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亀裂

ピロリンピック出場権争奪タッグマッチ、第一試合の翌日。

1000は朝日が窓に差さないうちから寝床から起きだした。二階の自室から一階のトレーニングルームへと降りる。

昨日は家に帰りついた途端、ほとんど倒れるように寝込んでしまった。

目覚めた時、眠気はキレイさっぱりなくなっていた。就寝前にいつも飲んでいた薬を欠かしたためか、不思議と気分がたかぶっていた。胸の奥底に熱く重い溶岩の塊が居座り、体内からあぶりたてられているようだった。

落ち着かない気持ちで練習場へ入る。驚いて立ち止まった。

「LK」

誰もいないと思っていた道場の床でLKは柔軟体操ストレッチを行っている最中だった。

体の動きを止め、LKは少しびっくりしたような声を出した。

「あれ? もう起きたの。早いねえ」

「おまはんもで」

まじめな顔でLKは言った。

「マジでむかついて寝れなくってさ」


(そうか、これは腹が立っているんだ)


胃の辺りに生じた固いしこりは怒りだったのか、と腑に落ちた。昨日の光景が脳裡をよぎる。

同等の勝負ができると思い込んでいた“極限兵団”に全く歯が立たなかった。目を疑うほどの素早い動きでたやすく攻撃をかわされ、意表をついた方向から攻撃され、何度も練習してきた技をかんたんに破られた。

心臓が押し潰されそうになっているかのように息苦しくなった。試合中に失神したことを思い出した。直接的な敗因はそれだった。しかも試合後には、スポーツマンシップもなにもなく嘲笑を浴びせかけられた。屈辱的な惨敗だった……。

さらに観客にまでも野次られた。ショックが大きすぎたのか、このあたりから記憶が曖昧になっていた。

LKが観客にたいしてマイクで反論し、1000が援護したせいか怒り狂った群集は二人を取り囲んだ。いまにも殴り合いになろうとしたその瞬間、会場の照明が全て消えた。

暗闇と混乱にまぎれて1000、LK、Jは無事に会場を脱出することができた。

LKがじっと見つめてきた。窓を拭くように手のひらを振る。

「どうしたの? ぼーっとしちゃってさ。眠いんじゃない」

針でつつかれるように胸が痛んだ。LKに対して八つ当たりの暴言を吐いてしまったことはまだ鮮明に覚えている。

「うん……いけるけん、心配せんで」

LKは1000の心無い行為をすっかり忘れているようだった。きょとんと開かれた青い瞳は澄んだ光を灯している。

いまさら謝るのもおっくうな気がした1000は、黙っていることに決めた。なんとなくLKに対して優しい気持ちになった。

「わいより、おまはんは平気で。体とか痛くないで?」

LKは屈託のない笑い声をあげた。

「そんなのぜんぜん平気だよ。1000こそどうなの?」

「まだようわからんのじょ。痛うはないけんど」

LKのとなりに腰をおろし、柔軟体操を始める。

二人は黙々と練習メニューを消化していった。トレーニングルームに住み始めてからほとんど変わらない光景だったが、今日は空気が違っているように感じた。昨日までいっぱいにつまっていた綿が取り去られたかのようにトレーニングルームの雰囲気は冴えていた。

