表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/18

破局

うす曇りのぼんやりした、正午も近い午前中。

1000は自分を元気付けるように、今の気分を口に出した。

「あぁ……せこい」

眠気が目やにのようにまぶたの縁にまとわりついていた。早朝に起床し、ハードな練習メニューをこなす毎日だったが、日中に疲労を感じたのは今日が初めてだった。

近所にある行きつけのカレーチェーン店、GoGo壱番屋が見えていた。ガラスを通して見える店内にJがいた。これからミーティングをかねた昼食だった。

ポケットを探る。元気薬スプレーの容器を取り出した。手早くニ、三回鼻先に噴射する。独特の香りを深々と吸い込んだ。

鼻の奥に針先でつつかれるような刺激が走る。

急にはれぼったい目の周りがひんやりとひきしまった。頭の奥に居座る鈍い重みが消えた。

「気分ようなった。これがないとはじまらんじょ」

足取り軽く1000は店の入り口をくぐった。

1000を見つけたJが手招きする。

「おはよ」

Jと同じテーブルについた。

今日のJはスマートな義肢を着用し、つやのある細身のスーツに身をつつんでいた。柔らかい水色の上下に同色のシャツを着込んでいる。ネクタイは締めていなかった。頭にはピンクがかった肌色のマスクをつけている。滑らかな表面にはわずかにさざなみのような隆起が走っている。透明感のある光沢が表面をつつんでいた。陶器製だった。

Jは緊張した仕草でうなずいた。

「ああ、おはよう」

Jの指がテーブルの呼び出しボタン(コードレスチャイム)を押した。以前Jにサインをもらったパラレスファンのウェイトレスが来た。満面の笑みを浮かべる。

「ご注文をおうかがいいたします」

かんたんに挨拶し、Jは注文する。

「豚カツカレー。辛さは……普通で」

1000が続ける。

「素カレー、甘口。超大盛りで頼むじょ」

「かしこまりました」

ウェイトレスが去った。Jはうつむき加減で黙っている。

「……今日はなにしよったんで?」

沈黙を破ろうとして1000は世間話を始めた。Jが応じる。

「お役所さ。おれ自身が出向かなきゃならない用事も結構あるんでね」

「まだJさんは試合には出んので?」

「選手権争奪戦が終わってからにするつもりだ。パラレス協会としてはピロリンピックねたを全面に推していく予定だからな。かぶると損だから、事務所としてもあと一ヶ月は大きな試合はしない。フォルチOEとの復讐戦はしばらくおあずけ。そのあいだは雑務ときみたちのコーチ役だ」

「そういえば、今日はなんでわいだけ呼び出したんで?」

Jは言葉を切った。無言でマスクを1000のほうへ向ける。

何か言おうとしたのかマスクが動いた。

そのとき、注文したカレーが到着した。さっきのウェイトレスとは違って、仏頂面で異様に鋭い目つきでJを睨みつけている。Jは黙った。

テーブルにカレーが並んだ。

空腹だった1000は自分の注文したカレーにさっさと手を突けた。食べながらそっとJのようすをうかがうと、Jの食事はあまり進んでいないようだった。ちょうど同じくらいのタイミングで食事を終わらせたほうがいいのか考える。

Jはとうとうスプーンを皿に横たえた。唐突に口を開く。

「聞いてくれ」

ほおばったカレーを飲み込みながら答える。

なん?」

「おれはキミのことが好きだ」

「ほうで」

軽く返事してから、頭の中でJの言葉を反芻する。心臓が跳ね上がった。思わずJを凝視する。

「え? どういう意味で?」

目鼻の穴がないJのマスクからは全く感情がわからない。重々しくJは言った。

「好きだ。付き合ってくれ」

ほおが熱くなった。鼓動が早まる。体中からじっとりと汗が滲んだ。ほとんど反射的に口を開く。

「えっえっ? 何を言いよんで」

Jのマスクが迫ってきた。とっさに顔を伏せた。

「本気だ。付き合おう」

Jの分厚い手が、スプーンを握っている手の上に乗った。腕がこわばった。

上目遣いにJのマスクを盗み見た。何度みてもJの表情はわからなかった。硬い手のひらの温度が高いような気がしたが、それは自分の手が熱くなっているからかもしれなかった。

自分がどうすべきか、わからなくなった。

まるで夢の中で、急に自分が夢を見ていることに気がついたような気がした。くすぐったい温かさが、体内から泉のように湧き出ていた。今まで味わったことのない感覚だった。叫びだしたいような衝動がのどまでこみ上げた。

