絶食系男子、彼女の様子に戸惑う
繰り返しになりますが、この作品は完全なるフィクションです。
実在の宗教とは何の関係もありません。
「……そろそろ、練習に戻ろうかな」
「そっか。まあただの貧血だったみたいだから大丈夫だと思うけど、無理はしないでね?」
「うん、ありがとう」
じいちゃん直伝の薬膳茶を飲み、持って来ていたお弁当で遅めの昼食を終えると、渡井さんはだいぶ復調したようだった。
先生の見立て通りただの貧血だったようだし、なんだかんだで3時間くらいは寝ていたからもう大丈夫だろう。
15分くらい食休みを挟んでから、僕達は体育館へと戻ることにした。
「ところで、貧血で倒れるなんて何があったの? 寝不足?」
並んで廊下を歩きながらそう問い掛けると、露骨に渡井さんの表情が曇った。
「うん……少し、考え事をしてて……」
「そうなんだ。……何か悩み事?」
「うん……まあ……」
なんとも歯切れが悪い。
どうやらその悩み事というのは、僕には話しづらい内容らしい。
ならば、僕が無理に踏み込むのは良くないだろう。
「そっか。僕でよかったらいつでも相談に乗るよ? 誰かに話を聞いてもらうだけでも楽になるかもしれないしさ。僕には話し難いって言うなら、無理にとは言わないけどね」
「ありがとう……考えがまとまったら、倉瀬君にも聞いてもらうね」
「……そう、ならその時を待っているよ」
渡井さんの力になれないのは残念だが、彼女が自分で乗り越えるべきだと判断しているなら、それを黙って見守るのが愛というものだろう。
(何もかも手を差し伸べればいいってものじゃないしね)
そう1人で頷いていると、隣で渡井さんが考えを切り替えるように頭を左右に振った。
「うん。でも今は練習に集中しないとね。考え事はあと!」
そう言って、気合を入れるように両手でパンと頬を叩く。
その次の瞬間には、憂いを帯びていた渡井さんの目には力強い輝きが宿っていた。
「そうだね、それがいいよ。……そうだ! 集中したいなら、いい方法があるよ?」
「いい方法?」
「うん、般若心経」
あれ? 輝き消えた。
渡井さんの目がスンっと単色になった。なんで?
「倉瀬君……私、般若心経は覚えてないから」
「……そっか」
「法華経なら全文諳んじれるんだけど」
「なん、だと……!? 貴様ぁ、日蓮宗の手先かぁ!!」
思いがけない言葉に、反射的にバッと身構えてしまう。
しかし、渡井さんはそんな僕に少し驚いた表情をしてから、平静な声で言った。
「……いや、冗談だから」
「……え? 冗談?」
「うん、冗談」
「……そう、か」
渡井さんの表情に嘘がないことを確認して、僕は体から力を抜いた。
そうすると、冗談に本気になってしまったことへの恥ずかしさが急激に湧き上がってきた。
(というか、渡井さんって冗談とか言うんだ)
現実逃避気味にそんなことを考える。
というのも、僕は今まで渡井さんに冗談を言われた覚えなど全くと言っていいほどないのだ。
気まずさと意外さが混在して、何も言えないまま視線を彷徨わせる僕の耳に、クスクスという笑い声が届いた。
「ふっ、くく、なぁに? さっきの『日蓮宗の手先かぁ!!』って」
渡井さんは、口元を押さえて笑いを堪えながらそう言った。
その表情もまた、僕が今まで見たことのない表情で……僕は胸がざわつくのを感じた。
「あぁいや……ごめん。その……」
渡井さんの思わず目を見張るような可愛らしい表情に動揺しつつも、僕は渡井さんの疑問に答えるべく口を開いた。
「……簡単に言うと、日蓮宗は南無妙法蓮華経と唱えてさえいれば即身成仏……つまり究極の悟りを開けるって教えだからね……。『悟りの道はそんなに楽なものじゃない!』って、多くのサトラーには嫌われているんだよ」
「サトラーとは」
あれ? 真顔になっちゃった。
渡井さんの顔からスンっと表情が抜け落ちた。なんで?