しばらくして、技の練習に入る。

「わい、ぜんぜん技を知らんけん、がんばらんといかん」

自分に言い聞かせるような独り言をLKが小耳に挟んだようだった。唐突にもちかける。

「ちょっと関節技教えてあげようか。得意技があるんだけど」

「Jから習いよるけんど……他に知っとるんで」

1000は首をかしげる。

「まーね。これでも中学時代は格闘技やってたし。試合に勝ったことないけど」

得意げにLKは胸を張った。1000は素直にほめた。

「えー、すごいでえ。そういえば前そんなこと言いよったなあ。何を教えてくれるんで」

「チキンウイングフェースロック」

「名前長い~。すごそうでえ」

「子供のとき、保母さんのやりかた見て覚えたの。名前はテレビでプロレス見て知った」

「保母さんって?」

訊ねる1000の背後にLKは素早く移動した。左腕がLKに絡めとられる。後ろに引き込まれ、背中に押し付けるように持ち上げられた。同時にLKの腕が顔にまきついた。

きんちゃくぶくろのヒモが閉じるように腕が締まった。

左腕と顔面に激痛の爆弾が炸裂した。白い閃光が目の前を走った。

「いたたたたたたたたた!」

制御できない悲鳴が口からほとばしる。

必死にもがいたが全く外れる気配がない。体をねじまげる環がせばまってゆく。痛みがいっそう強まった。

「どおお?」

LKがのンびりとした口調でに訊ねた。

1000は何度もLKの腕を自由な右腕で叩いた。大声で懇願する。

「ギブギブギブギブギブギブギブ!」

「これ、超(ちょ~)痛くない?」

LKのまじめな顔が1000をのぞきこむ。

1000は頭にきてわめきちらした。

「だ~からギブっていいよるんじょ! ごじゃ言うとるがあったら、はよはずしない! 手が、顔がめげる!」

LKが拘束をほどく。1000は床に突っ伏した。

「あかん、わい死によるでよ……」

「わかるわかる。あたしもやられたときは痛みで死ぬかと思った」

まだ痛む腕をさすりながら、ゆっくりと起き上がる。勢い込んで宣言した。

「次はわいの番じょ!」

「うん」

うなずいたLKは背中を向けた。左腕を背後の1000に差し出す。

手順がわからないながらも、力まかせにLKの体をつかむ。

くすぐったそうにLKが笑い声を上げた。

「やる気まんまんだねっ」

1000は当惑した。手が止まる。

「これからどうしたらええんで?」

「そのままもっとくっついて。で、あたしのを腕をロックしてぇ……そうそう。それからぁ……」

LKに教えられるまま、1000はLKにチキンウイングフェースロックをかける体勢に入った。

背後から密着する1000をLKはうるんだ目で見る。

「いいよ。どうぞしめてみて」

「……あ。ほな、遠慮なくいくじょ」

なんとなく気後れしていた。が、思い切って腕に力を込めた。

LKの体が電流に触れたかのように硬直する。筋肉が膨れ上がったのがわかる。相当な力がこもっているようだった。しかし、一旦技を決めてしまうと意外に抵抗力は感じなかった。

LKの肌がほてった。全身が汗で光る。歯を食いしばり、LKは苦悶をかみ殺していた。

「いけるで?」

心配になり、そっと聞いてみる。ひきつれていたLKの体から力が抜けた。詰めていた息を長々と吐き出す。

「ヘーキ。あたし、気持ちの場所をずらすことができるから」

LKが平静な声で言った。

1000は耳を疑う。全く力を緩めていないにもかかわらず、LKの口調はくつろいでいるかのように落ち着いていた。

1000は疑問を口にした。

「場所? ずらす? なにを言いよんので。わいのやりかたがおかしいんで?」

LKはみじかく笑った。

「ちょっとね。でもだいたいオッケーかな」

「ほな、なんでじょ? 痛くないんで?」

「痛くても気持ちを別の場所に移動させるの。ほんの五センチくらい、体の外にちょっと出るくらい」

LKは当たり前のことのように説明しているが、1000にはよく理解できなかった。虚勢を張っているのではないかと邪推する。締め付ける力を強めた。

「まだいけるで?」

「なんとか……でもあともうちょっとで脱臼するかも」

怖くなり、とっさに技をといた。

LKはねじ上げられていた腕を力なく脇にたらす。

「折れとらんだろ?」

おそるおそる1000は確認する。

「大丈夫みたい」

目を輝かせたLKは1000へ顔を向けた。朗らかに微笑む。

「もうちょっと練習が必要だね。でもすぐにうまくなると思うよっ」

1000は胸をなでおろした。

トレーニングルームの裏口からロック解除のアラームが聞こえた。トレーニングルームに入ってきたのはJだった。

いつも着用している卵の殻にそっくりなのっぺらぼうのマスクは皮革製だった。中央部に縫い目が走り、つやのある濃い茶色の表面はわずかなしわで波打っている。金属製の三本指が目を引く、機械そのものといった義手をつけている。下半身は車椅子に直接固定されていた。

1000とLKはそろってあいさつした。

「「おはようございます(おあやおやーっす)」」

Jはけげんそうな声を出した。

「あれ? もう起きてるのか、ふたりとも昨日のケガとか大丈夫?」

「ダイジョーブでーっすー」

LKが答える。1000も同意した。

「いっちょもしんどうないけん」

元気にふるまう二人にJは冷淡に答えた。

「昨日、初試合だったから緊張が残ってるのかもしれないな。休むのも仕事のうちだぞ……しかし、まあ怪我をしてないならよかった。第三試合まですでに予定はきまってるからな。それまで五体満足でいてくれないと困る。せめてきちんと最後まで出場してもらわないとな」

