クール系女子、彼氏の変貌に戸惑う
体育館の入り口に立ち尽くしたまま、座禅を組む倉瀬君を呆然と眺めていると、その倉瀬君の視線がゆっくりとこちらに向けられた。
思わずビクッとしてしまうが、いつまでもここに棒立ち状態でいるのもおかしな話だ。
そう考え、私は微妙にぎこちなく体育館へと足を踏み入れた。
私が倉瀬君の方へと歩いて行くと、倉瀬君も座禅を解いて立ち上がり、こちらに近付いて来る。
「お、おはよう。倉瀬君」
「おはよう、渡井さん。今朝は気持ちのいい朝だね」
「え? そ、そうかな?」
たしかに今日は7月末にしては涼しいが、それは明け方から空が曇っているからであり、気持ちのいい朝かと問われれば多くの人が首を傾げると思うのだが。
しかし、そんな私の思いに反して、倉瀬君は「うん」とはっきりと頷いた。
「この季節にしては暑過ぎず、湿度もちょうどいい。瞑想するには理想的だ」
……めいそう?
私は昨日から絶賛迷想中だけど……うん、そういうことじゃないよね。
倉瀬君座禅組んでたし。たぶん瞑想の方だよね?
……うん、それでもやっぱりよく分からないね。
「えぇ~~っと……何を、してたの?」
一応そう聞いてみると、倉瀬君はふっと遠い目をして体育館中に視線を巡らせた。
そして、口元に軽く笑みを浮かべると、何やら優しげな表情で言った。
「息吹をね……感じてたんだ」
「……そっかぁ」
どうしよう、倉瀬君がおかしくなっちゃった。
それ以上何も言えずに、私は顔に笑顔を張り付けたままただ困惑する。
なんでかな? 暑くもないのに汗が流れるよ。
しかし、そんな私を余所に倉瀬君は続ける。
「ここはいいね……皆が流した汗が、努力の跡が空気にまで溶け込んで、力強い息吹に満ちている……分かるかな?」
分からないです。
でも、そう正直に言える空気でもない。
だってなんか、倉瀬君すごい静謐な空気を漂わせちゃってるんだもん。
ここで「分からない」って言うなんて、それこそ美術館で名画にいたく感動している人に向かって、「この絵の良さが私には分からない」って言うようなものだもん。
そんなこと言える? 私は言えない。でも、分かった振りをするのもそれはそれで違う気がする。
ごめんね、ちょっと泣きそうだよ私。
耐えられないよこの空気感。
誰でもいいから、この異様な空間を破壊してくれないかなぁ?
周囲に向けられていた倉瀬君の視線が、答えに窮して固まる私に向けられる。
そして、私の顔を見た瞬間、ふっとその眉がひそめられた。
「……どうしたの? 渡井さん。なんだか顔色が良くないみたいだけど……」
心配そうにそう言われ、私はハッとした。
どうやらほぼ徹夜してしまったことによる疲れが、顔に出ているらしい。
しかし、私は咄嗟に、ここで倉瀬君に心配をかけたくないと思った。
昨日佐奈に言われて自覚したこと。
私は今まで、散々倉瀬君の好意に甘えてきた。
ろくにお返しもせずに、与えられるままにその献身を甘受してきた。
そのことを自覚してなお、倉瀬君に負担をかけるようなことをする気にはなれなかった。
「だ、大丈夫。私、着替えてくるね」
私は倉瀬君の視線から逃げるように顔を背けると、そそくさと更衣室に向かった。
しかしその間も、背中に倉瀬君の気遣いに満ちた視線をはっきりと感じて、私は酷く落ち着かない気分になるのだった。
* * * * * * *
その後、練習が開始されても、私はずっと落ち着かない気分のままだった。
それというのも、体育館の端から注がれる視線が気になって仕方ないのだ。
演技の流れでチラリとそちらを見ると、倉瀬君と完全に目が合った。
すぐに爪先を軸に半回転して視線を外すも、背中には倉瀬君の視線をはっきりと感じる。
いつものことなのに、なぜ今日はこんなにも倉瀬君の視線が気になるのか。
それは昨日の佐奈との話し合いも原因の1つなのだろうが……やはり、倉瀬君のいつもと違う様子が大きな原因だろう。
(倉瀬君……なんで正座なの!?)