その一方、頭の片隅が凍てついていた。晩冬の日陰に頑強に居座った霜のように冷徹な理性が、1000を体内で奔騰する喜びに溺れることから救っていた。

じっとテーブルを見つめる。いくつもの考えが頭の中を回転する。無数の小物がつまったバッグの中をまさぐって、ようやく目的のものをつかみあげた気がした。

おおげさに笑い声をあげた。なにげなくJの手から自分の手を引っ張り出す。さりげなさを装い、手にとったスプーンをカレーに突っ込んだ。すくったライスを口に運ぶ。

「Jさんも、おもっしょいなあ」

カレーを咀嚼しながら言った。

「何が?」

Jは首をかしげた。

1000は面白くてたまらないといった風をよそおい、笑い声をあげた。

「わいが家族ともめたけん、なぐさめてくれよんだろ? もういけるけん、気ぃつかわんでもええじょ。もう二日もたつけんな、いけるわよ」

「いやいや、そうじゃないんだ」

Jはあわてたように弁解した。

ただちに1000がさえぎる。

「うれしかったじょ。おおきに。でももう大丈夫やけん」

さらにJは言う。

「ちょっと待って、ちょっと俺の話を聞いてくれる?」

不意にいらだちが募った。ほとんど悲鳴のような声を出す。

「まあまあ! もうええ、もうええんじょ!」

周りのテーブルが、異変を察知したのか静まり返った。客が視線を二人に集中させる。

Jの動きが止まった。自分を制御できずに人目のある場所で大声を出してしまった恥ずかしさで1000は顔を伏せる。

そのまま二人はじっとしていた。

「気に障ったかい?」

Jが気遣わしげに訊ねた。

1000は頭をふった。胸元を爛れるような痛みがむしばんだ。ひからびた声を出す。

「なんでかがわからんのじょ。なんでわいのことが……Jさんは」

慎重にJは答える。

「理由かい? それはまあ……かわいいからかな」

Jの事務的な口調と内容のギャップに、1000はつい吹き出してしまった。

「なんなそれ」

「あとは、マジメで努力家なところとか」

体の内側からやさしくなでられるような気分になった。ほおに両手をあてがった。照れくささのあまり笑い声がこぼれてしまう。

「ふきゃ!」

Jは穏やかな声で言う。

「なにより、才能にほれた」

接近してくるJのマスクをおそるおそる仰ぎ見た。Jから受けた威圧感を懸命にはねのけようと気持ちをひきしめる。

「さ、才能?」

得たりとJはうなずく。

「そう。君があの時おれにかけていた技……チキンウイングフェースロックか……あれが決定的だった」

ふとJは1000から目をそらすようにマスクを傾けた。常に発散している精力的な空気が消失した。思い出を追憶しているかのような姿だった。

1000は訊ねる。

「あの時……わいの両親が来るちょっとまえで」

「そうだ。おれがまだ教えていない技だったが、独学であの入りかた、絞めかた……どれも素晴らしかった。なぜか忘れられなくてな」

Jの答えに1000は脱力した。

ほめられた喜びがあらかた吹き飛んだ。あとには、いわれのない罪悪感の破片が胸の奥に散らばっていた。

チキンウィングフェースロックはLKから習った技だった。独学ではない。才能があるのは自分ではなく、またしてもLKなのだった。酸のような嫉妬が内臓をじわじわと食い荒らした。すでに何度も味わって慣れつつある痛みだった。

さっきまではためらっていた言葉を今はすんなり舌の上に乗せることができた。

「悪いけんど、お断りじょ」

真っ向からJを見た。Jの丸いマスクがより膨らんだかのように見えた。

Jが言葉を切り、1000にマスクを近づけたのだった。Jはは冷静に問う。

「お断りって、何を?」

「Jさんの……わいを好きってゆうん」

なるべく穏当な表現を考えつつ回答した。隠れるようにJから顔をそむける。

気まずい沈黙が二人にのしかかった。

急にテーブルが揺れ始めた。

皿やスプーンが音を立てた。コップがふらつき、水がこぼれる。まるで地震のようだった。驚いて周囲を見回すと、あたりは至って平和だった。テーブルの上に目を凝らす。

皿の前に横たえたJの腕が細かく振動している。それがテーブルを揺すっているのだった。

1000は取り乱したJの姿に驚いた。異様なJの様子をまじまじと見詰めた。

Jの見せた激しい動揺に対する軽蔑と哀れみが同時に湧いた。なんと声をかけるべきかためらう。厳然とした見えない壁が存在するようだった。

Jの震えが止まった。マスクから笑い声が漏れ出た。

固い殻におおわれて窒息していた空間に風穴が開いた。申し訳なさに突き動かされて口を開く。

「あの……ほんまにすまんけんど……」

Jは手で続きを制した。かすれた声がマスクの向こうから聞こえる。

「できれば理由を、教えて欲しい」

Jの弱々しい口調に胸が痛む。しかしいまさら自分の発言をひるがえすわけにはいかない。まして、Jに対する恋愛感情ははっきりいって皆無だった。必死に理由を検討する。

いささかもったいぶった調子で、秘密を告白するような声音を出す。

「あの、わい……男の人ニガテなんじょ」

ひそやかな声で言った。

Jは首を曲げて耳をかたむける。不思議そうな声を出す。

「え? ニガテってどういうこと?」

わざわざ聞き返すJにいらだちながら根気よく説明する。

「男の人に興味がないん。恋愛やしとうないんじょ」

「そうなの? フツーの女の子は興味しんしんだと思うんだけどな」


(本当は興味しんしんだけど、恋愛の相手にJさんはえらびたくないんだよね。おじさんだし)


心の中でつぶやきながら、殊勝げに顔を伏せた。恥ずかしそうにつぶやく。

「ほんまに申し訳ないけんど……フツーと違うんじょ、わい」

Jはこわばった声を出す。

「いや……ごめんな。ちょっとビックリさせようとしただけなんだ。キミが……」

何度もJは咳払いした。

「……その、そう。君を励まそうとしてね。ちょっとシャレがきつかったかな? ビックリした?」

すでにJの動揺は完全に収まっていた。落ち着きはらってイスの背もたれに体を伸ばす。

安心した1000は笑い出してしまった。

「ふきゃきゃ! いや~、あんまり空気が重いけん、正直ひいたわよ~。いきなりわいを馬鹿ほうけにしよんかと思た~」

Jも一緒に笑い声をあげた。

「そ、そっか~、いややは、いややっははははははは!」

「ふきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃ!」

ふたたび周囲の注目が集まる。

二人とも、人目をはばからず高笑いした。Jは身をよじって笑い転げた。

苦しかった緊張も解け、コップの水を飲む。こぼれた水の上に折りたたんだ紙ナプキンを置いた。

念のために付け加える。

「Jさんはわいの恩人で、わいのコーチやけん。ほんとうに尊敬しよるし、感謝もしとる。それだけは知っといてくれるで? わいはJさんのことをすごいパラレスラーの師匠として好いとうとゆうことを」