Jの丸いマスクがやや前に傾いでいる。二人を観察しているようだった。

1000とLKは気が差したように沈黙し、互いに目を見交わした。

「じゃっ、これから昨日の反省会を始める。おれたちには相変わらず時間がないんだからな。第二試合まであと二週間だ」

「あの~」

LKがJに近づいた。満面の笑みをたたえている。

「なに? 大事な用じゃなきゃ後にしてくれるか?」

車椅子にぶら下がるカバンからJはA4サイズの薄型ディスプレイを出した。LKは興味を惹かれたようだった。

「なんですか、それ?」

「今後の練習メニュー」

Jはディスプレイに顔を伏せた。Jの義手にLKの腕が絡みついた。Jの頭がまっすぐ起きた。

「なんだ?」

LKの足が進んだ。二人の体は擦れ合うほどに接近した。

「あっ」

Jが声をあげた。小さな風船がはじけるような音が聞こえた。義手が力なくぶら下がった。

完全に義手は破壊されていた。技のかかりはじめから極まるまで本の一瞬だった。

LKは得意げなようすで説明した。

「すごくない? あたしの瞬間的関節技フリッカーロック

Jは声を張り上げる。

「壊したな! やりすぎだぞ」

マスクで表情がはっきりとわからないがJは怒っているようすだった。

LKは驚いたように後じさる。

「あれれ……?」

車椅子の電動モーターがうなりを上げる。JはLKに詰め寄った。

「キミにはまずお説教をしないといけないようだな。まずひとつ! みだりに人のものを壊すべからず!」

厳しい口調でまくしたてるJにLKは背を向ける。

「……ジョギングしてきまーす」

「あ! こら待て!」

叫ぶJを尻目にLKはすばやくトレーニングルームから走り出る。1000とJは呆然と後姿を見送った。

1000は何かに気がついたようなふうをよそおって言った。

「あー、わい、つかまえてくるけん」

言うなり、トレーニングルームを飛び出す。

背後からなにごとかをわめくJの声が聞こえてきた。気にせず玄関を抜ける。建物を出た。門の前で立ち止まる。

トレーニングルームに面した道路が左右に伸びている。素早くあたりを見回した。遠ざかってゆくLKの背中を見つけた。

空は燃えるような朱色に染まっていた。朝日を受けて無数のまばゆい星をちりばめた8のアナレンマが浮かんでいる。

冷えた爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。身をひるがえしてLKを追いかけた。


***


第一試合から数日が過ぎた。

このところJは機嫌がよさそうだった。

「二人ともマジメになったなあ」

真剣そのものの表情で練習に励む1000とLKを眺めて感心したような声をあげる。二人は互いに組み合って関節技を練習していた。汗だくになっている。

「バカじゃね」

呆れたようにLKがささやきかけてきた。

「ちいっと、うっとうしいな」

こっそりと同意する。

今日のJはパラレス用の強靭な義肢をつけていた。マスクも試合で使用する銀色に輝く金属製のものだった。

Jは1000に声をかけてきた。

「よ~し、じゃ、ちょっとおれに試してみろ」

「了解じょ」

返事とともにJへ体を向けた。Jは両手を前に出して構えている。

「一番自分ができるとおもうのでいいぞ」

「わかった」

足から力を抜き、腰を落とす。最小限の動きで体を移動させる。Jの側をすり抜けた。体を回転させてJの背中にとびつく。

Jの左腕を手が這い登る。もう一方の腕で銀色のマスクを抱え込んだ。Jの左腕とマスクをおさえこみながら、両手をがっちりと組んだ。そのまま床に押し倒す。

チキンウイングフェースロックが決まった。音を立ててJの腕と頭を締め上げられていた。

Jはしりもちをついた。1000は体ごとJの肩にのしかかる。

マスク越しに、うわごとのようなつぶやきが聞こえる。

「なんだこれ……妙に懐かしいな」

聞き違いかと耳を澄ます。Jは独り言を続ける。

「かなり勉強しているようだ。悪くない、というかむしろ良い。……なんかおれのタイプかも」

普段の話し方に戻っていた。関節技で責められているようにはとても思えない余裕のある声音だった。

渾身の攻撃が全く通用しない。予想外の事態に1000は取り乱した。先日の無残な試合が頭をよぎる。リングでたちつくしながらなにもできなかった恥辱が胸を貫いた。敗北感が体中の肌を炎となって走る。焼かれる苦痛から逃れるように無意識のうちにさらに力を込めた。相手を怪我させないようにする気遣いは完全に蒸発していた。

