天T
近年、タバコに続いてアルコールは生産および公共の場での販売、摂取することが法律で禁止された。それに伴い、代替物として娯楽薬、通称“南瓜糖”がNS(日本嗜好品産業株式会社)より販売されることとなった。
Pは庶民向けの安価なレジャーとなるべく開発された。アルコールと比較してはるかに毒性が低く、習慣性は皆無であり、精神に酩酊よりも良質の高揚をもたらす。効果は短時間で消失し、二日酔いのような症状を残さない。理想的な娯楽薬だった。
娯楽薬の認可に伴い、Pを提供する飲食店として“シュガーバー”が流行し始めた。そのシュガーバーの一つ、“ウ・サント”で、1000はひとりカウンターの隅に陣取っていた。
Pの酔いで周囲が明るく見えるようになった目をカウンター上の砂糖壷に据えている。小さなさじでPをすくい、かたわらの水を満たしたコップには入れずに直接口に運んでいる。
Pは独特の甘みをもつため、たいていジュースやコーヒー、お茶に混合されて提供される。この店では、変り種のメニューとして、飲料に添加するPそのもの、黄色みを帯びた粉末状の原料を販売していた。好みの飲料に溶かして飲む形式だった。
この店では年齢制限はないも同然だった。そのかわり、利用者はほとんどがパラレス関係者だった。Jの所属事務所が経営しているため、1000は顔パスで入ることができた。以前、店の前を通りがかった時にJに教えてもらったのだった。
寮を飛び出したものの、どこにもいくあてのない1000はここに足を運ぶしかなかった。毎日ほとんど練習ばかりで東京の土地勘はほとんどなかった。
Pの溶けにくい冷たい粉が口の中から徐々に消えてゆくにつれて、何の根拠もない幸福感が体にあふれた。じんわりとした温かさが全身をつつみ、胸の深奥で凝り固まっていた怒りの塊をゆっくり溶かしてゆく。体内の血管を通って生きている喜びが酸素のように頭のてっぺんから足の指先にまですみずみまでかけめぐり、心の底からリラックスする。
そして、つかのまの昂揚感が薄れてくるとふたたび悪夢のような憎しみの猛毒で自分をじわじわと腐蝕する記憶がよみがえってくるのだった。
背筋が現実感を取り戻す瞬間の薄ら寒さに震えるたび、おびえて震える指先を叱咤し、手元のPをすくい上げる。ふたたび帰ってきた安寧に体中でひたる。
その繰り返しですでに数時間が過ぎていた。
気がつけばとなりに人がいた。
なにか話していたらしいがおぼえていない。Pには副作用はないとされているが、短時間に大量に摂取すると記憶の混乱を招くこともあるらしい。しかしついさきほどの記憶がないことは何の不思議もなかった。なにより、効果が現れる瞬間の薄暗い地下室から日向の草原に出るときに感じるような解放感に痺れている瞬間に、外界のことが気になるはずもなかった。
鼻であしらうように応対する。
「なん?」
「誰か待ってるの?」
熱心そうな声音が耳を打つ。驚くほどにきれいな声だった。言葉のふちがくっきりと浮き立っているような澄んだ響きに惹きつけられた。
首を振った。ついでにとなりを盗み見た。息が止まりそうになった。相手に顔を向ける。思わず大声を出していた。
「お、おまっ、おまはん!」
興奮のあまり言葉が出なくなった。かたわらで静かに座っているのは良く見知った芸能人だった。
中学生以来、数年間ずっとあこがれていたアイドル、NEW8(ハマップ)の天Tその人だった。
「まさか、まさか……天Tで? 天Tでないで!」
相手は1000の絶叫に困ったような表情を浮かべた。あやまるように言った。
「ゴメン! ちょっと音量下げてよ」
「あの、あの……」
輝くような笑顔で細面をほころばせ、天Tは優しい声を出す。
「“二人の女神”の1000ちゃんでしょ? おれ、“NEW8”の天下知久です。はじめまして」
「えっえっ? その、わい……」
伝えたいことは山ほどあったのに、本人を前にすると何も言えない。あふれる思慕の思いも、たちまち羞恥心にかき乱されてしまう。顔が熱くなった。未成年の身でバー(こんなところ)に入り込んでPを容器から直接なめている……こんな姿を見られるなどとは全くの大失態だった。急速に早くなる鼓動にあえぎつつ、やっとのことで言葉を搾り出す。
「わい……会えてうれしいです……!」
顔を伏せているとスマートな天Tの足がよく見える。なにもかもが普通の人間と比べて圧倒的にきれいにできていた。
頭の上からよくとおる声が降ってきた。すべすべの絹糸になでられているようにうっとりする声だった。
「ありがとう」
全身が歓喜にしびれた。
(覚っ……! そういってもらえただけで、たったそれだけで……ファンやってた甲斐あったぁ!)