「サトラーっていうのは――」
「いや、解説しなくていいから」
「あれ、そう?」
「うん、そこら辺は後書きに任せておけばいいから」
「……うん?」
「さっ、体育館行こう?」
「う、ん……うん? うん……」
なんか妙なことを言われた気がする。
しかし、首を傾げている間に渡井さんがさっさと歩き始めてしまったので、慌てて後を追った。
校舎を出て体育館に近付くと、中からは部員達の足音や掛け声が聞こえてきた。
どうやら練習の最中らしい。
僕達は部員達の集中を切らさないようになるべく静かに扉を開くと、そっと中に入った。
「ん? ああ、戻って来たのね。渡井、もう体調は大丈夫?」
「はい。ご心配お掛けしました」
たまたま入り口付近にいた先生に声を掛けられ、渡井さんは頭を下げた。
先生はその言葉に嘘がないかを確認するように、ジッと渡井さんの顔を見る。
「一応3時間くらいしっかり眠っていましたし、食事もきちんと取っていたので大丈夫だと思いますよ」
僕がそう助け舟を出すと、先生はようやく頷いた。
「……そう。なら、次の休憩の後から参加しなさい。それまでは、隅の方で柔軟をやってなさい」
「はい!」
言われた通り、そのまま2人で隅の方へ移動し、ストレッチを開始する。
しばらくは渡井さん1人でストレッチをしていたのだが、前屈をする段階になって、渡井さんは何やらきょろきょろと視線を彷徨わせ始めた。
どうしたのかと思って見詰めていると、やがておずおずといった様子で上目遣いに僕を見上げてくる。
「それじゃあ……手伝ってもらえる?」
「……? うん」
いつになく遠慮がちに頼まれたことに一瞬違和感を覚えるが、渡井さんがすぐに目を伏せてしまったので、僕も怪訝に思いつつも渡井さんの背後に回った。
「スーーッ、ハァーー」
渡井さんが息を吸い、吐くと同時にゆっくりとその背中を押す。
そうやって渡井さんの柔軟を手伝いながら、僕は密かに渡井さんと呼吸を合わせた。
ゆっくりと吸い、一旦止め、またゆっくりと吐き出す。
呼吸のタイミングを完全に同調させることで、両手に触れる渡井さんの背中を通して気の流れを読み取る。
(特に問題は無さそう……だけど、少し末端の方で流れが淀んでるかな)
以前、渡井さんは末端冷え症だと言ってたが、もしかしたらこれが原因かもしれない。
「渡井さん、もっと呼吸を深くして」
「え? う、うん」
「あと、お腹の下辺りに意識を集中して」
「う、ん……分かった」
そして、渡井さんが深呼吸をすると、より気の流れをはっきりと感じることが出来るようになった。
(この流れを……制御する!)