ただならぬ雰囲気を察したのかLKが血相を変えた。

「1000! そんなにしたら危ないよ」

両腕がJを噛み砕く顎となって閉じてゆく。Jの分厚い筋肉が押し潰されてゆく。義肢が金属を鋭いツメでかきむしるような音を立ててきしんだ。

Jのマスクからゆったりとした声が聞こえた。

「なかなかやるな」

ふたたび耳を疑う。

その瞬間、胸部に衝撃を受けた。下から突き上げられる。

体が浮いた。床から足が離れる。唐突に体が重みをうしなったようだった。足がむなしく空を掻く。

Jに食らいついていたはずの腕がばらりとほどけた。

呆然と目を見張る1000の前でJは素早く回転した。床に背を向けて1000と正面から相対した。

丸太のような腕が伸びてきた。1000を捕獲する。

よくとおる低い声が耳を打つ。

「だがまだまだだ」

直後、風を切るうなりが耳を打った。目の前の光景が混ざった絵の具のように溶け合った。

何かが体全体にぶつかった。ごろごろと転がる。勢いを止めるすべもなく翻弄されるままになった。

ようやく周囲の景色が動きを止めた。地面にあお向けになっていることに気がついた。

どうやら身体は無事のようだった。弱みを見せないようにすぐに跳ね起きる。

くるぶしに重い痛みが走った。驚いて床に座り込む。

そこはトレーニングルームの入り口だった。手元にドアノブが落ちていた。鋼鉄製のドアが揺れている。

トレーニングルームのドアを突き破り、外に飛び出したようだった。練習場と建物の玄関をつなぐ廊下の真ん中にしゃがみこんでいた。

Jが普段押し隠している凶暴な力を見せ付けられた気がした。恐怖と不安が湧き起こる。Jに不信感と畏怖を覚えた。

しかし、弱みを見せることはしたくない。平静を装って大げさに言った。

「えらいびっくりしたでよ~。やりすぎじゃわ」

JとLKが駆け寄ってきた。

「すまん! つい力が入っちまって……ほんとに申し訳ない!」

何度も頭を下げながらJは謝る。三人の中で一番動揺していた。

その背後からLKがJを小突いた。

「ホントだよ! 練習だよ? Jさんの試合じゃないんだからさあ」

「ほん~まに信じられんわよ」

呆れた調子で言い放たれた言葉を聞いた三人は目を丸くした。

なまりは1000と全く同じだったが、その声は中年男性のものだった。

1000の心臓が縮み上がる。背中を寒風が吹きつけたかのような冷たさがおおう。その直後に、首筋が夏の直射日光を浴びているかのごとく灼熱した。

鼓動が早まり、息が荒くなった。体の緊張に耐え切れず、押しやられるように背後へ顔を向けた。

玄関に年配の夫婦が立っていた。

そこに並んでいるのは1000の見慣れた顔だった。なぜか自分のいまいる場所にその二人が居る事実に凄まじい違和感と嫌悪感が生じた。頭を鈍器で一撃されたように顔を伏せた。

玄関にいるのは1000の両親だった

Jが物柔らかな物腰で話しかけた。

「あの……どちらさまでしょうか?」

両親は絶句しているようだった。

「どしたの? どっか痛い?」

異変に目をとめたLKが話しかけてきた。心配そうなLKの面持ちからうるさげに目をそらす。

とっさに立ち上がろうとした。激痛がくるぶしを襲う。鋭利な刃物と化した痛みが頭の先を貫通した。反射的に筋肉がこわばる。バランスを失って前のめりにたおれた。

LKが悲鳴を上げた。素早く1000を抱きとめる。

Jの申しわけなさそうな声が聞こえた。

「申し訳ありませんが関係者以外はここでの応対は禁止させていただいております。選手が練習に集中したいとの意向でして」

両親は憤然と言った。

「1000は娘じゃ! わいらは関係者じょ!」

JとLKの声が同時にあがる。

「えっ! ご両親?」

「うっそ」

二人の甲高い声音には驚きがあふれている。

体中に火がついたようだった。唐突にふくれあがった怒りと恥辱に惑乱させられた。心中に吹き荒れるのは否定の言葉だけだった。


(信じられない! 信じられない! 追い出したくせに、なんでわたしに会いにくるの?)


恥ずかしさといらだちに耐えかね、本来ならその場からすぐにでも消えてしまいたいところだった。LKの腕から逃れようともがいた。

「どーしたの?」

不思議そうにLKが訊ねた。Jの弾んだ声が1000を呼んだ。

「1000! ……さん! ご両親がいらっしゃったぞ!」

床を睨みつけながらやっとのことでつぶやいた。

「ええけん」

JとLKのかもし出している歓迎ムードにわずかにひびが入る。

LKは困惑しているようだった。心配そうに声をかけてくる。まるで愛玩動物にするように、そっと1000の体をなでていた。

「どっか痛いの?」

両親が1000に気がついた。母親が無遠慮な声をあげる。

「1000! 1000で?」

父親の怒声が玄関に響きわたった。

「おまはんは、なに隠れよんな! 出てきない!」

シンと静まり返る。

LKは目をぱちくりさせている。両親を珍しい動物のように見つめていた。

Jが手をこまねいて立っていた。

「いやじょ!」

身もだえし、LKの腕からまろびでる。痛む足をひきずり、床を虫のように這う。

「待ちない!」

母親の声が聞こえた。

なにかが背中にのしかかってきた。折り重なった布のようなものを、力任せに払いのけた。

軽々と布は吹き飛んだ。背後の壁を硬いボールをぶつけたような重い音が揺すった。

「ぎゃっ!」

押し潰される動物が上げるような異様な悲鳴が聞こえる。悪寒が背骨に沿って体を冷やした。玄関の空気が緊張で凍りついた。

「おい、お前!」

父親の声がうわずっていた。

「大丈夫ですか!」

切羽詰ったJの声がかぶさる。LKが悲鳴を押し殺した。

心臓が縮み上がった。悲鳴は母親のものだった。恐怖が落雷のように体を打ち据えた。後ろへ振り返る。

壁際に母が座っている。頭を手のひらで押さえていた。苦悶の表情が目に飛びこんだ。大振りの刃物で刺されたような苦痛が胸を貫いた。思わず不自由な足を駆使してにじり寄っていた。