はげしい幸福に身をうち震わせる。無意識のうちに両腕の拳を胸の前でもみあわせていた。
どうしても天Tの顔を一目近くで見ようと、頭を上げた。
優雅な笑顔を満面にたたえている。白い肌が光っているようだった。信じられないほど大きな目がきらきらと光を放っている。唇の形は完璧に整っていて、これ以上のものはないと確信できる。顔が小さく手足が長い。実物は画面をとおして見るよりはるかに繊細で、しかし体から発する雰囲気の強さは凄まじかった。天Tを前にして、すっかり萎縮してしまった。
天Tの髪の毛は最新の髪型に整えている。実物を見るのは数ヶ月前のライブ以来だった。そのときはこんな近くで見ることは当然できなかった。しばらく特訓でテレビをあんまり見ていなかったうちに天Tはまたも頼れる兄貴的なかっこよさを増したようだった。そんな天Tがはにかむように言う。
「俺も話せてマジでうれしいよ……マジでパラレスのファンだからね。シュペルJとか超ファンなんだ」
意外だった。天Tのような男性はパラレスのような古臭い野蛮なものに興味はないと思っていた。
「へえー……天Tみたいな、女の子ファンがいっぱいいるような人気アイドルでも、誰かのファンになるんですねえ」
天Tはみじかく笑う。
「そうだよ。シュペルJとか最近知られてきてるけど、けっこう下積み長かったらしいじゃん。そういうのすごいと思う」
天TがJをほめる言葉につい笑みを浮かべるところだった。
1000とLK以外の人間から見るJは偉大なカリスマとさえ言えることに初めて気がついた。
パラレス黎明期から主要な選手としてリングに上がり、試合では弁舌爽やか、随一の実力を誇り、後進を育成する事務所の会長という重責も担いつつ、近年は、女子パラレス参入によって日本にパラレスの普及につとめる敏腕事業家、それが一般的なJの姿だった。
しかし、日常生活を通してJと接する1000にとっては、どこかのんきで無神経な中年男でしかなかった。
笑い声をかみ殺して調子を合わせる。
「うん……試合中はホントにカッコいいんじょ」
いくぶん緊張がほぐれてきた。次になにを言おうかと考える余地ができた。
無邪気な様子で天Tは言う。
「だよね。技の完成度が他の選手と全然違うよ」
「天Tは、Jさんのファンなんで?」
天Tのまぶしい姿を陶然と眺める。
「うん。最近パラレスってけっこう来てるから、こないだ配信チェックしてたら面白かった。キミの試合も見たよ」
不意打ちのように突然、背筋が冷えた。試合後の醜態を思い出し、首を縮める。
(よりにも天Tに見られてたなんて、一生の不覚だよ! あ~あ、考えなしに行動に移る前に少しでも冷静に先のことを考えればよかったのに……あたしのバカ!)
後悔に身もだえした。
天Tは大きな瞳を1000に向ける。
「マイクパフォーマンスすごすぎ。観客ディスるとかサイコーだったよ。面白いよね、キミ」
身構えていたところに、意外な言葉を聞いたため耳を疑った。まるで機嫌を伺うような顔で天Tを見上げたように思う。
「キミのファンでもあるよ」
天にも昇るような気持ちだった。
天Tの言葉はひとつひとつが詩的なおもむきをたたえ、深遠な意味に満ちて限りなく美しかった。
その後、夢心地のまま会話に没頭した。
***
Pは抜けが早いといっても、連用すると徐々に酔いは回ってゆく。徐々に理性が薄れてゆき、過度の昂揚感によって頭は混乱におちいる。
1000は落ち着きなく周囲を見回した。
次から次へと記憶が移り変わり、過去のことはすぐに消え去っていった。論理的な思考がほとんどできなくなっていた。
ベッドに長々と横になった。
「シャワー浴びる?」
体の横で、シーツが波打っている。Pの過剰摂取によって体の自由が利かなくなった1000をこの部屋まで運んでくれたのは、天Tだった。
