婚約者が席次表を作ったけど、犬にさえ席があるのに私にはなかった
両家の顔合わせを兼ねた食事会まで、あと二日。私は椿森市の老舗旅館、花乃井を訪れ、個室の設営や料理の最終確認をしていた。支配人から渡された席次表には、両家の両親や兄弟姉妹、親戚の名前がずらりと並んでいる。家族同然に可愛がられているラブラドールのために、休憩スペースまで用意されていた。
ところが、何度見直しても、婚約者である私の名前が見つからない。
「私の席は、どこにあるの?」
隣にいた岩瀬圭介は、席次表をちらりと見て答えた。
「千紘は人の世話をするのが得意だろ。料理を運ぶのを手伝ってくれればいいよ。そのほうがみんな助かるし」
向かいに座っていた小宮山紗良が、悪気のない顔で笑った。
「千紘、料理を運ぶのもいいじゃない。出てくる料理を先に味見できるし。圭介くんに信頼されてるってことだよ。私もちょっと羨ましいな」
私は席次表を見つめたまま、言葉を失った。
この食事会のために、何日もかけて店を予約し、献立を確認し、細かな手配を進めてきた。両家の好みを調べ、苦手な食材を避け、年配の親戚が過ごしやすい席まで考えた。それなのに、圭介には私が座って食事をするという発想さえなかったらしい。
彼は私の反応を気にする様子もなく、紗良と食事のあとに月を眺める場所を相談し始めた。
私は席次表を畳んだ。
「わかったわ」
圭介は、私が納得したと思ったらしい。
「そうだよ。千紘ならわかってくれると思った。じゃあ、明日の最終確認も頼むな」
私は返事をせず、旅館を出た。
マンションに戻ると、予約サイトを開き、花乃井の個室のキャンセル手続きに進んだ。
私の席を用意するつもりがないのなら、この食事会を続ける理由もなかった。
1
キャンセル手続きが最後の一歩というところで、圭介が横から手を伸ばし、私のマウスを取り上げた。
予約内容を確認し、まだキャンセルが確定していないとわかると、彼はほっとしたように息をついた。
「感情的になるなよ。花乃井みたいな老舗の個室は、なかなか予約できないんだ。今さら取り消したら、両家にどう説明するつもりだ?」
「キャンセルされるのが嫌なの?」
「今は頭に血が上ってるだけだろ。落ち着いたら、また後悔するぞ」
「何を後悔するの?」
「両家の食事会を台なしにして、年長者たちに恥をかかせたことだよ」
圭介はそう言って、私の目の前でパソコンを閉じた。
ほぼ同時に、スマートフォンへ銀行からの入金通知が届いた。五万五千円。個室の予約金は五万円だったはずだ。余分な五千円には、こんな振込名目がついていた。
――お使い代。
私はすぐに返金手続きをした。
圭介は画面を見て、呆れたように笑った。
「また始まった」
「何が?」
「最初は嫌だって言って、次は口をきかなくなって、最後には俺に機嫌を取らせる。千紘、そのパターンならもうわかってるよ」
彼は私の耳元の髪を整えようとした。長年、当たり前のように受け入れてきた仕草だったが、私は身体を引いて、その手を避けた。
圭介は一瞬黙り、子どもをなだめるような口調になった。
「わかった。少し頭を冷やせよ。落ち着いたら、また話そう」
テーブルのスマートフォンが震えた。姉の高峰奈緒からだった。
「結婚の日取りまで決まってるんだから、こんな小さなことでいちいち目くじらを立てないの」
続けて、もう一通届く。
「圭介は両家の年長者にも気を配らなきゃいけないし、紗良は失恋したばかりなのよ。少しくらい大目に見てあげなさい」
画面越しでも、姉が私の分別のなさを責めている姿が目に浮かんだ。
圭介は私が黙っているのを見て、話はついたと思ったらしい。水を取りに行きながら、得意げに言った。
「そうだ。席次表は俺が自分で作ったんだ。午後いっぱいかけて、両家の人を一人も漏らさず確認したんだぞ」
戻ってきた彼は、いつもの軽い調子で続けた。
「夕飯のあと、どこに月を見に行きたい? 南の展望台がよさそうだから、あとで予約しておくよ」
まるで、私の名前だけが抜け落ちた席次表など存在しなかったかのようだった。
私は寝室へ向かった。
机の一番下の引き出しには、古い帳簿がしまってある。五年前、圭介が起業したばかりの頃、私から借りたお金を一円単位で記録したものだった。
会社の資金繰りが悪化したとき、私は昼間は会社で働き、夜は単発の仕事を引き受けた。生活費を少しずつ削り、浮いたお金を彼の会社に回していた。
お金を受け取るたび、圭介は律儀に帳簿をつけていた。ある日、それを私に渡した彼は、目を真っ赤にして言った。
「千紘、この苦しい時期を乗り越えたら、君を誰よりも大切にする。絶対に裏切らないから」
帳簿の最後のページには、彼の手書きで四文字が記されていた。
――絶対に裏切らない。
私は黄ばんだ文字を指先でなぞり、帳簿を茶封筒に入れた。
そのとき、会社の上司から連絡が届いた。
水杜市支社で大型プロジェクトの責任者が必要になったという。半月ほど前にも打診されていたが、私は結婚式の準備を理由に断っていた。
「まだ枠は空いている。引き受ける気があるなら、今夜中に返事をください」
リビングに戻ると、圭介は両家の親戚にメッセージを送り、食べ物の好みや苦手なものを確認していた。母親が硬いものを食べられないことも、妹が嫌いな野菜も、紗良が最近落ち込んでいることも、よく覚えている。
ただ一人、料理を運ぶ私が疲れないかどうかは、誰も気にしていなかった。