Jは何度もうなずいた。

すでに食欲はどこかへ飛び去っていた。イスから腰を浮かせる。

「ほんならわい、もうおなかいっぱいになったけん、トレーニングルームに戻るわよ」

Jはかすかに微笑したような雰囲気を漂わせ、軽く手をふった。

「ああ。がんばってな」

店を出てから胸をなでおろした。ひとり愚痴をこぼす。

「Jさんにもかなん~。わい、アイドルになりたいのに、恋愛禁止にきまっとるでないで。なにたっすいこと言よんな、ホンマに……」

歩きながら、胸の谷間から首飾り(ペンダント)を引っ張り出す。小さな開閉式の飾り(ロケット)を開けた。

内部には少年アイドルグループ(NEW8)の中心メンバー(天T)の笑顔が写っていた。それは中学生以来の大ファンであるアイドル(天T)の写真ディスプレイだった。

「それに、わいには天Tあまてぃーがおるけん、浮気できんでないでえ、なあ~」

写真を見ながらほくそえむのだった。


***


試合があと二日に迫った夕刻。

1000はひとりトレーニングルームで筋トレにはげんでいた。金属棒がからみあった繭のような器具の中で泳ぐように全身を動かしている。

ここ数日、LKとは別の練習メニューが増えていた。体格が大幅に違う二人が全く同じ練習を昇華することでどちらかに無理が発生することを避けるためだった。

トレーニングを消化し、一息ついたあと窓の外に目をやる。

パラレスラー寮の周辺は住宅街だった。寮の敷地である砂地の向こうには生活道路とその周囲に密集した住宅が見えた。

紫色の夕闇が赤い夕焼けを覆いつつあった。窓の景色が青みがかった影に沈んでゆく。

しばらく眺めているうち違和感を覚えた。道路をわたる通行人を注視する。

動体視力を強化する薬物の効果によって視力は格段に向上していた。解像度も通常の人間とは比較にならないほど精密になっている。一般人なら識別不能なわずかな瞬間、細かい模様もパラレスラーには認識可能だった。

ひとり道を行く特徴のない地味な中年男性の顔に見覚えがあった。

中年男性の知り合いはほとんどいなかったが、だれの顔にも該当しない。形だけAGPに在籍していた時期に顔見知りになった事務所の社長やマネージャーとも違っていた。

心の中に暗雲が立ちこめる。

AGP時代はさみしかったり、怖かったり、落ち込んだりと嫌な思い出しかない。最終的に売春行為を強要されそうになって事務所との契約を破って逃げたのだった。

Jと事務所の顧問弁護士からは、Jの所属する事務所へ途中移籍を認めさせた、と聞いていた。しかし、自分を追いかけてきているのではないかという不安を完全にかき消すことはできなかった。不安に衝き動かされながら恐怖に萎縮する頭脳を締め上げるように記憶をひねり出そうとする。該当する顔は努力しても出てこなかった。にもかかわらず既視感は消えない。

中年男性は道路を渡り、寮のほうへやってきた。

ますます不安が高じる。筋トレ用の器具からすべり出た。窓に近よる。

中年男はたまたま寮の側を通り抜けようとしているように見えた。全く寮に興味を持っているそぶりは見せない。

男は寮の前を歩いてゆく。片手が上着のポケットに入っていた。素早く外に手が出た。にぎっていた拳がわずかに開いた。ふたたびポケットの中へと手が戻る。

高解像度かつ高速度撮影のカメラのように1000の目は男の手から何かがのぞいた瞬間をとらえていた。男は小石のようなものを寮の敷地に投げ入れていた。生垣の中に転げ落ち、異物は見えなくなった。

寮には1000以外誰もいない。

どうすべきか迷った。

もし、相手がAGP関係の人間だとしたら極力接触は避けたい。しかし、明らかに故意に投げ込まれた異物の正体がわからないまま放置することも危険な気がした。

躊躇することで自分の将来に致命的な禍根を残してしまう可能性が脳裡をよぎる。

決心した。

急いで玄関に走る。

ドアを開けて敷地を走った。不審物が落下した場所に到達する。要した時間はほんの数秒だった。瞬間的に起こった猛烈な風邪が生垣の葉を揺さぶる。

まだ遠くまで移動していなかった男は、目を丸くして振り向いていた。

男と1000の目が合った。男はきびすを返して走り出した。

つかのまの逡巡の後に反射的に男を追った。体の運動量が増加するとともに神経系は伝達速度を増す。爆発的に反射速度が向上した1000からは、走る男はまるで片足で立っているだけのような滑稽な姿に見えた。

瞬間的に追いつく。爪先で軽く地面をけり、男の背中に飛びついた。

男ごとアスファルトの地面に倒れた。男は必死の形相で抵抗したが制圧は簡単だった。綿の入った布の人形のように男の両腕をおりたたんだ上に手で拘束する。指先に力をこめるだけで男は身動きできなくなった。道路に横たわる男の上に馬乗りになった。

間近で男の顔を観察する。ようやく思い出した。

ほとんど毎食通っているカレー屋で見かける顔だった。この一ヶ月ほど、毎日、毎回、目にしていたことが印象的だったので覚えていたのだった。

男は近隣の住人で、よほどあの店が気に入っているのだろうと一人合点していたがそうではないようだった。男の行動は明らかに不審だった。

男は顔をどす黒く染め、わめきちらす。

「急になにをするんだよ! 助けて、殺される! 誰かっ、誰か警察に通報してくれ~!」

顔を上げると黄昏時の道路上で、わずかに行きかう数人が1000と男に視線を注いでいた。いずれも口をあけ、目を丸くしている。どう反応していいのかわからず、愛想笑いを浮かべて言い訳を口にする。

