。

リングにとぐろを巻くワイヤーを見て絶望的な気分になった。

天井へ向う手段はもはや壁を登るしかない。しかしそれは時間がかかりすぎる上に、ふたたび会場に衝撃が加えられた場合の影響をまともに受けてしまう。激震する構造材から振り落とされかねない。

敗北感にうちひしがれる。一方、ライトニングイーグルは高揚した声を張り上げる。

「ああ~あっ!たまんねーえ、たまんねーえよ、オメーえらが、うち以外の奴が、生まれて初めて、かわいくってたまんねーえ! いい、いいよ~お、この感じ、気持ちいいよ~おお! 今、すっごく胸がせつねーえよ、オマエラ死ぬかと思うとかわいくて、せつなくて甘いのが胸から体中にじわじわひろがっていくよ~お、ああ~あカラダがもう小っちゃい泡になって溶けそうだぜーえええ!」

ふたたび会場を烈震がゆさぶる。

人々の悲鳴が飛び交い、幾重にもからみあう。その中には1000の家族のものも当然混じっているはずだった。

背中に発火したような熱が走る。

ついに会場そのものが耳をつんざく轟音を上げ、傾き始めた。

かごの頂点からはずれた鉄骨が崩れ始めていた。

ひときわ大きな悲鳴が上がった。

大質量の金属がこすれあう轟音が耳を引き裂く。まるでナイフが果物に切り込む様をその内部から見ているかのように、会場を支える柱の一本が内部に倒れてきた。リングに迫る。

恐怖に凍りついた。圧倒的な威圧感をもつ巨大な鉄骨が頭上に覆いかぶさってきた。かたわらのLKはJを胸元にかき抱いた。

とっさにLKにしがみつく。固く目を閉じた。

巻き上がったつむじ風がほおを打った。

「なにやってんだ! 自分たちだけでさっさと逃げろよ!」

Jの怒声が耳に飛び込んでくる。

すさまじい音量のきしみと共に頭の上で鉄柱が上下していた。幸いリングにはかろうじて届かなかったようだ。弾力性のある金属で出来ているのか、倒れかかった勢いで垂直方向に揺れている。厖大な重量の物体が通り過ぎるためか、空気がかき回されて焦げ臭い匂いの混じった風が三人をつつんだ。

唐突にアイデアが閃いた。すぐに天井に到達する方法だった。

「あれじょ!」

揺れる鉄骨を指さした。LKが目を丸くする。

「なに?」

「あれを使うたら、すぐにてっぺんまでいけるでえ!」

LKが首をかしげる。その腕の中でJも首をかしげていた。

「どうやって?」

「シーソーみたいに揺れとるだろ? あの上に乗ったらバネみたいに飛べるんとちがうでないで!」

神妙な面持ちで聞いていたLKが目を輝かせた。

「そっか!」

LKと共に早速行動を開始した。LKはJをリングの外に横たえ、鉄柱に飛び乗った。一足早く鉄の塊にしがみつく。

二人がのった鉄柱の動きは止まりかけていた。

「いまいちスピードが出てないね」

LKが心配をこぼした同意してうなずく。

「わいらで揺らすんじょ」

「大丈夫かな」

不安げに鉄柱の折れ曲がった根元を眺める。両脇の柱に挟まれ、ひしゃげた観客席のイスが回りにからみついている。

「気にしとったらいかんじょ」

わずかにおびえつつ言い放ったが、簡単にLKは首肯する。

「そーだね!」

二人は顔を見合わせた。鉄柱はゆるやかに上昇してゆく。鉄柱の上で手をつないで立ち上がった。

鉄柱が徐々に速度を失う。ぴたりと停止した。方向が逆転し、下方へとすべってゆく。

1000とLKは声をそろえる。

「いーち、にーの」

心持ち爪先立ちになる。

「さんっ!」

二人同時に鉄柱へしゃがみこんだ。同時に両脚を伸ばし、鉄柱を下へ押し込んだ。下降する早さが増す。

鉄柱の根元から破裂音が立て続けに起こった。鋼鉄製の柱全体に唸りが伝播する。

風が巻き起こり、LKの金髪が宙に踊る。

眼下にリングが見る見る接近してきた。

リングの中央に巨大な穴が黒く口をあけている。下降するスピードはさらに増し、その黒い穴に飲み込まれそうな恐怖が湧いてくる。

ほとんどリングに衝突するまでに接近した時、二人とも息を詰めていた。

体が鉄柱に押し付けられる。

鉄柱に加わった力と弾性が均衡し、動きが止まった。

体重が増加したかのように体が重くなった。脚が鉄柱にめり込むような気がする。

こちらの手をにぎるLKの力が不意に強くなった。

「あのさ、このまま飛んだら、下手したら外に飛び出しちゃうんじゃないの?」

LKの言葉に納得する。悪い未来を想像する時に、感情を押さえつけることで不安を掻き立てないようにした。無表情にうなずく。

「かもしれん」

独り言のように、LKはささやき続ける。

「いくらあたしたちでも、さすがにミハルカスから落ちたらただじゃすまないよね」

励ますような響きが自分の声にこもっていることを願いつつ短く答える。

「かもしれん」

青い透明な目が見つめてきた。

「死ぬのかな……? あたしたち」

ふと気持ちがよろめいた。頭が熱を持って痺れている。何か判断を間違っているような不安に駆られる。しかし、会場に来ている家族がおびえているだろう光景が視界をよぎった。