その場の人間に取り囲まれた母は、恥ずかしそうに顔を伏せた。周りの人々と自分を隔てるための壁を作ろうとしているかのように素早く手を振った。大きな声を出す。

「大丈夫です、すみません、すみません」

父が母の体を抱える。

「おまはん、いけるんで? えらい音しよったぞ?」

JとLKが体をよけて1000を通した。母を間近に見た1000の口から声が漏れた。

「おかーはん」

父親がするどい叱責を投げつけてくる。

「おまはんは親になにしよんのぞ! 怪我させとるでないか!」

怒りに顔を赤くした父の顔から目をそらした。歯を食いしばり、顔を伏せる。口元まで謝罪の言葉がこみあげていた。にもかかわらず、こわばった唇のあいだを声が通りぬけることはなかった。

「まあまあ、お父さん、落ち着いて」

穏やかな声でJが割り込んできた。

父はJを怒鳴りつける。

「やかましい! おまはんがわいの娘をかどわかしたけん、こんなことになっとるんじょ!」

Jはおおげさに体をのけぞらせた。驚いたように後ずさる。

「えっと」

マスクに片手をやり、弱々しくつぶやく。

「まいったな」

体内を渦巻いていた濁流に突き動かされるように低い声を押し出した。

「Jさんを責めんで!」

勇気をふりしぼって顔を上げ、父を見る。

父は鋭い光を浮かべた目を丸く見開いていた。戸惑ったような声を出した。

「なにを言よんな。親より他人をかばうんで」

指先が冷たくなる。石のようにこわばった舌を懸命に動かした。目の奥が熱くなり、はげしく打ち鳴らされる鼓動が体を揺すった。頭の中が真っ白な光に埋め尽くされた。

「Jさんにはお世話になっとるんじょ! おとーはんに悪く言われとうない」

父が反論する。

「ごじゃいわれん。そもそもおまはんが家出せんかったらこんなことにはならんかったんじゃわ」

たちまち言葉に詰まる。石を飲み込んだようだった。

涙を浮かべた母が声を震わせていた。

「みんな心配しよったんじょ。警察にも連絡して……ほんでも全然見つからんで、もう死んだとか言う人もおったんじょ」

たまらず目を伏せた。もはや1000にはただ押し黙るしかできなかった。

父が言葉を続ける。

「たまたま1000000(ミリオ)が見つけたんじゃ、配信番組見てな。プロレスの」

1000000は弟の名前だった。苛立ちがつのる。舞台用のメイクでごまかせると思っていたのに、わざわざ目ざとく見つけて両親に教えたことに無性に腹が立った。

父が強い口調で宣告する。

「むやみに警察沙汰にしとうなかったけん、場所を調べて来たんぞ。一緒に帰るけん、さっさと支度しない!」

母の声が重なる。

「学校にはいつでも戻れるようになっとるけん、心配せんでええじょ」

いたたまれずその場から立ち去ろうとする。足に猛烈な痛みが突き刺さる。立ち上がれない。足に力が入らなかった。

「落ちついてください、皆さん。こんなところでお話もなんですから」

あわてた口調でJが割り込んだ。

父は激昂して叫んだ。

「どやかましわ! おのれが娘をだまくらかして誘拐したんやろがい! けったくそ悪いんじゃ、にさらせ!」

怒りもあらわに声を張り上げる父の姿を目にするのは初めてだった。まるで見知らぬ他人のようだった。

母もうさんくさそうな目つきでJに向ける。

Jは困ったように腕を広げた。ちらりと1000の方をうかがったような気がした。

とっさに、Jをかばうような気持ちで言った。

「わいは戻らんけん」

「1000!」

母があえぐような声をあげた。父は虚をつかれたような顔で押し黙る。声高に母は叱りつけてきた。

「なにをいいよんな、おまはんは!」

父の低く押し殺した声が重苦しく響いた。

「おまはんの今の立場をよう考えてみい。もうな、おまはんがAGPやら言ようアイドルになりたいんはわかっとるわ。それは今はもうええけん。なりたいんやったらなったらええでえ」

唐突に肯定的な言葉を聞いた瞬間、1000の影に覆われた灰色じみた視界に光が差した。嬉しさのあまり声をあげる。

「ほうやったら」

1000の言葉を素早く父は打ち切った。

「ちいっと黙りない! ほうやからこそ、自分わがの今やりようことをちゃんと考えない! おまはんが今やりよんはホンマにわがのなりたかったもんなんで?」

父の言っていることが全く理解できなかった。父親と母親は1000の意見を頭ごなしに否定しているのではなかったのか? しかし今投げかけられているのは質問だった。強制するための威嚇ではなく、説得する為の詭弁でもない。身構えていた1000は混乱した。ただ頭にある知識そのままを口に上せた。

「そうじゃ。ピロリンピックに出るんじょ。ピロリンピック知っとるだろ、それに出れたら、すぐに有名人じょ」

父は言葉を継いだ。

「ピロリンピックの何が偉いんぞ! 製薬会社の宣伝の為に選手がドーピングしてしてしまくって病気になって若こうして死によるんの、なにがええんぞ! 人の金儲けのためにおだてられてわがのカラダを切り売りしようだけでないで! そんなんアホウじゃ」