むやみに楽しい気分に浮かされ、1000は甲高い笑い声をあげる。
「まだええわよ」
「そっか。まーオレは気にしないけど」
視界が暗くなった。目がふらふらと動いて焦点が合わないため、細かい部分が見えない。目をぱちくりさせていると天Tの顔が接近して来た。
「あっ……」
口元に湿り気をかんじる。唇に舌を這わせると、ほのかな甘味が舌先に広がった。天Tの唇の先に触れた。
ふわりと風がやさしく体を包み込んむ。
天Pの体が覆いかぶさっていた。至近距離の天Tの顔は、白い大理石で刻みあげられた彫刻のように高貴で美しかった。
うっとりと見あげる。天Tの静かな瞳は青の混じった黒い瞳に静かな感情をたたえていた。
繊細な桃色の唇から言葉がもれる。
「するよ……はじめてなの?」
声にやさしく心臓をつかまれた。両手で肩を抱いた。本能的に男から体を遠ざける。おびえたような表情を浮かべてはいるもののその視線はじっと天Tの双眸につなぎとめられている。
天Tはじっと優しげな視線を1000の体、その隅々に走らせていた。興味でもなく、欲望でもなく、ただ淡々と実験動物の動きや健康状態を確かめているかのようだった。
天Tからは爽やかな香水交じりの男の匂いが伝わってきた。香水の匂い、汗のにおい、皮膚の匂い、そして……肉の匂い。若い筋肉組織が束ねられた器官の匂い。
しなやかな肉体の若さそのものがかぐわしい香りを発していた。たまにJや他のレスラーから立ち上る有機溶剤のような鼻を刺す臭気はいっさいなかった。パラレスラーは大量の薬物を服用しているため異様な体臭を漂わせていた。
天Tの顔にしわがよった。顔の半分を白い手のひらが覆う。
「キミ……ちょっとシャワー浴びたほうがいいかもよ。けっこう汗かいたんじゃない? 今日のシュガーバー、エアコン聞きすぎてたし……」
不思議そうに天Tを見上げた。天Tは苦しそうに顔をしかめ上半身をのけぞらせていた。はだけたシャツの下からのぞく皮膚が滑らかに光っていた。
「う……うん」
批難するような天Tの強い視線に押されるように、ずるずるとベッドから立ち上がって浴室へと向った。
カラッポのバスタブに横たわる。センサーでお湯がバスタブのそこのほうから競りあがってきた。体の感触がおかしいと思ったら、まだ服を着たままだった。
Pの楽天思考を促進する成分の為か、精一杯のおしゃれ服がお湯でぐちゃぐちゃになっても全く気にならなかった。
ぞんざいに上着をはだけ、髪形を崩す。浴槽の壁際に並んだ小さいタンクの、なんとなくそれっぽい部分をおすと冷たい粘液が滴った。手のひらですくい上げて頭になでつける。
大きな花のようなシャワーを下ろした。自動的にスイッチのついたシャワーヘッドが回転し、頭に泡立つ洗剤を流していく。
無数の太い突起が生えたようなボディウォッシュタオルを湯船に投入する。
毛管現象やその他もろもろの自然現象を極力利用しながら、タオルはひとりでに浴槽内部を這い回り、皮膚を撫で回した。無数の腕が体中の垢をこすり落とし、吸着するはずだったが、実際は服をさらに傷めただけだった。
もはや完全に濡れそぼって海草のように体に巻きついている衣服を剥ぎ取った。バスタオルを手にしたまま浴槽を出た。
ベッドにねそべった天Tが手招きする。
「早くおいでよ」
小走りにベッドに向う。はしゃいだ笑い声とともにベッドに飛び込んだ。天Tはすこし身を遠ざけ、警戒するように鼻先をひくつかせていたが次第に笑顔に変わった。
「じゃあ、準備はもういいよね」
なんとなくうなずく。
これから起こることは、日ごろ心に描いていたことだった。
(まさかあこがれの天Tと本当に結ばれることになるなんて! ……え、マジで? いやいやマジでマジで!)
