アパートにて①
智樹のアパートに来た杏は、胸がドキドキしていた。大人の男性の部屋に入るなんて
初めてのことだ。杏はキョロキョロと視線を送っていた。
「あまりジロジロ見ないでよ。一応片付けはしたんだけどさ」
「何だか緊張する。落ち着かない」
智樹の部屋は、とても落ち着いた空間だった。白のソファが部屋の中心に置かれ、漫画
のフィギュアが所狭しと並べられていた。
「コーヒーにする?それもジュース?」
「コーヒーでお願いします。ホットのミルク付きで」
「はいはい、了解」
手際よく智樹はコーヒーを注いでいく。婚約者の沙織さんも、こんな風に接していた
のだろうか。ふと頭に思い浮かんだ。
智樹は用意したコーヒーを杏に手渡した。杏はすぐに飲んでみた。なかなか味わい深くておいしい。こんなコーヒーはお店でも飲んだことがない。
「とてもおいしいですね、このコーヒー」
「そうだろう?僕はコーヒーにこだわりを持っているからね。仕事がはかどらない時、これを飲むと効率が良くなるんだ。あまり飲みすぎはよくないけど、とてもいいんだよ。で
も今は仕事していないから、関係ないか」
いきなり仕事のことを持ち出してきた智樹に、杏は複雑な思いになった。
「やっぱり教師を辞めるんですね。3学期からテニス部はどうなってしまうんですか?」
テニス部のことがまず心配になる。しかし智樹は冷静に答えた。
「テニス部のことは古文の岡田先生にお任せしてあるから大丈夫だ。彼も元テニスプレ
イヤーだから、問題はないよ」
「だからそういうことじゃないんです。先生がいたから、みんな頑張ってこれたんです
よ。もし先生が辞めてしまったら……」
杏の切実な思いは智樹に届くのだろうか。
「みんなの気持ちはうれしいけど、今の僕には顧問をする資格はない。以前みたいに厳
しく指導するのは難しいんだよ。いずれ謝罪には行くけど、みんなには理解してもら
ると思っている」
智樹の決断は固いようだった。麻耶と果たした約束は叶いそうにもなかった。
「テニス部のことも重要なんだけど、相馬に来てもらったからには話しておきたいこと
がある。まずは沙織とのこと。彼女とは正式に婚約破棄になったよ」
智樹は冷静にはっきりと答えた。口調に怒気は含まれていなかった。杏は安堵した。
婚約破棄させてしまったことは悪いことだけど、杏にはこの方法しかなかった。
「そうですか、私のせいですね」
「いや、君は心配しなくていい。大人が話し合って決めたことだ。僕が昔の女を引きず
っていたことが悪かったんだ」
独り言のように智樹は話した。恐らく智樹は沙織さんに相当酷いことを言われたのだ
と、杏は想像がついた。
「そう言ってもらっても私は不安。私の存在がものすごく邪魔しているようで。教師を
辞めたことで、先生の人生を完全に狂わせてしまった気がしちゃって……私どうしたら
いいのかわからない」
本人を前にして杏は泣き出してしまった。智樹はどこからかハンカチを取り出してき
て、それを杏に手渡した。
「それは杏が心配することじゃない。僕が決めたことなんだから。僕はこれから真っ直
ぐ前を向いて歩いていくんだ。相馬のようにね」
智樹はなぜか笑っていた。こんな大ピンチなのに、どんな神経をしているのかと杏は
思った。
「沙織にも話したように、相馬にも聞いてもらいたいことがある。それは亡くなった綾
のことだ。聞きたくなかったら、聞かなくてもいいけど。どうする?」
智樹は別れ際に沙織から言われた一言が気になっていた。
(私は過去をあまりにも引きずっているような男性は好きではないの。智樹がそんな人物
だと、見抜けなかった私にも落ち度はあったと思うんだけど)
もし杏にも同じことを言われたらどうしよう。智樹は小さなことが気になっていた。
「ぜひ、聞いてみたいです。すぐに聞かせて。私とても興味がある」
智樹はホッとした。年下の女性に話すのは照れくさかったけど、昔の彼女が瓜二つに
見える杏には何でも話せそうな雰囲気があった。
一方で杏も綾とは一体どんな女性だったのか、尋ねてみたかった。智樹が話してくれ
るまでずっと、杏は心にそのことを秘めていた。ようやく智樹が心中を語ってくれこと
になった。




