エピローグ
運命を、君は信じてる?
それまでの何もかもを変えてしまう一瞬の出会いを。
──夜。
山手線の車両がいつもの円状を走る。
窓の外には、光と影が繰り返す都会の夜景。
ネオンが滲み、ガラスに映る自分の顔がどこか他人のように見えた。
霜月千紗は、コートの下の制服の袖を軽く指でつまんだ。
一日中動き回ったカフェの仕事で、シャツの袖口は少しだけコーヒーの香りが染みついている。
疲れを紛らわせるようにイヤホンを耳に差し込んでも、流れる音楽は心に届かなかった。
「……疲れてるな」
小さく笑って、窓に額を寄せる。
ガタン――ガタン――。
規則的な振動に身を任せていると、まるで世界から切り離されたような気分になった。
乗り換えの駅まで、あと二分。
車内はまばらに人がいて誰もが関わりなどなく自分の時間に沈んでいる。
その時―
視界の端で、中年の男が立ち上がった。
酔っているのか、フラフラと体を揺らしながら千紗の方へ歩み寄る――
(やだ……こっち来ないで)
男の手が無言で伸びる。
逃げようとしても、ドアの端で身動きが取れない。
アルコールの匂いが近づき、心臓が一気に跳ねた。
(……誰か…………)
声にならない願いが喉の奥で震えたその瞬間――
「……何触ろうとしてんだ」
低く鋭い声が、空気を裂いた。
掴まれた手首が引き剥がされ、男はよろめいて離れていく。
その腕を掴んでいたのは、一人の青年だった。
夜の街に溶け込むような黒いコート。
色の濃い肌に、きちんと整えられた無精髭。
光を宿すような黒い瞳が、まっすぐ千紗を見た。
「大丈夫ですか」
声は低く、けれど不思議なほど優しい響きがあった。
千紗はただ頷くことしかできなかった。
その瞬間、胸の奥が熱くなる。
初めて会ったはずなのに――懐かしい。
まるで、ずっと昔にこの人を見ていたような錯覚。
(……知ってる。この人を知ってる)
心の中で呟いた言葉に、理由はなかった。
けれど確信だけがあった。
車両が減速し、停車のアナウンスが響く。
ドアが開き、夜風が流れ込んでくる。
人の波に押され、二人は自然と同じ方向へ押し出された。
駅の照明が眩しく、風が頬を撫でる。
さっきまでの恐怖が嘘のように遠のき、代わりに胸の鼓動だけが速くなる。
「……ありがとうございます」
千紗が頭を下げると、青年はわずかに笑った。
「気をつけて帰るんだよ」
それだけ言って、背を向けた。
歩き去る背中。
けれど―不思議と、遠ざかっていく背を追いかけたくなった。
風が頬を打つ。
街の音も、誰かの話し声も遠くなる。
それなのに耳の奥に、彼の声が残っていた。
どこかで聞いたことがある。
何度も、同じ声を聞いた気がするような…
その名を思い出せそうで、思い出せない。
それは他の誰でもなく、君だった…
百年の時を越えて巡り合う運命の――
千紗と大地の物語。




