卑屈な男は心を揺らす
部長補佐にダメ出しを食らった企画書を手直しした嵩は肩に手を当てて首を回した。同僚と後輩のリサーチもあり、オンラインショップや通販をしていないが、魅力的な商品を扱っている話題の店舗を列挙することができた。
ひとまずそこまでの作業をこなし、翌日に交渉することにして、嵩は手伝ってくれた社員に頭を下げた。
「助かったよ、ありがとう。この企画が通ったら驕るから呑みに行こう。とりあえず今日はお疲れ様」
それを皮切りに一人ふたりと挨拶をして帰路に着く。嵩は最後の一人を見送って、電気を消してから部屋を出た。鍵をかけて、地下の守衛室まで鍵を届けたあと、駅に向かって歩き出した。
年齢的にうっすらと結婚を意識していた彼女とひと月前に別れたばかりの嵩の足取りは重い。同棲していた部屋に帰るのが僅かばかり苦痛だった。
3年だ。
友人とふざけてナンパした相手と、意外にも馬が合い、嵩から告白して付き合った。
それが3年前。
休みの日に待ち合わせて重ねるデートに物足りなさを感じて、昂る感情のまま彼女が嵩の部屋に転がり込んできたのが1年半前。
帰ったときに部屋に灯りが点り、食事の匂いが漂う空間は心が落ち着き、幸せのときだったが、結婚を焦り始めた彼女が事あるごとに匂わせ始めた行動に辟易した嵩が
「結婚を考えてるけど、俺がプロポーズするまで待ってほしい」
と伝えたときに彼女が激昂して以来、ふたりの間にギクシャクとした空気が絶え間なく流れるようになった。
最終的に彼女の想像妊娠がキッカケで、嵩は自分の部屋から彼女を追い出した。
利己的に感じてしまい、彼女の存在に耐えられなくなったのだ。
30歳を目前に別れてしまったことに申し訳なさを感じつつ、嵩は遣りきれない想いだった。
責任を取るために結婚することが自分のなかで想像できなかった。彼女との結婚生活が彩り豊かに幸せだと、どう想像してもイメージが湧かなかった。むしろ嫌気が差して離婚の文字がちらつくほうが容易に頭に浮かんだのだ。
下手に籍を入れて離婚するより、その前に手放したほうが彼女のためだ、と自分を納得させてはいたが、それが残酷なことだとは理解していた。
だから未だに彼女の残り香のある部屋に帰るのが躊躇われたのだ。
腹も空いたし、独りだし、と思って、嵩は駅前にある弁当屋に向かった。そこは夫に先立たれた妻が遺してくれたお金で起ち上げた弁当屋で、味が良く、安いのがウリの店だった。
ボリュームが少ないので、嵩はいつもふたつ買うのだが、バランスの摂れた内容なので、安心して食べられた。
昼から夜の20時まで開いていて、閉店ギリギリになると完売ばかりになるので、自然と嵩の足は早まった。
売り切れれば時間を待たずに閉まるので、目的の弁当屋から灯りが漏れているのを眼にして、彼はホッと息をついた。
足取り軽く店内に入る。
ふわりと惣菜の匂いが嵩の空腹を心地よく刺激する。メニューなど見なくても覚えているのだが、悩むようにして彼はカウンター上に表示されたメニュー表に視線を遣った。
彼と同じように小首を傾げてメニューを眺めている小柄な女が先にいて、嵩は何気なく彼女を横目で窺った。
無造作に後ろでひとつに髪をまとめ、ゴツいフレームのメガネをかけた、スウェット姿の地味な女。
タブダブのスウェットを押し上げる胸は見事だが、それ以外に特筆すべきものはない。
それなのに顎に人差し指を当てて真剣な表情でメニューを睨む姿に、嵩の喉がごくりと鳴った。
年齢は不詳だが、若くはないだろう、と思うのに、その態度からは可憐なほどの初々しさが溢れていた。縋るように細めた一重から奇妙な色気が溢れ、化粧っ気のない窄められた唇から眼が離せなかった。
やっと決まったのか、艶やかに笑むと、彼女はおずおずと奥にいる店主に向かって明太子弁当を注文した。
が、その声はあまりにもか細く、伝わらない。
もしかしたら、彼女が来店していることすら、気付かれてないのでは?と嵩は思った。
「おばちゃん!明太子、宜しく!」
嵩は彼女の代わりに奥へ声をかけた。すぐに気のいい店主が破顔して、はいよ、と応えた。明太子弁当に入る白身魚のフライを勢い良く揚げる音がすぐに響いてくる。
自分の後ろから突如あがった声に弾かれたように振り向いた彼女の瞳が、より一層見開かれたのを眼にした嵩は可笑しそうに小さく笑うと、またメニューに向き直った。
自分の分も頼まなくては、と唐揚げ弁当と鶏そぼろ弁当を告げた。
「あの、ありがとうございました」
消え入りそうな声がして、視線を下げれば、声に負けないくらい小さく身体を縮めた彼女がいた。
「いえ、余計なことでしたらすみません」
夜に女ひとりで弁当ひとつをスエット姿で買いに来ることを恥じていたのだとしてら、悪いことをしたな、と嵩は慮ったのである。
それになにかを返そうと、彼女が躊躇っていると、
「明太子、お待ち!420円ね!」
と元気良く店主が出来立ての弁当を持ってきた。彼女はすぐに財布からぴったりの金額をカウンターに置くと、掠れたような小声で礼を言って出ていった。
小動物のような態度が可愛らしくて、思わず笑みを溢した嵩は
「おばちゃん、俺のも払うわ」
と、会計を促した。
会議で惨めで悔しい思いをし、彼女との苦い思い出にため息をついていたはずなのに、彼の心は軽くなっていた。
もうひとつくらい、弁当食べれるんじゃね?
そんなことを思いながら、嵩は熱々の弁当ふたつを受け取り、意気揚々と駅に向かった。
またあの子に会えるかな、と無意識に考えていることに気付くこともなく、嵩はホームに入ってきた電車に飛び乗った。