1(大地目線)
朝の渋谷。
いつもと同じように人が溢れ、信号が変わるたびに無数の足音が交差していく。
けれど今日は―――
視線の先に、昨日の彼女がいた。
夜の電車で怯えていたあの顔。
震える肩。
それを見た瞬間、気づけば体が勝手に動いていた。
「何触ろうとしてんだ」
あの言葉は、理性より先に出ていた。
久しぶりに、心の底から怒りを覚えた。
(怖かっただろうな)
知らない誰かに無理やり触れられる恐怖。
それでも、礼儀正しく「ありがとうございます」と言った声。
――忘れられなかった。
だから今、信号の向こうで彼女を見つけたとき、心臓が跳ねた。
昨日よりもずっと穏やかな顔で、髪を後ろでまとめて、通勤途中の人波の中に立っている。
光に包まれていて、まるで別の世界にいるようだった。
(夢みたいだ)
思わず足が動く。
気づけば、青信号になると同時に人波をすり抜けていた。
「……昨日、ありがとうございました。」
彼女が小さな声で言う。
目が合った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「いや、無事帰れた?」
いつもより声が低くなっていた。
彼女を怖がらせないように、できるだけ柔らかく。
けれど視線を外すことはできなかった。
「……私、この先のカフェで働いていて。霜月千沙と言います。」
少し恥ずかしそうにうつむいたその仕草に、昨夜の面影が重なる。
守りたくなる。
「そうか。俺は、そこのビルで働いてる。」
名刺を渡した。
手が触れた瞬間、鼓動がまた跳ね上がる。
(なんだ、この感じ……)
たかが指先の触れ合いなのに、体の奥が熱くなる。
昨日のあの瞬間とは違う。
守らなきゃ、という衝動とは別の、もっと原始的で
――抗えない何か。
「気にしなくていい。たまたま、そこにいただけだ。」
そう言いながら、自分でも嘘だとわかっていた。
偶然なんかじゃない。
――これは必然だ。
風が吹く。
彼女の髪が揺れ、香りがふっと鼻をくすぐる。
コートの白が朝日に透け、彼女の輪郭が柔らかく光る。
また信号が赤から青に変わり、人々が流れ出す。
それでも大地は、すぐに歩き出せなかった。
(また、会えるだろうか)
彼女の笑顔を見たとき、大地は確信した。
――ああ、やっぱり。
この出会いは、偶然なんかじゃない。
胸の奥で、何かが静かに動き出していた。
彼女の過去も何も知らないのに。
たった一晩で、もう、離れられないほどに。