心配そうに母が1000を見つめた。

「おまはんも薬とか使いよんので? カラダがえらいんと違うで?」

ドーピングとオーヴァードーズはパラレスをする以上、避けて通れない問題だった。Jや主治医に常日頃聞かされている模範解答をしゃべった。

「わいは……大丈夫じょ。新薬の開発は日進月歩でどんどんええもんができてきよるけん、最近はドーピングで体を壊すとかないんじょ、そんな人はほんの一握りやけん。それに死んだりするんは単にやりすぎやわ。わいはちゃんとお医者さんの処方に従ってきちんと薬物を摂取しとるけん、何の問題もないんじょ」

「わからんわ。薬はカラダが悪いときに飲むもんじょ。ひとっつも悪いところがないのに薬飲んでカラダ壊すにきまっとんでえ」

父は頭を左右に振った。

1000は反撃する。

「イマドキ古いんじょ。どうせニュース配信でやりよったけん、そんなん言よんだろ? わいは当事者じゃけんおとーはんよりよっぽど知っとる。部外者がえらそうにうわさで決め付けんで」

父の声がたかぶる。

「なんな、その言い方は……!」

あわてたそぶりで母親が言う。

「おまはん言い過ぎじょ」

不平をあらわす為に唇を若干尖らせて不承不承、口を閉ざした。

父は困惑の色を滲ませて首をひねる。

「なんでそんなに必死になって目立ちたいんで? わからんわ。わいには全く理解できん……それに、有名になるためにおまはんはなにをやりよんぞ?」

けげんな面持ちで父を盗み見る。父の言いたいことがよくわからなかった。途方にくれてぼんやりと口を開く。

「なにって……パラレスじょ」

重々しく父は断言する。

「おまはんがやりよんはな、ただのハダカ踊りじょ」

頭全体が激しい衝撃に揺さぶられた。脳の中で打ち砕かれたなにかの鋭い破片が心臓近くに下りてきたかのように胸が痛んだ。呼吸が正常にできなくなるほどの強烈さだった。

かたわらでLKが抗議の声をあげる。

「なに言ってんの? 水着着てんじゃん」

父はLKなどいないかのように話を続ける。

「パラレスや何や言いよってもな、見に来とる客はおまはんの体だけ見よるんじょ」

「気色悪いこと言わんで! おとーはんは最低じょ! わいらマジメに試合しとる! 練習やって毎日しようし!」

「そんなもんだれも見とらん。結局、見にきとるんはほとんどハダカの若い娘が取っ組みあうんが面白うて見ようだけじょ」

母が憎々しげにつぶやく。

「そもそもなんで普通の服着んと水着なんじょ。肌もタトゥーでいっぱいにして汚らしい!」

「ネヘネヘロアだけど」

不機嫌なようすで抗弁するLKだったが、両親は全く相手にしなかった。

「ピロリンピックや言うても、別になんでも偉いわけでないんぞ。新体操やら見てみい。もともとバレエが発祥のスポーツやけんどな、バレエダンサー言うたら、昔のフランスでは風俗嬢が兼業でやりよったほどの底辺職やったんぞ。なんで立派なスポーツやったらハダカみたいな服装で男の前で足を広げたりするんで? おかしいんでないで。もともとはカラダを売るためのアピールで躍りょったからぞ!」

鳥肌が立った。

まさか父親の口から“ハダカ”だの“風俗嬢”だのの単語を聞くとは夢にも思わなかった。なぜか、父は他の男性と似たようなものだと想像することはできなかった。まるで壁にブチ当たったように考えがとまってしまう。その先はとうてい進めない危険な場所だと本能的に察知したかのようだった。

胸が焼けるように熱くなった。胃が針で刺されるように痛んだ。

船酔いのような目まいと吐き気を感じた。嘔吐寸前の状態で口元を手のひらで押さえる。

1000が苦しむのをよそに能天気な声が聞こえてくる。

「おとーはん、おかーはん。いつまでやりよんな。わい、はよう観光行きたいけん、もう行かんで」

弟の声だった。玄関で所在なげにうろうろしている。それまで外にいたのが、待ちきれなくなったのだろう。

すでに高校一年生の弟は背が高かった。うずくまっている両親と1000を見て取り、たちどころに周囲の状況をなんとなく察したような顔つきになった。

興奮した面持ちで声をあげた。

「うっそ、マジかよ! Jいんじゃん!」

Jは物柔らかな態度を維持しながら弟に尋ねる。

「なんだね。サインでも欲しいのか」

弟は一瞬目を輝かせたが、両親の怒りを含んだ目つきに気付いたのかおずおずと辞退する。

「や、いいっす。つか、もうアネキ、リングに上げないでくださいよ。あいつピロリンピック絶対ゼッテー無理っしょ。だって弱えーもん」

「関係ないもんが口はさまれん!」

1000はつい怒りに任せて怒鳴りつけた。

弟はふてくされた表情で1000を睨みつけた。ゆがんだ唇が動いた。

「なんな、おまえ。わいのトモダチみんなひどい八百長や言いよるけん。わいは恥ずかしかったわ、急にあっさり負けすぎじょ。それに最後になんしに客にケンカ売るんぞ? あれでアンチ一色になったんじょ。おかしいわだ」

