おはなみ
そろそろ4月も終わろうとしていたが、4月の札幌の風は、まだとても冷たい。そんな冷たい春の風を頬に感じながら、榎本陽一はまだ咲かない桜の並木道を一人で歩いていた。
少し早めの帰宅の時間だった。
空には流れるような白い雲が、青い空に薄くかかっている。
その時、突然彼を呼び止めるように、背後から声がした。
「せんせい」
”せんせい ”と呼ばれたことで大方の人物は想像できた。(大学ではみんな彼を教授と呼んだ)
振り向くと、想像どうりの人物が少し遠慮がちに微笑みを浮かべながらそこに立っている。
吉川翔子だった。
「君か・・・」彼は驚いた振りをしながら足を止めた。
彼女は素早く彼の横に並ぶと、下から彼を見つめあげ、微笑みながら彼に言った。
「今おかえりですか」
彼は何も言わずに再び前を向いて歩き始めた。
彼女は俯きながら路面を見つめ、彼と一緒にまだ咲かない桜の並木道を歩きだした。
すると彼女が言った。
「ありがと、せんせい」
「なにがだ」榎本はその意味は理解していたが、少し面倒くさそうに言い返した.。
「だってせんせいのおかげで卒業できたんだもの」
二人の歩く並木道には、他に人影はなかった。
確かに、彼女は彼の講義に関しては卒業できるような成績ではなかった。しかし他の講義に関しては彼は全く何も知らない。よく卒業できたものだと内心彼は思っていた。
「今はどうしてるんだ?」彼は特別興味はなかったが聞いてみた。
真っ直ぐと前を見ている彼女の耳に大きなピアスが輝いている。
「中村総合記念病院の内科で勤めてるわ」彼女は言った。
「なんだお前、医者にはならないんじゃなかったのか?」榎本は少し驚いた。
「えっ、それじゃホントに先生のお嫁さんにしてくれるの?」彼女は前を向いたまま驚いた振りをして言った。
「なんだそれ」榎本が言うと、
「やっぱり忘れてる」彼女が笑いながら言った。
「それよりせんせい、私の卒業祝いに居酒屋で一杯やりましょ」
榎本は思った。 帰って幸子と顔突き合わせて過ごすよりまあいいかな。
「そうだな、久しぶりに一杯いいかな」彼はあっさりと了解し、幸子に連絡を入れた。
陽もかげってくる、春の夕暮れ時だった。風が一層冷たく感じられた。
「幸子か、今日は仕事でおそくなる。晩御飯は食べていくからいい。スマン」
電話の向こうで幸子は思っていた。何が仕事よ、そう言って、赤い顔して帰ってくるくせに。
「それじゃ、私は着替えてから行くから、バスターミナルの出口で待っていてください。すぐ行くわ」彼女はそう言うと、榎本の横を離れて、地下鉄の駅へかけて行った。
彼は立ったまま、消えていく彼女の後姿を見つめ、
「まあ、いいか」そう呟くと並木の道を歩き、何かを考えながら、地下鉄の駅へ向かった。何を考えていたのかは、彼にしか分からない。
榎本がバスターミナルに着くと、翔子はすでに待っていた。
それは先ほどの翔子とは、明らかに違った。
細い首には、ピアスとおそろいの、金色のネックレスを下げているのが印象的だった。
彼は、そのネックレスをどこかで見たことがあると思った。
もう、陽は完全に暮れていた。
彼女は彼が近ずくと、彼の腕を取り妖し気に微笑んだ。
そして2人は、昔よく行ったなじみの居酒屋へ向かった。
酒を飲み始めた榎本は彼女に向かって言った。
「それにしてもよく卒業できたな。私の講義など、ほとんど出てなかったくせに。他の講義も出てないんじゃないのか?」
「自信があるから、講義も試験も受けなかったのよ。自分でしっかり勉強したのよ」翔子はそう言って、マグロの中落ちを、大きな口を開けて食べた。
「それで、仕事の方はどうなんだ?」
「まだ研修医ですもの、どうもこうもないわ。全然つまらない」
彼女はそう言うと、彼を見つめて狡賢そうな笑みを浮かべた。
「せんせいこそどうなの、奥さんとはうまく行ってるの?」
突然の思ってもいない質問に、彼は答えに窮した。
「なんだ、お前に関係ないだろう」
「せんせいって、何だかんだ言って、奥さんを本当は愛してるのよね?」
彼は頬が赤くなった。
「あの時も、今日だって、きちっと奥さんに連絡入れて」
