婚約
携帯電話の電源をオンにした途端、三十通ものメールが一気に送信されてきた。相手
はみんな同じ。杏は大きくため息をついた。内容を確認する必要もなく、杏は携帯電話
をベッドの上へ投げ捨てた。そして杏はイスに座り、黙々と英語の勉強を始めた。英語
は特に力を入れている科目。とにかく四時間勉強したとしたら、二時間は英語に費やさ
ねば納得がいかない。その決め事は去年の春智樹が赴任してきてから、始まった。それ
まで全く興味のなかった英語に重大な関心を示せるようになったのは、杏自身が一番驚
いている。それ以来杏の成績は見違えるうちに、上昇カーブを描いて行ったのだ。
杏が入り込んでいる時でも、携帯は容赦なく鳴り続ける。最初の頃はあまりにもうる
さいのでバイブにしていたが、今ではこのじゃかましい音にも慣れて、もう平気になっ
てしまった。最近では杏自身のお気に入りミュージシャンの曲を着メロにして、楽しん
だりしている。相手の人は想像も尽かないだろうけど。今はその相手の人には全く関心
がない。以前はちょっと好意を持ったりしたけど、やっぱり恋愛感情という気持ちは起
きなかった。一度断ったのだが、あちらは未だに納得してくれないみたいで。
今は智樹一筋なのだ。だから出会いサイトを介して、彼とも会った。まさかここまで
うまくいくとは想像していなかったけど、見事にはまった。今日個人面接で智樹はうろ
たえた表情だったけど、妙にキュートに見えた。他の女子生徒には理解できない人気者
の智樹の別の側面を垣間見ることができるのだから、それは幸せだ。だから今のうちに
智樹には告白しておきたい。さもければ智樹はどこか遠くへ行ってしまう。
噂によれば智樹には婚約者がいるときく。残された時間はそうない。来週中にも智樹
を誘い出して、ばっちり決めるつもりだ。
はくしょん。
智樹は婚約者の沙織の前でおおきなくしゃみをした。別に風邪をひいているわけでも
ないのだが、どうしてだろう。
「最近仕事忙しいみたいだから、体壊しているんじゃない?」
鞄の中からハンカチを取り出して、沙織は智樹の顔を拭いた。
「個人面談とかで最近色々あってさ」
脳裏にあの個人面談が蘇った。ここ二、三日あいつに振り回されている。
「高校生って色々大変だからね。子供だと思って扱うと痛い目に遭うし、その逆のケー
スもあるし」
沙織も同じ高校教師だから、少しは智樹の気持ちも理解してもらえる。学校で悩みの
多い智樹にとって、二人でのデートは心が安らぐ。
「ちょっと、これ見てくれない?」
智樹はジャケットの中から指輪を取り出した。婚約者の沙織の表情がぱっと明るく
なった。大きな瞳がさらに大きく見えた。
「これ私にくれるの?」
「ああもちろんだよ。君以外に誰がいるんだよ、おかしな奴だな」
智樹に促されて、沙織は薬指に指輪をはめた。感激一杯の面持ちで沙織は智樹を見る。
二人はまわりにはばかることなく抱き合った。幸せ絶頂のカップルが今ここに最大の瞬
間を迎えた。
「今年のクリスマスに結婚しよう」
プロポーズの言葉に感激して、沙織は涙を流した。智樹は頭の片隅にまだあの出来事
がよぎっていたが、この一件ですべて洗い流そうと思った。
「私ずっと不安だった。今までずっと付き合ってきて、智樹は私達の将来のことをどう
考えているのかなって。でも今日こうやって意思表示してくれて……」
男以上に女性は結婚というのは一つの節目かもしれない。沙織が何度も指輪を見つめ
る姿を見て、智樹はそう思った。