いずれはそのつもりだったが、これほどまではやく実現するとは夢にも思っていなかった。現実と夢の境目が曖昧になったような不安を覚えた。
そっと室内灯が消えた。二人は夜の帳につつまれた。
天Tの細い腕が1000の体を抱きしめた。すでに天Tは上半身裸だった。下半身は丸めたシーツに埋もれてわからない。同じようにハダカかもしれないと考えると恥ずかしさで顔が熱くなった。
天Tの唇が口をおおった。冷たさと、温かさ、柔らかさと硬さが入り混じり、肉体の匂いを交換し合った。
鼻先から天Tは深い息を漏らす。じんわり噴出してきた汗がハダカの上半身を濡らしている。柔らかい髪の毛がふわりと降りてきて、1000のうなじをくすぐった。
思わず身じろぎした。
それは苦痛から逃れる為の反射的な動きだった。
嫌なにおいが鼻の奥にべったりと張り付いたようだった。
驚愕だった。
あまりにもLKと違いすぎる。
滑らかな皮膚の心地よさも、やわらかい体の安らぎも、かぐわしい香りの喜びもない。
天Tはざらついたやすりのような皮に包まれたごつごつした岩だった。おまけに陰湿な異臭まで放っていた。とっさに力任せに押しのけていた。
室内にはじけた音が耳を突き刺す。悲鳴が聞こえた。
恐怖が心臓をしめあげた。体をこわばらせて薄い闇に沈む室内を凝視した。窓から差し込むほのかな明かりが部屋に散乱するものの輪郭の上に凍てついていた。
うめき声がきこえる。
床の上にハダカの天Tが炎にあぶられた紙のようにそりかえっていた。その周りにイスとテーブルが散乱している。
恐怖に打たれ、全身がわなないた。
世界の中で最も愛情を感じていた天Tを自分自身の手で傷つけてしまったことを知った。
突如、猛烈な電撃のように脳裡を思考が駆け巡った。
高い人気を誇る芸能人でもある天Tに怪我をさせるということは、一人の天Tだけでなく、彼を応援する多勢のファンに対しても攻撃することにほかならない。さらに彼に関わる事務所の人間など、天Tが仕事をできなくなることで迷惑をこうむる人たちは無数にいる。
それは今、日本初の女子パラレスラーとして売り出し中の1000には想像を絶するペナルティとなることになるかもしれなかった。当然おなじタッグチームのLKにも多大な迷惑を掛けることは間違いない。
罪悪感、恐怖、不安が混濁し、猛毒の汚水と化して内臓を熔解させる。腹部を猛烈な痛みと熱さが襲った。これまでなかった苦痛にベッドから叩き落された。
ただ逃げなければならないという衝動が頭に渦巻いていた。よじれた服を床から拾い上げる。てきとうに身にまとい、ドアにしがみついた。
ノブが回らない。部屋の主が指示しなければ、ロックは解除されないようだった。高級マンションで近年流行している人工知能(AI)が設置されているようだった。
ドアノブがきしんだ。1000の力なら金属製のドアを破壊することは容易だった。すでにPの酔いが全身に回り、精神抑制は機能していない。
が、寸前で思い直す。
これ以上、犯罪行為を重ねたくはなかった。極端な恐怖が精神を支配していた。
窓へ目をやる。駆け寄ろうとするが、その前に天Tの体が横たわっている。天Tはうめき声を上げながらも立ち上がろうとしているようだった。仰向けだった姿勢がうつぶせに変わっている。
息を呑んだ。ためらいが足を凍りつかせた。
しかし、意を決して一歩踏み出す。
素足をけばだったカーペットがちくちくと刺す。
数歩進んだ末に立ち止まった。苦しむ天Tが目前にいた。見えない壁に突き当たったようだった。
躊躇した末、おそるおそる天Tの体をまたいだ。夜目に灰色に映る天Tの背中から目をそらす。
一息に窓際へ接近した。
狭い窓のおおげさなロックを“開放”にする。
さっと風が吹き込んだ。湿った室内の空気が乾燥した冷たい外気と入れ替わる。
肌を刺激する冷たさの感覚が、恐怖に憑かれておびえきった心にわずかな救いをもたらしてくれた。
眼下には色とりどりのネオンが視界いっぱいに明滅している。窓から顔を出して見下ろすと、地上は暗闇につつまれて薄墨を流したようにぼやけていた。
部屋は30階に位置している。
1000がいたのは天Tの住んでいる超高級マンションの一室だった。
窓の真下には長い長い壁が延び、突き当りは恐ろしく小さくなった車や人が行きかっている歩道だった。
自分の体でも耐えられるかどうか自信はなかった。これほどの高度から技の練習をしたことはなかった。だが、毎日、毎時間、薬物によって徐々に強化されている肉体ならば大丈夫なのではないかという考えに変化する。
窓枠に足をかけた。窓から体を乗り出す。勢いよく吹きすぎる風が皮膚をなでた。
足が硬直した。ほとんどからだが宙に浮いた状態になったとたん、石のように手足が固まってしまった。手のひらを汗が濡らす。
(まずい! 早く飛び降りないと……!)
