苛立ち
ようやく一人になれた。冷蔵庫の中からビールを取り出して、一気に飲み干した。渇い
た喉に染み入る辛い味。これがたまらない。また明日からは激動の日々が始まる。少し
くらいは酔いつぶれてもいいだろう。ここ数日はあまり眠れてないし、今晩くらいは深
い眠りにつこう。
しかしやはり杏のことは気にかかる。別に彼女のことが嫌いなわけではない。むしろ
好きな生徒の部類に入る。教師は平等ではないと世間は言うけど、教師だって人間だ。
好き嫌いくらいはある。なのに智樹は杏を避けようとしていた。理由は出会い系サイト
で出会ってしまったからではない。これにはちゃんとした理由があるのだ。
誰にも話していないはずなのに、なぜか学校中に智樹が婚約したという情報が広ま
っていた。智樹が学校へ行ってみると、多くの生徒からおめでとうと歓迎された。生徒
には秘密にしておこうと思っていたのに。これでは台無しだ。
「婚約おめでとうございます」
その中にはあの杏もいた。彼女は満面の笑みで智樹に会釈した。智樹がホッとした
のも束の間、杏にさっそく先制パンチを食らった。
「でも出会い系サイトで新しい彼女探していることを、婚約者が知ったら悲しむだろう
な。女心って微妙だからな……」
秘密にしてくれると言ってくれたのはやはり偽りだったのだろうか。智樹の眠気は一
気に吹き飛んだ。そしてすぐに釈明。
「その話は勘弁してくれよ。この通りだから。頼む」
両手を合わせて智樹はおじぎした。杏は神でもないのに、こんなことされても困る。
進路面談の時には大人しくしていたけど、智樹の婚約の話を聞かされて、いてもたって
もいられなくなった。
「私がどうしてあの場にいたか、先生はなぜかわかりますか?」
杏の問いに、智樹は頭をふさぎこんでしまった。どうやら理由が全くわからないらし
い。当然杏は激怒した。
「もういいです、先生。婚約者と幸せになればいいじゃないですか」
杏にソッポを向かれて、智樹は焦った。まわりに多くの女子生徒がいるのも構わず、
杏の後を追いかけた。智樹は頭がパニックになっていた。
「僕に相談事でもあるんじゃないのか。この前の面談だって悩んでいる様子だった
し」
それから智樹は的外れの答えを連発した。杏はますます怒りが頂点に達していき、
智樹に耳を貸そうともしない。
「先生、もうすぐ授業始まりますよ、急がなくてもいいんですか」
智樹は腕時計を見た。本当だ。あと五分程で授業が始まってしまう。智樹は杏を追及
するのを諦めると、とぼとぼと職員室のへ入った。杏は大きなため息をついた。これは
新しい対策を何か考えなくてはいけない。出会いサイト以上のハプニングを起こさない
と、智樹は振り向いてくれないだろう。杏は覚悟を決めた。
「ええっ、マジそれ?」
杏の親友麻耶が悲鳴に近い声を上げた。
「本当なの。このこと誰にも言わないでね」
智樹が好きだということを麻耶に打ち明けた。今まで一人で悩んでいたから、少し
心の中が楽になった。しかし想像以上に麻耶は驚いていた。
「だって加藤先生、婚約者がいるんでしょう。それってあまりにも無謀なことじゃない
の?」
さすがに出会い系サイトのことまでは麻耶には話せなかった。これは最初から智樹と
杏の間の秘密にしておきたいと思ったから。
「無理を承知で麻耶に相談しているの。何かいい想いを伝えられる方法はないかな。も
う時間もないし……」
「ううん、その話は難しいな。男子の恋愛の相談ならともかく、加藤先生となると、色
々なハードルが」
親友の麻耶なら当てになると思ったが、どうもうまくいかない。やはり世間では教師
と生徒の恋愛は禁断と言われるように、このまま諦めなくてはならないのだろうか。杏
の悩みはますます積もるばかりだった。
学校では智樹のこと、自宅に戻るとうざいメールの嵐のこと、どこにいても杏は落ち
着くことができない。ふと鏡を見ると眉間に皺を寄せている自分がいる。どんな風にこ
の二人に杏自身の気持ちを伝えればいいのか。いい方法は全く見つからず、四苦八苦し
ている。いろんな本やウェブでいろんな情報はかき集めたものの、杏のようなケースの
場合の対策はどこにもなかった。しかしもうあの頃の自分には戻りたくない。それが杏
を強くさせていた。その思い出とは。