雨の記憶
この小説は完全なフィクションです。
ブレーキの音……ワイパーが左右に規則正しく動く……彼の言葉……最後のキスは今ではもう甘くない。
目が回って、墜ちていくような感覚で目覚める。五歳と三歳の娘が仲良く眠っている。秒針の音と雨の音がする。
そっと子供部屋をでる。まだ十時半。夫の帰宅には少し時間がある。
「傘、持っていったかしら」
カーテンを開けて、外を確かめようとする手が止まる。
(雨は……)
頭痛がする。薬を飲み、ヘッドフォンをかけて、雨の音をかき消す。
迎えに来てとは、夫は言わないだろう。私が雨の日の運転を極度に嫌がっていることを知っている。理由は聞かない。
(優しい人だわ……)
ぎゅっと目をつむり、耳に流れる音楽に集中する。これも、優しい夫が、最近の曲を録音してくれたものだ。
彼も優しかった。いつも自慢の車で送り迎えをしてくれた。二つ年上。もうすぐ二十歳。目鼻立ちのはっきりしたハンサムで、特に睫毛は、羨ましいくらい長く濃かった。
地元では有名人。特に車が有名だった。彼がいるロータリーへ足を運び、仲良くなっていった。
高校生だった私を家まで送ってくれて、初めてキスをした。それから初めての夜。
初めての男、ステータス。嫉妬と羨望の視線。彼に奥さんがいる事なんて、どうでもよかった。
卒業後の進路は地元の銀行に決まっていた。彼は門限を守って、それでもいろんなところへドライブに行った。行く先々で声をかけられる。それくらい有名だった。
その雨の日。
何度も抱き合って、門限ぎりぎりになった。家までの道を走っていた。住宅街を抜け、田舎道を通る、近道。よく使う道。
田舎道に入ってすぐだった。
車はかなりのスピードを出していたはずなのに、全てがスローモーションに見えた。
右手から出て来たおばあさん。レインコートを着て、自転車を引いていた。鈍い音……空中で雨粒を蹴るおばあさんの足……ブレーキ……
彼は外を見て、黙って走り出した。私も黙っていた。鼓動の音で鼓膜が破れるのではないかと思った。
家から少し離れたところで、車は停まった。彼は私に傘を渡し、キスをした。長いキス。
「おまえは今日、俺と会ってない」
「……」
「いいな」
「うん」
「さ、行け」
押し出されるように車を降りた。彼は最後に
「仕事、がんばれよ」
と言った。
彼に会ったのは、結局それが最後だ。彼の顔はもうなんとなくしか思い出せない。何枚かあった写真も捨ててしまったし、もう二十年近く時間が経っている。
(お互いわからないだろうな)
その言葉に、わからないでいて欲しいとの願望が含まれている事を知っている。胸が痛む。
事故の事は、またたく間に広まった。新聞にも載った。
『少年A、無免許で轢き逃げ。被害者は病院に搬送されるも、死亡』
ロータリーから彼の車は消え、しばらくは噂も消えた。いや私の耳には入らなかった。
私はいつもビクビクしていた。警察が家に来るのではないか。どこかで目撃されているのではないか。もし、一緒にいたのがばれたら、罪に問われるのではないか。
卒業式の三日前、彼の事を知っている友達が言った。
「裁判終わったよ。少年院だって……相手は奥さんもいるんだし、もう会いに行くとか、考えちゃだめだよ。辛いだろうけど、もう忘れなよ」
一瞬何を言われているか、わからなかった。そして、泣いた。噂が耳に入らなかったのは、疑われているからではなかった。不倫の彼が事件を起こした、気の毒な女の子……そう思われていたからだ。
黙って肩を抱いてくれた友達にも、真実を話さず、悲劇の被害者を装った。
「彼に会いたい……」
ようやくそう思ったのは、最後の春休みだった。もう罪に問われる事はないだろう、その安心感で、やっと、彼の事を考えられるようになった。
私をいなかった事にしてくれた。警察でも言わなかった。私はそれだけ愛されていた。入社式では心の底から感謝した。こうして普通に就職していられるのも、彼のおかげ。
だが私は会いに行かなかった。手紙を書く事もしなかった。仕事が大変だった。バブルがはじけたところだった。
正直、一番下っ端の私にはあまり関係なかった。仕事は大変だったが、楽しかったし、OL生活を満喫していた。
合コンにも行った。ただし、地方出身者の集まりにだけ。彼に感謝しながらも、彼との繋がりを一切否定していた。
