卑屈男はスウェット女を助ける
あのスウェット素っぴん女性に会ってから何度目の弁当だろう…
食べた弁当の数を指折り数えながら、嵩は自嘲して頬を緩めた。仕事終わりに弁当屋に寄るのがほぼ日課となっていた。今夜こそ会えるのでは、と期待に胸を膨らませて足取りも軽く行くのだが、あれ以来一度も彼女の姿を見なかった。
その度に弁当2個を抱えて、がっくりと肩を落として帰るのも、彼の日課になりつつある。
今夜こそ、と気合を入れて…
「俺が気合いっぱいでも無意味なんだけど」
と切なく愚痴が零れた。
こればかりは自分の気持ちだけでどうにかなるものでもない。
そして会えたから、どうだというのだ、と自問もする。職場も自宅も、名前すら知らない。ただ弁当屋で出逢いとも言えない程度の、僅かな言葉を交わしただけの女性。
彼女が自分を覚えてくれている、と思うほどには自信家でもない嵩はいつもより遅くなったために諦めの中にも秘かな期待を滲ませて、弁当屋の暖簾を潜った。
「いらっしゃい!」
店仕舞いの仕度か、レジの前で現金を袋に収めていた店主が顔を上げてから、可笑しそうに笑った。
なにも言わないが、突然毎日のように通い出した嵩に女性ならではの勘が働くのだろう、客に対してはあまり正しくない揶揄うような笑顔を浮かべる。
「ハンバーグと野菜炒め、お願い」
店主の意味あり気な視線を無視して、照れ隠しのようにメニュー表を見た。見る前から頼むものは決まってはいたが、嵩はそのまま視線を動かさない。
「はいよ」
あまり待つことなく、嵩の前に出来立ての弁当が置かれる。お釣りのないように会計を終えると、嵩は店を出ようと黙って踵を返した。
「いつも毎度!また明日!」
その背中を追うように店主の弾んだ声が飛んできた。
一気に頬だけでなく、耳から首筋まで熱を持ったのがわかり、嵩は茹でダコのように真っ赤だろう、と自覚して、さらに恥ずかしくなって俯いた。
店の奥から楽し気な笑い声が響くのが聞こえた気もして、彼の足取りは忙しないほど早くなる。さっさと駅に向かって帰ろう、と気を取り直して前を向いたとき、駅を通り越したところにあるコンビニの前に見覚えのあるスウェット姿が嵩の眼に飛び込んできた。
途端に心臓がどくんと弾む。
前回会ったときはグレーのスウェットだったが、今回は薄いブルーのもの。
髪も後ろで一纏めにはなっておらず、下ろしたままの黒髪が艶やかに風を孕んでいる。
ほとんど顔など見えなかったのに嵩はあの女性だと確信した。
小動物のように俯き加減で、歩幅も狭く、ちゃかちゃかとコンビニに入っていった彼女を眼で追って、嵩は一瞬だけ逡巡した。
行くのか?
行って、声でも掛けるのか?
掛けて、名前でも聞くのか?
聞いて…………
どうする?
ナンパだぞ、これは。
しかし、そんな考えもすぐに吹き飛んだ。
コンビニ前でたむろっていた数人の男たちが彼女のあとをにやついた笑みを貼り付けて追うように入っていったのを目撃したからだ。
嵩は軽く走ってコンビニに向かった。軽く息を切らしながら彼が入ったとき、案の定、ペットボトル飲料の冷蔵庫の前で彼女は男たちに囲まれていた。
それを眼にして小さく舌打ちを洩らす。
自分でも説明の付かないザワザワと胸を揺らす感情が焦げ付くように漂って、嵩はひとつ深く呼吸した。
男たちの不躾な視線から逃れようと身を竦めた彼女からは一言も発されてはなかったが、困っているのが雰囲気からわかった。
嵩はわざとらしいほどに爽やかな笑顔を浮かべると、その一団に向かって歩を進めた。
「待たせちゃった?」
明るく声を掛けながら、嵩は男たちをかき分けて彼女の肩をぐっと抱き寄せた。驚きに弾かれたように顔を上げるが、すぐに彼の意図を察したのか、頬を薄桃に染め上げて細やかな笑みを浮かべた彼女は小さく頭を振ってみせた。
その可憐な笑顔に嵩はくらりと目眩を覚える。
「ほら、弁当も買ってきたし」
言って、ちらりと彼女の手にしたカゴのなかを見る。
抹茶フレーバーとバニラのアイスがひとつずつ。
ジャスミン茶と炭酸水のペットボトルもひとつずつ。
「俺の好きな抹茶、ありがとう」
抱き寄せた彼女の髪から洗い上りのシャンプーの香りが漂い、嵩は思わずキスを落としていた。近付くと、さらにココナッツの匂いが鼻腔を擽る。
男たちは嵩の持つ2個の弁当と彼女の持つ2人分の買い物に、なんだよ男連れかよ、と忌々しそうに溢して去っていった。
申し合わせたように、残されたふたりの肩から力が抜けた。
「あの、すみませんでした」
去っていった男たちを警戒心も露に睨み付けていた嵩の下から、か細い礼が聞こえて、現実に引き戻されたように彼女を見た。
しっかりと抱き寄せられたまま、彼女は耳まで赤く染め上げて俯いている。
華奢な肩を抱いている自分の手に気付いて、嵩は慌てて彼女から離れた。
「あ、いや、こちらこそ、失礼しました」
「助かりました。どう振り切ったらいいか、わからなくて…」
ぺこりと頭を下げてはにかむ彼女を眼にして、嵩の心臓は今にも破裂するかというほどに脈打ち始めた。
心なしか、息も荒くなる。
「家は近くですか?」
気付けば彼はそう聞いていた。
驚きに瞳を揺らす彼女の顔を見て、はじめて自分が詮索するような失礼なことを質問したことに思い至り、
「いや、まだあいつらがいたら、危ないから、近いなら近くまで送ろうかと!」
しどろもどろに弁明した。
その慌てぶりが可笑しかったのか、彼女は口許に手を当ててクスクスと笑った。
「これを買ってきます。それから送って貰ってもいいですか?」
カゴを彼に見せるように軽く持ち上げて、彼女はレジへと向かっていった。その背中を見送る嵩はホッとしながらも、もう少しだけ彼女の傍にいられることに高揚した。
あの男たちに感謝の気持ちを持つほどには、この状況に浮かれてしまった。