ためらいを押し殺して断言する。

「かもしれん」

LKの切迫した表情を浮かべた顔が急接近した。ほおが吸い付くようにへばりつく。LKの乾いた唇が1000の唇にこすりつけられた。

かすかに震えているLKの肩に力強く手をまわす。

「すまんな、つきあわせてしもて……」

LKは頭を振る。

「あたしたちは友達以上のカンケーだよ! 気にしない!」

二人で天井を見上げた。

始めはなかなか近くならないように見えていた天井は近くなるにしたがって接近する速度が増していくようだった。

鉄柱の歪曲が頂点に達した。体が消失していくかのように、絡み付いている重力が溶けてゆく。

互いに体を寄せ合い、一丸となって飛んだ。

一瞬のうちに天井に到達した。

丸い床のような構造材を突き破った。

「な!? なんだテメーらは!」

「あなたたち?」

反応する暇を与えず、ライトニングイーグルとIXに体当たりする。

突如として視界が開けた。

周囲を重苦しい鉄柱のかごに覆われていた会場から一転してどこまでも広がってゆくような解放感が体を包み込んだ。

四人は絡み合ったまま虚空に放り出された。

鉄柱を利用した跳躍の勢いはすさまじかった。天井を突き破ってすら減衰せず、四人は上昇してゆく。

空中で組み合ったのはライトニングイーグルだった。目を血走らせ、蒼白にこわばった顔がゆがんでいた。石ころを吐き出すように言葉を吐く。

「テ、テメーえ! いーいいところ、だったのに、よーおおおお!」

激しくもみあう。おびただしいパンチとキックが飛び交った。

いくつもの打撃や防御で生じる反作用によって、ライトニングイーグルとの距離が離れてゆく。

視界の隅を、重なり合ったIXとLKが横切った。

「あなたの技はあの人に似ているわね」

「このあいだ、JさんからIX姉に似てるってのは言われた」

「面白いことをおっしゃるのね、ほとんど技なんか教えなかったでしょうに」

「チキンウイングフェースロックだよ!」

「まあ……いけない子ね。わたくしの技を盗んだんでしょう」

「うん。ごめんなさい」

「あんなことは、人殺しの技なんかね、おぼえたからっていいことなんか何一つないものなの。せいぜい人を怪我させるだけでろくなことに使えないものなのよ。多少、格闘技がうまいというだけで人生そのものをおかしくしてしまった人のなんと多いことでしょう……ねえ、LKちゃん。わたくしはあなたまでがそうなることをとても心配しているの」

「大丈夫! マジメにやってるよ」

「それも心配なのよ。必ずしもあなたのマジメというものが正しいとも限らないでしょう?」

「ちょちょっ、ちょっとまってよIX姉! 信じてくんないの?」

LKの体の上を、すべるようにIXが移動する。たちまち背後に体を移した。両手を伸ばしてLKの首を絞める。

IXの動きが止まった。

IXのブーツにLKの足先がひっかかっていた。

「IX姉、あたしオリジナルの技があるんだ」

IXの脚に自分の足を巧妙に絡めていた。器用に足を引っ張ると、IXはLKの背中から引きずりおろされてゆく。

「たいしたものねえ。瞬きしないうちに完全に関節技を極めているのねえ」

感心した様子で言った。

こらえ切れなくなったIXはLKから引き剥がされた。

今度はIXの背後にLKが位置していた。

IXの両脚をLKの脚が保持する。弓のようにIXの体が反り返った。IXの頭が太もものあいだに挟まれた。

「新しい極め技ね……! なんという技なの?」

くぐもったIXの声が聞こえた。LKは叫ぶ。

「ベアバック・ブロンコ・ライディング(暴れ馬の騎乗)! スマッシャー!」

IXの腕がLKの脚に伸びる。LKは悲鳴をあげた。

「なかなかいい技ですが、まだまだ甘いですわね。こちらの腕がこのとおりがら空きですのよ」

苦悶しながらもLKは技をはずさない。その眼下に、降着すべき地面ははるか彼方に曇っている。

押し固められたかのようにあべのミハルカス周辺に押し寄せた観衆が歩道をいっぱいに満たしていた。その色とりどりの線と道路にあふれる車両の色彩が混ざり合い、混沌とした地面をなしていた。

四人は落下に転じていた。

「LK! おまはん、そのまま落ちたら死ぬでよ!」

動揺のあまり怒鳴りつけた。

自分の下には会場が見える。しかし、LKとIXの距離は会場から大きく離れていた。

「オメーも落ちろ!」

ライトニングイーグルが襲い掛かってくる。

するどい一撃を受けた。痛みの波紋が全身をゆさぶる。衝撃でずるずると体が移動していった。

反撃するも、寸前のところでいなされる。ライトニングイーグルがパラレスラーになる前は、空中戦の天才と称されていたことを悪寒と共に思い出す。

重い打撃が体に食い込んだ。

ライトニングイーグルはただ突き蹴りを放つだけでなく、当たる直前に空いた手で1000を掴んで固定することで、衝撃を確実に伝わるようにしていた。

防戦一方におちいり、激しい攻撃によって防御の構えまで崩れた。

余裕に満ちた表情でライトニングイーグルはとどめの一撃を繰り出した。

まともに食らう。つかのま意識が遠のいた。

まっさかさまに墜落してゆく。

あっという間にライトニングイーグルには手の届かないところまで落下した。頭上には、雑多な物体がひしめく地上が広がっている。頭を下にした体勢で落ちていた。

上空のライトニングイーグルはLKを攻撃していた。IXと同時に責められ、LKは窮地に陥っているようだった。

愕然とした。

雷にうたれたような衝撃が体中を捉えた。

全身全霊を賭けた行動は完全に失敗し、もはや眼前には死しか見えない。

守ろうとしていた人々も守れずに終わる。

自分が、そしてLKの命が失われる分、より事態は悪化してしまったのではないか。自分だけならともかく、なぜLKまで巻き込んでしまったのか。甘く見ていたつもりはなかったが、どこか楽観していたのではないだろうか。無意識のうちに、本当なら正せた誤りを見過ごしてしまったのではないのか? 無残な失敗を招いたのは自分のせいではないか!

