シスターIX(イーシス)
「明日はいよいよ選手権争奪戦っすね」
高々と盛り上がるごはんの上をなみなみと覆うカレールーをのせた皿が、1000の前に置かれた。
GoGo壱番屋での昼食だった。JとLKが同じテーブルを囲んでいる。
以前からJの大ファンと称する店員が注文の品を運んできた。大きな体を生かし、片手に乗せた皿を次々とテーブルに並べてゆく。
いつものメニューだった。
1000は甘口、素カレーの超大盛り。LKが辛さスパイス二倍のランチセット。JはWカツカレーだった。
「そうじょ」
店員に笑みを向けた。店員はたくましげな白い歯をむき出して笑った。
「頑張ってください」
LKが愛想よく返事する。
「ありがと。今度は負けないよ」
かたわらでJがうなずいていた。両手両脚は機械がむき出しになった義肢だった。磨いた鉄のパイプを接続したような両腕と、胴体の下に二輪の太いタイヤがある。マスクは香木で彫り上げられており、卵形の薄茶色の表面に褐色の木目が波紋を作っていた。
「応援というものはありがたいものだよ」
店員は照れたようにうつむいた。その背後からもう一人の店員が近づいてきた。小さな皿をトレイに載せている。Jファンの店員より頭一つ分背が低い。精悍そうな細身だった。
不機嫌そうに口を曲げている。ぶっきらぼうに言った。
「せっかくだから……これ」
トレイから小さな皿をとり、テーブルに載せた。サラダ用の小皿にカレーライスを盛ってある。ミニチュアのようなルーには角張った固まりがひしめいていた。見ただけでは具として何が入っているのかわからなかった。
「なにこれ?」
LKが目を丸くして訪ねた。大柄な店員が説明する。
「うちら、ダチなんすけど今日でココやめるんす」
LKは驚いたように店員を見上げた。
「そうなの? せっかく知り合えたのに、なんだか残念」
「ご苦労様だったね」
Jが言った。大柄な店員は嬉しそうな笑顔を見せる。並んだ細身の店員は無表情だった。
「やめたあと、なにするんで?」
大柄な店員が答える。
「一緒に、カレー屋しようかと思って……そのための資金もほとんどたまってるし、明日から準備っすよ」
「それ、試作品」
仏頂面で細身の店員がつぶやいた。ちらりとテーブル上の三人を見回して付け加える。
「食べてみて」
満面の笑みを浮かべた大柄な店員が何度もうなずいた。
JとLKの二人と目が合った。全員が内容が正体不明のカレーにややおじけづいているようだった。
「じゃ、いただきま~す」
最初に手を伸ばしたのはLKだった。スプーンに四角い具をのせる。興味深そうな眼差しをそそいだ。赤い唇の端が吊り上がる。
「あのさ、中身……言わないでね」
店員に言った。じっくり観察しながら、鼻先に近づけて匂いをかいだ。不思議そうに見つめる。具の正体がわからないらしい。とうとう口を大きくあけてほおばった。
真剣な面持ちで口を動かすLKをJと共に息をのんで見つめる。
突然、こわばっていたLKの顔は光がさしたかのように明るくなった。
「うまい!」
Jが興奮した口調で言う。
「マジかよ! じゃ、おれも」
「わいも」
続いて試食した。風変わりな味だが非常に美味だった。
口に投入した固まりは適度な歯ごたえで砕けてゆく。口中でかけらが溶けながらほのかな甘みを残していった。カレーの複雑な辛味と具の爽やかな甘みが絶妙に共振しあって鮮烈さと重厚さを備えたうまみが脳に突き抜けた。
「うんま!」
「おいしいでえ!」
嬉々として三人は試作品カレーをむさぼった。
LKは首をかしげながら言う。
「なにこれ? 豚のバラ肉? あたし豚好き」
Jがわかったような口調で口を挟む。
「これは高山野菜だろ。乾燥させて何時間もかけて煮込めばこんな感じになるはずだ。テペクでみたことあるな」
「鳥の軟骨じょ。わいの田舎に長尾鳥ゆうんがおるんじゃけんど、それかもしれん」
大柄な店員はにこにこと首を左右に振った。細身の店員は苦笑している。
「残念ながら皆さん外れです。正解はフルーツでした!」
思わず感嘆の声をあげた。JもLKも同様だった。
賞賛され、興奮したのかわずかにほおを赤くして細身の店員は言った。
「果物の種類と……味つけとルーとのバランス……いずれも大事だが、同時にいろんな組み合わせができる。無限大」
大柄な店員が付け加える。
「今日はマンゴーのカレーでした! 乾燥したのと生のとシロップ付けを混ぜて遣いました。ちょっと珍しい味だと思ってて、でもみなさんにわかってもらってうれしいっす」
「うん、これいいよ!」
三人は声をそろえて賛美した。
「これからもこんな感じでオリジナルのカレーを世に問うてみたいっす。皆さんも頑張ってください」
「ご意見感謝。応援する」
店員は頭を下げて去っていった。
LKは青い目を輝かせながら1000に向かって言った。