視界がじんわりとにじんだ。喉の奥から何かが突きあがってくる。なんども押さえつける。

「おまはんは外で待っとり!」

父が弟を一喝した。

きびすをかえす弟にLKが温和そうな声をかけた。

「あたしのサインいらない? きっとすごくプレミアつくよ」

「あ、じゃあ……」

興味を覚えたようすの弟をさらに父がどなりつける。

「はよう、行きない!」

LKはおびえたように肩を縮めた。

未練がましくLKをちらりと振り向いてから、弟は玄関から姿を消した。

母は1000ににじり寄った。

「今やったらまだ遅うないんだろ? 辞退しない」

「家族は全員反対やけんな! パラレスなんぞやるんやったら、もう一生家から出さんけんな」

1000はうつむいたまま黙っていた。声を出すことができなかった。

静寂が周囲を支配する。身じろぎ一つすることもはばかられる重苦しい空気が頭を押さえつけている。脳内に充満する感情の圧力によってか、脳内の片隅にわずかに結晶した冷静な思考が、この行き詰る修羅場の中心人物となっている自分を冷笑していた。

父の抑えた声が響く。

「なんしにだまっとんぞ」

力いっぱい両手を握り締める。

ほとんど観念して顔を上げた。まるでハダカで外に出るような頼りなさがカラダをゆさぶる。

「わい……」

言葉と同時に顔がゆがみ、涙がこぼれるのがわかった。ひどい鼻声になった。

「やめんじょ。わいはやめんけん」

父の声が尖る。

「なんしに? あとで後悔するだけぞ! おまはんのやりよんはな……」

震える声で父の言葉をさえぎる。

「それでも、わいはかまわん……」

両親の顔がこわばった。

必死に訴えようとするあまり、口から出たのはほとんど叫び声だった。

「わいは埋もれとうない、多くの人にわいを知らせたいんじょ! 今ここにわいがおるというのんを教えたいんじょ! 死んだあともわいがおったということを残したいんじょ!」

母親が悲しげに言った。

「わいらの言いよんがわからんので?」

「おまはんはなんも考えとらんのだろ。他人に吹き込まれたんにきまっとる」

父は苦々しげに吐き捨てた。

体の奥から燃え上がる怒りに震える。固く手を握り締めた。発作的に拳を床に叩きつける。

異音とともに、床に穴があいた。

表面の木が弾け、内部のコンクリートが露出する。亀裂が刻み込まれていた。

両親は気圧されたように沈黙した。

炎のような吐息とともに言う。

「わいやって何べんでも悩んどる。それで、パラレスをやるって決めたんじょ。わいにはこんなことしかがんばってできんけん。マジメなことがどうしても真剣にできんけん。もうわいのことはアホウやと思うてくれてええじょ。死んだもんと……はじめからおらんかったもんと思ってくれんで。わいももうわがのことを白桃井しろもものい1000やとは思わんけん。わいはもうパラレスラーの、苗字のないただの1000じょ」

両親は無言で床の穴と、1000に視線を投げていた。

「そんな……」

うめき声をあげたのはLKだった。

憤懣と悲嘆の炎でぎらつくまなざしを突きつけあったまま黙りこくった親子に、物悲しげな面持ちを向けていた。

LKは何か言おうとしたのか口を丸く開いた。その肩にJのおおきな手のひらが乗った。

「他人のきみが口を出すことじゃないだろ」

「だって……」

不承不承といったようすでLKは口を閉ざす。

母が昂ぶった声音で訴える。

「おまはんがそんなこと言うたってな、親子の縁はやめるというわけにはいかんのじょ」

唐突に1000は自分がすでに涙を流していないことに気付いた。まるで夜明けの砂漠になったかのように静かな気分だった。

冷淡に言い放つ。

「もう、しゃべることなんじゃなーんもないけん。タダでさえ練習で大変やのに、わいのやることに反対な人とおっても時間の無駄じょ……邪魔やけん、帰ってくれんで」

母は小突かれたように顔を後ろに引いた。

父の顔色は血の気が失せて黄土色になっていた。恥辱を負ったようすで苦しげに目を伏せた。

ぬけぬけとした口調でJが口を出した。

「……そういうことですので。本人の意志を尊重していただきたい。抗議等ございましたら今後は事務所を通してお願いいたします。ご足労、まことにご苦労様ですが、本日のところはお引取り願いたい」