どこで、なにを間違えてしまったのか、自問自答の繰り返しが頭の中を狂おしく循環した。

痺れたような冷気に指先から侵されてゆく一方、頭は火がついたように熱い。


(結局、JさんとあたしとLKで逃げたほうがまだましだったね)


唐突に頭の中で自分の声が響き渡った。無慈悲に自分自身を糾弾する。


(でも、観客を、家族を見捨てることはできなかった、どうしても!)


崩れ落ちそうな自らを支えようと、必死に反論した。


(なら、家族だけでも連れて逃げればよかったのに、なぜ?)

(だって、そんな卑怯なことできないよ!)

(うそ! 人の目を気にしていい格好したかっただけでしょ!)

(しょうがないでしょ! あたしは人気で左右される仕事やってるんだから……)

(見栄張って、人気取りに走って挙句に人巻き込んで死ぬってバカじゃないの!)

(だったら! だったらどうすればよかったの? 

あたしはベストをつくしてきた、つもりなのに。確かに甘かったところもいっぱいあるよ。そもそも自分が強かったら、余裕で勝てるくらい練習してたらよかったかもしれない。でもそんなのそのときわからないじゃない、未来のことなんか!)

(言い訳でしょ、そんなの。

それに、言葉の上で自分が悪くないことを証明したって虚しいだけだよ。世の中結果が全てなんだから。結局この後、誰も助からないだけなんだから。守る気だった家族まで!)

(言い訳じゃない! 本当にわからなかった! わからなかったの!)

(バカだったよね。そんな力もないくせにまるで自分が世界を救えるみたいに勘違いしてた)

(そうだよ! バカだよ!)

(開き直ればいいと思ってるの? なら、身の程をわきまえてとっとと逃げてりゃよかったのに。勘違いで余計なことするからこのザマだよ)

(たしかに余計だったかも。でもあたしは自分にできるだけのことはしたもん! きっと皆、わかってくれる。きっとLKはあたしを許してくれるはず……)

(どうかな? きっと大激怒だと思うけど。自分に都合いい妄想カンベンしてよね

だいたい、他の人がわかってくれたり許してくれれば結果はどうでもいいの? それが自分の望んでたことなの? 失敗して『いーよいーよ、気にしてないから』ってなぐさめられるのが?)

(そんなことない! でも気持ちを楽にしてくれるのはもうそれしかないの!)

(そもそもあたしが居なけりゃよかったのにね)

(なんでLKと一緒にあいつらが会場壊すのを止めようとしたんだろう、ううん、なんでこの試合をやろうと思ったんだろう、いやいや、パラレスラーになったのはどうして、いや違う、そもそも東京に家出したのがまずかったんだよ、そうじゃない、アイドルなんかにあこがれてたのが、待って、根本的に生きてること自体がダメだったんじゃないの?

あたしが生まれなかったらよかった、そういうことなの?)

(そういうこと。あたしが生きてたからこの大惨事だよ)

(そんなこと、もうどうしようもない! もう謝ることも償うこともできない!)

(どうしてあたしなんかが生まれたんだろう? どうして?)

(誰のためにもならない存在……いないほうがよかった人間……)

(苦痛だよ、今すぐ消えたい)

(でも……でもだよ? 消えたって何のためにもならなくない?)

(いたら周りに被害が及ぶけどね)

(でも消えるより前向きに努力したい)

(なに言ってんの? 不毛だよ。バカなのに)

(かもしれない。でもそうするしかない。それだけしかできないよ。どう考えても。なんとなく未来に希望を持ってさ、自分を信じるしかないじゃない、だってバカなんだもん。どうやりしたいことしかできないんだもん。……でも、それがいいんだもん)

(そうか……あたしもちょっと変わったかも。自分で自分を憎たらしいと、もう思わなくなっちゃった)

(きっとJやら、LKのせいだよ)

(ノーテンキが感染したか)

(それだけでもよかった。つまんなくはなかった。面白かったよね、今から思えば。あの人たちが、ううん、いろんな人たちが、家族もファンもアンチもいたから……ムカついたり、腹立ったり、哀しくなったり、ちょっとだけ楽しくなったりしてさ)

(後悔はないってこと?)

(いっぱいあるけど、受け入れられる、あたしは自分の最期を)

(そっか……)

(不思議と、今、すごく落ち着いてる……)

(何か最後にしたいこととかある?)

(もう一度やり直したい。今日の試合を)

(家族を逃がす?)

(と思うけど、もういちど戦って勝ちたい)

(こりないね……)

(こりたら終わりだよ!)


無数の異音がとどろき、大気を震わせた。

ライトニングイーグルが破壊していた天井部分の構造物は、1000とLKの体当たりによって完全に破損していた。

てっぺんの留め金が外れた鳥かごのような状態となった会場の鉄柱が、リングを中心に放射状に倒れはじめる。壁面に並んでいた観客席が傾ぐ。観客の悲鳴が大気をどよめかせた。斜めになった観客席にしがみつき、動ける者はリングのそばへと集まってゆく。

目の前で、ミハルカスの屋上に鉄柱製の花弁を持った花が開いていた。

そして、突如として落ち行く先に足場となる鉄柱が横たわった。

明るい光を伴った衝撃が体中を駆け抜けた。


(やりなおすなら?

いまでしょ!)