「あたしたちに期待してくれてる人たちもいるんだね」
「がんばらんとな」
LKに答えた。Jのマスクから声が聞こえる。
「気をつけろよ。試合なんて“K+Vアソシエーション”の格好の的だからな。もっとも警備に最善はつくすが」
LKの目が敬うようにJを見あげる。
「ありがとう。残ってくれて」
Jの義手がマスクの頭をなでた。Jはうつむき、ふてくされたような声を出す。
「仕方がないだろう。おれだけ逃げてもしょうがないからな。パラレスの未来はむしろキミたちの双肩にかかってんだぜ?」
LKが心底おかしそうに笑い声をもらした。ふたたび二人のあいだだけにただよう匂いを嗅いだような気がした。
のけ者にされたような不快感を覚えて口を閉ざす。
唐突にLKが甲高い声をあげる。
「あっ」
顔が驚愕に凍りついている。何かを凝視していた。
LKの視線が伸びる先を追った。
奇妙な服装の女性が店内を歩いている。真紅の布を頭からすっぽりとかぶり、髪を覆っていた。小さめの体に古風なかたちの真っ赤なワンピースをまとっている。白い横顔に柔和なほほえみを浮かべていた。年齢は30代前半のように見えた。
LKののどからうめき声がもれる。
「IX姉!」
同時にJは立ち上がった。
「九本脚? まさか!」
Jに気付いた女性は足を止め、体ごとJたちに振り向いた。穏やかな笑みを崩さないままゆっくりと近づいてくる。まるで金縛りにあったかのようにJもLKも身動きひとつしなかった。
鮮血のような赤い衣裳をまとった女性はそっと二人にか細い声をかけた。
「お久しぶりねえ。二人とも」
JとLKは互いに顔を見合わせた。
「え? じゃあ……オマエ」
「IX姉のこと知ってんの?」
あわてる二人に女性は悠然と声をかける。
「LKちゃん、あなたは大きくなったのねえ。J、あなたはかわらないのね」
あっけにとられていると、二通りの名前で呼ばれている赤ずくめの女性がごく自然な態度で挨拶をしてきた。
「はじめまして。IXと申します。根岸ノ里修道院で修道士をさせていただいておりますの」
屈託のない満面の笑顔に圧倒された。戸惑いをあらわにぎこちなく挨拶を返す。
「あ、あの、わいは1000と申します」
「配信ニュースでいつも拝見しておりますわ~。LKちゃんといっしょにパラレスしてるんですってね。明日の試合、がんばってくださいね~」
Jが急き込んだ様子でIXに訊ねる。
「東京にいたのか?」
IXはゆったりとした口調で答える。
「ええ。あれからずっと東京で住んでるのよ」
「IX姉、怒ってる? 前やってたお仕事とかで……」
神妙な顔付きでLKが訊ねた。
「さあねえ、あなたは本当に言うことを聞かない子だったから、もういろいろありすぎて、どれのことを言ってるのか分からないわ。
でも怒ったりしませんよ。あなたが自分で選んだことですもの。あなた自身にあなたの行動の責任を負っているうちは、だれもあなたのことなど批難できるものですか」
IXはLKに微笑みかけた。LKは安堵したように息をついた。
「あの、みなさん一体、どういうご関係で」
ようやく三人の間に割り込んだ。
Jがいくぶん興奮を隠しきれない様子で答える。
「昔、やとってた秘書さ。いろんなことを手伝ってくれた人だ」
ほとんど同時にLKが説明する。
「あたしが子供の時にいた施設の先生。修道女だよ」
IXは鷹揚にうなずく。
「そして私はいま、商売のお話でここに参りましたの」
1000に言った。本当はあまり知らない人に話かけられるのは苦手だったが、失礼にならないように気をつけて答える。
「商売って……どんなお仕事をなさってるんですか?」
「そうだよ。気になるな。だいたい、なんて格好してるんだよ」
Jが質問に便乗した。
IXの化粧気のない顔がほころんだ。
「ずっと修道院のお仕事をさせていただいておりますのよ。今日も、修道院関係のお話しですの」
服のそでをつまみあげる。
「そして、これは倹約の証なのです。
数年前、財政難のおり、受けた寄付が赤い布地だったのです。その時の感謝を忘れぬ為、いただいた布で作った修道服を今でも身につけておりますの」
Jが真摯な口調で寄付を申し出る。
「カネが無いんだったら、いくらでもやるぞ?」
IXの髪覆いが揺れる。IXはいたずらっぽそうにJを見あげて片目を閉じた(ウインクした)。
「でしたら、近いうち修道会にいらしてください。わたくしだけでなくみな大歓迎いたしますわ。たくましい男性を目にする機会などほとんどありませんものね。ぜひいらして。その際には小切手をいつもより大目の額をお持ちになるとあなたにとっても神にとってもきっと素晴らしいことが起こると思いますわ」
「近いうち行くよ。本当だ」
Jは切羽詰ったようすで言った。
「キミのことはずっとおぼえていた。またおれのところに来てくれないか? すぐってわけにも行かないだろうが、前向きに考えておいてくれ」
