1(千沙目線)
昨夜の雨が残した水たまりを踏みしめながら、千紗は渋谷にあるカフェへ向かっていた。
眠れなかった。
何度もあの瞬間が蘇ったから――。
山手線の車内。
あの、突然の出来事。
声を上げようとしても、喉が固まって出なかった。
低く、鋭い声。あの人の背中…
その背中だけで、恐怖が遠のいていくのがわかった。
(………もう会えないのかな…)
渋谷スクランブル交差点。
通勤の人波。
ざわめく街の中で――――彼がいた。
千紗は立ち止まる。
息が詰まる。
目が合った瞬間、心臓が跳ねた。
不思議な静けさの中で、互いの存在だけが際立つ。
彼が歩み寄ってくる。
その歩幅はゆっくりで、しかし確実に距離を詰めてくる。
「昨日…ありがとうございました。」
千沙はようやく声を絞り出した。
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「いや、無事帰れた?」
落ち着いた彼の声。
その瞳の奥は優しく守るために向けたまっすぐな光。
「……私、この先のカフェで働いていて。霜月千沙と言います。」
千紗はうつむきながら言った。
視線を合わせるのが恥ずかしくなる。
けれどもう一度会いたいと思っていた。
「そうか。俺は、そこのビルで働いてる。」
大地がポケットから名刺を取り出す。
白地に整った黒い文字。
『Soft Creative Solution 課長 藤宮大地』
名刺を受け取った手が、かすかに触れた。
その瞬間、昨夜の記憶が鮮明に蘇る。
強くて、温かくて、どこか切ない。
「……あの、改めて。ありがとうございました。」
千紗が言うと、大地は少しだけ微笑んだ。
「気にしなくていい。たまたま、そこにいたから。」
たまたま――
けれど、そうじゃない気がした。
信号が赤に変わり、また人々が立ち止まる。
二人の間に、風が通り抜ける。
遠くで誰かが笑う声。
すべてがぼやけて、大地の存在だけが鮮やかだった。




