いつか、きっと、絶対に
本日、マッキンタイア家に婿入りしたトラビスは寝室の扉の前でノックをする拳を作ったまま固まっていた。
さすがに一時間もそのままでいれば家令に声をかけられ、覚悟を決めてドアノブに手をかける。ノックを忘れて。
──元々はマッキンタイア家に婿入りするのは、トラビスの兄のはずだった。
しかし、兄は結婚式の三日前に女と一緒に姿を消した。
兄が残したメモには『勘当してくれて構わない』と記されていたそうだ。
当日でないだけでマシなのだろうか……。
いや、それ以前の問題だ──婚約者以外の女と駆け落ちなんて。
式や披露宴は華やかだっただけに、居た堪れなかった。
急遽変更された花婿に向けられる視線は言わずもがなである。
これから、相当大変だろう──トラビスは軍に入隊するつもりで軍学校に進んでいたから、身に付けていなければならない知識が無い為にゼロからのスタートである。
マッキンタイアと言えば、帝国で一、二を争う商会の親会社だ。
その一人娘、ドロシー・マッキンタイアとの結婚とはつまり、次代マッキンタイアの代表者になるということだ。
部屋に響くドアが閉まる音と、トラビスの溜め息が重なった。
だだっ広い部屋と、普通のキングサイズよりも大きなベッドにトラビスは軽く引いた。
トラビスだって割と裕福な家で育ったが、つい最近卒業した軍学校では寮生活だったのだ。
あの暑苦しく狭い部屋で五年も過ごせば、この贅沢過ぎる部屋に恐縮して当然である。
「も~っ! やっと来たぁ!」
ドロシーが、ベッドの上で雑誌を読むのを止めて勢いよく振り返る。
二つ年上で二十歳になったばかりの、兄の元婚約者であり、トラビスの妻──ドロシーは、濃い化粧を取ると幼い顔付きをしていた。
そして、ベッドの端にトラビスが腰を下ろすと、ドロシーはトラビスの方に這ってやって来る(来るな)。
厚手のガウンを着たドロシーは、メイド泣かせの薄茶色の猫っ毛を横に流し、白いレースのリボンでそれを纏めていた。
「……はあ」
「待ちくたびれちゃったじゃな〜い」
「女がエロ本読んでんじゃねえよ……」
赤ん坊みたいな顔をしている彼女の読んでいる雑誌がいかがわしいことには、ツッコミを入れざるを得ない。
「え~これ、ハウツー本じゃないの?」
「違う! つうか、なんでそんなの読んでんだ!」
「だって私の方が年上だし、リードした方がいいかなって思ったんだもん」
「お前……いや、いい」
トラビスは頭が痛い。
「ね、トラビス、こういうのはどう? こんなのが普通なの?」
ぴっ、と白く細い指が指差した内容にトラビスは低く唸る。
答えられない、いや、答えたくない。
普通ではない──誰だ、ドロシーにこんな偏った内容の雑誌を渡したのは。
というか、今日は別に事を及ばなくていい。そこは二人に任せられている。
当たり前だ、三日前に再会したばかりなのだから。
トラビスだって男だし、ドロシーは幼い顔付きをしているだけで成人女性だ。
しかも式を終えて、二人は正式な夫婦で何をしたって問題ない。
しかし、今のドロシーは抱けない。
今朝から、彼女は変に空元気なのだ。
それに、バカみたいな話し方や、テンションの高い笑い声はドロシーらしくない。
おそらく、兄が逃げたショックか、これからすることに緊張しているかの気持ちを払拭する為の態度なのだろう。
トラビスが軍学校に入ってからは、ドロシーとは二~三年に一度くらいしか顔を合わせる機会がなかったが、幼い時から知っている相手なので変化くらい分かる。
「トラビス、寝ないの?」
どういう意味で言っているのかは分かったので、この問いにも答えられない。
「じゃあ、少し話さない? ここ三日はドタバタしてたし、色々聞きたいこともあるし」
「……話はいいけど、この雑誌は没収だ」
「没収しなくても貸すのに」
「読まねえよ!」
雑誌を取り上げられたドロシーに、やれやれといった風に見られたトラビスは思わず声が大きくなった。
こちとらもっとすっごいのも、エグいのも読んできたのだ──まあ、これは言えなかったが。