「あの、これってトレーニングやけん。お騒がせしてすみません、ほんまにすんませんな」

おびえたように、人々は顔をそむけて足早に立ち去る。

中年男はなおも金切り声を上げる。

「いやっいやあっ、置いていかないで~! 殺されるう」

狂ったように暴れる男を押さえつけた。

そうとう年配の男が恥も外聞もなく騒ぐ姿を見せ付けられ、不愉快だった。ささくれだった神経を押さえつつ男をなだめる。

「ちっと静かにしてもらえんで? ちっとだけ話を」

1000の言葉は途中でさえぎられた。

「ひあああっ、お、お助け~!」

男はいっそう火がついたように大声を張り上げた。近所の住宅から野次馬が顔を出した。

軽く舌打ちした。そっと男の腕を締め上げている力を強めた。男ののどから、甲高い悲鳴が漏れた。背中が弓なりに反り返る。

両腕を責める激痛に男は声を出すどころか呼吸もまともにできないようだった。

人数が増えてゆく野次馬の目をはばかり、男にささやいた。

「ちっとだけ! わいらの庭になにをほうったんか教えてくれんで」

男はひきつった顔を1000へ向け、何度もうなずいた。


***


カレーチェーン店、GoGo一番屋は中途半端な時間帯と言うこともあって客の姿はまばらだった。

1000と中年男が一つのテーブルを囲んでいる。テーブルの上には、爪先ていどの機械部品が乗っていた。庭に落ちていた不審物だった。

1000が捕まえた男は観念した様子だった。がっくりとうなだれている。服装は捕獲された時に乱れたままだった。つくろう余裕も残っていないようだった。

男に不審物の説明を求める。

「これなんな? なんかレンズがついとるけんど……」

「カメラです……」

うなだれたままの男が消え入るような声で返答した。

男がトレーニングルームの敷地に投げた物体は、飛翔型の自動撮影カメラ(フライ)ということだった。

のぞき目的と知って頭にきた。厳しい声で問い詰める。

「わいらの着替えとかを見るつもりだったんで? 警察に突き出すけんな!」

中年男は取り乱す。

「ち、違います! そんなんじゃありませんって! 雇われただけですから! 全部しゃべるから、警察だけは勘弁してください!」

テーブルに叩き付けそうなほどに頭を下げた。わずかに哀れをおぼえ、続きをうながす。

「わかったわだ。ほな、しゃべってみない」

男は愛想笑いすら浮かべて口を開く。

「あの……練習を撮影するんです。試合するときに、あらかじめ敵の技を調査して、徹底的に研究して対抗策を練るために……連携技なんか事前に知っていれば、かわすのは容易ですしね」

「そんなことができるんかいな……そんなんだれが頼んだんで?」

男はためらったが、怒りの表情を浮かべて一瞥するとすぐに口を開く。

「……“ネオパラレスユニオン”です」

重々しくうなずきつつ疲労困憊したかのように口をつぐむ男を、首をかしげて見つめる。

今ひとつはっきりと話の要点を把握しかねて、さらに質問する。

「“ネオパラ”言うんはなん?」

戸惑ったように男は様子をうかがうような眼差しを向けてきた。なんとなく嘲るような口調で答える。

「このあいだあなたが対戦したタッグチームが所属しているパラレス団体ですよ。ほら、“極限兵団”」

「……そういうことだったんで」

いささか衝撃を受けてうめき声をもらした。

ようやく合点がいった。つまり第一試合であまりにも技が通用しなかったことにも理由があったのだった。確かにこちらの技の組み立てはほとんど読まれていた。

相手の試合巧者ぶりがその強さの理由だと考えていたが、それよりもの男のようなスパイを使ってどのような技を持っているのか、試合展開はどうするつもりかなどをあらかじめ正確に把握していたと考えたほうがつじつまが合うような気がした。同時に敵の強さに瑕疵を発見したことで密かに安堵を感じていた。

やや勢い付いてさらに問い詰める。

「前もスパイやっとったんで!?」

詰め寄ると、男はあわただしく首を左右に振った。

「とんでもない、カメラは今回が初めてですよ! 前は盗聴で」

「盗聴!」

ショックのあまり視界に白い光がよぎる。私生活を盗み見されていたという不快感で背筋が寒くなった。

さらにLKとの夜を思い出し、顔から首筋が燃えるように熱くなった。声がうわずった。

「ま! まさかおまはん、わいらの……わいとLKの……いっしょにおるんを……聞いたんで?」

「え?」

男の顔がぼんやりと1000を見る。わずかに下世話な興味をひきつけられているような表情が垣間見えた気がした。すぐに話を打ち切る。

「知らなんだらええんじょ」

額に噴出した汗をテーブルにすえつけてある使い捨て紙ナプキンで拭う。気分を落ち着けようと深く深呼吸した。

男は苦笑していた。

気を取り直し、するどく男を睨みつける。男は顔をこわばらせてうつむいた。

「もっとるのこれだけで? 他のカメラとかも全部出しない」

男は体中をまさぐった。ポケットから記憶媒体(マイクロSDカード)が出てくる。

うんざりするあまり思わず声が出た。

「うわぁ……8PBペタバイトって多すぎじょ」

男は無表情に謝る。

「すみません。昨日と今日の二日分です」

親の来た日であるおととい以来、LKとはほとんど話していないことを思い出して心の底から安堵した。自分とLKのむつごとを目の前で再現されるなど失神必至のとてつもない羞恥と屈辱だろう、想像すらできない最悪の状況だった。その圧倒的な地獄の中で正気でいられる自信は全くない。

だが安心とともに少し胸が痛む。

LKと口を利かなかったのは親との確執で1000が悩んでいることも原因だったが、本当は医務室で迫ってきたLKに腹を立てて無視を決め込んでいたからだった。いつも誘いをかけるのはLKだったので、多少八つ当たりしても大事には到らないだろうとすねてみせていた。気遣わしげなLKの表情が陰鬱にかげるようすを密かに楽しんでいた。


(冷静に考えたら、わたしは自分の勝手でLKにひどいことをしてるな)


自己嫌悪で胸苦しくなった。

だが拒否されたLKの悲しそうな落胆した顔を見ると心に罪悪感が重石のように膨れ上がり、その圧力に対抗しようとして余計に意固地になってしまう。しかしそれは幼稚な振る舞いのような気がしてきた。すねて親を困らせている子供のようだった。