つかのまの沈黙の後、父はよろめくように立ち上がった。母がすがるような目を向けるが、父は誰とも目をあわせようとはしなかった。1000に背を向ける。

立ち去る父と母のうちのめされたように丸めた背中がくっきりとまぶたに焼きつくようだった。

二人をLKが追いかけた。手にしたサイン色紙を差し出す。

「あの……これ、弟くんに」

父親がうるさげに手で払いのけた。色紙が床に落ちる。

「わお」

おどけたようにLKが声をあげた。母親が疲弊した声音を搾り出し、吐き捨てる。

「おまはんみたようなハダカ商売のいやらしい女がな、わいの子供に親しくせんでよ!」

LKは困ったような微笑を浮かべて見送る。

両親と弟はトレーニングルームから立ち去った。

LKは落ちた色紙を見つめていた。呆然とつぶやく。

「親子ってこんなものなの? 自分の言うこときかなかったら、応援してくんないの? 超ショックだよ」

Jがなだめる。

「人それぞれじゃないか? きみんちは仲良しかもしれないけど、ほんといろいろだよ」

LKはお悔やみを述べているような平板な口調で返す。

「っつーか、知らないよ、あたし親いないもん。なんか家族ってゆうのに夢見てたのかなあ」

Jが1000に声をかける。

「大丈夫か?」

1000は小さくうなずいた。

「ちょっと休んだほうがいいよ」

やさしげにLKは言った。ふたたび1000の頭が上下する。

「さっき、足をひねったみたいだな。おれのせいだし、はこんでいくよ」

「手伝うね」

二人に左右から担がれ、1000は立ち上がった。自分で足を運ぶ体力は残っていなかった。返事をする気力もなかった。くたびれはてて破れた雑巾にでもなったような気分だった。

LKがむやみと明るい口調ではげまそうとする。

「1000はすごいよ。あたしはパラレスやってる理由をあんなにきちんと答えられないよ」

Jが同意する。

「たいしたもんだ。おれだって始めたころは何も考えちゃいなかったさ」

1000は二人の会話を何の感慨も無く聞き流した。

好奇心をそそられたのかLKがJに訊ねる。

「なんではじめたの」

Jは少し考えるように沈黙してから返答する。

「これしかできなかったからかな……いや、別に事務員でも何でもなろうと思えばなれたんだ。勝凱者用の職業訓練をきちんと受けてな。でもパラレスのほうしか頭になかった。ま、理由はいろいろさ。謙譲者に勝凱者の意地を見せたいって言うありがちな理由もあるし、当時は選手人口が少なくて、ギャラがよかったってのもあるし、義肢の扱いが人一倍うまかったってのもある……でもなにより、試合のとき、観客の注目を集めるのが楽しかったからさ。目立つのがうれしいんだ。それにすっかりはまっちまった」

LKは吹き出した。笑いながら言う。

「そういうのあるね。ビデオ(V)とかストリップもけっこう楽しかったよ」

「へ、へぇ~、そーなの……」

Jはぎこちなく咳払いした。おそるおそる質問する。

「なんでそういうの始めたんだ? やっぱその、そういうことがあの、好きだからっスか」

くすぐったそうにLKは笑い声をあげた。

「いやいや、お金っスよ……あと、なりゆき」

「出、出た~、なりゆき。でもそれが一番だったりしてな」

JとLKは笑った。

ぼんやりとした頭で1000は思った。


(そう。なりゆきだね、わたしも。きっかけはJのスカウトだったし。でも続けているのはちゃんとした理由があるから。わたしはずっと世界に残ることをしたい。永遠が欲しいの……)


いつのまにか目の前に医務室のドアがあった。

Jの手が扉を開く。1000はJとLKの手で空のベッドに横たえられる。

LKがベッドの横にあるイスに腰掛けた。

「落ち着くまで、様子見てる」

「そうか……? じゃ、頼んだぞ」

Jは部屋をあとにした。

扉が閉まるなりLKもベッドに寝そべった。ぴったりと1000の体に身を寄せる。シーツの上から抱きしめてきた。

LKのひそやかな吐息が耳をくすぐる。普段はもっとも深いコミュニケーションを図る契機となるその刺激も、今はうるさいだけだった。こわばった身体は石のように冷たくかたくなっていた。嫌悪感でうめき声が出る。

「う……」

「ね……元気だしなよ」

声の調子でわからないのか、LKは執拗に1000のうなじに鼻先を押し付けている。指先がしだいに1000の肌に直接触れ始めた。嫌がっているにもかかわらず、察してくれない身勝手さに対するはげしい怒りが爆発した。発作的に怒鳴りつける。

「やめんで!」

LKは驚愕に目を丸くしていた。あわてたようすで弁解する。

「いやだったの? ごめん、元気付けようと思って」

生の怒りをたたきつけてしまったのは初めてだった。後悔と罪悪感に耐えかねてLKから目をそむける。もう何も見聞きしたくなかった。たった一人で放って置いて欲しかった。

「今は、そんな気分と違うん」

「そっか……じゃあ、あたしいないほうがいい?」

LKの表情が曇っている。親しい相手に手厳しい言葉を叩きつける行為に後ろ暗い喜びを覚えながら断言した。

「そうじょ。さっさと去んでくない」

LKが憮然とした気配が伝わってくる。扉が閉じた音がした。

誰もいない空間に一人だけ取り残され、1000はこころおきなく悲しみと怒りに溺れた。


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