第3話「政略の花嫁」
――ベルンシュタイン宮廷、秋の終わり。重い灰色の空の下。
最初に異変を感じたのは、侍女たちの気配だった。
どこか浮つき、しかしその実、口をつぐんでいるような――
そう、まるで“大きな話”を、本人には伝えてはならないと命じられている時の、あの気配。
ゾフィ・クリスティーネ・ベルンシュタインは、ただ静かに書斎で本を読んでいた。
だがその手元に、一通の公文書が届けられたとき、彼女は何かが終わったことを悟った。
『ヴァルツ帝国皇帝エイデン陛下、皇后候補として第5皇女クリスティーネ殿下を望まれる』
――クリスティーネ。
まぎれもなく自分のことだった。
他の誰でもない、“ゾフィ”のこと。
ただちに宰相シュトラウスが応接間に呼ばれ、祝辞とともに決定事項として伝えられた。
婚姻の可否はすでに“交渉済み”――つまり、ゾフィの意思など聞かれることはなかった。
(でも、なぜ私?)
最有力候補は別にいたはずだった。
アーヴィル連邦随一の美女として名高いフェリシア・フォン・アッシャースレーベン。
そしてその兄が――
カール。
カールは、その時期ずっと王宮にいた。
ベルンシュタインとアーヴィルの外交協議のため、滞在していたはずだった。
ゾフィは、“あの日”のことを思い出す。
雨が降りかけていた。
離宮の中庭を抜けた回廊、その端にある石造りの小広間。
扉の隙間から洩れた声。
それは紛れもなく、カール・フォン・アッシャースレーベンの声だった。
「……あの娘なら、政治的価値はある。穏健派に見せかけるには最適だ」
「フェリシアはアーヴィルに残すべきだ。我々の切り札として」
「ゾフィ・クリスティーネを“贈る”ことで、ベルンシュタインの意志を形にできる」
(嘘よ)
ゾフィは、目の前が真っ白になるのを感じながら、扉に背を預けた。
震える指で口元を押さえなければ、何かが漏れてしまいそうだった。
(嘘よ、そんな言い方……そんな冷たい声で……)
でも、その声は確かにカールだった。
彼が彼女に向けるときの声ではなかった。
外交官としての声、国家の人間としての声――そして、ゾフィを“ただの駒”として語る声だった。
夜、ロゼンハイム離宮の自室に戻ったゾフィは、静かに鏡の前に座った。
口紅も落ち、髪も乱れていたが、整えようとは思わなかった。
「私……売られたのね」
鏡の向こうには、皇女ではない、ただの一人の女が座っていた。
心から誰かを信じ、愛してしまった愚かな女が。
そして翌日、正式に発表された。
ヴァルツ帝国との婚姻関係。
新皇后、ゾフィ・クリスティーネ・ベルンシュタインの誕生。
その婚礼の引き出物には、
アーヴィル連邦から“最大の外交成果”としてカールの名が添えられていた。