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日が沈む街の中、千紗のカフェの前で大地は立ち止まった
今日は制服から私服のワンピース姿の彼女が、窓越しに軽く手を振る。
ほんの少し疲れた表情が、柔らかく微笑む。
「……今日もお疲れさま」
大地の自然と出た言葉に、千紗は小さく「お疲れさまです」と返す。
その声の響きに、意味もなくお互いに胸が熱くなる。
渋谷の街を道玄坂に向けて二人で歩き出す。
肩が触れそうな距離感。
街のざわめきが遠くなるようで、二人だけの時間がゆっくり流れる。
「イタリアンって好きかな?」
大地は少し照れくさそうに声をかけた。
「今日、一応予約しておいたんだけど」
千紗の瞳がぱっと輝き、自然に微笑む。
「はい、大好きです。楽しみです」
その笑顔に、大地はまた胸の奥がじんわり熱くなる。
小さな手の動きや、声のトーン、全てが目に焼き付く。
大地には初めての感覚―ただ好きというだけではない。守りたい、喜ばせたい、特別な時間にしたい。
彼女と過ごす夜、どんな表情を見せるだろう――
「じゃあ、今日は楽しもう」
大地は小さな声で呟く。
千紗が嬉しそうに小さくうなずく。
通り過ぎる人波の中で、二人の距離は微妙に縮まる。
肩や腕がかすかに触れる瞬間に、互いの体温を感じる。
しばらく歩いて大地は友人がレストランの扉を開けると、柔らかな灯りと、ピザを焼く香りが漂う。
温かみのある店内には、木のぬくもりとワインの棚、壁にかけられたイタリアの風景画。
「Ciao!」
50代ほどのTシャツ姿のオーナーのピエトロが、陽気に両手を広げて迎えた。
陽気な声と共に、流れるようなイタリア語での歓迎。
「Da grande, Daita… è la prima volta che porti qui una ragazza!」
(大地、君が彼女を連れてくるのは初めてだな!)
ピエトロはからかうように笑う。
大地は少し照れくさそうにそして真剣な表情で
「Sì… lei è… lapersona più importante per me.」
(あぁ…彼女は…俺の最愛の人になる子だ。)
ピエトロの目が一瞬、驚きと喜びで輝く。
「Ah! Finalmente!」
彼は肩を叩きながら笑い、二人の席まで案内してくれる。
千紗は言葉はわからなかったが楽しそうな二人の仲のいい姿に微笑む。
二人は静かに席に座る。
香りと雰囲気に心が落ち着きつつも、互いの存在が気になって仕方がない。
(緊張する)
千紗の手をそっと握りたくなる衝動を抑えつつ、メニューを眺めた。
注文してしばらくするとピエトロが手際よく料理とお酒を運んできた。
「これは親友の可愛い大切な人に」
ニコリとウインクし、グラスを置く。
「Rilassati… non è un alcol forte.」
(安心して。強くないお酒だよ)
千紗は驚きと照れが混じった笑顔を浮かべながら、グラスを受け取る。
「ありがとうございます……」
ピエトロの“親友の大切な人”という言葉に、胸がドキドキしてしまう。
大地は少し照れくさそうに千紗を見つめ、優しく微笑む。
「……あっ、改めて昨日はありがとうございました。藤宮さん」
千紗の声は少し緊張気味だが、どこか嬉しそうな響きがあった。
大地は肩の力を抜いて答える。
「いや、ほんとに気にしなくていい。
………えっと、千紗さんって呼んでいいかな」
千紗は小さくうなずく。
その瞬間、大地の胸が軽く高鳴る。
笑顔の裏にある、微かな緊張と期待。
彼女の名前を呼ぶだけで、心が静かに温まる。
ピエトロが料理をテーブルに並べるたび、香ばしい匂いが漂い、二人の視線が自然に交わる。
柔らかな微笑みを浮かべながらお互いに意識する。
他愛のない会話だけで今まで経験したことのない、穏やかで、けれど胸の奥が熱くなる時間。
二人だけの夜が、ゆっくりと、静かに過ぎていった。




