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和彦とフォウは、午後にジープで町へ出た。
氷浦教授にはなんだかんだと言い訳はしたが、今日の遠出は完全に、珊瑚の依頼によるものだった。
しかも彼女の養父である診療所の九条先生を通さず、直接に頼まれたのだからその秘匿度は強い。
「氷浦教授が九条先生に告げ口なんかしねえと思うけどな」
「いや、なんといっても親友同士だからね。あれこれ雑談しているうちにポロッと言っちゃうということはあるだろう」
九条先生と氷浦教授は毎日必ず一度、アマチュア無線を使って連絡を取り合っている。
雪深い頃は、山奥の一軒家である研究所の安否を確かめるためという建前が機能していたわけだが、春の雪解けを迎えた今となっては、ただのオッサンたちのおしゃべりタイムと化している。
「九条先生はともかく、あれが氷浦教授の唯一の息抜きだもんな。確かに、親友の間に秘密ができちまったら、せっかくの息抜きにケチがついちまう」
「フォウくんとしても、あのおしゃべりタイムが長ければ長いほど、自分の休憩時間も増えるわけだし」
「あっ、ひでえなあ和彦さん。それじゃ俺が、サボりの常習犯みたいに聞こえるじゃねえか」
そう言いながらも、ハンドルを握るフォウの顔は笑っている。
和彦もまた、声を揃えておおいに笑った。
日はすでに西の空にあるが、過行く景色はまさに春らんまん。道の脇に残った吹き溜まりの中からも、元気に春の草花が顔をのぞかせている。
和彦は、軽快に走るジープに乱された長めの前髪をかきあげながら、フォウの横顔をそっと盗み見た。
フォウもまた、春の訪れに気持ちが高揚しているのだろう。運転の合間に周囲の景色へ目をやって、あれやこれやと発見してはにぎやかに指さして和彦へ報告してくる。
春。
極寒のリューンにも春はあった。和彦も、年の数だけ春を迎えていたはずだ。
しかしいくら思い出そうとしてみても、その記憶は、目の前の鮮やかな風景に呑みこまれてしまう。
否、氷浦教授によってこの寒村に連れてこられてからも、何度かこの地の春を体験した。だが、これほどに春を美しいと感じたことはなかったように思う。
それもこれも。
再び、和彦はフォウへ目をやる。
「ん、なんだい和彦さん」
きょとんとした顔で問われ、どぎまぎした。
「いや、その」
何と言おうかと言葉を探しあぐね。
「この世界の春は、とても綺麗だね」
結局は平凡な答えを返してしまった。
しかし、その答えにフォウは満足したらしく、うんそうだなと力強くうなずいてくれた。
「香港にも春っぽい春はないからなあ」
「え、そうなのかい?」
「ほぼ常夏の国だもん」
そう言ってフォウは肩をすくめた。。
「冬は一応それっぽい感じで存在してはいるけれど、それでも平均気温は十八度くらいだし。なんとなく気温が上がってきたなと思ったら、あっという間に街じゅう湿気の雲に覆われてさ。天文台はあれのことを霧というけど、俺たちに言わせればただの湿気だから。でもって、隙あらばはびこるカビとかと闘ってるうちに、気がついたらダラダラ汗の流れる熱帯雨林気候の夏がきちまう。
どっちにしろ花も草も一年じゅういろんなのが咲いたり伸びたりしてるんで、このあたりみたいに、大雪、雪解け、そのとたん一面の花畑! ……っていう劇的な変化はないんだ。
いいよな、こういうのって」
その美しさは、同じ心で春を眺める相手がいるからだよ。
そう言いたかったが、どうしても口にすることができなかった。
野暮な言葉がせっかくの貴重な一刻を乱してしまうのが惜しいように感じたからである。
君に会えてよかった。
そう感じる気持ち自体が春に似ている、と和彦は思った。
具合よく、建前の仕事を片づけて学校に寄るとすでに放課後になっていた。
校庭で運動部が大声を張り上げているのも、春ならでは。雪かきも水抜きもせずに、授業が終わるとすぐグラウンドが使用できる状態になっている喜びに、サッカー部も野球部も目を輝かせている。
勝手知ったる校舎に入り込み、物理教室に向かった。
経年劣化という言葉を建物にしたような、ひびだらけの古い校舎である。そこへ無理やり冷暖房のためのパイプが通してあるので、天井は複雑怪奇なダンジョンになっている。
訪れるたびにフォウは、その天井を見上げてはふえーと感心の声を上げる。
自分の人生にはあまり学校というものに縁がなかったので、もっとキラキラした感じの建物をイメージしていたのだと、前に言っていた。