私はスマートフォンを開き、上司に返信した。
「お引き受けします」
送信した直後、圭介が私の手にある茶封筒を見て笑った。
「また昔の帳簿を引っ張り出して、自分に酔ってるのか? 今夜は寿司でも食べに行こう。こんなことでいつまでも拗ねるなよ」
私は封筒を引き出しの奥にしまった。説明する気にはなれなかった。
彼は知らない。私がこれから清算しようとしているのは、昔の借金だけではない。
2
婚約指輪を選びに行った日、圭介は四十分も遅れてやってきた。
ようやく現れた彼の後ろには、紗良もいた。
「途中で紗良に会ったんだ。買い物をしたいっていうから、一緒に来てもらった」
圭介は店員からお茶を受け取り、私に尋ねた。
「気にしないよな?」
私が答える前に、紗良が笑った。
「千紘が嫌なら、私は帰るよ。あとで気が利かないって言われるのも嫌だし」
そう言いながら、彼女は奥のソファに腰を下ろしていた。
圭介は少し眉をひそめたあと、私に向き直った。
「気にしなくていいよ。まだ食事会の席のことで怒ってるんだから」
しばらくして、店員が二つの指輪ケースを持ってきた。
一つは、私が半月前から候補にしていたシンプルなリング。もう一つは、紗良が先ほど気に入ったという彫刻入りのリングだった。
「岩瀬様、以前、婚約者様からこちらのお写真をいただいております。お選びになったのはこちらのリングです。もう一方は、先ほどこちらのお客様が気に入られたものですが、どちらになさいますか?」
圭介は迷わず答えた。
「彫刻入りのほうで」
彼は指輪を手に取り、紗良の指先に当ててみた。
「紗良は昔からセンスがいいな」
私はシンプルなリングを選ぶために資料を調べ、三軒の店を回って、ようやくサイズとデザインを決めた。圭介はそうしたことを面倒がり、私が送った写真もリンクも真剣に見てくれなかった。
紗良は指輪を眺めながら言った。
「こっちのほうが華やかで素敵。結婚式で親戚に見せるときも映えそう。シンプルなものだと、ちょっと地味だものね」
「確かに、こっちのほうがいいな」
圭介がうなずいた。
「じゃあ、これにする?」
「そうしよう」
私は口を開いた。
「それは、私たちの結婚式のために選ぶ指輪よ」
紗良はすぐに手を引っ込め、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん。千紘がいること、うっかり忘れてた」
店内が静まり返った。紗良の目には涙が浮かび、圭介は私を責めるように言った。
「紗良は親切心で言ってるんだ。悪いほうに受け取るなよ」
「私は何も言ってないわ」
「顔を見ればわかるよ」
圭介は私の前まで歩いてくると、親指で眉間を軽く押した。
「もうすぐ結婚式なんだから、みんなが君の顔色をうかがうようなことばかりするなよ」
私は彼の手を払いのけた。
「結婚式の準備は、いったん止めましょう」
紗良が目を見開いた。
圭介は予想していたとでもいうように笑った。
「いいよ、延期しよう。何日くらい止める? 食事会が終わるまでか、それとも君の機嫌が直るまで?」
「私は騒いでいるわけじゃない」
「わかった、わかった」
彼は口では合わせながら、店員に向かってクレジットカードを差し出した。
「二つとも包んでください」
「シンプルなリングも、ですか?」
「そうです。彼女が気に入っているので」
私の選んだ指輪も買っておけば、私の気持ちを尊重したことになる。そんな考えが透けて見えた。
会計を済ませる頃、紗良が別の話を持ち出した。
「圭介、食事会の日、上の階のスイートルームを予約しておいたよ。夜は月も見られそうなの」
彼女は私に顔を向けた。
「千紘も一緒に来る? でも、私、失恋したばかりだから、話し相手になれるかはわからないけど」
圭介はすぐに答えた。
「聞かなくていいよ。個室に席を用意してないんだから、スイートルームにもわざわざ場所を作る必要はないだろ」
その拍子に、私の紙袋から指輪のケースが滑り落ち、床を転がって紗良の足元で止まった。彼女は見下ろしただけで、拾おうとしなかった。
圭介がかがんだとき、ポケットから折り畳まれたレシートが落ちた。
それはスイートルームの予約・支払い証明書だった。備考欄には、こう書かれていた。
――紗良様は輸入チェリーがお好きです。フルーツの盛り合わせをご用意ください。
3
圭介はすぐに説明を始めた。スイートルームも果物も、失恋した紗良を慰めるためだという。紗良自身が部屋を予約し、自分は会員アカウントで代金を払っただけだと続けた。
「紗良は前の恋愛から立ち直るのに苦労してるんだ。最近は夜も眠れないらしい。みんなで気分転換させてあげようとしてるだけだよ」
私はレシートを見ながら尋ねた。
「紗良が輸入チェリーを好きなのは覚えているのに、私がマンゴーアレルギーなのは忘れたの?」
圭介の手が止まった。
「君、果物は好きだろ。南国の果物が好きだったと思うけど」
去年の秋、圭介は私にマンゴーのお菓子を贈った。食べたあと全身に発疹が出て、病院で一晩点滴を受けることになった。そのとき彼はベッドのそばで付き添い、もう二度と忘れないと約束した。
今の彼は、紗良の好みを覚えているのに、私のアレルギーさえ忘れていた。
翌日、会社から水杜市支社への異動通知が届いた。私は結婚式の費用を一つずつ確認し、キャンセルできる項目と返金される予約金を整理した。