手を横に伸ばした。

空気抵抗が肌をくすぐる。普通の人間なら窒息するほどの風圧だったが、パラレスラーの肉体はなんとか耐えた。

水中に泳ぐ魚のひれのように手足を操って空中を泳ぐ。

急速に降下速度が遅くなった。

ボールのように体を回転させながら落ちる軌跡が螺旋をえがく。

上空を確認した。

IX、ライトニングイーグル、LKの三人が一つの塊となって降下していく光景が垣間見えた。LKの首にライトニングイーグルが腕を絡めている。IXはLKの脚に絞め技をかけられながらも、空いた両腕でLKの腕をねじ上げていた。

LKが危機に瀕していることがはっきりとわかった。

いっさいの雑念を消した。一点の曇りもないよう、意識を行動に集中させる。

足場が急激に接近する。

頭から衝突するかに見えた瞬間、宙返りする。

鉄柱に脚が接触し、鋼鉄に全体重をあずけた。

あたかも湯に放り込んだ氷がひび割れるかのような音を立てて鉄柱がしなる。

すでに臆することを完全に放棄し、鉄柱の反発を虚心に待った。

体を包む風が消えた。

直後に体が上昇を始める。

加速する鉄柱の歪曲が頂点に達した瞬間、全身のバネを使って両足を踏み切った。

ふたたび吹きつける暴風につつまれる。

撃ち出された砲弾の速度で飛翔した。

ライトニングイーグルの顔が驚愕にゆがんだ。こちらに気付いた時には、すでにライトニングイーグルとIXに身をかわす暇はなかった。

ひとり回避しようとするライトニングイーグルに飛びかかった。胴体に強烈な体当たりを叩き込む。ライトニングイーグルはくの字に折れ曲がった。

空中で体勢を整える。ライトニングイーグルを両脚ではさんだ。空気の層をつらぬき、LKの頭上へ舞い降りた。

IXは、LKのかけた絞め技によって弓のように体を反り返らせながらもLKの肘を関節技で責めていた。その腕をつかんで動きを封じた。

自由になった腕でLKはライトニングイーグルの首を肩の上に乗せて締め上げる。

ライトニングイーグルの顎は上を向いていた。あお向けのライトニングイーグルの脚に足を絡める。ライトニングイーグルの爪先が下を向く。ライトニングイーグルの身体はぞうきんのように絞り上げられていた。

「永遠の円環メビウスリング・スマッシャーじょ!」

練習の際、考案していた極め技のひとつだった。試合で使うのは初めてだった。

LKとぴったり背中合わせになった。

お互いの極め技の欠点を互いに補足しあうかたちになった。

声をそろえる。

「「太陽が描く無限軌道の王冠(サン・オービット・インフィニティ・クラウン)・空中連携技ランデブー!」」

複雑に絡み合った四人の肉体は高空に浮いた。

頭上に巨大な8の字が覆いかぶさっている。

まるで地球が頭上に頂いている上品な銀色の冠のようにほの白く輝いている。

彼女たちの周囲に存在するすべては、大気の揺らぎのみだった。目視することは到底できない微細な粒子とそれらが反射する光は無数に飛び交いながらもそれらはいっさいの影響を与えることはできない。もはや大地から完全に解き放たれていた。

天上に伸びる巨大な銀色の刻印の中を漂っているかのような錯覚を覚える。障害物の全く存在しない純粋な8の字を一望し、感慨が脳を底まで打ち震わせていた。

いつか時間が止まってしまったかのようだった。

なぜなら、8の字を無心に見上げる二人は、校庭にラインを引くために幾何学的に撒かれた石灰のように成層圏に散布された微細アンテナ反射帯と同じく、空気のお陰すらこうむることなく空にわが身一つで浮いているからだった。

永遠に成層圏に漂うであろう8の字、その形状が数学的記号で永遠を表す8の字は永遠を、終わらない時間を体現していた。

その永遠と状況を同じくする彼女たち二人は、その瞬間まさに8の字と一体化したのだった。

1000は水中に浮かぶくらげのように風に漂っていた。

遠くから、あるいは近くからLKの声が聞こえた。

『あたしの欲しかった永遠に変わらないものがこれだったんだね。この時間をあたしは絶対忘れないよ』

『わいもピロリンピックに出たら名前はずっと残るはずじょ。でも今はなんかそういうのんとも違う気がする』

胸の奥に埋まった何かを掘り出そうと言葉を探した。話を続ける。

『アナレンマが永遠を表しとって、ほんで今わいがその中にいるということはわいらは永遠の仲間入りできたということになるんだろか』

LKはおかしそうに笑った。

『そーかもしんないね。あたしたちは永遠になったんだよ、今この瞬間だけ』

つかのまLKの発言の意味に関して考えをめぐらせる。

ふと笑い声が漏れた。LKが冗談を言ったのだと理解した。

下方から吹き上がる風がよみがえる。

空中連携技ランデブー完成直後に数分間にも思えた滞空時間は、ほんの数秒だったようだ。

たちまち四人は重力に掴まれ、絡み合うように落下してゆく。猛烈な風圧が皮膚を叩いた。轟然と通り過ぎる大気のチューブを滑り落ちるように降下してゆく。

空中での体勢を不安定にさせる大気の流れや、速度が加速度によって増えるにつれて風圧は威力を増し、相手を極めている本人の肉体に重圧となって跳ね返ってくる。さらにかけられている相手もじっとしているわけではない。常に技をはずそうと絶え間なく隙をうかがい、極め技に抗っている。こうした抵抗を押さえつけておくことも、不安定な空中で行うには地面で技を掛けるより労力が必要だった。さらに通常よりはるかに長い降下距離が、肉体的な負担を数倍にまで跳ね上げる。

さらに気付いたことがあった。

押しひしいだライトニングイーグルとIXの体越しに、LKと視線をかわす。LKの表情は逼迫していた。おそらくLKも気付いていたに違いない。

リングは構造材の内部に注入していたクッションの役割を果たす液体ウーブレックが流出してしまっている。

リングにあるのは穴の空いたキャンパスと、金属がむき出しになった構造材だけだった。

加えてこの高度から落下した際、技をかけられていたものはリングに衝突した際に間違いなく死ぬ。

空気をいなしながら落下経路を調整しつつまっすぐリングの穴を目指している。

ほかにどうしようもなかった。

リング外は観客で埋め尽くされている。展開した鉄柱はほとんど水平にまで展開しており、下手に着地するとその衝撃で屋上全体の特設リング全体をひっくり返してしまいかねない。レスラー以外の被害を最小限に抑えるには、レスラーの犠牲が必要なのだった。