両親のことでかき乱されていた心が少し余裕を取り戻す。ふとデータの内容に興味をかき立てられる。

「なにを盗み聞きしよんな」

男は神妙な面持ちで答える。

「LKさんと、Jさんのデートです」

「……え?」

意外な男の言葉に呆然とした。にわかに信じることができず、機械的に口が言葉を繰り返した。

「デート? LKとJさんが? LKが?」

不思議そうに男は言った。

「はい。あの二人、できてるんでしょ?」

胸に風穴が空き、強烈な電流が内臓を焼いた。あまりの衝撃の激しさに驚愕する。まるで物理的に殴られたように身をすくめた。痛みが深すぎて、それが痛みであることさえ理解できなかった。

熱に浮かされたようにコップを掴む。口元に運んだコップから水が胸にこぼれた。音高くテーブルに置いたコップの底を白い亀裂が横切った。混乱して何も考えられなかった。

男の声が聞こえる。

「あの……大丈夫ですか?」

なんとか自制心を取り戻そうとする。

苦いものを飲み干したように内臓が重かった。なぜ自分がこれほどまでの不快感を覚えているのかわからなかった。

上の空で口を動かす。

「大丈夫じょ……その、LKのデートって……いつなん?」

「昨日です……まあ、たまたま発見したって言うか」

「誰と……?」

「え? ええっと……J……さんですけど」

「ほうで」

平静を装った外面は今にも破れそうな薄紙でしかなかった。

体の内部で紅蓮の炎が荒れ狂い、爆発しそうだった。心臓が重くなり、どろどろの液体が充満した肉体の中を沈んでいくような気がした。肉体的なものにまで高まった苦痛が頭に理性的な働きをよみがえらせた。

中年男のマチガイかもしれない、という考えが浮かんだ。すぐに訊ねる。

「証拠はなんで?」

戸惑ったように男は1000を何度も見る。

「聞いてもらえればわかりますかね……?」

ケータイを取り出して記憶媒体を接続する。スピーカーを指向性に切り替えたようだった。そうすれば、イヤホンがなくとも指定した方向、範囲にだけ音を伝えることができる。

突然、ざらついたノイズに包まれた。中年男が言う。

「昨日のGoGo一番屋ここ、13時半頃の録音です」

1000は疑問を口にする。

「わいが昨日、Jさんとミーティングしたすぐあとで?」

昨日のミーティングを思い出してげんなりする。いきなりJから愛の告白をされてどうにか断った居心地の悪さを思い出した。

男はうなずいた。ケータイの画面上で音声データ再生の捜査を行っている。

「そのあたりから始めます。ちなみに盗聴器の場所は、テーブルの真下です」

口の中にたまった粘っこい唾液を飲み込んだ。耳を澄ます。

指向性スピーカーの発するかすかな雑音ノイズにつつまれた。


……ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ……SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS……


『あれ、どーしたの。いつもと違くね』

『そんなこと……ないのさ……』

『これって壷? なんか広い家の玄関に飾ってあるみたいな』

『伊万里焼……って人のマスクをぺたぺた触るな! 指紋がつくだろ!』

『ああ、ごめんごめん。拭くよ』

『いいっていいって、あっも~うっとうしいなあ~』

『いらっしゃいませ(ぃらっしゃっせー)! いつもご利用ありがとうございまっス!』

『なんなのあれ? Jさんになんかあった?』

『いや、ちょっとそれは……自分、わかんないっス』

『そーんなことないでしょ。知ってるって顔してるぜ? ね、頼むから教えてよん』

『つか、注文お願いしまッス』

『ねー、ちょっとだけ! ちょっとだけだからぁ、ねね、お願い、お願いします、一生のお願い! 常連のよしみでここは何とかお願いいたしますから!』

『いやー……こんなこと言っていいかわかんないっスケド、なんか、さっき来てた超かわいい子にコクって、振られてたみたいっスね』

『マ、マジで? ナッヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!』

『~~~~ンチッッ!!』

『すっすすすみませんッス! LKさん勢いありすぎっス。超怖いっつーか』

『もういいよ……そーだよ、1000にコクっちゃった。で、振られちゃった。んで、すっごくショック受けちゃった』

『つか、どーしてそんな無茶すんだよ、命がいくつあってもたりなくね?』

『告白に命のキケンなんかない! 少しは気を使ってオレをなぐさめるとかできないのか? 女子力出せよ!』

『ナヒャヒャヒャヒャ! オッサンがなに言ってんの? あ、あたしはチキンカレーの辛さ5で』

『~~チッ!……ほんっとにやさしさないな! 優しくないなら生きてる価値ねぇよ!』

『いいトシこいて慰められたいの? 傷のなめあいはカンベンって感じ。大人として忠告しとくね』

『君の年なんか、まだガキだろーが』

『そんなガキに振られてさぁ……ナヒャヒャヒャ!』

『……かんけーけねーときもあるんだよ……特に男にとっちゃな。ロマンって言うか』

『なにそれ! アンタらのそーゆーのいちばんキライ……で、1000のどこが好きになったの? やっぱカオ?』

『いや……関節技』

『ナヒャヒャ! それって何フェチ?』

『ほっとけよ……ただの職業病だよ』

『頭おかしいわ、この人』

『でも、ほんとに筋がいいんだよな……格闘技なんかやったこともないはずだから、天性なのかもな。特に最近、急によくなった。技のはいりかたとか、チキンウィングフェースロックとかかなりいい。自習だそうだが、かなり身についてた。多少癖があったが、それが悪いわけじゃなくて、逆によく知っているものに対しては一種の煙幕になる、実にクロウト向けの絞め方なんだよな』

『チキンウィングフェースロック?……ああ、それ教えたのあたし。ちょっとくせあるかもしんないから、Jに正式に教えてもらったほうがいいって言ったんだけど』

『え?』

『あたしが教えた。最近、寮でもちょっといろいろいっしょに練習したりしてんだよね』

『チキンウィングフェースロック?』

『うん。教えたよん。変なとこあったら直してあげてよね。あたしはいらないけどさ』

『なんで関節技とかできんの? もともと打撃専門じゃなかったか?』

『そんなことないよ。いや、そんなことはあるけど、きちんと研究してるの。いやいや、ほんとはしてないけど、チキンウィングフェースロックだけは知ってんの』

『チキンウィングフェースロックだけってなんだよ。電子書籍の”試し読み”ページに書いてあったのか? ……にしちゃ、結構なもんだったな、1000の技は。あれ本見て理解したってんなら、オレとかいらないな。まじですごい』