「ごめんね、トラビスは軍人になりたかったのに」
グラス半分のワインで、顔が真っ赤になったドロシーは、もう語尾がふにゃふにゃしている。
「なりたかったわけじゃねえし。それにお前のせいじゃなくて、兄貴のせいだ」
「でも、トラビスは入隊が決まってたんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「しかも結構すごい部署だって聞いたよ」
「そんなことねえよ、実力相応の場所だ」
──前者は嘘で、後者は真実だ。
トラビスはドロシーの言う通り『結構すごい部署』に配属が決まっていた。
されど、お家事情の方が優先度が高い。
かつ、トラビスは家を早く出たかっただけで、軍人になりたかった訳ではない。
なんせ軍人なんてものは、訓練は厳しいし、理不尽な縦社会だし、男だらけで暑苦しいし、割と最悪だ。
トラビスは軍人にはなり損ねたが、あの地獄みたいな場所で五年も耐えられたのだから、どんな場所でもやっていけるという謎の自信を手に入れられたことだけで、よかったと思っている。
それに、申し訳なさそうに縮こまるドロシーにいい加減に腹が立っていた。
被害者は、彼女の方なのに謝るなんておかしい。
「謝んのやめろ、お前は悪くねえんだから」
「……だって」
『婚約者に逃げられた女』のレッテルは中々に辛いだろう、ドロシーはお嬢様で箱入り娘だ。
悪意には慣れていない。
コソコソと話す声でも、悪意があるものは大きく聞こえるものだ。
トラビスは、品のない悪口を言っていた分家のババア共は、近い将来、追い詰めて後悔させてやると心に決めている。
「お前は、努力してた」
「……例えば?」
ドロシーの目は、潤んでいた。
次のまばたきで、頬に涙が伝うだろう。
「兄貴に釣り合うように化粧も濃くして、服やドレスも派手にしたり、話し方まで変えて、兄貴の好みのタイプの女になろうとしてた──って聞いた」
優しいことを言うべきだと、心のどこかで思っているのにトラビスにはそれができない。
今、一時の慰めを言ったところでドロシーを慰められるとは思わないからだ。
それに、一人でこそこそ泣かれるくらいなら、ここで、トラビスの目の届くところで泣いてくれた方が何百倍もましだ。
「……意地悪なこと言わないで」
「ほら、そういう不細工に拗ねる顔も兄貴には見せなかったんだろ?」
「もうやめてよ……」
ぐすぐすと泣き出したドロシーに、罪悪感が生まれる。
誰が好んで好きな女を泣かせたいと思うのか──そうだ、トラビスはドロシーが昔から好きだった。
兄の婚約者に決まった時は正直、泣いた。
だから、寮がある軍人を目指したのだ。顔を合わせない為に。
──ドロシーの兄を見る目を見たくなかったから。
それなのに、兄はトラビスが欲しくて堪らなかった『ドロシーの隣』を捨てて、他の女の隣を選んだ。家との縁を切ってまで。
「ドロシー、お前は派手な化粧よりも薄い方が似合うし、どぎつい紫色のドレスより淡い水色のドレスの方が似合う。バカ兄貴は見る目が無かった、それだけの話だ。俺は兄貴より出来は悪いけど、根性ならあいつにだって負けない。……だからって訳でもねえけど、俺で我慢しろ。いいな?」
「……うん」
兄みたいな歯の浮くような台詞はトラビスには言えないし、そんなことを言うつもりはなかった。
でも、大事にしようと思う。
だが。
もちろん、下心はある。
むしろ下心しかないと言ってもいい──いつか……何年経ったっていいから、ドロシーに自分を好きになってほしいという下心だ。
***
ドロシー・マッキンタイアは、十五歳の時に婚約したウィンタース家の長男ラジーブの為に色々努力してきた。
──『大人っぽい女性が好みかな』
──『もっとはっきりした色の口紅も似合うんじゃない?』
ドレスも化粧も、立ち振る舞いも、言葉遣いも、全部ラジーブの為に変えた。
ドロシーは同年代の友人よりも幼い見た目であることを知っているから、努力したのだ。
でも結局、ラジーブは他の女性の手を取った。
