「貝の火」あるいはホモイに下された劫罰? この救いのない物語の本当の意味とは? 私の宮沢賢治試論 宮沢賢治のブラックメルヘン黒い童話を読み解く
「貝の火」という童話がある。
宮沢賢治の作品だ。だが。。この童話あまり知られてはいない。
というか、、読まれてはいない。
というのも内容がシリアスすぎて、、暗いのだ。
つまりあまりにも「救い」がなさすぎるのだ。
それでは、、、
内容をおさらいしてみよう、
純真な子ウサギホモイは
ある日、川を流されていく小鳥のひなを必死で
水をがぶがぶ飲みながらも身を挺して
救ってあげる。
が、、その結果水をがぶ飲みしてしまい、、ホモイは熱を出して寝込んでしまい危うく自分も死にそうになる。
しばらくしてやっと回復すると、、、
小鳥の親子が来て、、救命のご褒美として鳥の王から預かってきた
「貝の火」という
宝玉をいただくのである。
しかし、この宝玉
持っている人の心がけで
曇ったり、、、輝いたりと
ずいぶん持ち続けるのが難しい宝玉でもある。
確かに子ウサギのホモイには荷が重すぎる宝玉だったかもしれない。
それにしても、
なぜイノセントなるまあどこにでもいるよな平凡な子ウサギホモイに、こんな過大ともいえる宝玉が託されたのか?不可解の極みであろう。
案の定、ホモイは狐に、騙されて
悪行(増上慢)を犯してしまう。
具体的には、、、
食パンを盗んで食べてしまう
モグラの親子をちょっといじめてしまう
キツネの小鳥狩りを見逃してやる。
結果的にはとらえられた小鳥たちを鳥箱から解放してやるのですが、、、。
だがその結果、、、貝の火は輝きを失い、どんよりと白く濁り、、、
ある日大爆発して
破片が飛び散り
ホモイの目につき刺さり
ホモイは失明してしまうのである。
確かにホモイは増上慢の罪を犯したろう。
そして狐の盗んできたパンをおいしそうに食べもしたろう。
しかし、相手は単なるイノセントな子ウサギに過ぎないではないか?
そこまで罪を問えるのか?そんな重罪なのか?
たかがこんな小さな罪でも
なぜ、失明というトンデモナイ劫罰まで下さざるを得なかったのか?
キツネが盗んできたたかが食パンをおいしそうに食べただけじゃないか?
それで、その小さな罪で、、
こんな、一匹の平凡な子ウサギが失明という大きな贖罪をもって償わなければならなかったのでしょうか?
しかし、こたえは得られないまま物語は終焉を迎えます。
ホモイは失明というあまりにも大きな劫罰に泣き暮らしています。
そして、
ホモイの父は最後にこう、言ってホモイを慰めます。
『泣くな。こういったことはよくあることなんだ。
きっと目は治してやるからな」
よくあること??
確かにこれは大きな真実でしょうね。
世の中にはもうなんというのか善人の鏡みたいな人がいるものですよね。
でもそういう人がある日トンデモナイ難病にかかってのたうち回って悶死する、、、
そんなことも珍しいことではありません。
つまり、、
どんな人の人生にもまさかの劫罰が、、何の説明もなく、、なんの前兆もなく、、身に覚えもなく、
突然下されることってあるんです。
その時、
私たちはどうすればいいのでしょうか?
どうすればと言われても、、、どうしようもない
そうです
はっきり言いましょう
「どうしようもないのです。」
受け入れるしかないのです。
これはある意味、神の差配です。
なぜそうなのかは肉の子にすぎないわれら人間の曇った眼にはわからないのです。
だから受け入れるしかないのです。
それがたとえどんなに理不尽であっても
それがたとえどんなに不条理であっても
受け入れるしかないのです。
そうして、、
ホモイの父親のように、
『なくな。こういったことはよくあることなんだ」
というしかないのでしょう?
そして
でも、、ホモイの父親はこれといって根拠も自信もなくっても、
『きっと目はなおしてやるからな」
と言って力づけるしかないのでしょう?
その言葉にこれといって確実な目当てはないにしても、、。
私はこの神からの故なき?劫罰にめげずに、ひとえにホモイの眼が治ることを祈るばかりです。
このあまりにも理不尽な
不条理な
イノセントな子ウサギホモイに対する
神からの故亡き、劫罰の物語は、、、、、、、、、
この不条理な罪と罰の物語は、、無垢な子ウサギが失明という劫罰で終わるという、、、
「まったく救いのない」この物語は
しかしこんな風に、、、、妙に?明るく?こう締めくくられている。
「窓の外では霧が晴れて鈴蘭の葉がきらきら光り、つりがねそうは、
「カン、カン、カンカエコ、カンコカンコカン」と朝の鐘を高く鳴らしました。」