結婚式のプランは、私が夜遅くまでかけて作ったものだった。大きな金額の予約金も、ほとんど私が支払っている。契約書を見ながら、一件ずつキャンセル申請を送り、二人で管理していた結婚費用の口座から、自分が入金した分を引き出した。
午後、圭介の母親、佳代から長い音声メッセージが届いた。
「千紘、また結婚式を延期するつもりだって聞いたわ。紗良は失恋したばかりなんだから、圭介が少し気にかけてあげるのは普通のことよ。そんな小さなことに、いつまでもこだわらないで」
佳代はさらに続けた。
「食事会では控えめな服装にしなさい。紗良は最近つらい思いをしたばかりなの。あの子の目立つような真似はしないで。これからは家族になるんだから、分別を持ちなさい」
「圭介は、私が細かいことを気にしすぎると言ったんですか?」
私が尋ねると、佳代はすぐに答えた。
「あの子はあなたのことをよく知っているでしょう。怒ったときは、いつも最後には圭介に機嫌を取ってもらうじゃない」
私は、五年間で本当に圭介と衝突した二度の出来事を思い出した。
一度目は、彼が起業したばかりの頃だった。会社の体裁を整えるために、私が結婚前から貯めていたお金を車の購入に回そうとしたのだ。私は断り、圭介は借用書を何枚も作って、会社が落ち着いたら返すと約束した。
二度目は、両家の親が一緒に出席する予定だった大切な集まりの日だった。圭介は両親を迎えに行くと約束していたが、出発直前、紗良がパスポートをなくしたと連絡してきた。彼は予定を変えて彼女の対応に向かい、私は一人で親戚全員を迎えた。
最後の客が帰ったのは深夜だった。その夜、圭介はマンションの下で一晩中待ち、謝り続けた。私は結局、彼を許してしまった。
彼にとって、私の苦しさは、最後に謝れば済む程度のことだったのだろう。
夜、圭介の家族がマンションに集まり、食事会の献立を相談することになった。圭介の妹の美紀がメニューを指さした。
「千紘、花乃井の名物料理と鯛の酒蒸しは絶対に入れてね。支配人とも顔見知りなんでしょう? あと二品くらい追加してもらってよ」
「予算は、もう超えているわ」
美紀は気にも留めずに答えた。
「超えた分は千紘が出せばいいじゃない。給料も高いんだし。両家のお年寄りに、みすぼらしい食事をさせるわけにもいかないでしょう?」
席次表に私の名前はない。それなのに、出費も料理の手配も客の世話も、当然のように私に押しつけられていた。
圭介は私の椀にスープをよそった。
「年長者たちが好きな料理なんだ。支配人に頼んでおいてくれよ。追加分はあとで俺が払うから」
「じゃあ、あなたが払ってから考えるわ」
彼は声を落とした。
「みんなの前で機嫌を悪くするなよ」
私はスープに手をつけなかった。食事のあと、結局、花乃井の支配人に連絡し、追加料理を注文した。
圭介が風呂に入っている間、開いたままのパソコンに紗良からのメッセージが表示されていた。
「圭介、食事会の日、私が主賓席に座って、千紘には席もないんでしょう? さすがにかわいそうじゃない?」
圭介の返事は、そのすぐ上にあった。
「大丈夫。もう席次表から千紘を外したから。聞かれたら、年長者が多くて席が足りなかったって言えばいい」
続けて、もう一通。
「普段から人の世話を焼くのが好きだろ。料理を運ばせておけばいい。君は安心して座ってな」
最後のメッセージには、こう書かれていた。
「今日、千紘が結婚式を延期したいって言い出した。延期になるのもちょうどいい。これで……」
4
圭介が風呂から上がったとき、私はリビングで待っていた。
「紗良に送ったメッセージに、結婚式が延期になってちょうどいいって書いてあったわね。何がちょうどいいの?」
圭介は眉をひそめた。
「俺のチャットを勝手に見たのか?」
「答えを聞きたいだけよ」
「紗良を安心させるために言っただけだ。都合のいいところだけ切り取って、悪く受け取るなよ」
私は視線をそらさなかった。
圭介はしばらく黙ったあと、落ち着いた口調で説明した。
「結婚する相手は君だ。結婚式だって、いずれ挙げる。でも結婚するからといって、両家の顔を立てることを忘れていいわけじゃない。紗良との付き合いだって、いきなり切れるものじゃないだろ」
最後には自分を選ぶのだから、今の扱いくらい受け入れて当然だ。そんな考えが、彼の言葉ににじんでいた。
食事会の前日、両家は花乃井に集まり、料理の試食と席次の確認をすることになった。
美紀がまた私の席について話し始めた。
「千紘、明日はちょっと我慢してね。身内だけの食事会なんだから、立って手伝っても座って食べても、大して変わらないでしょう?」
佳代も口を挟んだ。
「千紘はよく気がつくんだから、明日はみんなの世話をお願いね。細かいことにこだわらず、分別を持って」
私は箸を置き、スマートフォンを取り出した。以前撮影しておいたチャットのスクリーンショットを開く。
「では、この件をはっきりさせましょう」
私は圭介を見つめた。
「明日の食事会で、主賓席の真ん中に座るのは私? それとも紗良?」
紗良は立ち上がり、目を潤ませた。
「千紘、私を利用して圭介を困らせないで。私、食事会には出なくてもいいから」
そう言いながら、彼女は圭介のほうへ身体を寄せた。
圭介の表情が険しくなった。
「十五人分の席はとっくに決まってるんだ。今さら君が主賓席を取りたいなんて言い出したら、全部組み直さなきゃいけないだろ」
「私はあなたの婚約者よ。それに、個室を予約したのも私」