気ばかりがあせり、何度も同じ言葉が頭の中を空転する
突然、ドアから重々しい音が聞こえた。錠が解除された音だった。同時に、複数の人間の足音が室内に響き渡った。
鋭い声が、1000を射すくめた。
「おい! 待て、動くな!」
野太い男の声だった。おそらくマンションと契約している武装警備員だろう。
下へ視線を向ける。
強化された視力によって、はるか下方にある歩道が視認できる。あたかもたいした高さではないかのような気になった。
背後に殺到する気配に押されて空中に躍り出た。
烈風が全身を包み込み、風を切る轟音以外は何も聞こえなくなった。視界が渦巻いて暗闇に光の線が幾重にも重なった。
警備員から逃れたことで安堵していられたのは、落ち始めてほんの少しのあいだだけだった。すぐに落下の衝撃を和らげることができるように体勢を整える作業に移る。
Jはパラレスで空中戦を最も得意とするレスラーだった。落下しながら体勢を整え、さらにあらぬ方向へ落下地点を調整する巧妙な技術を体得していた。
両手足を広げ、わずかな風圧の差を感知し、すばやく動かす手足で空を薙ぐ。無秩序に捕らわれていた体の回転がぴたりと収まった。まるで滑り台を降りるように真直ぐ立った状態で地上にわだかまる暗闇にのめりこんでゆく。混沌とした風のうねりは透明な筒に飛び込んだかのような体にはわずかでも触れることはできない。
体勢を立て直すと減速の作業に入る。慎重に手足を曲げ、空気を全身から円状に、かつ均等に風圧を逃がす体勢をとった。からだの表面を猛スピードで空気が滑る。無数の手に触られている不気味な感触に背中が粟立った。
落下スピードが速まり、吹き付ける空気の塊が徐々に大きく、固く変化してゆく。初めこそ姿勢は安定していたが、たちどころに空気の流れをコントロールできなくなった。
ひときわ大きな乱流の一渦がそばをかすめる。
ひっぱられるように片手が巻き込まれ、斜めにかしいだ胴体はあっという間に流れる空気につかまった。
下からの巨大な拳に突き上げられるように、体がひっくり返り、また元に戻り、さらに裏返った。
達人(J)の技を多少なりとも受け継いでいたゆえに自分の限界を素早く察した。
もう打つ手がない。
虚空で風がひねり出した無数の見えない手にもみくちゃにされ、恐慌におちいった。
泳ぐように手足を掻いた。懸命に腕を回転させるに従って押しとどめようもなく落下してゆく。周囲を取り巻く光の板が延びていく景色が自分が落下中であること、落下してきた距離が非常に長いこと、すでに体制を整える高さは残っていないことを認識させた。
すでに下方には白い道路しか残っていなかった。一瞬のうちに自分の為にあつらえられたフトンのようにさえ見えた。そこは安らぎが用意されているかのような思いがよぎる。
判然としない激情が未分化のまま沸騰したかのような混沌とした悲鳴が腹の底から吹き上がった。
いろんな思いが駆け巡っていた。
裏切られた、悲しかった、だまされてた、ひどいことをやってしまった、きらわれた、こわい、どうすればいい、もうとりかえしがつかない、くるしい、ラクになりたい シんだらなやまなくていいの……、死ぬってどういうことなの? 生き物なら最期には絶対死ぬんだから……そう!
だから死ぬことは体の一部分なんだから!
何も怖がることはないんだよ!
落ちろ! 落ちろ!
あたしは地面にまっすぐ落ちればいい! 思いっきり地面にぶつかってしまえばいい!
あたしをばらばらにして! こなごなにして!
消えない苦しさと一緒に! 全部!
ぶち壊して!!!
周囲で回転している光景が急速に狭まってきた。球の内部に閉じ込められたかのように、そしてその球が急激に縮小してるかのように輪郭のあいまいな壁が迫ってきた。
地面が間近になったことを理解した。
最終的な瞬間に備え、死への恐怖とわずかな解放への期待を持って息を詰める。
最後の最後でふわりとした微風につつまれたように感じた。
ぎゅうっと体が押さえつけられ、全身の血が下にざわざわと集まる感触が走った。急速に視界がぼんやりと暗闇に覆われてゆく。
(死んだ? あたしは、死んだの?)
身体を取り巻く広大な空虚に本能的な恐れを感じる。
何も見えないままおびえきって手に触れる柱状の腕にしがみついた。頑丈な物体から温かさが伝わってきた。
チカチカとまたたく光とともに視界が回復した。見慣れたものを目の当たりにした。
最新のスーツを着用していても決して埋もれることのない隆々とした筋肉に覆われた巨躯。よく通る声。そして、白いシルク製の布を何十にも重ねたマスクをかぶっている。
それはJその人だった。