二年後、銀行の解散に伴い、私は縁故で再就職した。彼がいた少年院のある隣県の金融会社。彼が退院したと噂で聞いた直後だった。
何度か男とも付き合った。二十七くらいまでは、未婚既婚問わず付き合っていた。
そろそろ将来を考えてと、付き合い始めたのは、会社の地元のコンピューター関係のエンジニアだった。一つ年下で、優しい顔をしていた。
付き合いにはなんの問題もなかった。とても優しくしてくれたし、私も精一杯尽くした。ただ、充分な収入もあるのに車に乗っていないこと、野球中継をみないことを不思議に思っていた。
二年近く経ち、無事に結婚した。今の夫だ。
ハネムーンの夜、夫はこんな告白をした。
母が病気で亡くなったのは、話したよね?そう、心臓が悪くて。実はその日、最後に一緒にいたのは僕なんだ。
小学校三年だった。学校から帰ってすぐ、近所に遊びに行って。帰ってきたら、母が苦しそうにしていた。僕はすぐ救急車を呼んだ。父にも連絡したよ。でも僕がしたことはそれだけ。後は祈っていた。早く救急車が来ますようにって。
近所の大人を呼びに行きもしなかった。祈っても、なんにもならないのにね。……怖かったんだ。
父は今でも、あの日、あの通りに違法駐車していた人間を恨んでいる。母を殺したのは奴らだって思ってる。救急車の到着が遅れたのは確かだからね。でも本当は僕のせいなんだ。
何も出来なかった。それに、よく思い出して見ると、学校から僕が帰って来た時には、母の顔色はよくなかった。僕はそれに気付かないふりして遊びに出かけた。野球、やりたかったんだ。
今でも父には、その事は言えない。でも、気付いているかも知れない。あれから、一度も野球はやってないから……
僕は母親を見殺しにしてしまった。その罪は消えないけれど、そのぶんも、あなたを大切にします。
衝撃的な告白だった。ハネムーンから帰ってからも、私の体調は回復しなかった。
私も告白するべきか?でもなんと?
轢き逃げした車に乗っていました。いい歳をしていた彼も私も、車から降りて被害者の様子を見る事もせず、その場を去りました。そして彼は私をその場にいなかった事にして、私の将来を守ってくれました。
私はビクビクして過ごした。雨が降る度頭痛を起こし、怖い夢を見た。
彼に感謝しているなんて思いながら、彼との関わりを否定して生きて来た。そして懲りもせず、節操のない恋愛を繰り返し、あなたにたどり着きました。
もしあの時、すぐに通報すれば、おばあさんの命は?彼の罪は?ご遺族はどうしているんだろう?彼や彼の家族は?
その事すら、たった今まで考えたことすらなかった。
そして私はハネムーンベイビーを授かった。
突然、ヘッドフォンから流れて来た曲に息が止まる思いがした。あの日、車の中で流れていた曲のカバー。
「ただいま」
いつのまにか帰宅して部屋のなかにいた夫に驚き、ヘッドフォンのプラグを引っこ抜いてしまった。大音量で曲が流れる。
慌てて止めたものの、時既に遅く、子供部屋から娘達が現れる。あんまり会えないパパを見つけて纏わり付く。
「寝ないとだめよ」
「いいじゃない。明日は幼稚園ないだろ」
「でも……」
「パパ、雨が降ってるとママは怒りんぼママだから、気をつけて」
娘の言葉にドキリとする。三人は顔をくっつけて、楽しそうにしている。
あの日、既に選択を誤っていた。そうして月日が流れ、間違った道の上に私の人生は構築されて来た。夫との出会いも、娘の誕生も。
もしも、あの日に戻れるなら、正しい選択をする。でも、もう戻れない。
おばあさんを生き返らせる事も、彼の罪を軽くする事も、出来ない。ご遺族や彼の家族にも同じ時間が流れた。謝罪しに行く事は、誰の、何を助けるのか。
私は黙って生きて行く。
小学校三年の自分を悔やむ夫のそばで。間違った選択をしない事を教えるのを一番の子育ての条件にして。雨の度に思い出し、心の底から懺悔して。
雨があがれば、まるで何事もなかったように装って。
一番大切な人たちに、何も気付かれないように。一生しまい込んで。
そして、せめて彼が現在幸せであることを祈って。
ブレーキの音……ワイパーが左右に規則正しく動く……彼の言葉……最後のキスは今ではもう甘くない。
「私」の選択が正しいのかは、作者自身も悩むところです。 続編として「彼」の現在も執筆予定です。