「君が真ん中に座ったら、年長者たちはどこに座るんだ? 紗良は今、精神的に不安定なんだ。気にかけてやる人間が必要なんだよ」
「つまり、あなたは彼女を選ぶのね」
圭介は私の手首をつかんだ。
「年長者たちの前で揉めるなよ。本当に主賓席に座りたいなら、今度二人で食事に来たときに好きなところに座ればいいだろ」
「これが最後の質問よ。あなたは、どちらを選ぶの?」
圭介は私を見つめ、苛立ちを隠さず答えた。
「わかったよ。主賓席は紗良に譲る」
食卓にいた全員が固まった。
それでも彼は私の手首を握ったまま、当然のように続けた。
「紗良は最近つらい思いをしたばかりなんだ。明日の食事会だって、あいつを元気づけるためにやるようなものだろ。俺たちはこれから一生一緒にいるんだ。たった一つの席くらい、どうして譲れないんだよ」
私の目は、彼の腕時計に向いた。
その時計は、私が二つの仕事を掛け持ちし、安い食事で節約しながら、半年以上かけてお金を貯めて買ったものだった。圭介はかつて、これを身につけるたび、私が一緒に苦労してくれたことを思い出すと言っていた。
「さっきの話、まだ終わっていないわね。結婚式が延期になって、何がちょうどいいの?」
圭介はため息をついた。
「紗良が安心して食事できるってことだよ。俺たちが結婚したら、俺が少しずつ自分から離れていくんじゃないかって、ずっと心配してたんだ」
「だから、最初から結婚式を延期するつもりだったの?」
「数か月遅らせるだけだ。あいつが落ち着いたら式を挙げればいい」
「私を席次表から外したのも、あなたが決めたこと?」
「そうだよ」
私は彼を見つめた。
「みんなに、私はあなたたちのそばで世話をすることしかできない人間だと思わせたかったの?」
圭介は急に声を柔らかくした。
「千紘、君はいつも俺が気持ちをわかってくれないって言うだろ。今回は正直に全部話したのに、それすら受け入れられないのか?」
私はうなずいた。
「わかった。受け入れるわ」
圭介の表情が和らいだ。私が折れたと思ったのだろう。
彼の手が緩んだ瞬間、私は手首を引き抜き、立ち上がった。
「あなたが彼女を選ぶのなら、私からも伝えておくことがあります」
5
私は両家の人々を見渡し、最後に圭介へ視線を戻した。
「岩瀬圭介との婚約を、ここで解消します」
食卓が静まり返った。
私は自分のお金で追加した鯛の酒蒸しの皿を持ち上げ、床に叩きつけた。陶器の割れる音が響き、汁が飛び散った。誰も声を出せずにいた。
私は振り返らず、出口へ向かった。
圭介は追いかけてこなかった。
「気が済むまで怒ればいいよ。明日は両家が集まるんだから、本当に欠席するなよ。食事が終わったら、また話をつけよう」
扉が閉まる直前、美紀の声が聞こえた。
「お兄ちゃん、千紘、本当に結婚しないつもりなのかな?」
圭介は笑った。
「そんなわけないだろ。あいつは俺と別れる気なんかないよ。俺に機嫌を取らせたいだけだ」
私は振り返らなかった。
翌朝七時、水杜市へ向かう飛行機が出る。荷物は昨夜のうちにまとめてあった。
旅館を出ると、夜風が肌寒かった。私は花乃井の支配人に電話をかけた。
「明日の個室予約をキャンセルしてください」
「高峰様、本当によろしいのでしょうか。あの個室は大変人気がありまして、今キャンセルされると、次にご予約いただけるのは連休明けになるかもしれません」
「構いません。よろしくお願いします」
帰りのタクシーの中で、圭介からメッセージが届いた。
「家に着いたら連絡して。明日は早めに料亭に行って、前菜と料理を出す順番を確認しておいてくれよ」
彼はまだ、私が少し怒っているだけだと思っていた。
午前五時、私はスーツケースを引いてマンションを出た。扉を閉めるとき、部屋の中を振り返ることはなかった。
飛行機は午前九時半に水杜市へ到着した。支社の人事担当者が空港まで迎えに来ていた。
「高峰さん、今回のプロジェクトは難しい状況です。できるだけ早く仕事に慣れていただく必要があると思います」
「わかりました」
昼過ぎ、会社が用意してくれた仮住まいの部屋で、私はパソコンを開いた。
窓の外には見知らぬ川が流れ、遠くの高層ビルが水面に映っていた。
まず異動手続きが正式に完了していることを確認し、結婚式の手続きを一つずつ進めた。両家の顔合わせ、式場、写真撮影、宴席のサービス。すべて別々に処理する必要があった。
私は契約書と返金証明書を整理し、圭介の会社用メールアドレスに一通のメールを送った。
「私たちは別れました。今後、連絡しないでください」
送信が完了すると、パソコンを閉じ、スマートフォンをサイレントモードにして眠った。
翌日の夕方、圭介たちは花乃井へ向かった。
私はその場にいなかったが、あとになって、予約を取り消した個室には別の客が入り、圭介たちは十五人で座れる場所を見つけられなかったと聞いた。
圭介は家族と紗良を連れて旅館のロビーにやってきた。新調したスーツを着た彼の隣で、紗良は彫刻入りの指輪を身につけ、佳代の腕に親しげに手を回していた。
「圭介、千紘はまだ来ないの? もしかして、まだ怒ってるのかな」
紗良が小声で尋ねた。
親戚たちは彼女の指輪を褒め、佳代も嬉しそうに笑った。
「圭介が一緒に選んだものだから、きれいなのも当然よね」
圭介は気にも留めず、手を振った。
「放っておけばいいよ。時間になれば来るさ。あいつは年長者たちの前で恥をかくのが、いちばん嫌いだからな」