女性には心当たりがある。
名前は分からないが、背中の大きく開いた派手な色のドレスと真っ赤なルージュの似合う、『ドロシーとは正反対の』大人っぽくて色気のある女性だ。
結婚式では、言い表すことが難しい感情がドロシーの中を蠢いていた。
逃げられた花嫁という言葉や、それより酷い言葉も耳に入り、悲しくて辛かった。
でも、ラジーブと結婚しなくてもよくなり、安心している自分も確かにいた──彼と一緒にいると、まるで自分が水中にいるみたいな感覚があったのだ。
呼吸ができないような、本当の自分が死んでいくような怖さがあった。
だから、彼と結婚しなくていいことに心底ほっとしていた。
しかし、ラジーブの弟──トラビスには悪いことをしてしまった。
トラビスは、軍学校を卒業したら超難関と言われている部隊に所属するはずだったのだ。
脱落者が何人も出ると言われている軍学校で五年も耐えたのだから、彼は軍人になりたかったに違いない。
なのに、兄の代わりに結婚なんて……しかも、トラビスよりも二つも年上で色気皆無の女と。
申し訳なさと惨めさで、ドロシーはわざと明るくしていないと泣き喚いてしまいそうだった。
でも。
「──俺で我慢しろ。いいな?」
トラビスは勘違いしていた。
我慢なんてとんでもない。
ドロシーはこの状況に喜んでいるのだから。
しかも、トラビスは嘘で塗り固めていないドロシーのままでいいと言ってくれた。
「……うん」
「ほら、もう寝るぞ」
「えっ? しないの?」
「~~泣き虫の酔っ払いは寝ろっ!!」
トラビスの耳は真っ赤だった。
それを、可愛いと言ったら怒られた。すごく小さい声で言ったのに。
トラビスは雑な口調の割に優しい男だった。
ドロシーが好きな花や小物を贈ってくれたり、デートに連れて行ってくれたりと、とてもマメである。
ラジーブと、全然違う。
比べるなんてよくないと思うのだが、比べるまでもなくトラビスはドロシーを大事にしてくれる。
両親も最初は戸惑ってトラビスとの距離を図りかねていたのだが、徐々に距離を縮めていった。
一生懸命に勉強したり、努力する姿が評価されたのだ。
ドロシーはそのことを自分のことのように喜んだ。
トラビスが褒められる度に誇らしかった。
結婚式から半年ほど経ったこの日、マッキンタイア家に招いていない客──ラジーブがドロシーに、頭を下げにやって来た。
「……申し訳なかった」
少々やつれたラジーブを見ても、ドロシーの胸は痛まなかった。
それどころか、両親がいない時間帯を狙って来たのだろうか、と意地悪なことを考えてしまう。
「兄貴ってどれだけ面の皮が厚いんだよ。頭の下げる角度が浅いんだけど、それで許されると思ってんの?」
最近スーツ姿が見慣れてきた夫のトラビスが、大きな溜め息を吐く。
ドロシーも何か言うべきなのだろうが、ついトラビスの背中に隠れてしまった。
「うるさいっ、お前には関係ないだろっ!」
「どう考えても関係あるだろ。俺はあんたの弟で、ドロシーの夫だ」
「で、でも、元々は僕がドロシーと結婚するはずだったんだっ!」
「そうだ。なのに、あんたは他の女と逃げたんだ。忘れたのか? さすが、兄貴。大層なお頭をお持ちなことで、羨ましいよ」
トラビスの見事な煽りにドロシーは感心した。そして、同時に気分がすっとしていく。
ドロシーだけでは、こんな風に優位に立つことができなかっただろう。
「僕は騙されたんだよ、あの女に……被害者だ……」
「おいおい、誰が被害者だって? 寝言は寝て言え……ったく、好きだった女のことを『あの女』なんて言うなよ、みっともねえな」
「ドロシー!!」
トラビスを無視した必死な声のラジーブに名前を呼ばれて、夫の後ろからドロシーは半分だけ顔を出した。
「君は、僕を許してくれるだろう!?」
トラビスよりも薄い灰色の瞳と目が合っても、半年前に会った時のように心がざわつくことはなかった。
そして、やっぱり自分は目の前の男を好きだったことなど、ただの一度もなかったと分かった。