リングの有効使用範囲は狭く、中央には壁むき出しの大穴が開いている。ただでさえ技が極まった高度が高く、落下の勢いは倍加しているのにもかかわらず、柔らかさのあるリングではなくリングを支える構造材の鋼鉄に衝突する予定だった。

また、観客席が崩壊したことでリングに場所を求めて押し寄せた観客が周囲にひしめいていることもあり、この最終決戦技ディサイシヴを着地寸前で技をとくことはできない。離脱した選手に観客が巻き込まれる可能性があるからだった。

つまり、今技をかけられている二人の命を犠牲とならねばならない。悪質なサギに引っかかったような気がした。多数の命を守るつもりが、いつのまにか公開殺人ショーへと変貌していた。

体の底から突如として凍えるような冷たさを伴ったおののきが湧き起こった。


(殺す? あの二人を殺すの? わたしたちが! わたしの手が!)


カレーショップでのさまざまな記憶が早送りされた映画のようにめまぐるしく脳裡を駆け抜けてゆく。


(Jのサイン、謎の新製品、カレー屋独立宣言……

あのカレーけっこううまかったよなー、フルーツカレー……

満場一致でうまかった。わたしもLKもJもみんなカレーは好きだけど、ルーとか具とか、けっこうこだわる派だったのに、あれは誰ひとり一つも文句無かった……みんな同じ気持ち、同じ思いをもったんだよ、あの時、あのカレーのおかげで……わかりあえる。わたしたちは分かり合えてるのに……結局、殺し合いしなければならなかったなんて! ひどすぎるよ、そんなの! もっとどうにかならなかったの?)


突如として真っ黒な悲嘆が視界を覆った。だが身体はわずかでも油断で弛緩したりはしない。過酷な訓練の賜物だった。多少心が揺れようが、体が行動を覚えていた。また、肉体のみならず心も、すでに充分パラレスルールに乗っ取った殺し合いを続けてきた実績があった。本能的に先頭を継続することが不能になりそうな感情は麻痺させていた。

すでに見えないレールに四人は乗っている。乗った以上結果を変えることは誰にもできない。それはどうしても肯定できない自分の行為を許すために唱える祈りの言葉だった。

地面との距離が収縮し、点のようだったリングの穴が体を包み込むかのように拡大する。

けたたましい機械の発するノイズのような歓声が全身を棘のついた脚の昆虫が止まったかのような小さな不快感で小さく突き刺した。

地上から吹き返してくるほこりっぽい風が頭のてっぺんまでつつんだ。

穴の中に落下した。

暗闇につつまれる。同時に全身を波打たせる振動が走りぬけた。

腕を伝わる衝撃が、背骨と両脚をゆさぶった。張り詰めた筋肉に緊張そのものが凝り固まったような苦い汗を浮かべて収縮する。


(……やってしまった……わたしは、ひとを殺してしまった……)


体の中で何かが剥がれ落ち、自分自身の一部が決定的に崩壊したかのような不安にとらわれた。うすら寒さに肩が震える。無意識に吐き出し、遠ざかってゆく吐息に自分自身の壊れた何かが混じっていたような未練を覚えた。

ゆっくりと体が沈み込んでいった。技をかけられたIXとライトニングイーグルの体勢が崩れてゆく。

LKの素っ頓狂な声が穴の暗闇の中から伸びた。

「J!」

異変に反応し、声をかけた。

「どないしたんで?」

LKはすでに技をといていた。思いがけず沈み込んでいた感慨から立ち直る。いまさらのように敵の体から離れた。

まだ暗闇がたゆたっている床の底まで降りた。生白い丸い影が朧にすかし見える。

「Jさんが……!」

泣き声がLKから聞こえてきた。

「大丈夫か?」

ジャンパーを身にまとったモスケンクラーケンが現れた。

「手伝うことあるか?」

「待って」

LKが穴の底から声をかけた。

薄暗い影の底に、IX、ライトニングイーグル、そしてかろうじて認識できる程度のJの姿があった。

仰天してもう一度穴の中をまじまじと見つめる。

Jの巨体は二人の女性の下に隠れてほとんど見えなかった。丸いマスクがわずかに入り込むかすかな光を拾っている。Jは穴の内部で四肢を広げていた。あたかも落ちてくるものを身を呈してかばおうとするかのように。

身動き一つせず暗い内部にじっと横たわっているJに、声をかけた。

「ちょっとJさん! なにやっとんで!」

Jからの返答はない。身動きひとつしない。

替わりのように、Jの上に乗っているIXとライトニングイーグルの体が動いた。

その瞬間、穴の空いたタイヤのように体から力が抜けていった。内部にいっぱいに膨張している差し迫った不穏な空気によって張り詰めていた全身が弛緩する。

「おまはんら、生きとるんで……」

不明瞭なつぶやきと共にその場にしゃがみこんだ。太ももの下に硬い物体があたる。Jのすねだった。お尻が少し痛かったが、構わず座り込んだ。というより両脚が完全に脱力してしまい、立ち上がることはおろか座る位置をずらすことができなくなっていたからだった。

