第7話 《地獄の扉は、いま開かれた》
ゾフィ・クリスティーネは、ただ黙っていた。
馬車が国境を越え、いくつかの検問所をすり抜け、広大な平野を抜けてアーヴィル連邦の王都トリーアへ至るまで、彼女は一言も口を開かなかった。
無理もなかった。
――連れて行かれるのだ。カール・アッシャースレーベンの手で、この国へ。
それは3年前に「終わったはず」の恋であり、「売られた」とさえ思っていた関係だった。
だが、彼は言ったのだ。
「君を選んだ」と。
「守れなかっただけだ」と。
あのとき、確かに彼は泣いていた。
そして今、ゾフィはアッシャースレーベン家の屋敷の前にいた。
壮麗なバロック様式の大邸宅、その正面扉を開けたとき、彼女はそこで一人の女性と目を合わせた。
フェリシア・アッシャースレーベン。
カールの妹であり、ソール・アルメニエールの正妻。
その顔には、驚くほど何の表情もなかった。
無表情ではない。
表情そのものが「死んでいた」。
全てを耐えて、全てを受け入れ、もはや何も信じないとでも言いたげな虚ろな瞳だった。
「……」
ゾフィは、口を開くことができなかった。
この3年間、自分だけが不幸だったのではない。
自分だけが泣いて、苦しんでいたと思っていた。
そのことを、今ようやく理解し、深く胸の奥に重い石が沈んでいくのを感じた。
不安げにカールを見ると、彼は静かに笑った。
その微笑は、どこまでも冷たく、張り詰めていた。
「だいじょうぶ。今度こそ、エイデンを地獄に落とすよ。――二度と這い上がれないほど深い地獄にね」
その言葉の裏にあるものを、ゾフィはまだ知らなかった。
けれど、カールはすでにすべての駒を動かしはじめていた。
ヴァルク帝国の元皇帝エイデン・ヴァルク――
彼は脱獄を果たし、再び戦火をもたらそうとしていた。
その動きは急で、各国の対応は遅れ、世界は再び混沌へと引きずり込まれようとしていた。
――だが、それこそがカールの望みだった。
彼は、妹フェリシアの夫、ソール・アルメニエールを「連合軍総司令官」に据えるため、裏で奔走していた。
表面上は、連合軍はすでに敗北濃厚と噂されていた。
その噂を流したのもまた、彼自身だった。
セラフィーネ王国の国王オーレルには、国内で騒乱を起こさせ、出陣を妨害させた。
ラウレンツ王国では、主力軍が他戦線へ移動するよう圧力をかけ、有力司令官が出てこられないよう根回しをした。
――すべては、カールの手のひらの上だった。
こうして、表向きには「敗戦濃厚の烏合の衆」しか残っていなかった連合軍。
だが、真の総司令官として選ばれたのは、冷静で大胆な作戦立案能力をもつ男――ソール・アルメニエールだった。
後に、彼はこうつぶやいたという。
「もう、カール義兄上がご自分で指揮をとったほうが、よほど楽に勝てたのでは?」
その戦いの果てに、ヴァルク帝国は滅び――
かつて世界を脅かした皇帝エイデンは、「下剤将軍」の策略により、自らの腹痛で馬車から転げ落ちた末に、捕縛された。
世界は再び、冷たい平穏を取り戻す。
だがその裏で、ある男の復讐劇は、確かに完遂されていたのだった。