「これじゃあよく俺の仕事場になる山奥の廃墟とかと、あんまり変わりがないもんなあ。それでも学生たちが毎日使ってると、建物に生気が宿るんだよなあ。そこがすごいって思うんだよ、この校舎」
「でも、それは校舎を褒めているんじゃなくて、学生のパワーを褒めてることになるんじゃないか?」
「そうとも言う」
ときおり放課後に物理教室を訪れるとびきりの二枚目のことは、学生たちの間でも知れ渡っているらしい。何人もの女学生が、廊下をさっそうと歩く和彦の姿にハッと足を止め、頬を上気させて見送った。
遠くからこちらを指さして、何やら大騒ぎしている一団もいた。
一方の和彦は慣れているのか鈍いのか、自分に向けられる女性たちの熱い視線にはほとんど関心を持たない。目が合えばわずかに会釈をする程度である。
「ちぇっ」
おかげでいつもほとんど存在を感得されないフォウは、小さく舌打ちをして口を尖らせた。
「和彦さんも、よくも平然としていられるよな」
「え、何が?」
「……なんでもねえよ」
むくれるフォウといぶかる和彦は、ようやく物理教室にたどりついてドアを開けた。
「あ、いらっしゃーい」
ここの女生徒たちは、廊下ですれ違うよりずっと濃厚に和彦と接触しているので、ある程度の免疫がある。
中にはかつての冒険行でフォウに命を救われた者もいるので、下にも置かず二人を丁重に迎え入れた。
「どうぞどうぞ、ここ座って!」
「今すぐお茶入れるわね。フラスコで沸かしたやつだけど」
「このお菓子もどうぞ」
「待って待って」
いきなりのものすごい歓待ぶりに、フォウがあからさまに警戒の色を示した。
「頼むぜ、遠まわしなことはやめてくれよ。何か俺たちに頼みたいことがあるんなら、はっきりくっきり真正面から言ってくれればいいだろ」
「それがねえ」
女生徒たちが顔を見合わせて口ごもった。
全員が反対側に固まって成り行きを見守っていた男子生徒たちへ目をやり、助けを求める。
ちなみにそもそも和彦たちを呼んだ張本人の珊瑚は、そちらのグループに入っている。しかも一同のこの一連の流には批判的に、腕組みをして怖い顔をしていたりする。
「しょうがないわねえ」
しかし結局、珊瑚が出なければ話は進まないわけで。
「実はね、和彦さん」
申し訳なさそうな男たちの中でも、特に申し訳ないと言いたげな顔をして珊瑚が口を開いた。
「何も言わずにこんなところまで呼び出したのは本当に申し訳ないんだけど……和彦さん、小型バスの運転免許を持ってるわよね?」
「ええっ!?」
真っ先に叫んだのはフォウだった。
「そんなの初耳だよ。というか、和彦さんとバスの運転って、牛肉と栗よりも食い合わせが悪そうな話だな」
「なんなのその牛肉と栗って」
「日本人はそんなふうに言わないの? 中国人にとっては基本中の基本で、逆に若い人の中には知らないやつまでいるっていうやつだけど。え、なんで俺が知ってるかって? 俺たち霊幻道士にとって、陰陽五行ってのはご近所さんな考え方だから。つまりは栗も牛も陰の気を持ってるってことで」
「日本だと、ウナギと梅干しとか言うみたいだけど」
「美味そうじゃん」
「それは確かにそう」
フォウと女学生では、話がどんどんあさっての方角に流れていってしまう。
やむなく珊瑚が腕まくりをして、気合を入れて話の中へ割って入った。
「うちのお父さんが免許を取ると言い出したときに、和彦さんも誘われて、町の教習所で免許を取ったのよね?」
「なんでまた九条先生が?」
「村に何か異変があって全員が避難するときに、誰かが大型車を運転できないといけないって、お父さんが急に言い出したからよ。けど自分一人で教習所へ通うのが照れくさいから、和彦さんは無理に付き合わされたわけ」
そう言って珊瑚は肩をすくめた。
「でもって、真面目な和彦さんはさくさく単位を取って路上教習も難なくこなし、免許センターで一発合格。それなのに、言い出しっぺのお父さんは初日から指導教官と大揉めにモメた挙げ句、技能だけは十二分に身に付けたけれど結局は免許を取れずに終わっちゃった、というわけ」
「なーんだあ」
フォウは笑った。
「九条先生らしいっていうか、なんていうか。それじゃあ和彦さんが一方的に被害を受けただけなんだな」
「被害、というか」
和彦も苦笑した。
「僕は大型免許という収穫を得たわけだから、得をしたといえなくもない」
「聖人君子かよ、和彦さんは」
「つまりはそういうわけで、和彦さんはマイクロバスの運転免許を持っているというわけなのよ」
「実際に役に立てたことはないけどね」
なにげなくそう返答してから、和彦は急に目を丸くした。