仕事用のメールを開いた圭介は、一通のメールに気づいた。
件名は「別れ」。
彼は画面を見つめたまま、足を止めた。
「圭介、何をぼんやりしてるの? 早く個室に案内しなさい。みんなお腹を空かせてるのよ」
佳代に急かされ、圭介はスマートフォンをポケットにしまった。
「わかったよ。先に食事をしよう。帰ってから話をつける」
受付に向かった圭介は、慣れた様子で予約内容を伝えた。
「婚約者の高峰千紘が、十五人用の景色のいい個室を予約しているはずです。確認してもらえますか?」
受付のスタッフはシステムを確認し、顔を上げた。
「申し訳ございません。高峰様のご予約は昨夜九時半にキャンセルされております。お部屋も、すでに別のお客様にご案内済みです」
「キャンセル? そんなはずないだろ!」
「システム上、確かにキャンセル済みとなっております」
佳代は慌てて席を増やせないかと頼み込み、追加料金を払ってもいいとまで言った。しかし、スタッフは困ったように首を振った。
「申し訳ございません。本日は個室も一般のお席も、すべて満席となっております」
紗良の顔から血の気が引いた。
「圭介、だったら上のスイートルームで食事をしたらどう? 私が予約してあるし、月も見られるよ」
ところが、スイートルームは宿泊用で、十五人が食事できるテーブルはないという。
親戚たちは圭介に視線を向け、ひそひそと話し始めた。
圭介は慌てて私に電話をかけた。
一度目。二度目。三度目。
返ってくるのは、同じ案内音声だけだった。
「おかけになった電話は、電源が入っていないため……」
秋風が旅館の入り口から吹き込んだ。
圭介の手には、自分で作った席次表が握られていた。十五人分の名前は、一つも欠けていない。
それなのに彼は、家族を座らせる場所さえ見つけられなかった。
6
その夜、圭介は深夜のタクシーでマンションへ戻った。親戚たちの不満と母親の小言を浴びながら、道中、何度も私に電話をかけたが、返事はなかった。
私が出ていったのは、自分を譲歩させるためだと思っていた。少し頭を下げて機嫌を取れば、以前のように帰ってくる。そう考えていたのだ。
マンションに着くと、圭介は指紋認証でドアを開けた。
「千紘!」
返事はなかった。
リビングはがらんとしていた。寝室のクローゼットを開けると、私が使っていた側は空になっている。隅に掛けてあったマフラーも、洗面台の歯ブラシも、タオルも、スキンケア用品もなくなっていた。
圭介は書斎へ走り、机の一番下の引き出しを開けた。
茶封筒が消えていた。
中には、彼が起業したばかりの頃に借りたお金の記録と、手書きの約束が入っていた。
――絶対に裏切らない。
翌朝、圭介は私が以前所属していた部署のある本社へ駆け込んだ。
「高峰千紘はどこですか? 長期休暇でも取ったんですか?」
「異動しましたよ」
「そんなはずない! 三年間このプロジェクトチームにいたんだ。もうすぐ昇進するところだったのに、急に辞めるわけがないだろ!」
マネージャーは顔を上げた。
「退職ではありません。本人が希望して、水杜市支社へ異動しました」
圭介は詳しい行き先を尋ねたが、社内の人事情報を外部の人間に教えることはできないと断られた。
しばらくして、マネージャーは何かを思い出したように言った。
「そういえば、彼女が異動する前に伝言を預かっています。岩瀬という方が訪ねてきたら、一言だけ伝えてほしいと」
圭介は顔を上げた。
「彼女は、騒いでいたわけじゃないそうです」
その頃、私は水杜市支社の会議室で新しいチームの進捗報告を聞いていた。市場分析を担当する佐藤がデータを映し、明るい声で説明した。
「このペースで進めば、来月には目標市場を獲得できる可能性があります」
私は資料を閉じた。
「引き続き進めてください。最後まで気を抜かないように。では、解散します」
オフィスに戻ると、見覚えのない番号から電話がかかってきた。何度も鳴り続けるので、私は通話ボタンを押した。
「高峰千紘、水杜市にいるのか?」
圭介の声はかすれ、疲れ切っていた。
「何か用?」
「俺と喧嘩するために、仕事まで異動させたのか? 知り合いもいない土地に行って、何がしたいんだ?」
「静かに暮らしたいだけよ」
電話の向こうが一瞬、静かになった。
「もういいだろ。食事会の日は俺が悪かった。帰ってきてくれ。二人でちゃんと話そう」
「岩瀬圭介、私たちはもう別れたの」
「俺は認めてない」
窓の外を流れる川を見ながら、私は答えた。
「今度は、私の席を用意しなくていいから」
そう言って電話を切った。
数秒後、チャットアプリに五万円の送金通知が届いた。
「五万円送ったから、新しいバッグでも買いなよ。これで勘弁してくれ。いつまでも意地を張るな。住所を教えてくれたら迎えに行く」
起業したばかりの圭介が一万円の資金を必要としたとき、私は冷たい風の中で一日中チラシを配り、お金を工面したことがある。
あの頃、彼を支えるために費やした年月を、今の彼は五万円で買い戻せると思っている。
私は彼をブロックした。
7
翌日の昼、圭介は水杜市まで追いかけてきた。
支社ビルの外で資材を確認していた私は、階段の下に立つ彼を見つけた。手には保温容器を持っている。何日も眠っていないのか、顎には無精ひげが伸び、スーツもくたびれていた。
私が出てくると、圭介は保温容器を差し出した。
「胃が弱いんだから、外食ばかりするなよ。城東の料理屋で買ってきたんだ。まだ温かいから」