『だっしょ? あたしきっとコーチの才能あるね』

『おみそれしてたよ。きっと君はまともに字なんか読めないって思ってたな。雑誌はおろか、トレーニングルームのマンガ(ニャンピース)すら開いてるの見たことないもんな』

『ざっけんな。マンガくらい目ぇつぶっててもいくらでも読めるし』

『で、なんでチキンウィングフェースロックだけ知ってんの?』

『子供のとき、あたし施設にいたんだけどさ、そんとき世話してくれた保母さん(シスター)のお仕置きがチキンウィングフェースロックだったわけ』

『保母さんひでぇな。キミ、何やったんだよ』

『あー、おぼえてんのは、ちょっかいかけてくる男子と決闘して、隠し持ってた積み木でボッコボコにした時かな』

『おめーもひでぇな。素手でやれよ』

『センセーもそう言ってたかな? 卑怯なことすんなってさ。普段は優しいんだけど、悪いことするとおしおきだったね。“いけないことをするときっと神様から罰が下ります。でもその前にわたくしが神様の代わりにお仕置きします。神様のおしおきはわたくしがあなたの代わりにかぶりますので、安心なさい”とか言ってたかな。メチャクチャだよね』

『ふーん……あ、なんかデジャヴュが』

『え?』

『ちょっとその、センセーを紹介してくれないか?』

『なんなの? まさか惚れた?』

『かも知れん。とにかく顔見たい。運命を感じるような気がするかも』

『ま、けっこう美人だよ……でもちょっと紹介はカンベンして』

『なんでだよ?』

『悪いケド、あたしちょっと施設に顔出しづらくってさ……場所教えるから、ひとりで訪ねてったら? 都内の教会だから誰が行っても不思議じゃないでしょ』

『おいおい、いきなりオレみたいのが来たら怪しいんじゃないのか。常にマスクかぶってるとか、おかしいだろ』

『自分でわかってんなら、やめればいいのに』

『トレードマークだから。でも、相手にしてもらえんのかな? そもそも、会ってくれないかも』

『気ぃっさ……寄付するって言えばいいんだよ。おカネもってんでしょ……でも会っても無駄かもね。修道女シスターだから、一生結婚しねーらしーよ』

『マジかよ……結婚とかしちゃだめなの? シスターって。そんなことないだろ』

『シスターはしねーっつってたよ。神様がカレシなんだってさ。ぜんぜん勝てる気しなくね?』

『たいした相手じゃ……ねーよー……いや、やっぱいいや…… また失恋ってことで……』

『ナヒャヒャヒャヒャヒャヒャ! 二回目だね! 世界最速じゃね?』

『このガキ……あのな、ここだけの話にしてほしいんだが……場所変えて、ふたりきりの場所でチキンウィングフェースロックを見せてくれないか?』

『は? ふたりきりって、何言ってんの? トレーニングルームでいいでしょ』

『いやだね!』

『なにキレてんだよ? 誰にも相手にされないからって、なりゆきで誘わないでよね。オンナの子なら誰でもいーの? 1000とかシスターの身代わりにしないでくんない?』

『もう言いたい放題だな……誤解するな! オレがほれたのは、キミの関節技だ。つまりキミは俺のタイプ』

『へっ、マジなのこの人』

『頼むから俺と付き合ってくれっ……! 今わかった。お前はオレの理想の女! 女神、そう、狩の女神アルテミス様だ』

『……ナヒャヒャ……や、やめてよ……』

『どうして赤くなってんだよ……? イヤなら断ってくれ。こうなったらオレは全てを受け入れるからなっ』

『……どーなってんの、バカだね~』

『つまり、男には、二度あることは三度ある……わかっててもやんなきゃいけねーときがある。今がそのときだ』

『少しはかけひきしてくんない……あんまりノーガードだと、逆にカワイソーになっちゃうじゃん』

『だろ? かけひきしないのが、おれのかけひき』

『かっこつけてさ、いまさらじゃん』

『まあな。しかし、オレはその場から逃げなかったぜ? 状況に負けず、自分の思うままをやった』

『ナヒャヒャヒャヒャ! 言い訳うっざ!』

『いや~やはははは! まあ、そうだよな……急に変なこと言ってゴメンな……』

『……いいよ。見せるよ』

『うむ。悪いけど、先かえっといてくれるか?』

『違うよ、見せてあげる。あたしのチキンウィングフェースロック……二人っきりになれるとこで』

『……え? ほんとにいいの?』

『いやいやー、そっちから誘っといてそれはないわー』

『なんていうか、変な男についていくんじゃないぞって思ってしまってな』

『はぁあ……もうしばらくしゃべんないで……じゃ、行こ』


……SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS……ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ……


***


「そうゆうことやったんで……」

呆然と1000はつぶやいた。ボートまがいの小船で海に乗り出し、荒波に揺られているようだった。頭の芯が高熱を発している。薄い汗が背中から首筋を覆い、嫌な冷たさに鳥肌が立った。木目調のテーブルに反射する光が目に鋭く突き刺さる。

正面の中年男が説明する。

「このあと、二人は近所のファッションホテルに入ったところまでは見ました」

胸を拳で突かれた様な痛みを感じる。

すでに何も感じないほど痛みに苛まれていると思っていたが、さらにまだ男の言葉にショックをうける余地が残されていたことを知って暗澹とする。


(これ以上、あとどれだけ辛い時間を過ごせばいいの? 怖い!)


