断食系男子、絶食系男子になる
立ち上がった渡井さんが、ぐらりと頼りなく体を揺らした。
その時には、もう既に僕は動き出していた。
膝に置いていた両手を前につき、左足を背後へ伸ばしつつ腰と膝を持ち上げる。
そうすることで、速やかに正座からクラウチングスタートの体勢に移行する。この間実に0.5秒。
そしてその次の瞬間には、前傾姿勢で一気に前へと飛び出した。
1週間に渡る厳しい修行を乗り越えた今の僕なら、板敷の床で2、3時間正座したくらいでは一切の痺れも痛痒も覚えない。
勢いを全く殺すことなく、すぐさまトップスピードに乗る。自分でもこれ以上はないと言い切れる程に完璧なスタートダッシュだ。
しかしそうしている間にも、視線の先では渡井さんの両手が空を彷徨い、体のふらつきは酷くなっていく。
(間に合わない、か)
いかんせん距離があり過ぎた。
完璧なスタートダッシュを決めても、この距離はそう簡単には埋められない。――普段の僕なら。
そう、普段の僕なら間に合わないだろう。
だが、今の僕はこの場に満ちる力強い息吹を存分に吸収し、かつてないほど気力に満ちていた。
今の僕なら間に合う。いや、間に合わせてみせる!!
「ふぅっ!!」
一気に息を吐き出し、止める。
丹田に気力を集中し、そこで生じたエネルギーを全て左足に叩き込む!
「かぁっ!!」
そして、全力で床を踏み切ると、走り幅跳びの要領で一足飛びに残りの距離を詰めた。
渡井さんの前に着地すると同時に、両膝でその衝撃を吸収し、片膝立ちに移行。
前のめりに倒れる渡井さんを正面から受け止めた。
そのまま優しく腰と頭の後ろに腕を回すと、そっと床に横たえる。
すると、渡井さんは僕の顔を焦点の合っていない目でぼんやりと眺めた後、そっと目を閉じた。
「先生! 早く渡井さんを診てください!」
鋭く顧問の先生に呼びかけると、なにやら両目を見開いて固まっていた先生が、「あ、ああ」と声を漏らしながら、あたふたと渡井さんを挟んで反対側に跪いた。
その微妙に挙動不審な様子にふと周囲を見ると、周りの部員達も、僕と僕がさっきまで座っていた場所を交互に見ながら、「え、え?」とか「いや、今のおかしくね?」とか困惑した声を漏らして立ち尽くしていた。
一体、どうしたのだろう?
「……うん、特に異状は見当たらないわね。ただの貧血じゃないかしら?」
先生のその言葉に、僕は視線を戻す。
「保健室のベッドでしばらく寝かせておけば、自然と目を覚ますと思うわ」
「分かりました。では、僕が保健室まで運びます」
「お願いできるかしら? ああ、今日は保健の先生もいらっしゃらないから、もし何かあったら遠慮なく救急車を呼んでね」
「はい、そうします」
そして、僕は先生と仲澤さんの手を借りながら、渡井さんを背に乗せた。
すると当然、渡井さんの体の前面が思いっ切り僕の背中に押し付けられる訳で……。
(む……)
今まで味わったことのないその感触に、僕の心に小さな波紋が生じた。
その事実に、軽く自嘲する。
(渡井さんが大変な時に、これくらいのことで心を乱すなんて……僕もまだまだだな)
こんなことでは、倒れた渡井さんにも、修業を付けてくれた祖父にも申し訳ない。
僕は渡井さんを背負って立ち上がりながら、早急に精神の立て直しを図った。
(以前の僕なら、素数を数えてたんだろうけど)
当時の自分の未熟さを思って、軽く笑みが零れる。
今になって思えば、必死になって数字を数えていた自分のなんと滑稽なことか。
ただ数字の羅列を思い浮かべるよりも、もっと確実な方法があったというのに。
それは、そう――――般若心経だ。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減…………
心の中で般若心経を唱えると、たちまち邪念が晴れ、胸の中は渡井さんを案ずる慈愛の心に満たされる。
そうして僕は、まるで生まれ変わったかのような晴れやかな気分で渡井さんを背負い直すと、なるべく揺らさないように慎重に、それでいて迅速に保健室へと向かった。
まったく、般若心経は最高だぜ!!
「ねえ、今日の倉瀬先輩なんか大人っぽくない?」
「たしかに。なんか余裕があってちょっとカッコイイよね」
「う~ん……大人っぽい……とは、ちょっと違う気がするんだけど……」
「うん……どちらかと言うと、なんか悟っちゃってる感じ? 倉瀬聡じゃなくて倉瀬悟って感じ?」
「「「「「それな」」」」」
「……ねぇ、それはそれとして、倉瀬君さっき軽く瞬間移動しなかった?」
「「「「「それな! ホントそれな!!」」」」」
丹田:体内の気力が集まるとされる場所。へその下にあるとされるが、普通の人ではまず正しく意識することすら出来ない。
般若心経:正式名称は般若波羅蜜多心経で、大乗仏教の経典の1つ。難読漢字が多く、普通の人ではまず正しく読むことすら出来ない。
瞬間移動:……えぇ~~っと、まあその……あれ。普通の人ではまず正しく理解することすら出来ないそういうあれ。