第1話「黒衣の舞踏会」
――レグニッツ離宮。黄昏の間にて。
音楽が満ちていた。
弦の響きが琥珀色の天井に揺れ、まるで世界のすべてがまだ優雅さを信じているかのように、舞踏会は始まっていた。
だが、その中央を割って現れた一輪の黒――それがゾフィ・クリスティーネ・ベルンシュタインだった。
黒衣である。
しかもただの喪服ではない。ベルンシュタイン伝統の、皇女の葬儀に用いられる深黒のベルベットと漆黒のレース。
彼女はまるで、己の死を告げるためにこの場に現れたかのようだった。
(私はもう、一度死んだ身なのよ)
ゾフィは、誰にも聞こえぬ声で心中にささやいた。
かつて皇后と呼ばれた身が、夫に棄てられ、国を失い、そしてようやく“帰ってきた”。
だがそれは、亡霊としてにすぎない。
部屋の空気が、確かに変わった。
どよめきはなかった。哀れみと好奇心と、微かな怖れが交錯する沈黙の中、誰もが彼女に目を向けていた。
それらの視線は、痛々しかった。
だが、最も痛いのはその中のひとつだった。
ひときわ強く、そして逸らされることのないひとつの視線があった。
彼女はその視線に気づいていた。
会場の西側、絨毯の縁。人垣の合間に立つ男――
カール・フォン・アッシャースレーベン。
久しく忘れた声が、心の奥底で音を立てて蘇る。
優しく、低く、いつも人払いのあとに交わした言葉の調子で。
彼がかつて愛したのが、自分だったと。
そして、自分を“売った”のも――他ならぬ彼だったと。
ゾフィはゆっくりと視線をそらし、誰にも気づかれぬように小さく笑った。
(見てちょうだい、カール。あなたが棄てたものの成れの果てを。
私はこうして――黒衣の亡霊になったわ)
靴音が、床に静かに鳴る。
ゾフィは踊ることはせず、誰にも手を取らせず、ただその姿で舞踏会の空気を切り裂いていた。
彼女の黒衣は、この夜を弔う喪章。
そして同時に、生き残った者たちへの復讐の炎だった。