おずおずと中年男が言う。

「そろそろ帰っていいですか……これで警察には黙っててくれますよね……?」

返事する気力さえ起こらなかった。男を黙殺する。

男は居心地悪そうに身じろぎしていた。何の関心もなく冷ややかに眺める。

注文したメニューが来た。Jのファンとは違う店員だった。

「お待たせしました~。素カレー、甘口。超大盛りの方」

中年男が遠慮がちに1000を指した。

山のように盛られたご飯とカレーを乗せた皿が目の前に出現する。

体が自動的にスプーンをつかみ、カレーを口に含む。

何の味もしなかった。

かたまりが細く縮んだのどの中に落ち込んでいく。とても食べられそうにない味気なさだった。

「なんか違う」

調味料に目をやる。辛味スパイスの赤い缶が目に入った。主成分が赤とうがらしの、手軽にカレーの辛さを増すための調味料だった。手にとり、無造作に振り掛ける。缶の穴から赤い粉末が降り注いだ。

「あっ」

男が声をあげた。黄土色の甘口カレールーの上にスパイスが赤い小山となっていた。

スプーンで均等にかき混ぜる。ルーの色が赤みを帯びた。

人さじすくい、口に運ぶ。相変わらず味はなかった。

「なんか今日は味がせん」

缶を振った。さらに辛味スパイスを投入する。ルーをかき混ぜ、粉を溶かす。一口食べる。

まだ味がしない。

缶をさかさまに持って、手加減なしで振る。粉がカレーを覆う。かき混ぜる。スプーンですくい上げ、口に入れる。

味がない。

缶を振る。

混ぜる。

食べる。

……わからない。

缶を振る。

見下ろすと、カレーの色が赤く染まっていた。

不思議に思いながらスパイスを入れようとする。しかし、缶は空になっていた。

カレーの水気がなくなって粘着力が増している。赤い粘土のようだった。

黙々と口に運ぶ。もう噛むこともせずにひとさじまるごと飲み込んでいた。

男が咳き込んだ。

カレーの湯気を吸い込んでしまったようだ。顔をゆがめて涙を流している。

なんとなく男にカレーをひとすくい差し出した。

「食うてみない」

男は必死の形相で拒否する。

「いやっ! だってそれ、すごい辛くなってんじゃないっすか、匂いとかもうフツーじゃないっスよ」

「そんなことない。味がせんけん、ちっと食うてみない」

無感動な目を男の顔に据えた。

身を縮める男は一回りほど小さくなったように見えた。

観念したように両目を固く閉じ、男は自暴自棄のていで口を開けた。

洞穴のような男の口に無造作にスプーンを突っ込む。素早くさじを回転させてカレーをほおの内側になすりつけた。

男の目が白黒する。口を閉じて不安げな目で周囲を見回した。時間が遅くなったかのようにゆっくりと口を動かす。

男の様子をうかがいながら感想をたずねる。

「どないで?」

男は安堵したような穏やかな声を出す。

「あ、意外といけますね、そんな辛くないですよ。けっこううまいでひゅふうっ!?」

言葉の途中で男は奇抜な声をあげた。カレーを吐き出し絶叫する。

「あわじゃーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

男の手がコップを鷲掴みにして浴びるように水をあおる。足りなかったのか水差しを両手でつかんだ。もどかしげにふたを回す。

周りの客が驚いたように男の狂態を見つめていた。

男は頭から水をかぶった。水面で口を開閉する魚のように赤く腫れた唇が丸く開いた。せわしなく空気を出し入れする。

苦痛に悶えるあまりイスから転げ落ちた。床で身をよじる。

水に濡れて汗と涙とよだれを垂れ流す男の顔は、赤く染まって醜くゆがんでいた。

突然、思い出したくない記憶が頭をかすめたように気持ちが動揺した。何も見なかったことにしようと男から目をそらす。

残りのカレーをかきこんでから席を立った。

店員がなにかを話しかけてきたが、あいまいにうなずいてその場から歩み去る。店中の客から視線を一身に浴び、逃げるように店を出た。

ポケットに手を入れると指先になにかが当たった。何の気もなくつかみ出す。

スプレーの容器だった。まだ半分ほど残っている液体が揺れている。乱暴にスプレーの噴射口ごとふたをむしりとった。一気に飲み下す。容器を投げ捨てた。

虚ろな視線を足元にさまよわせながら歩き続けた。


***


いつの間にか寮の玄関にいた。

道順を体が覚えていたのか、店を出てから寮に着くまでの記憶がほとんどない。

玄関の床にクツが転がっている。LKのスニーカーだった。男から盗聴道具を没収する為にカレー屋に出かけた1000と入れ替わりに帰ってきたようだった。

建物の奥から筋トレ器具の金属が接触する音が聞こえていた。

その場に棒立ちになった。

LKの顔を見るのが怖かった。声を聞くことにすら恐怖を感じる。


(Jさんとホテルに行ったなんて知っちゃって、わたしはいまさらLKに対してどのようにふるまえばいいの? ダメだ、わからない)


きっと平静を装い、JとLKが本当に体を重ねているのか、愛し合っているのかを探ることが最善の策なのだろうとは思う。しかし、そんなことはとうていできそうにない。感情を抑える自信がなかった。

こうして立っているだけで、LKから話しかけられそうなだけで、心臓が激しく鼓動を打っている。

気を静めることさえ無理だった。なのに、このままLKにもJにも会わずに立ち去ることもできない。二人を問い詰めて真相を聞き出したい衝動に駆られる。

いや、なによりLKに会いたい。話がしたい。心を安らがせる言葉を聞かせて欲しい。それだけだった。しかし、LKは1000の一方的な期待にこたえることができるだろうか。

不安で身動きすることができなかった。

声をかけたのはLKだった。トレーニングルームのほうから玄関まで声が届く。

「ちょお~っと、1000! んなとこで、なにやってんのぉ? はやく部屋に入りなよ」

突然、全身から汗が滲み出した。

返事をしようとのどもとに力を込めるが満足に声も出なかった。咳払いし、クツを脱いだ。

リズミカルな足音が聞こえる。LKが顔を出した。眉をひそめている。タオルで汗を拭いていた。

「どこ行ってたの? カギあけっぱだったよ? 危ないじゃん」

胸の奥から火を吹いたように熱が体を駆け上った。頭のてっぺんまで皮膚がほてるあまり髪の根元を無数の見えない指にひっかきまわされているような感触を感じた。

反射的にあやまる。

「すまんな」

LKの目がじっと1000を見下ろした。不思議そうに目を丸く見開いた。

「どしたの? なんかいつもと違くね?」

恐るおそる声をかけてきた。

LKの指摘を否定する。

「大丈夫! なんでもないけん」

腹部をねじりあげられるような痛みが走る。体内に埋もれていたガラスの容器が壊れて粉々の破片となったかような感覚だった。中央に居座った鈍く重い激痛の球から放射状にするどい苦痛が広がっていく。