命拾いしただけでなくIXには意識があった。苦しげなうめき声を上げる。

LKが半狂乱になってJのマスクの周辺にしゃがみこみ、金切り声で話しかけていた。

「死なないで!」

しかしJのマスクは微動だにしない。

「……どういうことで?」

ぼんやりする頭を叱咤し、するどくIXとライトニングイーグルを睨みつける。

苦しい息の元、IXのかすれた声がささやいた。

「リングの底に……Jがいたのです」

思わず首をひねる。疑問が湧いた。

「なんしにそんなとこにおりよったんじょ」

IXは苦痛に耐えるように眉根を寄せながらささやいた。

「きっと、わたくしたちをかばうためでしょう。Jは……穴の縁に両手両足をかけていました。落下の衝撃を吸収しようとしたに違いありません」

ライトニングイーグルがあとを続けた。

「マチガイねーえ、おれも見たぜーえ……あのヤローはいつのまにか穴の中にはりついてやがった……」

激しく咳き込む。口中から鮮血が飛び散った。顔をしかめ、苦笑しつつ口を開く。

「おかげでおれらは助かったのかもしんねーえがよーお……あのオッサン……どーおなったんだよ」

リングの穴から何かが這い出してきた。LKがJの巨躯に覆いかぶさったまま登ってきたのだった。リングにJの体を長々と横たえる。

あらゆる攻撃の荷重にも衝撃にも耐える戦闘用のマスクが割れていた。卵形の胴体周辺半分ほどの殻が剥離していた。ささくれだった亀裂が蔦のように広がり、闇がこぼれだしそうな陰が内部に立ち込めていた。

1000、LK、IX、ライトニングイーグル、モスケンクラーケンが意識を失ったJを囲む。さらにその外側には、観客席から追い出された客が密集していた。

もっとも小さい環となった五人の中から不吉な響きを帯びた驚愕の悲鳴が漏れた。

全員の視線は割れたJのマスク内部にたゆたっている暗闇に集中していた。

ほんの一瞬、わずかのあいだ、Jの素顔が垣間見えたようだった。

深く刻み込まれた傷のような無数の溝に覆いつくされた赤黒い地肌が崩れた粘土細工のようにうねる表面を覗かせていた。

腹の底から熱が生じる。内臓が湧き立つかのような吐き気に襲われた。

ライトニングイーグルとモスケンクラーケンは暗い影に覆われた瞳をそっと伏せた。

IXが赤い服の布地を引き裂き、そっとマスクの破損を覆い隠した。

Jは目を覚ましたのか、声をあげて身悶えた。

「いってぇ……」

いつのまにかJの頭の側に腰を下ろしていたLKが心配そうに訊ねる。

「大丈夫?」

苦しげにJは答えを返す。

「義肢がいかれただけだ……」

ひとまず、一堂全員が安堵の息を漏らした。

異変を感じたのか、Jが質問する。

「おれのマスクは?」

いつもの深くよく通る声がひび割れている。おびえた声は風にはためく薄い布のようだった。

「壊れてる」

簡単にLKが返事した。ライトニングイーグルも険しい面持ちでJを見下ろしていた。

Jはマスクを左右に動かし、ぼんやりと周囲を見上げる。唐突に大きな手のひらでマスクを探る。

動揺もあらわにJは悲鳴をあげた。

「……見るなっ!」

マスクの破孔から漏れでたJの地声はか細く抑揚が一定していない。それが本物の声なのかもしれなかった。マスクには音声変換の機能を備えているようだった。

LKが穏やかな口調で話しかける。

「見てないよ」

隆起した猛々しい筋肉を偽装したJの太い義肢がLKの腰を抱えた。強力な罠が小鳥をくわえ込む光景を見るかのようだった。心臓に針の頭が触れたような痛みを覚える。Jは座ったLKの腹部にマスクを押し当てた。

LKはJの体をひざにのせ、頭を両腕で抱えた。辛抱強くささやく。

「落ち着いて」

しばらくJはLKの体にしがみついていた。白く色あせた皮膚から汗がびっしょり流れている。ほどなく、片腕が肩から落ちた。両脚も、よく見るとおかしな方向に曲がっている。リングの穴をふさごうとした際に破損していたようだった。

「LK……」

少年のような細い声が消え入るようだった。LKは無言で赤い布を巻いたマスクをなでる。

気を飲まれたようにその様子を周囲は見つめた。ほどなくして、Jはようやく自分をとりもどしたようだった。赤い布で半分ほど覆われたマスクをもたげた。静かな声で言う。

「おまえら、助かったんだな、よかったよ」

ライトニングイーグルが反駁した。

「余計なことすんじゃねーえ!」

「オマエには親らしいことは一つもできなかった。俺が悪かったよ。せめてもの償いさ」

Jは淡々と語った。

激昂するライトニングイーグルは刃物のような鋭い視線でJを睨みすえた。口の端に血を流しつつ反論する。

「だからっていいことしたとかうっとりすんじゃねーえぞ! オメーえは母親を壊しちまったんだから、もう取り返しなんかつかねーえからなーああ!」

Jはうなずいた。

「わかってる。多少なにかしてやったからって罪が消えるなんて思ってないさ。だが、オマエにはわかってもらいたかったんだ。おれがオマエのことを気にかけてるってことを……いままでも、これからも」