倉瀬君は、練習が始まってからずっと正座しながら私の方を見ているのだ。
この正座がまた見本のように綺麗で、あまりにも様になっているものだから、他の部員達も気にはなっていても誰もツッコめないのだ。
かくいう私もツッコめない。礼儀がなっていない人には注意が出来るけど、礼儀正し過ぎる人にはどう注意すればいいんだろうね?
(というか、倉瀬君が座ってる場所、完全に板敷なんだけど……練習開始からかれこれ2時間は経過してるけど、脚は痛くないの?)
座布団とかを敷いているならともかく、あれじゃ絶対膝とかすねとかが痛いと思うんだけど……倉瀬君は涼しい顔のまま微動だにしない。
それどころか、その顔にはどこか慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいて……私は意味もなく悶えたくなった。
(これ……あれだ。新体操を始めたばかりの頃に、ビデオカメラ持ったお父さんに見られてた時と同じ感覚だ)
なんで倉瀬君の視線にお父さんを想起するのか。
しかし、どうにも今の倉瀬君の表情は、我が子を見守る親の表情に近い気がしてならないのだ。
ピピーーー!!
顧問の先生のホイッスルの音に、ハッと我に返る。
「はぁーーい集合。一旦集まってぇーー」
続く指示に従い、私は考え事を中断すると先生の元へと向かった。
先生の前に部員全員が半円状に体育座りすると、先生が1人ずつアドバイスをしていく。
私はというと、それを半ば以上聞き流しながら、意識の大部分は倉瀬君の方に向けていた。
しかし、不意に先生に名前を呼ばれて慌てて顔を上げる。
「渡井。あなた今日は精彩を欠き過ぎよ。体調が悪いなら無理せず休んでなさい」
「――っ、いえ、大丈夫です。すみません」
「本当に大丈夫なのね?」
「はい」
それからも少しの間、先生は私の顔をジッと見ていたが……やがて「そう」と言って次の生徒に視線を移した。
ほっと息を吐いていると、いつの間にか隣にいた佐奈が、じりじりとこちらへにじり寄って来て囁いてきた。
「本当に大丈夫? かなり顔色悪いけど……?」
「うん、ちょっと寝不足なだけだから……」
「……それって、もしかしてあたしのせい?」
不安半分、申し訳なさ半分といった様子で恐る恐る尋ねてくる佐奈に、私は一瞬言葉に詰まった。
しかし、すぐに努めて笑みを浮かべると、佐奈の方を向いてはっきり言った。
「ううん。佐奈は悪くないよ。これは私の問題だから……むしろ気付かせてくれた佐奈には感謝してる」
「愛佳……」
「本当に心配しないで。昨日ちょっと考え事してて、あまり眠れなかっただけだから……」
嘘を吐いた。
あまり眠れなかったではない。ほとんど眠れなかっただ。
それに、朝食をちゃんと食べなかったのもよくなかった。
寝不足のせいか唾液が全然出なくて、少しのトーストをコーヒーで無理矢理流し込んだだけで家を出てしまったのだ。
しかし、そんなことを言ったらこの優しい親友が心配するのは分かっていた。
だから、無理に笑みを浮かべて「大丈夫」ともう一度伝えた。
佐奈はそれでもまだ心配そうだったが、そこでちょうど先生が注目を呼び掛けたので、これ幸いと私の方から視線を切った。
「とりあえずこんなところね。それじゃあ、練習再開!」
「「「「「はい!」」」」」
先生の号令に、部員達は一斉に声を返して散開する。
私も同じように立ち上がり、一歩を踏み出したところで――――
ぐわん、と意識が揺れた。
全身から力が抜け、視界が不安定に明滅する。
咄嗟に何かを掴もうとして手を伸ばすも、周囲には何もなく。
伸ばした手は虚しく空を切るばかり。
(あ……これだめだ)
「愛佳!」
動かない私を怪訝に思ったのだろう。
振り向いた佐奈がそう叫ぶが、その声もどこか遠い。
そうこうする間に自然と膝が崩れ、前のめりに倒れかけたところで――――
ぼすっ
誰かに正面から抱き止められた。
そのまま体を支えられ、ゆっくりと床に寝かされる。
そこでようやく、自分を支えている人の顔が見えた。
(倉瀬君……?)
暗くなっていく視界の中、それだけをぼんやりと認識して。
私は――意識を手放した。