両手を通じて僕自身の気を流し込むと、淀んだ流れがスムーズになるように渡井さんの気を体内で循環させる。
そうして気の流れが整ったのを確認すると、僕は渡井さんの背中から手を離した。
ちょうどそのタイミングで先生のホイッスルが鳴ったので、渡井さんも立ち上がる。
「……? ……なんか手足の指先がぽかぽかしてきた」
そう言って両手を不思議そうに見る渡井さんを見て、僕は気の調整が上手くいったことを確信した。
じいちゃんの見よう見まねでやったんだが、上手くいったようで何よりだ。
「ほら、先生が集合掛けてるよ」
「……? う、うん……」
ポンと肩を叩いて促すと、渡井さんは首を傾げながらも小走りで先生の元へ向かった。
(さて、と……)
それを見送ってから、僕は板敷の床に正座をした。
そして、渡井さんが部員達に群がられているのを眺めながら、口の中で般若心経を唱えて心を落ち着かせる。
今日は何やらいつもとは違う渡井さんの姿をたくさん見ることになったせいで、精神が動揺してしまったのだ。
(なんか……今日は表情豊かな気がするんだよな)
なぜかと考えて……自分に原因があるのではないかと思い至った。
(そうか……今日の僕、前みたいに緊張しないで、素で渡井さんと話せてるんだ)
以前は、渡井さんと一緒にいるだけでどこか緊張してしまって、他の人と話している時よりも口数が少なくなってしまっていた。
それに、フラれないようにするのに必死で……こう言ってはなんだが、渡井さんの顔色を窺いながら話していたように思う。
今日の僕は、そんなことはなく素で話せていた。
だからこそ、渡井さんとも会話が弾み、結果的に彼女のいろんな表情を引き出すことが出来た。つまりはそういうことだったのだろう。
(本当に……未熟だったんだな)
かつての自分を思い、軽く自嘲する。
フラれるも何も、端から好かれてはいないというのに。
それを分かっていながら、勝手に彼女を自分の物にしたいという欲望を募らせ、挙句1人で空回りして自滅するとは。
(まあ仕方ないか……『恋とは相手に求めるもの』って、じいちゃんも言ってたしね)
今の僕なら、じいちゃんが言っていた恋と愛の違いがよく分かる。
相手に好かれることを求めないようになるだけで、ここまで楽になるとは思わなかった。
今の僕は、渡井さんが幸せならそれだけで自分も幸せだ。
休憩に入り、心配そうな顔をした後輩達に囲まれて困った顔をしながらもどこか嬉しそうな渡井さんの表情を見て、その想いを強める。
「どしたの? 娘を見守るパパみたいな顔して」
「仲澤さん」
いつの間にやら、渡井さんの親友である仲澤さんが近くまで来ていた。
「パパって……そんな顔してた?」
「してたしてた。現役JKを前にして下心と興奮を隠し切れない顔してた」
「……それは別の意味の“パパ”では? というかもし本当にそんな顔してたんなら、僕は自責の念で山に籠もるよ」
「あははっ、冗談冗談」
そう言って僕の肩をぺしぺしと叩きながら、ケラケラと愉快そうに笑う。
「僕に何か用? 渡井さんの方はいいの?」
「ん~~? まあ愛佳は大丈夫っしょ。それよりあたしは、倉瀬君に話があんのよねぇ~」
「なに?」
「うむ。まあちょっとこっちに来たまえよ」
そう言って手招きする仲澤さんに、軽く眉をひそめながらも僕は腰を上げた。
そのまま体育館の中央に向かって少し歩くと、仲澤さんはおもむろに床の一点を指差した。
「これ、何か心当たりは?」
言われるままに視線を落とすと、床に敷かれたフロアマットの一部が黒くなっていた。
屈んでよく見てみると、驚いたことにどうやら焼け焦げているらしい。マットが黒ずんで毛がはげていた。
そこで、はたと気付いた。
(あ、これ僕が踏み切った場所だ)
倒れた渡井さんを受け止めるため、全力で足を踏み切ったのがこの辺りだった気がする。
とすると、これは僕の足とマットの摩擦熱か何かで焦げてしまったのだろうか? いや、でもまさか……
「その顔……やっぱり心当たりがあるみたいね」
「ああ……あるような無いような?」