ライトニングイーグルは顔を赤くした。Jを睨みつける。

「適当なこというなーあ! 今までほったらかしにしてたくせにいまさら親気取りかよーお」

「そうだな。おこがましかったよ。さっきはただ、お前が怪我するくらいならおれが死のうと思ったんだよ。それだけだ」

何かを怒鳴ろうと口を丸くあけたまま、ライトニングイーグルはJを見つめた。言葉を飲み込み、口を閉ざす。

感極まったようにIXが軽く頭を振り、Jに視線を投げる。

「J……どうしてこんなムチャをなさったのか、わたくしにはわかりませんわ……あなたが人のために身を投げ出すなんて、想像もできないもの」

いくぶん皮肉混じりの口調に対して、Jはわずかに笑い声をあげた。

突然LKが目を丸くした。背筋を伸ばして悲鳴をあげる。

「ひゃっ!」

Jのマスクを軽く小突いた。唇を尖らせる。

「ちょっとぉ、なにいきなりおしりなでてんの? エロかよ!」

IXは眉をひそめ、LKをじっと見る。

「わからないものねえ……頭カラッポでただただ何も考えてない子なだけだったあなたがこんな屈折したオッサンになにを与えることができたのかしら?」

「え? え? あたしが何? IX姉」

LKはおびえたように首を縮める。

困ったようなLKには構わず、IXは感慨のような言葉を漏らした。

「何かがきっと変わったのねえ……神の御使いとしては興味津々ですのよ」

考え込むように首をかしげたLKは素っ頓狂な声をあげた。

「あ! 変わったとしたら……」

不意にLKの明るい瞳がこちらへ向いた。

屈託のない笑顔につい見とれてしまった。薄い青色が本の少し前まで居た空の色を思い出させた。

投げ出していた手がふわりとすくい上げられた。LKの手からあたたかみがじんわりと伝わってくる。

「相棒ができたからだよ!」

まるで目の前で手品を披露されたように、IXは何度もLKと1000の顔を交互に見る。感心したように真顔で何度もうなずく。

まるでLKのきれいな目に魂を吸い込まれたかのように頭がぼんやりとしてしまっていた。気がつけば、周囲に人垣ができている。みんな奇妙に優しげな笑顔で1000に目を向けているのだった。

かっとほおが熱くなった。

やにわにとりみだし、けたたましい笑い声をあげた。

周囲から投げかけられる困惑した視線が突き刺さる。

汗をかいた手で頭をかきむしった。そっと手をLKの手のひらから引き抜いた。肌に触れた空気がひんやりと冷たい。

過剰な反応に面食らったような周囲の顔を意識しつつ、つっかえながら言う。

「あ、あれやらんで! 勝ったらやろうゆうて準備しよったでえ!」

「へ?」

ぽかんと呆けたような顔をしていたLKの目に理性の光がよみがえった。

「あ!……そーだった!」

「やるとしたら、今じょ!」

立ち上がり、仰向けにひっくり返った観覧席に向って両手を振った。気が抜けたように観覧席開いた扉の縁に腰掛けていた解説者が1000の合図に気付いた。

観覧席の内部に隠れるように、四角い箱の内部に体をもぐりこませた。

「あたし、忙しいから!」

LKは膝の上に乗せていたJの頭を床に放り出した。マスクが床にぶつかって音を立てる。

「いてっ!」

「……大丈夫かよーお」

ふてくされた声でライトニングイーグルがつぶやいた。

おずおずとライトニングイーグルは膝の上にJの頭を乗せた。その背後ではモスケンクラーケンとIXが控えている。

よくやったといったように二人はライトニングイーグルの肩に手を置いた。

Jは平板な声音でつぶやく。かすかに語尾が震えている。

「すまなかった」

「まだぜんぜんすっきりしねーえけど……」

ライトニングイーグルは引き絞った唇のあいだから、ムリヤリ言葉を押し出した。

「いつかーあ、すっきりすると思ってる」

Jは無言でうなずいた。

残骸と化した会場に散らばったスピーカーが大音量を発した。

無秩序に空気を震わせた爆音は、しだいにくしの入った髪の毛のようにまとまり始める。音の束は近年流行の音楽だった。

1000の体内で急速に潮が満ちるように高揚が高まってゆく。

笑顔のLKと並んで立った。

声を張り上げた。

「みなさーーーん! 応援してくれておおきに!」

LKも声をそろえた。

「ありがとー! おかげさまであたしたちが勝利の栄冠をゲットできましたー!」

「お礼というたら大げさやけんど、ちいっとサービスするけん」

「なんとあたしたちがAGP48の代表曲! “あいかたった”を歌って踊ってあげちゃう!」

「レアやけんな! みんな愛しとうじょ!」

手を伸ばせばすぐに触れそうな距離で、わっと観客が沸いた。

LKと顔を見合わせる。すでに何度か練習していた。そのときの感覚を再現するために、互いにタイミングを合わせる。

体を揺らし、軽快な動きで振り付けを踊る。

曲が始まった。

観客からの拍手が二人をつつむ。

《い~ぞ~!》

《かわいい!》

《がんばって》

全方位からの喝采を受け、二人は笑顔で応える。マイクを持っているかのように手まねして、音楽に合わせて歌い始めた。


♪ぼいぼぼいぼぼい ぼいぼぼいぼぼい ぼいぼぼいぼぼい ぼいぼぼいぼぼい


愛語った~ 愛語った~ 愛語った~ Yeahいぇー

てん! てん! てん!


愛語った~ 愛語った~ 愛語った~ Yeahいぇー

てん! てん! てん!


君へ~~~~~~~~~~~~!

って~ん、てれってってってん、って~ん、てれってってってん


自分でもガマンできない感情が満面の笑顔となって外にあふれるのがわかった。

LKも同じことを思っているのか、にこにこしながら1000を見る。楽しげにダンスのステップを踏んでいる。二人の息はぴったりだった。華やかな空気につつまれていた。

一方で観客たちは冷や水を頭から浴びせかけられたような表情で互いの顔を見回していた。

ついさっきまで生きるの死ぬのとやってたのがいきなりAGPじゃ面食らいもするだろうな、といたずらがまんまと成功したかのような笑みがほおに滲む。


自転車チャぁリンコぉ 全開ぜぇんかぁいでぇ~


サぁドル こし上ぁげて


登り道 駆っけっるぅ~


のようにひぃろがるぅ~ ワぁイシャツ


すぅでに足手まとぉい

ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ、ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ


だんだん音楽に体が慣れてゆく。はじめはダンスを音楽にあわせることに懸命だったが、ほどなく意識することなく体が動くように変化した。体内から生じる脈動に手足を従わせる。