私は受け取らなかった。
圭介は容器を石段に置いた。
「来週、椿森市に戻って食事会をやり直そう。今度こそ席も組み直す。君を主賓席の真ん中に座らせる。両家の年長者にも話を通してあるから、誰も文句は言わないよ」
「私は戻らない」
「結婚式のことだって、食事をしながらゆっくり相談できるだろ」
「相談することは何もないわ」
圭介は焦った様子で尋ねた。
「じゃあ、俺にどうしろっていうんだ? 紗良にも話したよ。あいつも自分が悪かったってわかってる。これからは絶対に一線を越えないって。お互いに少しずつ譲ればいいだろ?」
私は彼を見つめた。
「もし、私が出ていかなかったら?」
「何の話だ?」
「食事会の個室をキャンセルして、それでもマンションに残って、あなたの帰りを待っていたとする。その場合、あなたは自分が間違っていたと思った?」
圭介は口を開いたが、答えられなかった。
そこへ同僚の藤堂悠真がやってきた。彼は私に急ぎの契約書を差し出した。
「高峰さん、追加契約書の法務チェックが終わりました。問題ありません。昼休みに一緒に確認しますか?」
「ええ、お願い」
私はファイルを受け取った。
圭介の視線が悠真の社員証に落ち、眉間にしわが寄った。
「あなたが水杜市で彼女を指導している方ですか? いつも婚約者がお世話になっています。ここから先は私が対応しますので、もうお気遣いなく」
悠真は言い返さず、私に尋ねた。
「高峰さん、警備員を呼びましょうか?」
「大丈夫です。行きましょう」
その一言で、圭介の顔色が変わった。
「高峰千紘、わざと姿を消して、仕事まで異動させたのは、男を見つけて俺を嫉妬させるためだったのか?」
「手を離して」
私の手首をつかもうとした圭介を、私は冷たく見返した。
「私があなたを必要としていたとき、あなたは何をしていたの? 紗良と深夜上映の映画を見に行っていたでしょう。あなたたちは、いつも私に分別を持て、細かいことを気にするなと言ってきた。今は、ようやくそのとおりにできるようになったの。もう尋ねない。もう待たない。二度と振り返らない」
私はビルの中へ向かった。
圭介はその場に立ち尽くしたあと、黒と金の会員カードを取り出し、保温容器の下に置いた。
「花乃井の最上級会員カードだ。君の名前で、いちばん大きな個室を取り直した」
私の背中に向かって、彼は言った。
「どれだけ時間がかかっても、君が機嫌を直すまで待つから」
私はカードを取り上げたが、保温容器は残した。
オフィスに戻ると、会員カードをシュレッダーに差し込んだ。スイッチを押し、カードが細かな破片になるまで見届けた。
午後、清掃スタッフが詰まったシュレッダーを開け、黒と金の破片を拾い上げた。
「高峰さん、これ、私物でしょうか? お名前らしきものが印刷されていますけど」
「もう必要ないものです」
シュレッダーが再び動き出した。
その後、圭介がビルの外で待っていたことは、警備員から聞いた。ごみ箱に捨てられた黒と金の破片を見つけ、しばらくその場を動かなかったという。
8
二人で管理していた結婚費用の口座を精算し、婚約に伴って受け取ったお金の返還手続きに必要な書類を圭介のメールアドレスに送った。
すると、彼は別の番号から電話をかけてきた。
「結納金まで返すのか? 五年間の付き合いを、全部数字に換算しなきゃ気が済まないのかよ」
「共同口座のお金は、それぞれの出資額に応じて精算するわ。婚約に伴って受け取ったお金も、約束どおり返す。ほかの費用も、一件ずつ確認するつもりよ」
「あれは結婚のためのお金だぞ!」
「結婚しないことになったから」
私は電話を切った。
五分後、銀行口座に三十万円が振り込まれた。圭介が起業したばかりの頃、私が少しずつ貸したお金だった。
すぐにメッセージが届いた。
「三十万円、利息もつけて返した。当時は君に迷惑をかけた。これで、もうお互いに貸し借りなしってことにできないか?」
私は返金手続きをし、備考欄に一文だけ書いた。
「当時は自分の意思で助けたので、補償は必要ありません」
過去に費やしたものを数え続けることさえ、もう疲れていた。
半月後、水杜市支社のプロジェクトが大きく前進し、私は正式に支社長に任命された。
祝賀会で、悠真がグラスを掲げた。
「高峰支社長、あのとき来てくれなかったら、このプロジェクトを任せられる人はいなかったと思います」
「ありがとう」
「過去に乾杯。そして、これからに乾杯」
一方、椿森市では、圭介が一人でマンションに座っていたらしい。
私が荷物を取りに戻ったとき、部屋にはプリンターから出した進行表が散らばっていた。床に落ちた紙を拾うと、見覚えのある細かな注意書きが並んでいた。
「圭介はネギが苦手。厨房にもう一度確認すること」
「佳代さんは腰が悪いので、座り心地のいい椅子を用意すること」
「美紀はパクチーが嫌い。前菜を変更」
紗良についても、注意書きがあった。
「失恋したばかりなので、年長者からお酒を勧められないように配慮すること」
私は一人ひとりの好みを覚え、全員が快適に過ごせるよう準備していた。
最後の項目まで来て、私は手を止めた。
新婦の名前の横には、たった一行しかなかった。
「新婦:全体の進行管理」
食べ物の好みも、座席の希望も、誰かに気を配ってほしいという言葉もなかった。
私は自分自身に対して、何一つ特別な配慮を求めていなかった。
圭介は進行表を握りしめたまま、長いこと立ち尽くしていたという。