「もしかして珊瑚ちゃん……」
「そのもしかなの」
珊瑚が急にがばっと和彦にひれ伏した。
続いて他の男女部員たちもその場に平身低頭して、両手を合わせて和彦を拝み始める。
これには和彦のほうが困ってしまって、慌てて床に膝をつき、学生たちと目線を合わせようと試みた。
「要するに君たちは……」
「そうなの! 和彦さんにバスを運転して、私たちを乗せてってもらいたいの!」
「乗せていくって、どこに……」
「それよりも、バスはどこからどう調達すればいいんだよ? さすがの氷浦研究所でも、バスなんかは常備してないぜ? それとも村のどこかに避難用のバスが隠してあるとか?」
「山にも谷にも不自由しない村だから隠し場所には不便しないだろうけれど、バスは内燃機関の乗り物だからねえ。乗り物には定期的なメンテナンスが必要だから、ずっと隠したままでいると、いざというときに動かないだろうなあ」
「呑気なこといってんなよ和彦さん。自分が運転手として徴用されようとしてんだぜ」
「別にそれはかまわないよ。もっとも、運転したのは免許を取ったときが最後のペーパードライバーだけど、それでいいのなら」
「もちろん、いいに決まってるわ!」
とたんに珊瑚が両手をねじりあわせ、目をキラキラ輝かせて跳びあがらんばかりの勢いで叫んだ。
「バスはあるの。運転手がいないのよ」
「あるって、どこに?」
フォウの問いに、学生たちの一人が元気に手を挙げた。顔をにきびに占領されかかっている、やや大柄の呑気そうな男子生徒である。
「うちの親戚がバス会社をやっていて、稼働してないマイクロバスを使っていいとも言われてるんです。けれどその会社でも昨今は運転手不足なんで、そっちは自分たちで探すようにと言われて困ってたとこだったんですよ」
「そしたら珊瑚ちゃんが、和彦さんのことを思い出して」
学生たちがわらわらと捕捉を入れる。
「どうしようもなかったら鉄道と路線バスを乗り継いで行くしかない、という悲壮な話になっていたんだけど、それだと一泊二日では収まらなくなっちゃうし」
「あ、ちゃんと運転手代は出しますよ! そのための部費は予算に計上してあるんで」
「宿泊費も、もちろん」
「運転しているとき以外は自由に過ごしていただいていいですし。といっても、町自体が過疎化していて、あまり見どころはないらしいんですけど」
「ちょいタンマ! 落ち着け!」
押し寄せる言葉の洪水に面食らう和彦のかわりに、フォウがずいと歩み出て学生たちを遮った。
「俺たちには何がなんだかわかんねえよ。まずはお前らがどこに行くんだって? この町だっていい加減かなりさびれてるし、俺たちの村なんか過疎の最たるものだってのに、別の過疎地に行って何しようってんだ」
「それは、その」
「まず、どこへ行って何するのか説明しろ」
「えーと」
学生たちは互いに顔を合わせた。心なしか全員がなんとなく決まりの悪そうな表情になっている。
無言で発言役を押し付けあった結果、しかたなしに口を開いたのはやはり珊瑚だった。
「部活の春の定例フィールドワークなの。毎年、雪解けが終わっと春になったら、一泊二日で物理学ゆかりの場所を訪れるのが物理部の伝統行事ってことになってるのよ」
「へえ、物理学?」
フォウが首をかしげた。
「物理に関わりのある土地って、なんか難しい条件だな」
「そうでもないのよ、物理学にはいろんなジャンルがあるから。素粒子だって物理学、天文だって物理学」
「こじつけるなあ」
「というわけで今年は天文物理学の聖地、スーパーカミオカンデのある土地を拝みに行こうという話になって」
「すーバーカミオカンデ!」
「フォウくんも知ってる?」
「あったりまえだろ! これでも一応、科学者の助手やってんだぜ。日本人の科学者がそれ使った研究でノーベル賞取ったんだっけ。宇宙からやってくる粒子を捉えるんだよな。まさかそんな最先端の科学施設を学生が見学できるなんて、日本の科学界はフトコロが広いなあ」
「いや、それがね」
珊瑚がもじもじと身をすくめた。
「見学はできないの」
「ええっ!? じゃあ、なんのために行くわけ?」
「えー……先端科学の息吹を感じ取るために、かなあ」
「なんだよそれ」
フォウは呆れた。
和彦もつい笑ってしまった。
要するに、楽しい仲間同士の旅行を部費でまかなうため、物理に関わりのある場所で合宿をするという建前を使うというのが伝統の正体らしい。
そうして今年の学生たちも先輩たちにならって旅行の計画はたてたものの、移動手段ではたと困ったというわけか。