ふと違和感を感じたようにLKは、油断なくJとIXをかわるがわる観察している。
IXはほんのつかのま、嫣然とした笑みをJに投げかけた。
風のように立ち上がってIXは三人にていねいにお辞儀する。
「名残惜しいのですが人と会う約束がございますので。失礼させていただきますわ」
「もう行くのか? 残念だな」
Jが名残惜しそうな声を出した。IXは屈託のないようすでLKに言う。
「LKちゃん。お仕事がんばってね。皆さんの足を引っ張らないように、きちんとするのよ。先生たち、ずっとあなたを応援しているからね」
「あ、ありがと」
緊張したようすでLKはぎこちなく感謝の言葉を述べた。
1000にもIXは声を掛ける。
「1000さん。LKちゃんと仲良くしてあげてね。この子はちょっと自由すぎるところがあるけれども、悪気だけは少しもないの。きっと良いお友達になれる子なのよ」
「ふきゅっ」
LKを子ども扱いするIXの言い方に、つい笑い声をもらしてしまった。
IXはJへ笑みを向けた。
「Jも……ほんとうに来てね」
「必ず行く! 近いうちにな」
熱のこもったJの返事に、柔らかく言う。
「待ってます」
IXは赤い服をひるがえした。
「いずれまた、お会いすると思いますわ。みなさんごきげんよう」
ふたたび一礼し厨房の奥に消えた。
LKはイスの背もたれに体を伸ばした。
「あ~あ、すっごくキンチョーした」
疲れた口調で言った。ふと記憶に触れることを思い出して尋ねてみた。
「もしかして、子供の時におしおきで関節技をかけとったんが、いまの先生で?」
「あたり。IX姉。基本的にみんなシスターたちは厳しかったけどね。でもIX姉は実力がともなってたから本気で怖かったよ。やさしいほうだったけど、罰の厳しさがパねぇ」
「そうか。おまえの関節技の先生は“九本脚”だったんだな。チキン・ウイング・フェースロックを教えたのは、あの子だったのか」
感慨深げにJが言った。
LKは目を見張った。
「もしかして、こないだ会いたいって言ってたのって……IX姉のことだったの?」
「まさかこんな近場に何年もいたなんて、全然気付かなかった。それもそうか。尼さんになってるなんて夢にも思わなかったもんな」
「ノウェムパスってなんで?」
「関節技が得意だったんで、蛸よりすごいってことからついたあだ名だよ。
彼女は初めはプロダクションの事務員ということで入社してきたんだが、もともと学生時代は格闘技の選手だったそうでな。その縁だったな、就職したのは……おれの付き人というか、まあ秘書みたいな感じになったんだよ。そのとき、よくスパーリングとか練習手伝ってもらったんだ。
彼女の関節技のセンスははっきり言って……おれよりよっぽどすごかった」
昔を懐かしむような虚脱した雰囲気を漂わせ、Jは語った。
「とにかく体が柔らかく、技を決めていく手順が圧倒的に素早かった。あと、技を極めて行くバリエーションも通常の三倍はあった。とにかくいったん張り付かれたら脱出不可能だったよ」
「何で選手にならなかったの?」
「俺たちもそれを望んでたんだが……彼女には決定的にレスラーの資質がなかった」
「なんで? 資質って」
「闘争心だよ。これがない象とある蟻が戦ったなら、像は負けて蟻が勝つ。
誰だって少しはもっているものを、彼女はひとかけたりとも所有していなかったわけだ。彼女はパラレスラーの中でいちばん強かったが、その力を自分の為に振るうことは絶対できなかった。
すぐに“九本脚”は仕事をやめて、おれの前から姿を消した」
「それから一度もあってないの?」
「ああ。探したんだが……まさか修道院に入ってるとはな。全然気がつかなかったよ。でも今やっと見つけた」
JはぼんやりとIXが姿を消したドアをながめていた。
みるみるLKの表情が厳しくなった。
「ちょっと! IX姉とあなた、どうゆうカンケーなんだよ? さっきからなんかおかしくね?」
突如として声音を尖らせてLKはJを詰問した。
Jはたじろいだようすで答える。
「なんだよ? 別にたいした関係じゃないさ。それにもう昔のことだしな」
「昔のこと?」
険悪な目つきでJをにらみつける。LKは明らかに機嫌を損ねていた。ぷうっとほおを膨らませながら1000に言った。
「もうメシもだいたい食ったし帰ろう! 明日試合だからゆっくり休まないと」
JはLKの機嫌をうかがうようすをみせつつも反論する。
「あ、もうちょっとおれはゆっくりしてって良いかな? コーヒー飲もうかな、数年ぶりくらいに」
LKはむきになって却下する。
「ダメダメ! カフェインで投薬のバランス崩れるから、絶対ダメ! もう帰るよ!」
LKの勢いにひきずられるようにJはしぶしぶ席を立った。
いきなり機嫌の悪くなったLKを不気味に思いながら、1000もテーブルを後にした。