アパートにて②
智樹は記憶の断片から、綾との思い出を丁寧に選び出した。そしてゆっくり話し始め
た。
「綾と知り合ったのは、僕が高一のテニス部に入部した直後だった。彼女は最初から
エリートで将来を嘱望されていたんだ。とても僕が気軽に声を掛けられる立場ではなか
ったんだ。そんな彼女と初めて話したのは、テニス部全員で観戦に行ったある大会だっ
た。席がたまたま隣同士になって、テニスの話で盛り上がったんだ。とても波長が合っ
てね。この子となら気が合いそうだなと思って。全然釣り合いそうにないんだけど、僕
は思い切って告白してみたんだ。そうしたら彼女からOKをもらって。それは嬉しかっ
たな。初めての彼女だったからね。そして僕らは付き合い始めた」
智樹は言葉を選ぶようにゆっくりと話を続けた。
「トッププレイヤーの綾と付き合うようになって、僕の腕も上達していった。相乗効果
ってやつなのかな。一人で練習するより二人で練習した方がうまくなれるのさ。杏だっ
てそうだろう?麻耶ってライバルがいて、お互いが成長できる。パートナーってそうい
うものだよ」
「でも私達の場合、同姓だからな。確かに彼氏だったら上達するかもしれない」
杏は智樹と綾さんの姿を想像した。きっと二人は美男美女で絵になったに違いない。
「プライベートでも一緒に過ごすことが多くて、二人でいろんな場所へ行ったな。わず
かなお金しかなかったからそんな遠出はできなかったけど、楽しかったな。キャンプも
したし、花火大会も行ったしね。学校では多くの仲間がいて、あまり羽を伸ばせなかっ
たから、その時はそりゃ楽しかったよ」
懐かしそうに振り返る智樹を、杏はじっと観察していた。その仕草を見ているだけで、
杏は幸せになってくる。最近智樹がこんな表情を見せたことがなかった。少しの間でも
昔の記憶で幸せに浸れるのなら、それで杏は良かった。けれども綾との結末は悲劇だ。
智樹の至福の時間は長く続かなかった。
「この後の話は聞くかい?相馬も知っている通り、あまりいい話ではないよ」
「先生が話したくないなら、別に話さなくてもいいよ」
「いや、話させてもらうよ。聞いてもらえるかな?」
「いいよ、先生」
杏のささやくような声に、智樹はどこか安堵感を覚えていた。まるで母の胸の中に抱
きついているような感覚だった。
「何もかもが順調に流れていたある日、突然綾を悲劇が襲ったんだ。交通事故だった。
今まであんなに飛び跳ねていた人間が、一瞬で動かなくなってしまったんだよ。事故っ
て残酷だな。僕は信じられなかったよ。綾はベッドでただ寝かされているだけじゃない
のかって。僕は何度もベッドで眠っている彼女の体を揺り動かした。でも起きやしない。
当たり前なんだけどね」
「そんなのありえない、残酷すぎるよ……」
ハンカチを片手に、二人は号泣していた。もう流す涙はないのかというくらい泣いて
いるのに、とめどなく溢れてくる。
「大事な人を失う悲しみを僕は痛烈に思い知らされた。あの時の脱力感・喪失感は相当
なものだった。僕はもう二度と誰も愛せないのではないかと思ったものだ。今考えれば
それは大げさな話だとは思うんだけどね。結局沙織と大学で知り合ったけど、今回みた
いなことになっちゃって。結局僕は沙織に甘えていただけなのかもしれないね」
一通り振り返って、智樹の涙は枯れ果ててしまったみたいだ。杏もようやく落ち着き
を取り戻した。
「先生はやっぱり今の学校で教師を続けるべきです。辞めてはいけないです」
切実に訴える杏。しかし智樹は首を縦には振らなかった。
「もう決めたことだ。それより今日は僕の話を聞いてくれてありがとう。くだらない男
の話を聞いてもらって、感謝しているよ」
「どこかくだらないんですか?素敵な話じゃないですか」
「そうかな?」
杏の言葉に智樹は感動を覚えた。比較はしたくなかったが、沙織と反応がまったく違
っている。
「私は先生の話が聞けて良かったです。やっと壁が低くなった気がして、私は猛烈に感
動しているんです」
杏の率直な思いをぶつけた。今は綾さんのそっくりさんかもしれない。でもいずれ一
人の女性として認めてほしい。杏はそう考えていた。
「一つお願いしてもいいかな」
「何?」
「恥ずかしい話だけど、相馬の腕の中で抱きしめてくれないかな」
「いいですよ」
突然の申し出にも、杏は快く応じてくれた。
「ありがとう」
智樹は杏の胸の中に顔をうずめた。色んな思いが去来したが、言葉に出来なかった。
杏の存在が智樹の中で大きくなっていく瞬間であった。綾から杏へ、想いがバトンタ
ッチされていく感覚だった。