円満な家庭を作る為に、自分が頑張らなければいけないと思っていたのだ──ドロシーを大事にしてくれない男の為に、己を偽って。
「許します」
「ドロシー?」
珍しく萎んだ夫の声が頭の上から聞こえたが、今はトラビスに言い訳をする時ではない。
「ありがとう! じゃあ、」
「その代わり、二度と私と夫の前に顔を見せないでください!」
ラジーブの声を遮って、ドロシーは一歩前に出て、誤解なんてさせない口調ではっきりと告げた。
「ウィンタース家から勘当されたと聞きました。お金もいくらかもらったそうですね」
「……あ、いや、それは……」
つい先日、ラジーブがウィンタース家から縁を切られた話は聞いていた。
結婚式の翌日にはその手続きは済んでいたそうだ。
「私は、夫と……トラビスと別れません。絶対に」
「で、でも君は僕を好きだっただろう?」
何が『でも』なのだろう。
思えばラジーブは言い訳ばかりの男だった。
失敗をドロシーのせいにすることもあった。
「私があなたを好きだったことなんて、ただの一度もありません。歩み寄ろうと思ってはいましたけれど……それに、たとえ好きだったとしても、今はトラビスが……好き、です。だ、だから、帰ってください。今度来ることがあったら、警邏を呼びます!」
トラビスのスーツをぎゅうっと握ってしまったり、少々言葉を噛んでしまったが、ドロシーは面と向かってラジーブに言いたいことを言えた。
「……さて、お客様はお帰りだそうだ。丁重にお見送りして差し上げろ」
トラビスは、後ろに控えていた昔やんちゃだったという家令に含みのある言い方をする──長く家に仕えてくれている家令は、「承知いたしました」と頷いて、腕まくりをした。
「兄貴が悪かったな」
「……ううん」
ラジーブが体の大きな家令にずるずる引きずられていくのを見ても、やっぱりドロシーの胸は痛まない。
それよりも、さっき──『今はトラビスが……好き、です』と、告白してしまったことで頭がいっぱいだ。
もちろん夫婦なので、することはしている。
けれど、『好き』だなんて、言ったことも言われたこともない。
しかし、ドロシーは女なので好きではない男とそういったことはできない……と、思う。
残念なことに、男性はそういったことはないらしいが。
「──さっき、俺のこと好きって言ってたけど」
「う、うん」
「あー、いや、いい。……何でもない」
「……」
トラビスは、ドロシーの言ったことを、『ラジーブを追い返す為に言った嘘』だと思っているのだろう。
「安心しろ、あいつにはちゃんと監視は付けたから」
──半年もずっと一緒にいれば、ドロシーは夫がどういう人物なのか分かっていた。
これは……ドロシーだけに都合のいい勘違いかも知れない。
けれど、勘違いだっていい。
もし勘違いだとしたらかなり恥ずかしいが、違うのならば、本当にすればいいだけの話だ。
「さ、さっき、あの人に言ったこと……ぜ、全部、本当だからっ!」
が。やっぱり恥ずかしいので、ドロシーはくるんと踵を返して逃亡──は、できなかった。
腕を掴まれて動けない。
なんてったって、彼は軍人を志していただけあってドロシーの何十、何百倍も素早いのだ。
「俺のことを『好き』ってのも、本当か?」
ドロシーは頷いた。
そしてそのまま顔を俯かせる。
「ふうん?」
「『ふうん』って……」
他に何か言うことはないのかと、ドロシーは顔を上げてトラビスを睨んだ。
──だけど、すぐに許すことにした。
「……ね、喉が乾いたし、お茶にしよ?」
頼りになると言っても、トラビスはドロシーよりも二つ年下の十八歳の男の子だ。
首まで真っ赤なトラビスを見て、ドロシーは思った──仕方ない、やはり自分がリードしてやろう、と。
リードなどしたことはないが、やろうと思えばできるはずだ……多分。
──いや、『多分』ではなく、『絶対に』してみせる!
すっかり無言になってしまった夕焼け色の顔をしたトラビスを引っ張るドロシーは、にんまりと上がりそうになる口角を必死に抑えながら決意した。
【完】