11
キッチンから小さな音がしていた。
トントン、と包丁のリズム。
かすかな味噌の香り。
まだぼんやりとした意識の中で時計に目をやる。
午前八時を少し回っている。
リビングに出ると、千沙が振り返った。
長い髪を後ろでまとめていて、光の中でその頬が透けるように綺麗だった。
「もう少しでできるので、顔洗ってきてくださいね。」
大地は黙って千沙の背中に腕を回し、そっと抱き寄せた。
驚いたように振り向く彼女の髪に顔を埋めながら、小さく囁く。
「……おはよう、千沙。」
「も、もう……!大地さん……」
照れながら笑う声。
その温もりに包まれて、大地はようやく“帰る場所”を見つけたような気がした。
「今日、千沙のアパートの荷物―必要なものだけ運ぼう。俺も手伝う。残りは業者の手配も解約も全部やっておくから。」
千沙はフライパンを火から外して、少しだけ間を置いて頷いた。
「……ありがとうございます。でも、いいんですか?仕事とか……」
「今日は千沙の為の休みだから君のために使う。」
真っ直ぐに言うと、千沙はふっと笑って視線を伏せた。
「……じゃあ、お願いします。私の荷物も、これからの時間も……大地さんに預けますね。」
その言葉に、大地の胸の奥で何かが静かにほどけた。
夢で見た桜吹雪が、再び心に舞う。
(今度こそ、離さない。)
朝の光が二人の間に差し込み、
その日常のはじまりを、やさしく照らしていた。
午前のうちに大地は契約しているシェアカーを借り千沙のアパートに向かった。荷物をまとめて積み込む。
必要なものだけだから1時間程で片付いた。
買い物をしたいと言う千沙と一緒にスーパーを周り気がつくと昼前になっていた。
近くのカフェで少し早い昼食。柔らかな陽光がテーブルの上のコーヒーを透かして、静かな影を作っていた。
千沙がメニューの隅を指でなぞりながら、ゆっくり話す。
「カフェのお仕事なんですけど週に一度、遅番で出勤が遅い分終わるのが閉店作業や翌日の仕込みで9時過ぎに……」
大地は頷き、彼女の言葉を噛みしめるように息をつく。
(あの夜もそうだったんだな。遅くまで……)
「じゃあその日は夕飯は俺が作るよ」
それは自然に出た言葉だった。お互いに“支える”という感覚。
けど無理をして笑っていた彼女の表情が脳裏に浮かんで、もう同じ思いをさせたくない気持ちもあった。
「でも帰り心配だから、駅まで迎えに行くから。何かあったら連絡するって約束してほしい」
千沙が少し驚いたように嬉しそうに笑う。
大地はその照れたような仕草が可愛くて仕方がない。
「……わかりました。ちゃんと連絡します」
どんな事からも守りたい。ただそれだけ。その為の二人の約束だった。
翌日――オフィスのざわめきの中、大地は自分のデスクに弁当箱を広げた。
開けた瞬間、ふわりと漂う甘い卵焼きの香りと、彩りのきれいな副菜。仕切りごとに丁寧に詰められたハンバーグとミニトマト。
「……すげぇ、手作り?」
「えっ?課長彼女いたの?」
「絶対彼女っすよね、これ!」
近くの部下三人が一斉に覗き込み、ざわめく。
大地は少しだけ苦笑して、箸を動かす。
「うるさい。早く昼休憩行けっ」
その瞬間、後ろから明るい声が響いた。
「おいおい、大地!!ずいぶんいいもん食ってるな?」
振り向けば、高瀬部長。
スーツの上着を軽く脱いで、手には缶コーヒー。
年齢より若く見える34歳。
入社当時からずっと目をかけてくれている、大地にとっては兄貴分のような存在だ。
「もしかして彼女でもできたのか?」
部下たちが「やっぱり!」とニヤつく中、大地は耳の後ろをかきながら、少し視線をそらした。
「……彼女じゃないです。妻になる人です。」
「妻!?」
高瀬はにやりと笑って、大地の肩を軽く叩いた。
「よかったじゃないか。お前ずっと“仕事が恋人です”とか言っていたから心配してたんだ。」
「覚えてるんですか、それ」
「忘れるか。お前が入社三年目で徹夜続きだった頃だぞ。やっと人間らしい顔になったな」
大地は苦笑いして弁当を見る。
その中に詰まっているのは千沙が自分のために詰めてくれた時間の温もり。
それを思い出すと、自然と胸の奥が温かくて……
「……悪くないですよ。人間らしいって」
高瀬は目を細めて、コーヒーを一口飲んだ。
「そうだな。いい顔してるよ、大地。」
昼休みの喧騒の中、窓際の光だけが、静かに彼の横顔を照らしていた。