翔子はマンションに着くと、TVを着け、初任給で買ったばかりの白いルイビトンのバッグを放り投げ、部屋の中は少し寒かったが、コートを脱ぎ捨て、飲みに行った時に着ていった赤のワンピースのままでソファの上に横になった。
少し飲みすぎたかもしれないと思った。
どうせ明日は休みなのだ。
彼女はそのままTVドラマの俳優たちのセリフをバックミュージックに寝り込んだ。
彼女の夢の中に、いつもよく見るTVの物語りが映っていた。
しばらくすると、彼女の携帯がしつこく鳴り出した。
彼女は夢の中で思っていた。「恵に違いない、この時間の携帯はいつも恵だ、無視すれば8回くらいの呼び出し音で切れるはずだ」
しかし、今夜はなかなか鳴り止まなかった。
1回切れても再び鳴り出す。
翔子は夢の中で思っていた。何だろう、何か重要な話なんだろうか。
携帯が3回めに鳴り出したところで彼女の夢が途切れ、眼が覚めた。
翔子が携帯を手に取り、鬱陶しそうに言った。
「何なのよ」
すると恵が言った。
「あなた榎本教授とまだ付き合ってんの」
この一言にさすがに翔子は驚いた。光通信とか言って高速通信が流行っているが、こんなに早くも噂が広がるとは思わなかった。
「誰からそんなこと聞いたのよ」
恵は彼女の大学時代からの友人で、月に1度は会う事があったが、そこまでの自分を出し合うことはなかった。
「見たのよ、あたし見ちゃったのよ。あなた今日、榎本教授と飲んでたでしょう」
そうだった、恵はあの店のお得意様だった。
「あなた、学生の時も教授と何かあったわよね?」恵が問い詰めるように言ったが、彼女はさらりと言った。
「今さら何よ、それは学生時代の話よ、今はもう社会人よ、男と女の付き合いよ、二人で飲みに行ったからって何か問題でもあるの?」
「それでどうだったの?あの後、何かあったの?」恵はたたみかけて来た。
「何もないからここにいるんじゃないの」翔子は少し悔しそうに答えた。何度となくその気にさせようとしたが、今日は反応がなかったのだ。
「あの教授は奥さんがいるのよ」
「だからなによ、教授が奥さんを選ぶか、私を選ぶか、それは教授の自由よ」
翔子は真っ暗な部屋の中でTVのニュースを見つめながら言った。
「まあいいけど、とにかく気をつけなさいよ」
恵はそう言うと電話を切った。
翔子は真っ暗な部屋で携帯を握りしめながら、ニュースを見つめてソファに座っていた。
「ただいま」そう言って榎本が玄関を上がると幸子が出て、カバンを受け取った。
明らかな酒の臭いと、かすかな女ものの香水の臭いを彼女は感じた。それを隠そうともしない事に、彼女は腹が立った。
部屋の中からは焼き魚の臭いがする。
榎本は、幸子が一人で焼き魚を食べている姿を想像していた。
それから1週間は経っていた頃。
彼の研究室に、幸子の父、榎本の義父の名誉教授の姿があった。
やや緊張気味に彼にコーヒーを進めると、名誉教授は軽く手を振り言った。
「いや、すぐ行くよ。忙しんでな」
榎本は「その忙しい名誉教授がわざわざ来たのはよっぽどの事なのか?」と思った。
しかし名誉教授はひとこと言った。
「幸子はどうしとる?」
「あっ、ああ。元気にしてますよ」榎本はやや拍子抜け気味に答えた。
「そうか、それならいいんだが。君も落ち着いた生活をしとるようだし。わしとしても、君らを結婚させたかいがあった」
そう言って、立ち上がった。
榎本には彼のこの言葉が言わんとしている意味が身に染みた。
その日、いつもの休日の朝。8時を過ぎていた。幸子は朝食の準備の最中だった。榎本は、いつも朝食はパンだったので、特に準備には手間取らなかった。パン2枚を焼いて、目玉焼きにサラダとミルク。サラダはレタスにミニトマト3つを添えればOKだった。
しかし、食後に彼はコーヒーを飲むのだが、これが曲者だった。彼はコーヒーにうるさい。インスタントは絶対に飲まない。自分で高価な豆を買って、その場で挽いて貰ってくるのだ。幸子は、その粉をいちいち落さなければならなかった、それも毎日。彼女はそれが嫌だった、そう、彼女は短気なのだ。
彼は、コーヒーを飲みながら、そのコーヒーの豆について、いつも幸子に説明したが、彼女はほとんど聞いていない。
榎本は食堂で、新聞を読んでいたが、同時にTVも付けていた。彼女は不思議だった「新聞を読みながらどうやってTVを見るのだろう」彼女は思っていた。