「カミオカンデは、神岡鉱山の跡地に作られているの。この鉱山というのがそもそも、人里離れた山奥にあったのね。一時は鉱夫で周辺に町もできて鉄道なんかも通ったんだけど、廃鉱になってしまったらそれもおしまい。カミオカンデをそこに作ったのも、鉱石を掘った跡が深い洞窟になっているというだけでなく、付近にあまり人が住んでいないから、生活騒音が少ないという理由もあったらしいわ」
「で、なんでそんなとこをわざわざ選んで旅行に行くわけよ?」
「それは……温泉があるから」
「はああ? なんだそれ」
「ニュートリノ温泉っていうの」
「それって、湯の中にニュートリノが入ってるということ?」
傾いたフォウの頭の角度がますます大きくなる。
「でもニュートリノって、たいていの物質を貫通するんじゃなかったっけ。そうやって地球の中を突っ切っていくからこそ、地面の奥深くの静かな場所でなくちゃ検出できないってんで、鉱山の廃坑の中に検出機械を作ったんだろ? ……まあ、だからこそ温泉の中にも入っているといえば入ってるといえはするけど、それで言うならどこのどんな風呂水もニュートリノが通り抜けたことがある、といえなくもないような……」
「フォウくん、フォウくん」
和彦が笑いながら助け船を出した。
「そんなに追い詰めちゃかわいそうだよ。きっと、みんなで頭をひねって考え出した旅行先なんだろうから。物理の片鱗があって、でも温泉もあるリゾート地というだけで十分じゃないか。」
「リゾート地、というか」
申し訳なさそうに一人が補足した。
「かつてはリゾート地だった、という感じみたいではあります。当時はカミオカンデの話題にのっかって町起こししようということで、町営の温泉施設を作ったりキャンプ場を整備したりしたけど、押し寄せる過疎の波には勝てず。今ではけっこうわびさびの世界になってるとか……」
「でもパンフレットを見ると、オートキャンプ場にはけっこうステキな山小屋風ロッジがあるのよ。管理もちゃんとできてるって、ネットにはいい評価が書いてあったし」
「だから逆に、人気のリゾート地よりは、そういったところのほうが穴場に違いない……と、男子たちがいうからさ」
「わかったよ、わかりました」
まだ何か反論したげなフォウの肩を押さえ、和彦が答えた。
「とにかく僕はマイクロバスを運転して、君たちをそのカミオカンデとやらの近くのキャンプ場まで送り迎えすればいいんだね。君たちがバスを調達してくれているのなら、僕はただ運転をすればいいだけだ。お安い御用だよ」
「和彦さんったら、またそんな安請け合いして」
フォウが口を尖らせる。
「それがどこにあるかも知らねえんだろ? コドモをいっぱい乗せて知らないところへバスを運転していくなんて、けっこう危険な仕事なんじゃねえか?」
「あ、全員ちゃんと保険には入りますから」
「それが部費を使った遠征の条件ですし」
「ほとんどの経路は国道をたどっていけばいいので、危険個所も少ないです。和彦さんが引き受けてくれたときのために、ルートナビも作っておきました」
いそいそと学生たちが申し出るのを聞いても、フォウはまだ不機嫌だ。
腕組みをして、怖い顔をして学生たちを睨み渡す。
「厳密にいえば、社員じゃないもんがバスを運転するのだって違法行為だろ? それって白タクと変わらないじゃないか。お前らの旅行のために、和彦さんに法律違反をさせるんだってこと、もっと重く受け止めろよな」
ははーっ、と全員がその場にひれ伏してお言葉をうけたまわった。なんだかんだ言いつつも、フォウの言葉尻にいつもの陽気な響きを感じ取ったからである。
基本的にはフォウも、無茶や無理は三度目のメシより大好きというタイプである。学生たちによる、決められた枠の中での無茶ぶりが気にいらないはずもないのだ。
それでも彼が素直に納得しないのは、その無茶を請け負う当事者が自分でなく和彦だという、その点にある。
さらには、もう一つ。
「ところでさ、珊瑚ちゃんってその温泉旅行に、いかにも自分も行くような感じで話をしてるけど」
「何言ってんのよフォウくん、行くわよ私も」
「えええっ!」
フォウは本気で驚いた。
和彦も驚いた。
「九条先生が許してくれたのか? まさかだろ?」
部活動の仲良し仲間との合宿といっても、半分は男子生徒なのである。しかも見知らぬ土地で一泊し、温泉にまで入るというのだ。
町の学校へやるだけでもヤキモキしている過保護の九条なら、絶対無敵に反対しそうな案件でしかないはずだが。
「それがねえ」
珊瑚が苦笑しつつ、ぺろりと舌を出した。




