番外編 その後
あれから俺とセイヤは、曖昧な距離で日々を過ごしていた。
正式に、同棲をしているようなわけではない。
だがセイヤの家に泊まる日も、俺の家で朝を迎える日も、いつの間にか当たり前になっていた。
朝、目を覚ますと、隣でセイヤが眠っている。
寝癖のついた黒髪と、少しだけ開いた口。
それを見ていると、胸の奥がわずかに温かくなる。
「……おはよう」
声をかければ、セイヤはゆっくりと目を開けた。
「おはようございます」
その言い方がいつまでたっても他人行儀で、でもどこか嬉しく思う。
若い恋人というより、まるで年下の相棒であるかのような、不思議な関係でもあったんだ。
キッチンに立つのは、だいたい俺のほうだった。
卵を焼いて、トーストを温めて、インスタントのコーンスープに湯を注ぐ。
セイヤはその間、コーヒーを淹れてくれている。
「はい」
カップを差し出すその仕草がやけに丁寧で、思わず胸がくすぐったくなる。
それは、昔、まだ妻や娘がいた頃の朝とはまるで違う空気だった。
交わす言葉は少なく、音楽もつけずに、ただ同じ時間を共有している。
テレビをつければ、若いタレントやアイドルが映っていた。
サヨリちゃんの名曲を歌ったり、曲名がクイズになっていたり。
時にはサヨリちゃんの名前すら知らない若者を目にしては、セイヤと一緒に文句を言った。
「今の、若葉の頃ですよね?」
今、セイヤはイントロクイズに答えていた。
「そうか?夏の曲っぽい気はするけど……。哀しい砂浜じゃなかったか?」
「あ、本当でした!さすがですね……」
「若葉の頃もいい曲だけどな」
画面の向こうで、不正解になったタレントが笑っていた。
『だって、サヨリちゃんなんて親世代なんだもん!』
『おじさんくらいしか、知らないでしょー?』
そのような言葉が飛び交うたびに、俺は少しだけ視線を逸らしてしまう。
「……そうだよな」
そう呟けば、セイヤはちらりと俺を見た。
「ここにも、好きな男がいるんですけどね」
「おじさんだとよ」
「そんなこと、ないですよ」
背後から静かに、体重がかかる。
同じボディソープを使っているはずなのに、セイヤからはいつも爽やかな香りがした。
すんと頭頂部の匂いを嗅いでは、笑みを浮かべる。
「おい、嗅ぐな」
「ぜんぜん、おじさんじゃないですって」
その無邪気な笑みに、年の差をしみじみと感じた。
「お前なあ……」
「あ、もう時間ですよ!準備しないと」
そうセイヤは、手早く皿を洗っていく。
俺はもう、あんな笑い方はできない。
せいぜい、くたびれたようなため息をつくだけだ。
「お仕事、頑張ってくださいね」
「ああ、そっちもな」
駅の改札を抜けて、それぞれの路線で別れる。
セイヤはいつも、手を振ってくれていた。
それに応えるように手を挙げて、電車に揺られる。
不思議と、前より満員電車が苦ではなくなっていた。
***
休日は、二人で買い物に行くようなこともあった。
その日はスーパーの惣菜コーナーで、セイヤはやけに悩んでいた。
「どれにします?」
「なんだ、唐揚げでいいんじゃないのか?」
「また、唐揚げですか」
「好きだろう?お前も」
「好きですけど……。たまには、魚も食べた方がいいですよ?」
そう言って、サバの味噌煮をカゴに入れた。
「最近、お腹出てきてませんか?」
「なんだよ、急に」
「長生きしてもらわないと、俺が困ります」
そんなことを真顔で言うものだから、思わず返す言葉に困ってしまう。
それでもセイヤの目は、真剣だった。
家に帰ると、セイヤは珍しく俺のエプロンをつけて台所に立っていた。
「今日は、俺が作ります!」
「珍しいな」
「ネットで調べたんです、健康レシピ」
意気揚々と作り始めたものの、出来上がったのは少し焦げた野菜炒め。
隣に味噌煮を置いて、セイヤは笑った。
「さ、食べてください!」
「ありがとう。いただきます……」
正直言って、味は微妙だった。
「……どうですか?」
しかしセイヤが不安そうに聞くものだから、思わず俺は頷いた。
「ああ、うまいよ」
「よかった……!」
それは、大きな嘘だった。
それでもセイヤは、嬉しそうに微笑んでいた。
しかし一口食べて顔をしかめる。
「げっ……」
「すぐに味噌煮を食べると、深みが増すぞ」
「……すみません、もっと頑張ります」
「いや、うまいよ。作ってくれてありがとう」
食後は、二人でソファに座って、サヨリちゃんの曲を流す。
変わらない声に、変わらない歌詞。
心を落ち着かせて聴き入っていると、セイヤがふと、俺の肩にもたれてくる。
ぽんと頭に手を置けば、猫のように擦り寄った。
――こんな時間が、ずっと続けばいい。
そう思う一方で、この時間がいつか終わるのではないかという不安も、同時に浮かぶ。
セイヤは恐らく、そのようなことは考えもしないだろう。
今も呑気に、欠伸をこぼしているのだから。
「寝るか?」
「いえ、もう少し……ここに……」
「風邪ひくぞ?」
「大丈夫ですよ」
俺に抱き着いて、離れようともしない。
ため息を一つついて、額にそっと口づける。
せめて捨てられないようにと願いながら、俺も静かに目を閉じた。
朝になり、鏡の前で髭を剃る。
また、白髪が増えていた。
大きなため息をついていると、背後からセイヤが覗き込む。
「……また、増えたんですか?」
「そうだな」
「染めます?」
「ああ。今晩、頼むよ」
「はい」
窓の外では、あたたかな風が吹いていた。
季節は、少しずつ変わっていく。
それでもサヨリちゃんは、今日も変わらず歌っていた。
俺たちのことを、見守るかのように。
完