下水管から汚水がこぼれる音がのどを競りあがってきた。とっさに両手で口を覆う。廊下を走り出した。

LKを突きとばし、トイレまで一直線に走る。

「おい! 大丈夫?」

LKの声を背に勢いよくトイレの扉を閉じる。はずみでちょうつがいが一つ吹き飛んだ。斜めに扉が傾く。ほとんどトイレの中はむき出しになった。

便座に顔を向けて素早く息をつく。吐くのかはかないのか、まだ決めていなかった。口中から大量にあふれる唾液を飲み下しているうちに嘔吐感は消失するかもしれない。

息をつきながらわずかにゆれる便器の水とにらみ合った。

数回の葛藤の後、あっけなく限界は訪れた。喉の奥から大量の水流がおしよせ、のどを超えていっさいの遅滞なく口へと達したのだった。

体をつらぬく暴力的な不随意の力に抗することできず、1000は一体の旧式な機械ポンプと化した。数度にわたって便器に大量の水分を勢いよく放出した。

便器を抱えるように座り込む。背後から心配したLKが近づいてきた。

「どうしたの? 風邪?」

LKの近づく気配におびえ、荒い呼吸を繰り返しながら便器の中に目をやった。

真っ赤な粘液が白い傾斜をべったりと汚している。鼻をつくすっぱい臭いにカレーの香ばしいにおいが混じっていた。

「心配ないんじょ。食べ過ぎ」

ウォシュレットのボタンを押した。水が噴出して1000の顔にしぶきを散らす。水を口で受け止めてゆすぐ。

「ちょ! 汚いよ」

LKの足音が近づいてくる。とっさに水を流した。渦巻く水流が便器の内部を清めてゆく。

ふたを閉めて便器に腰を下ろした。指先が小さく震えていた。

嘔吐後の虚脱感にとらわれたままLKを見上げた。心配そうなLKの顔が目に飛び込んできた。胸を鋭い痛みが貫いた。

LKが半ば叱るような口調で言う。

「どーしたんだよ? あとちょっとで第二試合なのに」

1000の体を心配しているのではなく、試合に出られないことを心配していたのかと思った瞬間、はげしい怒りを覚えた。

LKの手が1000に触れようとしていた。身内を燃やす怒りに駆られるままに力いっぱいLKの手を振り払う。

「さわられん!」

LKの表情がおびえたように引きつった。うめき声をもらす。

「ホントに、どーしちゃったんだよ? 急にさぁ……」

「もうええんじょ!」

気付けば怒鳴り声を出していた。

「心配しようふりや、せんでええわよ!」

握りこぶしで壁をたたいた。壁を覆うタイルの割れる音がした。破片が床に落ちる。無思慮に力を振るった結果を目の当たりにし、驚愕する。気を取り直して憤然と立ち上がった。便座のふたには亀裂が入っていた。

LKは小声でとがめるように言う。

「リミッターが外れかかってるじゃん……? まさかスプレー使ってるんじゃないの?」

パラレスラーの強すぎる腕力は日常生活には時に障害となる。本来なら力加減を精妙にコントロールする技術が不可欠だが、無意識の行動で事故を起こしかねない新人には精神抑制マインドリミッターをかけることが通例だった。専門医によってレスラーに暗示をかけることで最大の力を抑制する。解除は試合前に同じく専門医によって行われる。しかし向精神薬や勤勉薬、娯楽薬レクリエーションドラッグなど精神状態を高揚させる薬物を大量に摂取するとリミッターが解除されてしまうのだった。

LKを睨みつける。LKの顔色は室内灯のもとで青白く染まっていた。

LKが懇願するように言う。

「何かあったんでしょ?……なんでも相談してよ、あたしらタッグパートナーじゃん。なんでもお互いに助け合わないと」

敵意に満ちてLKを見据える。

「わいらがパートナー……そんなの試合のあいだだけだろ?」

LKは熱心に説得する。

「当然プライベートもだよ! 試合だけなんて考えたこともない。Jさんだって同じ気持ちだよ!」

その言葉を聞いたとき、突然涙があふれそうになった。一方で、押さえ切れないほどの怒りが湧き起こった。

「ちがう! おまはんとJは確かにそうかもしれんけんど、わいとはタッグパートナーっていうだけでないで! そんな口先だけ優しくされたっていっちょも嬉しいないわ!」

涙をこらえる。背中がひきつれるように震えた。

LKは携帯端末を取り出した。

おそらくJを呼ぼうとしているのだろうと察知した。感情がむき出しになった声で怒鳴りつける。

「Jさんなんか呼ばれんでよ! 今、いちばん顔や見とうないけん!」

驚いた面持ちでLKは携帯端末を下ろす。

「何かあったの? Jさんと」

わずかに理性が戻ってきた。これ以上、取り乱した言葉を吐きたくなかった。なにを言っても自分が惨めなだけだった。LKから顔をそむけてつぶやく。

「しばらくひとりにしてくれんで」

LKは釈然としないようすでうなずいた。

外れかけたトイレのドアを真直ぐに直す。残ったちょうつがいが軋みをあげた。ムリヤリ扉を戸口にはめ込んだ。

トイレに一人取り残され、代わりにつかのまの静寂につつまれる。

自分が醜態をさらしていることがイヤというほどわかった。にもかかわらずまだ気持ちは治まっていない。どこかへ逃げたいと切実に願った。

トイレの小さな窓に目が止まる。窓枠にとびついた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