「おい、幸子、飯はまだか?」
少しすると彼が新聞を読んだまま幸子に言った。
「はい、はい、今できましたから」幸子はそう言うと、食卓のテーブルの上に、パンに2枚と、目玉焼き、ミルクとサラダを並べた。
彼は満足そうにうなずくと、左手に新聞を持ちかえ、焼きたてのパンに右手を伸ばした。
テレビでは札幌の桜満開のニュースが流れていた。
それを見ると幸子が榎本に向かって言った。
「あなた、昨日の夜の約束を覚えています?」
「なんだ?」彼は新聞を読んだまま彼女に言った。
「あなたが言い出したんですよ!」
幸子は榎本を睨みつけながら言った。彼女は時々榎本が、学会だと言って、女子学生と温泉旅行に出かけるのを知っていた。
「昨日はずいぶんと、酔ってらしたようですから」
そう言いながら、幸子は半熟気味の目玉焼きに箸をつけた。
「だから、何だ?」
もう一度、榎本が新聞から顔を上げて少し大きな声で言った。
窓の外は久しぶりの青空だった。
「昨日、言ったでしょう。明日、花見にでも行くかって!あなたが言い出したんですよ!」
「ああ、その事か・・・」榎本は、少しきまり悪そうに言った。
「どうするんです?」幸子は言った。
「なんだ、行きたくないのか?」彼が驚きながら言った。
「行きたいから聞いてるんです」
「だったら行くぞ」榎本は少し、照れくさそうにそう言うと、再び新聞に目を落した。
そんな榎本を見つめながら、幸子は本当は嬉しかったが、嬉しそうにするのが悔しかったので、何も言わずに目玉焼きを食べ始めた。
「おい早くしろ」榎本が言った。
「はい、はい」
彼女はそう言いながら、少し念入りに化粧をしていた。
「何かネックレスがあればいいかもな」
彼女は思いながら、何時もの金色のネックレスをつけ、久々の主人とのデートに少しドキドキしていた。
家を出ると、春の日差しは、久しぶりに眩しいほどだった。
電車に乗っても彼は何故か何も言わなかった、話しかけても「ああ」としか答えずにいた。彼はそんなに無口な男ではなかった「どうしたんだろう?」彼女は思った。
円山公園に着くと、次第に人波が溢れてきた。
「やっぱり休日ね」彼女が言っても、やっぱり「ああ」としか答えなかった。
桜の花は満開だった。春の日差しは柔らかくも美しく、桜の花びらを照らしていた。
「わあ、綺麗。ねえ、ねえ、あなた。写真を撮って」そう言って彼に携帯を渡すと、彼は「ああ」そう言って面倒くさそうに、彼女の写真を撮った。
その時、彼は彼女の首の金色のネックレスを見て、思わず「ああ」と一人で頷いていた。
昼になり、近くの屋台で幸子が弁当を買って来た。
二人で空いていたベンチに座り、弁当を食べ始めると、彼が突然、口を開いた。
「長かったな・・・」広く遠い青空を見上げながら、ポツリと言った。
「ええ、人が大勢で、混んでたものですから」幸子が弁当のコロッケをつまみながら言うと、
「いやそうじゃなくて・・・」彼がやや間の悪そうに、幸子から目をそらせた。
「どうしたんです?」幸子がコロッケを食べながら不思議そうに彼を見つめた。
すると、彼が振り向き、疑う様な眼付きで彼女を見つめながら、
「おまえ、忘れてるのか?」そう言った。
何の事だか分からずに、
「何をですか?」彼女が言った。
「本当に忘れてるのか?」彼が少し寂しそうに言った。
「だから何をよ!」彼女は少し苛々した。
「今日が何の日か、忘れてるのか?」彼の表情が半分泣き崩れそうになっていた。
「えっ。あ、あなた、覚えてたの?」
「あたりまえだ、結婚記念日を忘れるか!」
彼は投げつけるように言うと、彼女から再び目をそらせた。
「だっていつも、何も言わずにいるから・・・」
「10年目の節目だ」そう言って、少し顔を赤らめて、背中に背負ったリュックから、箱を取り出すと、そっと彼女に差し出した。
彼女が、箱を開けてみると、その箱にはパールのネックレスが入っていた。
彼女は本当は、年数まで覚えていなかった。
おわり
*********************************
このような稚拙な小説、最後まで読んでいただき、感謝感激であります。
ありがとうございます。
もしよろしければ、他の小説ものぞいていただければと思います。
吉江 和樹