嬉しいことに、体が刻むテンポはLKと全く同じだった。全く相手に同調させる苦労なしに二人は自らの歓喜に突き動かされるままにダンスに没頭できた。

Jが小声でライトニングイーグルにささやいていた。

「なんか……ちょっと歌が、変じゃね?」

ライトニングイーグルは表情を曇らせ、少し気まずそうに返答する。

「……だなーあ」

二人の会話を漏れ聞いて、もしかしてまだ声が小さいのかもしれないと思い至る。が、これはファンサービスでもあるが、何より自分自身がやりたかったことでもあった。自然体でいこうと思い直す。


ちょーっとー、見―つーけたーっ

ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ、ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ


真実しぃんーじぃつの、おーもーいっ

ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ、ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ


まーっあーっすーっぐーっ、すぅすぅもう


唯一ゆーいーいーつのーこぉのールーぅトー


駆―――けーーーろーーーーーーーーーーおーーーーーーーー


もはや歌や踊りをするという概念が消えていた。心のままに体を動かせばそれがダンスになり、声を出せば歌になっていた。

大して練習はしていなかったが、これまで全くミスひとつなかった。振りや歌詞がわずかに欠けているときには、相手を見ればよかった。これからも何一つ間違いは犯すとは思えなかった。

顔を引きつらせ、弟の10000は怒ったような声をあげた。

「ヒッドイな、これ! 姉ちゃんマジかよ?」

困惑したように母親が嘆息する。

「まえから音楽の成績悪かったけんな~」

「そうで? ええんかわるいんかようわからんわよ」

首をかしげて父親はひとりつぶやいた。

どうも家族は最近の流行がわからないようだ。これを勉強と思ってぜひじっくりと楽しんで欲しい。


こーいなーらーば こーいだーとー言―おーう


逃―げーなーいーで みーとーめーてーしーまーおー


こーいなーらーば こーいだーとー言―おーう


こーころーのなーかー はーきーだーしーちゃーおーおー


「いい感じだよ!」

「サンキュ!」

歌の合間にそっとLKがささやいた。ウインクする。笑顔で応えた。

なぜかIXは冷徹な表情で、モスケンクラーケンは心配げに左右を見回していた。

二人の周りには、今にも怒鳴りださんばかりに顔を怒りに紅潮させている人々が居並んでいた。

しばらくこらえるように口を真一文字に引きしめていた男たちだったが、ついに決壊したかのように咆えた。

《お前ら、耳どうかしてんじゃねーの?》

《なにからなにまでメチャクチャじゃねーか!》

《ファンからしたらオリジナルが冒涜されてるかのように感じてしまうんだよ!》

《歌、下手すぎ!》


愛語った~ 愛語った~ 愛語った~ Yeahいぇー

てん! てん! てん!


愛語った~ 愛語った~ 愛語った~ Yeahいぇー

てん! てん! てん!


君へ~~~~~~~~~~~~!

って~ん、てれってってってん、って~ん、てれってってってん


ふとさっきの声援を思い出し、首をかしげた。

「……ん? なんかわいら、下手やとか言われとらなんだで?」

きょとんとLKは目を丸くする。

「そういえば、なんか……」

小首をかしげる。二人は居並ぶ人々を見回した。

すでに観客は充分機嫌を損ねているようだった。怒りに顔をゆがめて言う。

《ぜんぜん歌に聞こえねーよ!》

《音程がめちゃくちゃだよ。リズムもばらばらだし!》

《声が大きすぎるのカンベンしてくれ、下手なら歌を聞かないっていう自衛策をとることもできない》

《とにかく耳障り!》

「歌はよしにして、ダンスだけになさればいかが? それならけっこう見れますわ」

IXからさりげないアドバイスが送られた。

「無理すんな。もうやめとけ」

けだるげなJの声も混じっていた。

真剣な面持ちでLKを見た。LKも真顔だった。

つかのま、互いの様子をうかがう。

不意に笑みがこぼれた。微笑みはすぐに身をよじるほどの大爆笑に取って代わった。

唖然と見守る人々の中、LKと肩を寄せた。高々と宣言する。

「「や~めないっ!」」

いきり立つ観衆を尻目に、二人はふたたび高らかに歌声をはりあげる。


どーろーどろー、こびりついたーつーち


かぁくぅさぁずに


いつものよっうっす~


ひぃかる~ くぅさの天井~ なぁつ


とーお―る一本道いっぽんみぃち

ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ、ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ


ちゃーらーい、格好かーあっこーう

ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ、ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ


つけーてーなぁくぅても

ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ、ちぇんちぇちぇんちぇちぇちぇ


そーっのーっまーっんーっまーがーいい


きーみーだーけのーやぁりかーたーでー

すーーーすーーーーーーーーーーーめーーーーーーーーー!


空を見上げた。

遠くに、救援のヘリコプターが見えた。晴れた日にフトンを叩いているような回転翼ローターの音と共に飛来しつつある。

さらに上にはいつものように銀色の8のアナレンマがくっきりと輝いていた。

忘れ難い思い出が刻印された銀色の環を振り仰ぐ。

両手を差し出し、あふれんばかりの感謝を込めてつぶやいた。


「じゃあね!」


なーによーりーも 重要じゅーうーよーうなーのーで


かーわーさーれーて 悲しんだりしーないー


なーによーりーも 重要じゅーうーよーうなーのーで


こーのーねーが―い おーしーえーたーかーあったー


ルールールールールーー ルールールールールールールーー

ルールールールールーー ルールールールールールルーー

ルールールールールーー ルールールールールールールーー

ルールールールールーー ルールールールールールルーー


愛語った~ 愛語った~ 愛語った~ Yeahいぇー

てん! てん! てん!


愛語った~ 愛語った~ 愛語った~ Yeahいぇー

てん! てん! てん!


君へ~~~~~~~~~~~~!

って~ん、てれってってってん、って~ん、てれってってってん


愛語った~~~~~~~~~~~~~~!

っでぇん!


おわり☆

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