その日、佳代と美紀がマンションを訪ねた。
「もう半月も経つのに、千紘はまだ意地を張ってるの?」
「明日も家族で集まるのよ。あの子がいなかったら、誰が献立を決めて、誰が客の相手をするの? 早く連れ戻しなさいよ!」
その言葉を聞いた圭介は、テーブルのガラスのコップを床に叩きつけたという。
「誰が千紘は生まれつき人の世話をするのが好きだなんて言ったんだ? 誰が、あいつには無料で家政婦をやらせておけばいいと思っていた?」
美紀が言い訳を始めた。
「お兄ちゃん、全部私たちのせいってわけじゃ……」
「じゃあ、誰のせいだ?」
美紀はついに声を荒らげた。
「お兄ちゃん自身でしょう! 家の面倒なことを全部千紘に押しつけてきたのはお兄ちゃんじゃない! 千紘の気持ちなんて考えなくていい、どうせ怒っても最後には自分で機嫌を直すって言っていたのも、お兄ちゃんでしょう!」
美紀は目を赤くしながら続けた。
「私たちはみんな、お兄ちゃんの態度を見ていたの。お兄ちゃん自身が千紘を家の女主人として扱わないのに、どうして私たちにだけ尊重しろって言えるの?」
圭介はソファに腰を落とした。
家族が千紘を軽んじるようになったのは、何の理由もなく始まったことではなかった。誰かが面倒なことを引き受けなければならないとき、いつも自分が千紘を前に押し出してきた。その積み重ねが、彼女の献身を当たり前だと思わせてしまったのだ。
圭介は家族のグループチャットを開き、メッセージを送った。
「今までのことは俺が間違っていた。今日から、千紘を陰で悪く言う人間は、俺を大切にしていないのと同じだと思ってくれ」
続けて、紗良に個別メッセージを送った。
「これから岩瀬家の食事会には、もう来なくていい。君の失恋のつらさを、俺の婚約者に我慢させることで埋め合わせるべきじゃなかった」
グループチャットは静まり返った。紗良も一言も返してこなかった。
9
水杜市まで最初に私を訪ねてきたのは、美紀だった。
彼女は支社の下にあるカフェで私を待っていた。手には椿森市の老舗で買った菓子の紙袋を持っている。
「千紘、ごめんなさい。食事会の日、あなたを傷つけるつもりはなかったの」
私は黙ってコーヒーをかき混ぜた。
「兄はいつも、千紘は心が広いから、少しくらい我慢しても大丈夫だって言っていたの。あとでプレゼントでも買って機嫌を取れば、すぐに仲直りできるって。私も、二人はどうせ元に戻るんだと思ってた」
「あなたも、そう思っていたの?」
美紀はうつむき、涙をこぼした。
「私が悪かった。千紘、兄は最近、本当にひどい状態なの。だから、お願い……」
私は菓子の紙袋を彼女の前に押し戻した。
「あなたたちは、私が絶対に離れていかないと、ずっと思い込んでいたのよ」
美紀は顔を覆い、泣きながらカフェを飛び出していった。
二人目に連絡してきたのは、姉の奈緒だった。
「千紘、圭介は自分が悪かったってわかってるんだから、もう意地を張るのはやめなさい。家族なんだから、どうしてそこまで関係をこじらせる必要があるの?」
私は返信した。
「お姉ちゃん、食事会の席次表、グループチャットで見ていたでしょう?」
「たかが席一つでしょう? いつまで根に持っているの?」
私は画面を見つめ、ゆっくりと文字を打った。
「小さい頃から、私が味方になってほしいと思ったとき、お姉ちゃんはいつも何も言わずにいた。そのあとで、私のためを思ってやったことだと言ってきたよね」
そのあとにも音声メッセージが届いたが、私は再生せず、姉をブロックした。
三人目は佳代だった。
「圭介は最近、食事も喉を通らず、眠ることもできないの。紗良にも厳しく言い聞かせたから、五年間の付き合いに免じて、もう一度だけ機会を与えてやってくれないかしら」
私は最後まで聞いてから答えた。
「佳代さん、食事会の席次表は、あなたも見ていましたよね」
「あのときは、私も少し考えが足りなかったのよ。あなたは心が広いから、気にしないと思って……」
「圭介が起業したばかりで、会社が潰れそうになったときのことを覚えていますか? 私は仕事を二つ掛け持ちして、結婚前から貯めていたお金まで出して、圭介を助けました」
私は声を荒らげなかった。
「あなたたちは、いつも私を選ばなかった。私が本当に離れていくと、今度はわざとじゃなかったと言うんですね」
電話を切り、佳代もブロックした。
その後、圭介は結婚後の新居にするつもりだったマンションを売却したと聞いた。早く売るために、価格を二十万円も下げたらしい。さらに、自分が保有していた会社の株式の二十パーセントを私に譲ろうとした。
私は弁護士に相談し、譲渡を受けないための手続きを進めた。
その夜、圭介は水杜市までやってきた。
初冬の風が吹きつける中、彼はマンションの下に立っていた。私が見慣れた茶封筒を持って降りると、彼の目に光が戻った。
「千紘、まだ帳簿を持っていてくれたんだな」
「捨てようと思っていたけれど、最後くらい、あなたの目の前で終わらせたほうがいいと思ったの」
圭介は封筒からのぞく古い帳簿を見つめ、声を震わせた。
「あれは、若かった俺が何もわかっていなかった証拠だ……。最後の四文字だって、ずっと覚えてる。絶対に裏切らないって」
私は帳簿を開き、最後のページから一枚ずつ破っていった。
借金の記録も、彼が自分の手で書いた「絶対に裏切らない」という言葉も、すべて細かく破り、マンションのそばにある古紙回収ボックスへ入れた。
