残された道
どんなに後悔しても、朝日は昇ってくる。昨晩智樹は一睡も出来なかった。寝ようと
思っても様々な考えが巡って、智樹の眠気を奪って行ったのだ。
教師が生徒に秘密を握られているほど、辛いことはない。果たして杏は智樹に対して、
どんな行動を取ってくるのだろうか。今朝の出勤はとても憂鬱だった。
智樹が通っている高校の通学路に、地元で有名な桜並木があった。春には近くの神社
で祭りも開催されるほど立派なものだ。いつもは気分良く出迎えてくれるのだが、今朝の
足取りは非常に重かった。
前方に杏らしき女子生徒を見つけた。彼女は同じテニス部の仲間、北田麻耶と談笑し
ていた。いつもなら智樹から彼女らに積極的に声をかけるのだが、今朝はそういうわけ
にもいかない。とりあえず智樹はひっそりと会話を訊いてみることにした。
「昨日、出会い系サイトで知り合った男性と会ったんでしょ。どうだった?」
一番智樹が気にしていたことが、いきなり摩耶によって投げかけられた。
「会った、会った。とってもかっこいい男の人だったよ」と興奮気味に杏は言った。
「本当?それはラッキーだったじゃない。お金持ちタイプだった?」と摩耶が続く。
「お金を持っているかどうかはわからないけど、相手の人は教師だった」
「えっ、それマジ?」と摩耶が驚きの声を上げた。まわりの生徒がその声に鋭く反
応した。
「ちょっとマヤ。そんな大きな声上げないでよ」
「ごめんごめん」と頭を掻きながら、摩耶は謝った。
「教師ってどういうことよ。教師が援交ってマズイんじゃないの?」
さらに麻耶が突っ込んできた。これ以上会話を訊いていられない。さらに昨日秘密に
してくれると言っていた杏が、もう口を滑らせている。これは止めなければならない。
耐えかねた智樹が、二人の元に詰め寄った。
「おはよう」
何事もなかったかのように、智樹は二人の前に詰め寄った。杏の顔を注視して見てみ
たが、彼女の顔はとても穏やかだった。顔立ちも服装も昨日とは全く違っていて、普通
の女子高生だった。
「おはようございます」
杏は笑顔を交えて、会釈した。その仕草が妙に大人びていて、智樹の頭を混乱させた。そんな二人の様子を、摩耶が不思議そうな顔をして見ていた。
何が何かわからないうちに、あっという間に放課後になってしまった。緊張のせいか、
眠たいはずなのに欠伸は一度も出なかった。いつもは理解しやすいと評価されている智
樹の授業であるが、今日一日に限っては生徒からのクレームも多く、本来の智樹ではな
かった。さっそく放課後の部活で、智樹は摩耶に指摘された。
「先生今日はどうしちゃったんですか。いつもは完璧なのに」
「ああ申し訳なかったな。明日からはちゃんと授業をやるから」
智樹は必死に弁解したが、その理由をよく知っている杏は飄々とサーブの練習をして
いた。憎たらしいくらい杏は落ち着いている。彼女の真相がどうかわからないから、智
樹はうろたえていた。
「さっきからずっと杏のこと気にしていません?」
また摩耶に指摘される。今日はそればっかりである。このまま早退届を出して、自宅
に帰ってしまいたい。そんな心境だった。
智樹が出会い系サイトを始めたきっかけは、一枚の名刺のような紙切れだった。偶然
にも鞄の中にそれが入っていて、出会い系サイトへ繋がるアドレスが載せられていた。
止めておけば良かったのだが、ついついサイトを閲覧してしまったのだ。そして知り合
ったのが、同じ高校の女子生徒の相馬杏というわけである。
杏と接点を持ったのは不運だったとしても、智樹の趣味のテニスの話で異様に盛り上
がったために、我を忘れたことがいけなかった。それどころか智樹自身が、杏とのメー
ル交換に夢中になってしまい、ありもしないウソの情報や同僚の先生の悪口などを提供
してしまった。これらすべては杏に筒抜けになっているということになる。考えるだけ
で恐ろしいことだった。
明日は個人面談だ。杏と二人きりで話せるチャンスがある。この際に由々しき問題は
すべて解決してしまおう。しっかり説得すれば、彼女は理解してくれるはずだ。そう信
じるほか智樹の残された道はなかった。