「なにそれ? あたしの、というか部員達の見立てだと、倉瀬君がなんかありえない動きをした余波なんじゃないかって結論になったんだけど」
「あ、やっぱり? というか、ありえない動きって?」
「あたしは直接見てないけど……少なくとも一部の部員には、倉瀬君が軽く瞬間移動したように見えたみたいよ」
「軽く瞬間移動?」
「それくらい速く走ったように見えたってこと」
「そっか、見えたのか……やっぱりまだまだ未熟だな」
「はい?」
じいちゃんなら、この程度の距離、音もなく目にも留まらぬ速さで移動出来ただろうに。
僕が焦げたフロアマットに触れながら自分の未熟さを噛み締めていると、なにやらジト目になっていた仲澤さんが気分を切り替えるように言った。
「なんか気にはなるけど……まあいいわ。これはただの口実だし」
「口実?」
「そ、愛佳に聞こえないところで話をするための、ね」
不意に仲澤さんの声のトーンが落ち、真剣みを帯びた。
どうやら何か真面目な話があるらしいと判断し、僕も立ち上がって仲澤さんと向き合う。
すると、仲澤さんはまだ後輩達に囲まれている渡井さんの方をチラリと見てから、静かに言った。
「ごめんね」
「え?」
突然の謝罪に困惑する。
特に仲澤さんに謝らなければならないようなことをされた覚えはないのだが。
「愛佳のこと。本人は否定するだろうけど、愛佳が倒れたのってあたしが原因みたいなところあるから」
「そうなの? 渡井さんは悩み事があったせいだって言ってたけど……」
「うん、まあその悩む切っ掛けを作ったのがあたしだからさ……他にも色々、なんか余計なこと言っちゃったから……。間違ったことをしたとは思ってないし、今は詳しいことは言えないけど、倉瀬君には一回謝っておこうかなって」
「そうは言われても……」
何に謝られてるのかが分からないのに、謝られても困ってしまう。
仲澤さんにもその気持ちは伝わったのか、苦笑を浮かべながら両手を合わせた。
「ごめんごめん。これはあたしの自己満みたいなもんだからさ。気にしないで」
「そう言われても気になるんだけど……仲澤さんは渡井さんの悩み事の内容を知ってるってこと?」
「知ってはいるけど……それは話せないなぁ。他人の口から話していい内容じゃないと思うし」
「そう。ならいいよ」
「あれ? いいの?」
「うん。さっきも待つって決めたしね」
そうはっきりと頷くと、仲澤さんはどこか眩しそうな、それでいて切なそうな目をした。
「……なに?」
「……ううん、愛佳は愛されてるなぁって思って」
「何を今更」
迷わずそう言うと、仲澤さんはとんでもなく甘いものを口に入れたような顔をした。
そして、そのタイミングで先生のホイッスルが練習の再開を告げた。
「――っと、それじゃあまた」
「ああうん」
一斉に散らばり始める部員達に合わせ、仲澤さんも僕に背を向け――――
「ねぇ、倉瀬君」
足を止め、肩越しに声を投げかけてきた。
「愛佳は……きっと近い内に結論を出すから。その時、倉瀬君には冷静にあの子の話を聞いて欲しい。その上で、2人でちゃんと話し合ってほしい。……ただのお節介だけどね」
そう言うと、僕の返事を待たずに仲澤さんは走り去った。
「……2人で……話し合う?」
(それはつまり、渡井さんの悩み事って僕に関することなのか?)
僕は仲澤さんの言葉に一抹の不安を覚えながらも、黙ってその背中を見送るのだった。
法華経:正式名称は妙法蓮華経で、大乗仏教の経典の1つ。般若心経など比にならないくらい長く、普通の人でなくとも全文を諳んじるなんてことはまず出来ない。
日蓮宗:仏教の一宗派でありながら、お釈迦様の教えにない極めて独創的な教義を持っている宗派である。と言っても、決して異端というわけではなく、むしろ日本最大級の規模を誇る某宗教法人も日蓮宗なので、信者数で言えば現在日本一かもしれない。ただしこの物語はフィクションなので、物語上では古き良き(?)日蓮宗信者が主人公とは別派閥として存在すると考えて頂きたい。
サトラー:……正直任されても困る。たぶん悟りを開いている人のことじゃない? 知らんけど。