圭介は、その様子を目の前で見ていた。
「こうしたほうが、すっきりするわ」
彼は慌てて言葉を重ねた。
「千紘、自分がどれだけ間違っていたか、ようやくわかったんだ。俺は変わる。会社もお金も、これからのことも、全部君に決めてもらっていい。何でも君の言うとおりにするから」
「岩瀬圭介、あなたがこれからどう変わるかなんて、もうどうでもいいの」
彼は私を引き止めようと手を伸ばしたが、途中で力なく下ろした。
「じゃあ、今の君は何を大切にしてるんだ?」
「明日の国際ビデオ会議」
「仕事以外では?」
「家に帰って、ゆっくりお風呂に入ること」
「ほかには?」
私は少し考えた。
「もうないわ」
圭介は何も言えなくなった。
彼は両膝から崩れ落ち、冷たいアスファルトに膝をついた。顔を覆い、息ができなくなるほど泣いていた。
私は立ち止まらず、マンションの入り口へ向かった。
最後のページを破ったとき、彼が自分の手で書いた「絶対に裏切らない」という言葉も、二度と元には戻せない紙片になった。
10
半年後、水杜市支社が担当したプロジェクトは、年間の業界賞を受賞した。
祝賀会の翌日、本社から正式な辞令が届いた。私はエリア統括責任者に昇進し、給与も大幅に上がった。
会場を出るとき、悠真が翌月のスケジュール表を渡してくれた。
「来月、椿森市で業界サミットがあります。三日間の予定です。高峰さんと同じ便を予約しておきました」
彼は少し間を置いて付け加えた。
「変な意味じゃないですよ。仕事の都合です」
私は笑った。
「変な意味だなんて思っていないわ」
私たちの関係は、同僚であり友人というところにとどまっていた。誰かに新しい恋愛を急かされることもなければ、圭介のもとへ戻るよう勧められることもない。自分のペースで生活を進められるようになった。
その後も、椿森市の話はときどき耳に入ってきた。
姉の奈緒は、夫が密かに財産を移していたことが発覚し、その後、離婚を切り出されたらしい。彼女は泣きながら何十回も電話をかけ、お金を貸してほしいと頼んだ。
私は一度も電話に出なかった。
岩瀬家の状況も悪くなっていった。
圭介の会社が資金難に陥る前から、紗良は以前の暮らしを維持しようと、クレジットカードで高級品を買い続けていた。会社の経営が傾くと、佳代は紗良に不満をぶつけ、二人は決裂した。最後には、佳代が紗良を家から追い出したという。
紗良は多額の借金を抱え、督促の電話から逃げ回るようになった。
圭介の会社も、私が長年つないできた取引先や、立て替えてきた資金、仕事上の支援を失ったことで、わずか三か月のうちに資金繰りが行き詰まった。最終的には破産手続きに入り、会社名義の車両や残された資産も処分された。
圭介が何度か水杜市まで来ていたという話も聞いた。支社の向かいに立っていたこともあれば、買ってきた朝食をマンションの管理人に預けていたこともあった。
私は管理人に、すべて返してもらうよう頼んだ。何度か繰り返すうちに、圭介も食べ物を届けるのをやめた。
春になり、本社が椿森市で業界サミットを開催した。
私は招待された幹部として、チームを率いて本社へ戻った。会議が終わると、悠真と一緒にビルを下り、夜の懇親会へ向かおうとした。
回転ドアを抜けると、外は風が強かった。
道路の向こうの交差点で、安っぽいベストを着た男が、通行人にチラシを配っていた。男はうつむき、風に髪を乱され、背中を丸めていた。
圭介だった。
半年という時間で、彼はずいぶん老けて見えた。髪には白いものが混じり、私が贈った腕時計も、もう身につけていなかった。
私がビルから出てくるのを見た瞬間、彼の身体が固まった。手に持っていたチラシの束が地面に落ちた。
圭介は二歩、こちらへ近づいた。
「千紘……」
彼は私を見つめ、何か言おうとしていた。けれど、言葉が続かないまま、差し出しかけた手を下ろした。
私は一度だけ彼を見た。
そのまま歩き続けた。
すれ違う瞬間、圭介が小さく「ごめん」とつぶやいた。けれど、その声は車の走行音にかき消された。
送迎用の車は静かに路肩を離れた。
バックミラー越しに見ると、圭介は二歩ほど追いかけてきたが、やがて足を止めた。そして、しゃがみ込み、通行人に踏まれたチラシを一枚ずつ拾い集め始めた。
車がホテルの前を通りかかったとき、入り口に結婚披露宴の案内板が立っているのが見えた。
私は少しだけ目を向け、それから視線を戻した。
十分後、車は椿森市で最も有名な老舗旅館、花乃井の前に停まった。
去年の秋、私が個室の予約をキャンセルした、あの旅館だった。
玄関では支配人が自ら出迎えてくれた。
「高峰統括、本日はようこそお越しくださいました。最上階の景観個室をご用意しております」
私は軽く会釈し、支配人の案内で個室へ向かった。
大きな窓の向こうには、椿森市の夜景が広がっていた。丸テーブルのそばでは、水杜市支社と本社の幹部たちが、私を迎えるために立ち上がった。
悠真が椅子を引いてくれた。
「高峰統括、どうぞお掛けください」
そこは、個室の中で最も景色がよく、テーブルの真ん中に位置する席だった。
私はコートを脱ぎ、落ち着いて腰を下ろした。目の前の温かいお茶を手に取ると、窓の外の灯りが湯呑みの底に映っていた。
茶の香りが、ゆっくりと立ち上る。
今度は、席次表なんてなかった。
そして、もう誰にも、私を食卓から締め出すことはできなかった。




